第17話 逃げ道はない
◇ 玄斎
水守南高校の屋根が見えたところで、玄斎は進むのを止めた。
校舎の内側から、二つの力が一緒に噴き上がる。
底の見えない霊気。
長い年月をかけて澱んだ邪気。
二つは反発しながら絡み合い、校舎の窓を細かく震わせていた。
「これはまた……急いだつもりじゃったが、遅かったかのう」
軽く言ってみても、笑う者はいない。
学校のはるか上空には、既にさつきの妖気がある。そのすぐそばで、すずの小さな霊気が落ち着きなく動いていた。
二人も異変に気づいている。
だが、校内へ飛び込んではいない。
この力の中心へ何の備えもなく入れば、助けるはずの人間を余計に危険へ晒しかねない。二人もそれが分かっているのだろう。
玄斎は校門の前へ降り立った。
袖から六枚の紙を取り出す。
白い紙へ指先から霊気を流すと、小さな鳥の形へ折れ曲がった。
「四方へ」
四羽が飛び立つ。
東西南北へ一羽ずつ。
校舎と校庭を囲む敷地の四方へ向かい、目印となる塀や樹木へ貼りついた。
残る二枚のうち、一枚は足元へ置く。
もう一枚は頭上へ放った。
紙の鳥が空へ昇り、校舎より高い場所で静止する。
玄斎は右足を斜め前へ運び、左足を引き寄せた。
次は横。
最後に、進んだはずの道を戻るように一歩踏む。
反閇の足取りに合わせ、地面へ置いた紙から白い線が走った。
校門から塀へ。
塀から敷地の四方へ。
四方へ飛ばした鳥を結び、最後に頭上の一枚まで昇っていく。
「天を蓋とし、地を底とする。ここより内を、一つの境と定める」
足を止める。
「結」
学校全体が、半透明の膜に包まれた。
外から見た景色は何も変わらない。
だが、内側から漏れていた霊気と邪気が、境界へぶつかって止まる。
窓の震えも、校庭の木々を揺らしていた風も、塀の外へは届かなくなった。
閉じ込めた。
今の結界は、内側のものを倒す術ではない。
学校の外へ出さないための、最初の囲いにすぎない。
それでも、町へ力が流れ出すまでの時間は稼げる。
「玄斎様!」
上空から、すずの声が降ってきた。
さつきがすずの手を引き、校門の内側へ降り立つ。
いつもなら着物の裾一つ乱さない女の顔に、静かな緊張が浮かんでいた。
「優香さんの返事がありません。タマちゃんの気配も重なったままです」
「場所は」
「一階の昇降口です。近くに大勢います。ほとんどの人は倒れていますが、息はあります」
すずが目を閉じる。
その耳が、僅かに動いた。
「女の子が一人、頭から血を流しています。先生らしい人が、そばへ行こうとしています。それから……黒いものが、人の間を逃げています」
「黒いもの?」
さつきの声が低くなる。
「優香さんたちとは違う邪気です。小さいけれど、何人もの体へ繋がっています」
玄斎は顎を撫でた。
朔から聞いた話では、優香はタマと降霊を行った可能性が高い。
ならば、大きな二つの力が優香とタマ。
その周囲を逃げ回る小さな邪気が、今回の霊障を起こした悪霊だろう。
「すず。その黒いものから目を離すでないぞ」
「はい」
「さつきは人を守ってくれ。優香とタマへは、こちらから攻撃せぬように」
「言われるまでもない」
穏やかな声だった。
だが、周囲の空気が冷える。
怒っている。
優香たちへではない。
二人をここまで追い詰めたものへ向けた、静かな怒気だった。
三人で昇降口へ向かう。
校庭には、運動着姿の生徒たちが何人も倒れている。
玄斎の結界に弾かれた邪気が、薄い黒雲となって地面を這っていた。
その中心から、轟音が響く。
昇降口のガラス戸が、内側から砕けた。
無数の破片が、校庭へ飛び出してくる。
さつきが袖を払った。
