↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/41

第16話 間に合ったはずの手

     ◇ 佐々木優香


 二人目は、校庭に倒れていた女子生徒だった。


 立ち上がったときに膝へ土がついたのか、紺色のジャージが白く汚れている。


 女子生徒が正面から掴みかかってくる。


 その指が届く前に、体が横へ滑った。


 タマには、肩が動いた時点で腕の軌道が分かっている。私は胸の奥から伝わる感覚に従い、伸びてきた腕の外側へ回った。


 背後から、別の足音が近づく。


 頭を下げると、さっきまで髪があった場所を男子生徒の手が通り過ぎた。


 避けている間も、右手の二本指は止めない。


 女子生徒の肩から伸びる黒い糸へ、破邪九字を一字ずつ重ねていく。


 急がない。


 タマが体を動かしてくれる間に、私は線だけを保つ。


 六字目。


 女子生徒が振り向く。


 七字目。


 足を払おうとする男子生徒の腿を、床へついた左手で飛び越える。


 八字目。


 着地した足がもつれかけた。


 胸の奥から、右へ、とタマの感覚が流れ込む。


 半歩だけ踏み直す。


 九字目が繋がった。


 光の格子が、女子生徒の体を避けて黒い糸だけを断つ。


 瞳を覆っていた黒い膜が消えた。


 女子生徒の膝が折れる。


 倒れる前に腰を抱き、先生たちを守る光へ運んだ。


「この人もお願いします」


「分かった」


 先生が光の内側から手を伸ばす。


 眼鏡の女子生徒と、肩を痛めた男子生徒も手伝い、意識のない女子生徒をゆっくり地面へ寝かせた。


 光の中には、最初に助けた男子生徒もいる。


 守る人数が一人ずつ増えていく。


 それでも、さっきまでとは違った。


 外側から光へ触れる手は減っている。


 私が一人を助ければ、悪霊が使える体は一つ減る。


 減った一人は、もう立ち上がらない。


 タマが邪気を断つだけでは、すぐに繋ぎ直されていた。


 私が破邪九字を完成させれば、黒い糸は戻ってこない。


 それが分かった。


 三人目が来る。


 今度は、二人が左右から同時に飛びかかってきた。


 左側の生徒へ向かう。


 私を挟もうとしていた二人の距離が近づく。ぶつかる直前に身を沈め、その間を通り抜けた。


 背中で、肩と肩がぶつかる音がした。


 二人の体がよろめく。


 転ばせないよう、霊気を薄く伸ばして支えた。


 その光へ、黒い靄が食いつこうとする。


 触れられる前に霊気を引き戻す。


 人の体を守る。


 悪霊には渡さない。


 今なら、二つを同時に考えられる。


 体の動きはタマに任せ、私は次の九字を切り始めた。


 操られている男子生徒が、よろめいた姿勢のまま私へ腕を伸ばす。


 黒い糸は、手首から肩を通り、背中へ続いていた。


 その途中に、ほかより濃い場所がある。


 タマの感覚が、そこへ強く引かれた。


 悪霊の中心ではない。


 けれど、体を動かす邪気が集まる継ぎ目だった。


 九本の線で、そこだけを囲む。


 黒い糸が切れた。


 男子生徒の体から力が抜ける。


 受け止めようと腕を伸ばしたとき、すぐそばにいた別の女子生徒が、その背中を支えた。


 さっきまで、先生と一緒に光の中にいた眼鏡の女子生徒だった。


「こっちは運びます!」


 声は震えている。


 それでも逃げず、男子生徒の腕を自分の肩へ回していた。


「無理しないでください」


「佐々木さんも!」


 言い返せなかった。


 先生が光の内側から男子生徒を引き取る。


 その間、肩を痛めた男子生徒は、倒れている人たちの頭や足が重ならないよう位置を直していた。


 私だけが戦っているのではない。


 タマだけでもない。


 怖いはずの三人も、自分にできることを探している。


 四人目を助けた。


 五人目は、破邪九字を完成させる直前に体の向きを変えた。


 黒い糸の位置がずれる。


 追いかけようとした指を止める。


 そのまま術を通せば、生徒の霊気まで巻き込む。


 焦らず、初めからやり直した。


 その間に拳が二度、顔のすぐそばを通った。


