第18話 五本目の尾
◇ 久世朔
学校を覆う白い膜が見えた。
次の瞬間、内側からぶつかった何かに押され、校舎ごと大きく膨らんだ。
膜の表面を亀裂が走る。
白い札が内側から飛び、裂け目へ重なった。亀裂はすぐに塞がれたが、膜の震えは止まらない。
間に合った。
そう思うには、ひどすぎる有様だった。
久世は地面を蹴った。
岳の力で強化された脚が、一歩で校門までの距離を消す。
境界の直前で踏み止まり、左手を白い膜へ触れた。
玄斎の霊気だ。
結界は内側から出ようとする力を遮っている。久世の手は拒まれなかったが、このまま無理に通れば、わずかでも術を乱しかねない。
「玄斎。開けて」
呼びかけに応じ、目の前へ縦に白い線が入った。
人一人が通れる幅だけ膜が開く。
久世は隙間へ体を滑り込ませた。
背後で線が閉じる。
途端に、押さえ込まれていた霊気と邪気が全身へまとわりついた。
重い。
空気そのものが水へ変わったようだった。
息を吸うだけで、冷たいものが喉へ入り込もうとする。岳の霊気が久世の皮膚と骨を隙間なく覆い、邪気を外へ押し返した。
校庭には、運動着姿の生徒が何人も倒れている。
昇降口のガラス戸は砕け、下駄箱も奥で折り重なっていた。
その手前に、玄斎とさつきがいる。
玄斎は両手を広げ、何本もの白い線を操っていた。さつきの前には二つの巨大な髑髏が浮かび、歪んだ線から漏れ出す力へ噛みついている。
少し離れた場所では、すずが倒れた人々へ目を配っていた。
そして、三人の中心。
白い線で作られた囲いの中に、優香が立っている。
制服の裾が風もないのにはためき、長い髪が逆立っていた。伏せられた顔に表情はない。開いた目にも意識の光は見えなかった。
背後で、四本の尾が暴れている。
優香の霊気と、タマの邪気。
本来なら反発する二つの力が無理やり絡み合い、少女の体を中心に渦を巻いていた。
封印は残っている。
だが、形が大きく歪んでいる。
邪気を遮るはずの術の隙間へ、優香の霊気が内側から流れ込み、道を押し広げていた。
タマが封印を破ろうとしているのではない。
優香が、自分からタマの力を引き出したのだ。
「朔さん!」
すずが駆け寄ろうとする。
「そこにいて。倒れてる人から目を離さないで」
すずの足が止まった。
不安そうに唇を結び、それでも大きく頷く。
四本の尾が、一斉に同じ場所へ叩きつけられた。
轟音が響く。
玄斎の結界が大きく歪み、さつきの髑髏に亀裂が入った。
「遅いぞ、朔」
「悪かった。悪霊は?」
「儂が祓った」
「優香とタマは」
「見てのとおりじゃ。優香の意識がない。タマが内側から邪気を抑えておるが、長くは持たぬ」
久世は結界の奥を見る。
尾は何度も結界へ叩きつけられていた。
一撃が倒れた生徒のいる方へ向かいかけるたび、先端が震え、人のいない場所へ向きを変えていた。
結界の隙間から漏れた黒い靄も、周囲へ広がる前に優香の背中へ引き戻されている。
タマはまだ、優香を守っている。
自分まで邪気に呑まれながら、一人で。
「怪我人は?」
「頭から血を流している女の子が一人います。息はあります。先生らしい男の人が、そばについています」
すずが答えた。
視線の先に、倒れた少女と、その傍らへ膝をつく男が見える。
それ以外の人々にも、今すぐ命に関わる怪我は見当たらない。
久世は息を吐いた。
「玄斎。俺を中へ入れて」
玄斎の眉が上がった。
「入れたあと、すぐには出せぬぞ」
「そのために来たんだよ」
「二人を傷つけずに押さえられるか」
「やってみる」
「できるとは言わぬのか」
「あれを見て言い切ったら、ただの馬鹿でしょう」
尾の一本が頭上の線を叩く。
外側の膜まで揺れた。
「でも、任せて」
久世は優香から目を離さずに続ける。
「俺が少し大人しくさせる。その間に、結界を狭めて」