空中に巨大な髑髏が現れ、開いた顎で破片をまとめて受け止める。人の上へ降り注ぐはずだったガラス片が、歯の間で止まった。
砕けたガラス戸の向こうに、一人の少女が立っている。
制服姿。
逆立った髪の間には、霊気で形作られた猫の耳がある。
俯いたままの目は、開いているのに何も見ていなかった。
その背後で、四本の尾が揺れている。
白い霊気と黒い邪気が混ざり、一本ごとに少女の体より太く、長い。
優香が右手を振る。
四本の尾が、同時に昇降口の中へ突き込まれた。
床のタイルが割れる。
並んでいた下駄箱が、次々と倒れる。
その先を、黒い邪気をまとった男子生徒が逃げていた。
尾の一本が背中へ迫る。
男子生徒は、倒れている女子生徒の体を掴み、自分との間へ引き起こした。
尾が止まる。
女子生徒の鼻先で、黒と白の力が渦を巻いた。
触れてはいない。
残る三本も、床や壁を削りながら人の体だけを避けている。
「意識はないようじゃが、人を傷つける気はないらしい」
「タマが抑えておる」
さつきが言った。
玄斎にも分かった。
暴れ回る邪気の奥に、別の意志が残っている。
尾が人へ向かうたび、先端が震え、無理やり軌道を変えていた。
広がろうとする邪気も、その意志が優香の体へ引き戻している。
タマだ。
自分も邪気に呑まれながら、優香と周囲の人間を守ろうとしている。
もしタマが手を放せば、この校舎も、逃げ回る悪霊も、とうに形を失っていただろう。
「ならば、あの小さいのが生きておるうちに片づけるとするか」
男子生徒の体から黒い塊が抜けた。
隣に倒れていた別の生徒へ飛び込み、その体を立ち上がらせる。
四本の尾が向きを変える。
悪霊は新しい体を走らせ、倒れている人々の間へ逃げ込んだ。
自分を狙えば人間を巻き込む。
優香たちがそれを嫌うと、もう理解している。
逃げ足は速い。
取り憑く先も多い。
だが、優香によって何度も繋がりを断たれたためか、邪気そのものはひどく乱れていた。
隠れる体を変えるたび、黒い塊の一部が置き去りになっている。
すずが悪霊の移動に合わせ、指を動かした。
「今は男の人です。次は右にいる女の子へ移ろうとしています」
「よう見えておる」
玄斎は袖から五枚の人形を取り出した。
親指ほどの大きさしかない、白い紙の式神だ。
「先に行って、道を塞げ」
紙の人形が地面へ落ちる。
次の瞬間には、五つの白い影となって走り出した。
一つは東。
一つは西。
残る三つも、悪霊が移ろうとしている人間の間へ入り込む。
黒い塊が、男の背中から飛び出した。
右側に倒れている女子生徒へ向かう。
白い人形が、その間へ立った。
黒い塊が見えない壁へぶつかり、弾き返される。
別の体へ向きを変える。
そこにも式神がいる。
三つ目。
四つ目。
逃げ道が、一つずつ閉じていく。
最後に残ったのは、今まで隠れていた男子生徒の体だけだった。
悪霊がその中へ戻る。
瞳が黒く染まった。
「逃げることには慣れておるようじゃな」
玄斎は、ゆっくりと歩み寄った。
「だが、道を閉じるのは儂の仕事での」
男子生徒が踵を返す。
足元に、五枚目の式神が立っていた。
小さな紙の手が、靴の爪先へ触れる。
それだけで男子生徒の動きが止まった。
玄斎は人差し指を曲げ、軽く手前へ引いた。
男子生徒の胸から、黒い塊が引きずり出される。
悪霊が人の形を取ろうと膨らんだ。
五体の式神から伸びた白い糸が、その周囲へ絡みつく。
逃げ込める体は、もうない。
悪霊がそれまで使っていた繋がりは、優香が既に断ち切っていた。
玄斎がしたのは、残った道を閉じただけだ。
「待て! 俺は――」
指を閉じる。