 足元を払われかけた。


 タマが全部、先に見つけてくれた。


 私は九本の細さを揃え、今度こそ邪気だけを断った。


 五人目の女子生徒を光へ運んだところで、息が切れた。


 膝へ手をつきたくなる。


 けれど、止まれば囲まれる。


 乱れた呼吸を整えながら、次の黒い糸を探す。


 胸の奥では、封印を押す冷たさが少しずつ強くなっていた。


 タマの邪気は、消えたわけではない。


 私とタマを繋ぐ道のすぐ横で、外へ出ようと膨らみ続けている。


 私の霊気を細く巻きつけ、道から逸れないよう押し戻す。


 それを続けながら、外にいる悪霊の邪気を見分けなければならない。


 頭の内側が熱い。


 反対に、胸の奥だけが凍るように冷たかった。


 それでも、まだ動ける。


 まだ見分けられる。


 六人目へ向かう。


 相手は、首から笛を下げた顧問の先生だった。


 自分の生徒を踏み越え、私へ走ってくる。


 その口が動いた。


「調子に乗るな」


 顧問の先生の声ではなかった。


 低く、ざらついた声。


 教室からずっと、いくつもの口を借りて話していた悪霊の声だ。


 右の拳が来る。


 避ける。


 左手が光の中にいる生徒へ伸びた。


 間へ入る。


 腕で受け止めるのではなく、手首を両手で包み、進む向きだけを横へ逸らした。


 タマの力があっても、加減を間違えれば人の骨を折る。


 止めない。


 引っ張らない。


 流れを変えるだけ。


 顧問の先生の体が、私の横を通り過ぎる。


 背中から伸びる黒い糸が見えた。


 ほかの生徒へ繋がっていたものより太い。


 その中心を、さらに濃い邪気が移動している。


 見つけた。


 この体に、悪霊の本体がいる。


 私がそう気づいたことも、向こうには分かったらしい。


 顧問の先生の顔から、笑みが消える。


 黒い塊が、校舎側へ動いた。


 本体が別の体へ移ろうとしている。


 顧問の先生の膝が折れる。


 薄く伸ばした光で肩を支え、頭を地面へ打ちつけないよう横向きに寝かせた。


 タマの感覚を追う。


 移った先は、昇降口の内側に立つ男子生徒だった。


 男子生徒の瞳が、急に深い黒へ変わる。


 逃がさない。


 顧問の先生へ向けていた九字を解き、移った先へ一から切り直す。


 男子生徒が校舎の奥へ走った。


 追いかける。


 速さなら、今は私たちのほうが上だった。


 三歩で背中へ追いつく。


 振り向きざまに突き出された肘を避け、横へ並ぶ。


 九字を重ねる間、男子生徒は何度も別の体へ手を伸ばした。


 黒い塊が糸へ入るたび、その行き先をタマが見つける。


 私が先回りし、移ろうとした糸へ霊気を差し込む。


 一つ。


 二つ。


 逃げ道を塞いだ。


 悪霊は男子生徒の中へ戻るしかなくなる。


 九本目を切った。


 光の格子が背中の黒い継ぎ目を断つ。


 男子生徒が前へ倒れる。


 受け止め、床へ膝をついた。


 その背中から、黒い塊だけが飛び出す。


 人の頭ほどの大きさに固まった邪気が、床すれすれを校舎の奥へ逃げていく。


 周囲に立っていた生徒たちの目から、黒い膜が一斉に消えた。


 一人ずつ、糸が切れたように崩れ落ちる。


 霊気を地面すれすれに広げる。


 全員の体を支えることはできない。それでも、膝から落ちた生徒の頭だけは、校舎の床や昇降口のコンクリートへぶつかる前に受け止めた。


 全部を祓えたわけではない。


 本体が力を集めるため、操っていた体を捨てたのだ。


「終わったのか?」


 先生の声が背後から聞こえた。


「まだです」


 黒い塊を目で追う。


 昇降口から廊下へ入ったところで、角を曲がって見えなくなった。


 逃がさない。


 右手の二本指を揃え、追いかけながら九字を切り始める。


 一字目。


 二字目。


 三字目。


 同時に、胸の奥でタマが強く警戒する。


 悪霊の邪気は消えていない。


 むしろ、さっきまでより一か所へ濃く集まっている。


 廊下の奥から、靴底を擦る音がした。


 ゆっくりと、誰かがこちらへ歩いてくる。