「承知した」
「さつきは、漏れた力を外へ通さないで。すずはそのまま人を見ていて」
「朔」
さつきが久世の右腕を見る。
久世は左手で首にかかっていた布を外し、足元へ落とした。
岳の霊気が幾重にも支えているとはいえ、痛みは消えていない。指先を動かすだけで、肩から肘へ鈍い熱が走った。
「右は使わない」
「それを守ったためしが、そなたにあったか」
「今日は善処する」
「信用ならぬな」
静かな声だった。
だが、それ以上は止めなかった。
久世は自分の胸へ左手を当てる。
体の中にいる岳の気配へ意識を向けた。
大きく、重く、揺るがない。
その奥に、普段より強い緊張があった。
岳はタマに懐かれている。
タマも、五人の中では岳へ一番よく近づいた。大きな足へ体を擦りつけ、膝へ乗ろうとしては何度も滑り落ちていた。
今、そのタマと優香を殴りに行こうとしている。
「壊すためじゃない」
久世は小さく言った。
「二人を起こすために、力を貸して」
胸の内側で、重い気配が一度だけ頷く。
「玄斎」
正面の結界が、わずかに左右へ開いた。
四本の尾が、一斉に隙間へ向く。
久世は地面を蹴った。
結界が閉じるより早く、内側へ飛び込む。
右から一本。
正面から二本。
最後の一本は床を這い、開いたばかりの出口へ伸びている。
速い。
だが、見えない速さではない。
狙われているのは、久世ではない。
四本とも、閉じようとする結界の隙間へ殺到している。
久世はその進路へ、自分から体を入れた。
右から来た尾を、半歩だけ左へずれてかわす。
正面の一本へ左腕を合わせた。
白い霊気と黒い邪気が、岳の霊気へぶつかる。
衝撃が腕から肩へ抜け、足元のタイルが割れた。
受け止めきれない。
受け流す。
腰を落とし、尾の側面へ肘を滑らせる。軌道を斜め上へ変え、頭上へ逃がした。
三本目が、久世の背後にある隙間へ迫る。
左の拳を打ち込んだ。
拳と尾の間で、空気が破裂する。
混ざり合っていた霊気と邪気が一瞬だけほどけ、尾の先端が霧のように散った。
すぐに背後から力が流れ込み、形を取り戻す。
足元の一本が足首へ絡みついた。
引かれる。
久世は逆らわなかった。
引く力へ合わせ、自分から前へ跳ぶ。
景色が一気に流れた。
優香の顔が目の前へ迫る。
「優香」
呼びかけても、瞳は動かない。
細い腕が久世の胸へ伸びる。
触れる寸前、指先が震えた。
掌の向きがわずかに逸れ、岳の霊気で固められた左肩へ向く。
そこから霊気が噴き出した。
久世は左腕を交差させて受ける。
小さな体から放たれたとは思えない力だった。
体が後ろへ押される。
靴底がタイルを削り、数メートル分の白い跡を残した。
岳を降ろしていなければ、左肩を砕かれていた。
それでも、急所と負傷した右腕だけは避けている。
優香の意識はなくても、タマは久世を傷つけまいとしていた。
「ずいぶん乱暴な弟子になったね」
返事はない。
四本の尾が久世と優香の間へ広がる。
これ以上近づかせまいとするように、それぞれが別の高さで揺れた。
動きはタマに似ている。
だが、タマだけのものではない。
優香の霊気が多すぎる。
タマの膂力と反射へ、加減を知らない膨大な力が流れ込み続けている。
採石場で戦ったタマより弱い。
それでも、厄介さでは劣らない。
あのときのタマは、巨大な力を自分の体で扱えていた。
今の二人は、互いの力を増幅させながら、止める者を失っている。
久世は床を蹴る。
尾と尾のわずかな隙間へ、肩から滑り込んだ。
一歩。
二歩。
優香の右側へ回り込み、尾の根元へ左の掌を叩きつける。
岳の霊気が、混ざり合った力を押し返した。
一本の尾が大きく揺らぐ。
残る三本が横から迫る。
身を沈め、一つ目を頭上へ通す。
二つ目へ左足を打ち込み、軌道を変える。
三つ目は避けきれなかった。