五本の白い糸が、一斉に縮んだ。
黒い塊が紙の式神ほどの大きさまで押し潰される。
白い火がついた。
悲鳴は一瞬だった。
邪気だけでできた体が、火の中で崩れていく。
灰も残さず、悪霊は消えた。
解放された男子生徒の体が傾く。
すぐそばにいたさつきが片手で受け止め、地面へ静かに寝かせた。
「随分と容易く祓ったな」
「あれだけ逃げ道を潰されておればな。優香が追い詰めたあとへ儂が来ただけじゃよ」
答えながら、玄斎は優香を見る。
悪霊が消えても、四本の尾は消えなかった。
狙うものを失い、宙で大きくうねっている。
優香の顔も上がらない。
意識は戻っていない。
それでも、頭から血を流している少女の方角へ尾が向くたび、必ず途中で逸れていた。
「タマちゃん……」
すずが両手を握りしめる。
「まだ中におる。だからこそ、今のうちじゃ」
玄斎は両手を広げた。
学校全体を覆う結界から、何本もの白い線が降りてくる。
一本目は、優香の前。
二本目は後ろ。
左右と頭上にも線を通し、四角い囲いを作る。
最後に足元を閉じた。
「縛」
白い囲いが、一気に狭まった。
優香の四肢へ直接触れるのではなく、周囲の空間そのものを押さえ込む。
四本の尾が膨らんだ。
一撃目で、正面の線へ亀裂が入る。
二撃目が、左側の囲いを大きく歪ませた。
「ぬう……」
玄斎は袖から新しい札を取り出し、亀裂へ投げる。
白い紙が線へ溶け、崩れかけた場所を繋ぎ直す。
強い。
四本の尾だけでも、玄斎が一人で押さえ切れる力をとうに超えている。
しかも、その土台になっている優香の霊気は底が知れない。
力で押さえつけようとすれば、先に玄斎の術が尽きる。
必要なのは、勝つことではない。
朔が到着するまで、ここへ留めることだ。
「さつき。東側を頼む。外へ通すでないぞ」
「わかっておる」
さつきが袖を払う。
歪んだ結界の前へ、三つの巨大な髑髏が重なるように現れた。
三本目の尾が白い線へぶつかった。
亀裂から抜けようとした力へ、髑髏の顎が上下から噛みつく。
尾を形作る霊気と邪気が、髑髏に込められた妖気と激しく反発した。
一つ目の髑髏に亀裂が入り、砕ける。
二つ目がその後ろから力を受け止め、三つ目が結界の裂け目を塞いだ。
力をそのまま跳ね返せば、反動が優香へ返り、余波が周囲の人間へ散る。
三つの髑髏を重ねることで、さつきは攻撃の勢いだけを削っていた。
「すずは人の位置を見ておれ。囲いへ近づく者がおれば、すぐに知らせよ」
「はい」
すずが目と耳を凝らす。
「先生が、怪我をした女の子のそばへ着きました。ほかの人たちも、今は動いていません」
「よし。そちらへ尾を向けさせぬようにするぞ」
四本目が、頭上の線を叩いた。
学校全体を包む膜まで震える。
外側の結界。
優香を囲う内側の結界。
二つを同時に保ちながら、玄斎は破られた線を繋ぎ続けた。
すずが突然、学校の外へ顔を向ける。
「来ます」
「朔か」
「はい。岳さんの気配も一緒です。すごい速さで近づいています」
「ようやくか。年寄りを待たせおって」
玄斎は笑った。
額に汗は浮かばない。
既に死んでいる体には、荒くなる呼吸もない。
それでも、術を削られる痛みと、急速に減っていく霊気ははっきり感じている。
四本の尾が、今度は同じ場所へ集まった。
さつきが目を細める。
「来るぞ」
「まったく、手のかかる子よ」
玄斎は笑みを消し、残った札をすべて指の間へ挟んだ。
勝つ必要はない。
あと少し。
朔が来るまで、この二人を誰にも傷つけさせず、ここから出さなければよい。
「さて。もうひと踏ん張りするとしようかの」
四本の尾が、結界へ叩きつけられた。