 最初に見えたのは、見慣れたスニーカーだった。


 上履きに履き替えていない。


 制服でもない。


 淡い色の上着と、膝丈のスカート。


 今日、補習が終わったら一緒に昼食を食べるはずだった友達が、廊下の角から姿を現した。


「真帆……?」


 声が、自分のものではないように掠れた。


 真帆の髪は乱れ、片方の頬には床の埃がついている。


 その目は閉じたままだった。


 眠ったまま歩いているように、一歩ずつこちらへ近づいてくる。


 右手には携帯電話を持っていた。


 画面がこちらへ向けられる。


 私の名前。


 その下に、私が送っていない短い文章が残っていた。


『教室まで来て』


「どうして……」


 真帆の瞼が開く。


 黒い膜に覆われた目が、私を見た。


「お前の携帯、便利だったぜ」


 悪霊が、真帆の口で笑った。


 真帆は、私が一人で昼食を食べようとすると、当たり前のように隣へ椅子を運んでくる。


 私が黙っている日は、理由を聞かずに一緒に黙っていてくれる。


 タマを捜すために学校を休んだときも、何も知らないまま、手伝えることがあったら言って、と連絡をくれた。


 私はその真帆に、今日まで本当のことを何も話せなかった。


 私の名前を信じた真帆が、危険な場所へ呼び寄せられてしまった。


「真帆から出て」


「嫌だね」


 真帆の左手が、自分の喉へ回る。


 五本の指が細い首へ食い込んだ。


「術を解け。猫を外へ出せ」


 胸の奥で、タマの怒りが膨らむ。


 それに触れた邪気が、封印の内側から冷たく押し返してきた。


 私の指先が震える。


「言うとおりにすれば、真帆を放すんですか」


「試してみろよ」


 放すとは言わなかった。


 ここでタマとの繋がりを解けば、私は悪霊の邪気を見分けられなくなる。


 真帆を助ける手段まで失う。


 黒い糸を見る。


 悪霊は今までの誰より深く、真帆の中へ入り込んでいた。


 胸の中央に黒い塊がある。


 そこから首と両腕へ太い邪気が伸び、真帆の体を内側から動かしている。


 けれど、真帆自身の気配は消えていない。


 黒い塊のさらに奥に、弱くても温かいものがある。


 タマも、同じものを見つけた。


 助けられる。


 黒い繋がりだけを断てばいい。


 私とタマの速さなら、悪霊が真帆の喉を傷つけるより先に届く。


 問題は、破邪九字だった。


 黒い塊を追っていたときに切り始めた三本の線が、右手の指先に残っている。


 あと六本。


 真帆を見た瞬間に揺らいだが、まだ消えてはいない。


 右手を体の横へ下ろした。


 指先を小さく動かす。


 四本目。


「早くしろ」


 真帆の指へ力が入る。


 喉の皮膚が白くへこんだ。


「待って」


 五本目。


 細く。


 真帆の霊気へ触れないように。


「タマを外したら、私は動けなくなります。少しだけ時間をください」


「何をする時間だ」


「繋がりを解く時間です。途中で止めたら、タマまで暴れるかもしれません」


 半分は嘘だった。


 半分は、本当だった。


 悪霊はタマを恐れている。


 だから、すぐには止めなかった。


 六本目。


 胸の奥から冷たさが滲む。


 線の端がわずかに太くなった。


 タマの警戒が強まる。


 胸の奥から、線を解こうとする感覚が流れ込む。


 分かっている。


 けれど、真帆の喉に食い込む指が深くなっていく。


 やり直す時間はない。


 太くなった部分だけを、霊気で無理に細く押さえた。


 七本目。


 真帆の携帯電話が手から落ちる。


 床へぶつかり、乾いた音を立てた。


 画面には、まだ私の名前が映っている。


 八本目。


 悪霊の目が、下ろした私の右手へ向いた。


「お前――」


 気づかれた。


 九本目を切る。


 完成した光を握るように右手を閉じ、地面を蹴った。


 真帆の指が喉を締める。


 私の一歩目と、真帆の左手が動くのはほとんど同時だった。


 床が後ろへ流れる。


 二歩目は要らなかった。


 真帆の顔が、目の前にある。


 届いた。


 悪霊より先に。