脇腹へ直撃する。
岳の力で固めた体が宙へ浮いた。
結界へぶつかる寸前、玄斎がその一部を外側へ膨らませる。久世は柔らかく押し返され、両足から床へ着地した。
「助かった」
「礼はあとでよい。来るぞ!」
優香の足元から、霊気と邪気が噴き上がった。
四本の尾が大きく膨らむ。
違う。
増えている。
優香の背後で、黒と白の力が新しい筋を作った。
肩ほどの高さまで伸び、一度大きく揺れる。
五本目の尾が、完全に形を取った。
空気が沈む。
結界が、触れられてもいないのに軋み始めた。
ただ、力が一本分増えたのではない。
新しい尾へ流れる力も、タマが抑えなければならない。
五本目が大きく横へしなった。
その先には、頭から血を流した少女と、そばに付き添う教師がいる。
「朔さん、その先に人が!」
外から、すずの切迫した声が飛んだ。
尾の先が、びくりと震える。
尾の先が、人のいない方へ向きを変える。
しかし、間に合わない。
二人の手前にある結界へ、五本目が激突した。
結界が大きく歪む。
亀裂が開くより早く、さつきの髑髏がその場所へ回り込み、外側から結界を押し戻した。
「今のは危なかったぞ。タマが尾を抑えきれなくなっておる」
玄斎の声から、普段の軽さが消えている。
「次も人を避けられるとは限らぬぞ」
さつきが静かに告げた。
五本目は、今も人から離れようとしている。
タマの意志が消えたわけではない。
抑えなければならない力が増え、すべての尾を抑えきれなくなり始めている。
次は、逸らすことさえ間に合わないかもしれない。
その一撃で結界が破れれば、倒れている人たちへ尾が届く。
久世に迷っている時間はなかった。
「玄斎、もう少しだけ持たせて。ここで止める」
五本の尾が、結界の別々の場所へ向いた。
四本だったときとは、押し寄せる圧が違う。
同時に打ち込まれれば、玄斎の結界が耐えられない。
久世は左腕を前へ出し、右半身を庇うように構えた。
尾と結界の間へ、自分から踏み込む。
一撃目。
左腕で流す。
二撃目。
肩へ触れる前に蹴り上げる。
三撃目が足元を砕いた。
崩れた体勢の背後で、結界が大きく歪む。
四撃目と五撃目が、同じ場所へ重なろうとしていた。
避ければ、そのまま結界へ届く。
久世は左腕を畳み、頭と胸を守った。
岳の霊気が全身の表面へ集まる。
二本の尾が同時にぶつかった。
音が消えた。
遅れて、衝撃が爆発する。
久世の体が床を滑り、背中から結界へ叩きつけられた。
喉の奥から血の味が上がる。
右腕を支えていた霊気が揺らぎ、骨の内側で痛みが弾けた。
それでも、折れてはいない。
岳が支えた。
「ありがとう」
短く告げ、立ち上がる。
五本の尾が再び広がった。
力比べを続ければ、こちらが先に壊れる。
だが、力で勝つ必要はない。
久世は優香の胸元を見る。
目には見えない場所に、二人を結んだ契約の結び目がある。
自分で組んだ術だ。
どこへ、どのように繋いだのかは覚えている。
今はその道へ霊気と邪気が殺到し、流れが絡まり合っている。
契約を切れば、タマは優香から離れ、邪気の封印も崩れる。
触れてはいけない。
壊さず、一瞬だけ流れを乱す。
その隙に玄斎が結界を狭めればいい。
「岳。ここからは体を任せる。俺は霊気を練る」
満ちていた岳の力が、ほんの一瞬だけ揺れた。
岳の霊気が、負傷した右腕をそっと包む。傷の具合を確かめるように、指先までゆっくりと巡った。
「いいのか」
低い声が、意識の奥へ響く。
「やって」
右腕を包む霊気が、支えを固めた。
次の瞬間、腰が深く沈む。自分で動かしたのではない。
岳に預けた体の内側で、久世は自分の霊気だけへ意識を絞った。
五本の尾が動く。
久世の体が、岳の意志で床を蹴った。
四本は、今までと同じように久世の頭と右腕を避けて迫る。
五本目は違った。
負傷した右肩へ迫り、ぶつかる寸前になってようやく外側へ逸れる。
タマの意志は、まだ消えていない。
だが、抑えが完全に利かなくなるまで、もう猶予はない。
正面から来た一本へ、岳が左の拳を合わせる。
拳が触れた瞬間に力を横へ逃がし、久世の体を尾の内側へ滑り込ませる。
二本目が背中を掠めた。
三本目が左脚へ巻きつく。
五本目が久世の右脇を抜けた。
その先には、玄斎の結界しかない。向こう側では、教師が頭から血を流した少女を庇っていた。
その先端が高く持ち上がる。
岳は右腕を胸元へ引き寄せ、残った脚へ力を集める。
左脚に巻きついた尾が、久世の体を後ろへ引いた。
結界へ振り下ろされた。
岳が床を蹴った。
足元が砕ける。巻きついた尾を限界まで引き伸ばし、久世の体がその軌道へ飛び込んだ。
右腕を支える岳の霊気が、さらに厚くなる。
左肩へ激突した。
膝が軋み、腰の筋が引きつれる。左肩で受けた衝撃が体を抜け、庇った右腕の奥で痛みが弾けた。
岳は衝撃に逆らわず、左肩をひねった。
一撃は上へ逸れ、天井を打った。久世の体に引かれ、左脚を捕らえていた別の尾もほどける。
久世は歯を食いしばり、それでも霊気を練り続ける。
細く、硬く、一点へ。
優香まで、あと一歩。
四本目が頭上から落ちる。
岳は止まらない。尾が落ちるより先に内側へ踏み込む。
四本目は、久世の背後の床を叩いた。
岳が左手を伸ばした。
握った拳を、優香の胸の前で止める。
肉体には触れない。
拳と制服の間にある、わずかな空間へ、久世は練り上げた霊気を放った。
高密度の霊気が細い杭となり、暴走する力の奥へ突き刺さる。
狙うのは魂ではない。
二人を結ぶ、契約の外側。
絡まった流れだけを揺らす。
「少し、静かにして」
霊気を打ち込んだ。
優香の体が大きく反った。
五本の尾が同時に膨らむ。
白と黒の力が、結界の中を埋め尽くした。
久世の体も弾き飛ばされる。
今度は受け身を取れなかった。
左肩から床へ落ち、何度も転がる。
それでも、目は優香から離さない。
五本の尾が大きく揺れた。
一本ずつ、形が崩れる。
消えてはいない。
だが、床や結界を叩いていた勢いが止まった。
優香の膝が折れる。
「今だ、玄斎!」
結界が一気に狭まった。
前後左右から空間を押さえ込み、優香と五本の尾を包む。
尾が抵抗する。
先ほどまでの力はない。
それでも一本が久世へ伸びた。
久世の背後に細い出口が開く。
「出ろ、朔!」
床を蹴る。
尾の先が背中へ触れる寸前、結界の外へ滑り出した。
結界が閉じる。
五本の尾が内側からぶつかり、結界が震えた。
玄斎が両手を握り込む。
結界の内側が、さらに狭まった。
優香は片膝をついたまま動かない。
尾も、今は結界を押し返すだけで精いっぱいになっている。
久世は息を吐いた。
左膝が床へ落ちる。
岳の力に支えられていても、受けた衝撃や、限界を越えて動かした負担までは消えない。脇腹と背中が痛み、右腕の奥では熱が脈打っていた。
「朔さん!」
すずが駆け寄ってくる。
「大丈夫」
「大丈夫な人は、膝をつきません」
「玄斎に似てきたね」
「今は冗談を言っている場合ではありません」
真剣に叱られた。
久世は小さく笑い、もう一度優香を見る。
力は弱まった。
止まってはいない。
岳の力で押さえ続けても、いずれ優香の体が先に耐えられなくなる。
必要なのは、外から殴り続けることではない。
邪気の奥へ沈んだ優香自身を起こすことだ。
久世は胸の中にいる岳へ意識を向ける。
「ありがとう。いったん戻って」
重い気配が、すぐには動かなかった。
結界の中の優香と、その内側にいるタマを心配している。
「次は、声を届ける」
そう伝えると、岳の気配がようやく頷いた。
久世は、そばに立つすずを見る。
「すず。今度は君の目と耳を貸して」