 右手の光を、胸の中央にある黒い塊へ重ねる。


 本当なら、そのまま邪気だけを断てた。


 真帆の顔を見なければ。


 埃のついた頬。


 苦しそうに開いた口。


 喉へ食い込む、自分自身の指。


 怖い。


 真帆を傷つけたくない。


 その気持ちが、踏み込んだ足を止めた。


 胸の奥で、タマは止まらずに前へ出ようとする。


 私の体が、一瞬だけ二つの方向へ引かれた。


 肩がぶれる。


 右手の角度がずれた。


 細く揃えたはずの九本の線へ、封印から漏れた冷たいものが触れる。


 光が膨らんだ。


「駄目っ!」


 止めようとしたときには、九字が真帆の胸へ重なっていた。


 黒い繋がりが切れる。


 真帆の背中から、悪霊の塊が弾き出された。


 同時に、邪気だけを通り抜けるはずだった私の霊気が、真帆の左肩へぶつかった。


 真帆の体が横へ飛ぶ。


 手を伸ばす。


 指先が上着の袖を掠めた。


 掴めない。


 真帆の肩が下駄箱へ当たり、体が回る。


 そのまま、額が金属の角へぶつかった。


 鈍い音がした。


 真帆が床へ崩れ落ちる。


「真帆!」


 駆け寄り、床へ膝をついた。


 黒い膜は、もう目にない。


 悪霊の邪気も体から消えている。


 助けられた。


 それなのに、真帆は目を開けない。


 乱れた髪の間から、赤いものが流れてくる。


 こめかみを伝い、頬へ細い線を引いた。


「真帆、起きて。お願い」


 肩へ触れようとして、手を止める。


 頭を打った人を、勝手に動かしていいのか分からない。


 何をすればいいのかも分からない。


「佐々木、動かすな! 呼吸を見ろ!」


 先生の声が飛んでくる。


 真帆の口元へ手を近づける。


 浅く、温かい息が指へ触れた。


 生きている。


 息をしている。


 安堵しようとした。


 できなかった。


 真帆の血の匂いが、タマの嗅覚を通して強く流れ込んでくる。


 鉄のような匂い。


 私が傷つけた、真帆の血だ。


「お前がやった」


 背後から声がした。


 真帆から追い出された黒い塊が、少し離れた床で蠢いている。


 人の口を借りていないのに、その声だけははっきり聞こえた。


「黙って」


「間に合ったのにな」


 否定できなかった。


 悪霊より先に届いた。


 黒い繋がりも断った。


 真帆を傷つけたのは、悪霊ではない。


 私の霊気だった。


 胸の奥で、タマの気配が強く揺れる。


 強い否定と、私を支えようとする温かさが、言葉にならないまま流れ込んでくる。


 一人で背負わせまいとしているのだと分かった。


 タマは私を支えようとしている。


 分かっているのに、真帆の頬を流れる血から目を離せなかった。


 右手の指先に残っていた九字が、一本ずつ崩れる。


 同時に、胸の奥で邪気を包んでいた霊気がほどけた。


 新しい邪気が生まれたのではない。


 ずっと封印の内側で押し返していたものが、支えを失っただけだった。


 冷たさが、一気に道へ流れ込む。


「駄目……」


 霊気で包み直そうとする。


 指が震え、細い形にならない。


 冷たいものが胸から肩へ、肩から両腕へ広がっていく。


 自分の鼓動が聞こえなくなる。


 代わりに、タマの怒りと恐怖が、体中で脈打った。


 真帆をこんな場所へ引き入れた悪霊への怒り。


 私を傷つけ、すべてを奪おうとするものへの怒り。


 もう何も奪わせたくないという、十年分の恐怖。


 そのすべてに、封じられていた邪気が重なってくる。


 タマが内側から止めようとしている。


 私も止めなければならない。


 分かっている。


 それなのに、手足の感覚が遠ざかっていく。


「佐々木!」


 先生の声が聞こえた。


 遠くで、薄いガラスが割れたような音がした。


 皆を守っていた光が崩れたのだと分かった。


 振り返れなかった。


 真帆の頬を流れる赤い線だけが、視界の中に残っている。


 その赤まで黒く塗り潰されるように、意識が沈んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。