第16話 間に合ったはずの手
◇ 佐々木優香
二人目は、校庭に倒れていた女子生徒だった。
立ち上がったときに膝へ土がついたのか、紺色のジャージが白く汚れている。
女子生徒が正面から掴みかかってくる。
その指が届く前に、体が横へ滑った。
タマには、肩が動いた時点で腕の軌道が分かっている。私は胸の奥から伝わる感覚に従い、伸びてきた腕の外側へ回った。
背後から、別の足音が近づく。
頭を下げると、さっきまで髪があった場所を男子生徒の手が通り過ぎた。
避けている間も、右手の二本指は止めない。
女子生徒の肩から伸びる黒い糸へ、破邪九字を一字ずつ重ねていく。
急がない。
タマが体を動かしてくれる間に、私は線だけを保つ。
六字目。
女子生徒が振り向く。
七字目。
足を払おうとする男子生徒の腿を、床へついた左手で飛び越える。
八字目。
着地した足がもつれかけた。
胸の奥から、右へ、とタマの感覚が流れ込む。
半歩だけ踏み直す。
九字目が繋がった。
光の格子が、女子生徒の体を避けて黒い糸だけを断つ。
瞳を覆っていた黒い膜が消えた。
女子生徒の膝が折れる。
倒れる前に腰を抱き、先生たちを守る光へ運んだ。
「この人もお願いします」
「分かった」
先生が光の内側から手を伸ばす。
眼鏡の女子生徒と、肩を痛めた男子生徒も手伝い、意識のない女子生徒をゆっくり地面へ寝かせた。
光の中には、最初に助けた男子生徒もいる。
守る人数が一人ずつ増えていく。
それでも、さっきまでとは違った。
外側から光へ触れる手は減っている。
私が一人を助ければ、悪霊が使える体は一つ減る。
減った一人は、もう立ち上がらない。
タマが邪気を断つだけでは、すぐに繋ぎ直されていた。
私が破邪九字を完成させれば、黒い糸は戻ってこない。
それが分かった。
三人目が来る。
今度は、二人が左右から同時に飛びかかってきた。
左側の生徒へ向かう。
私を挟もうとしていた二人の距離が近づく。ぶつかる直前に身を沈め、その間を通り抜けた。
背中で、肩と肩がぶつかる音がした。
二人の体がよろめく。
転ばせないよう、霊気を薄く伸ばして支えた。
その光へ、黒い靄が食いつこうとする。
触れられる前に霊気を引き戻す。
人の体を守る。
悪霊には渡さない。
今なら、二つを同時に考えられる。
体の動きはタマに任せ、私は次の九字を切り始めた。
操られている男子生徒が、よろめいた姿勢のまま私へ腕を伸ばす。
黒い糸は、手首から肩を通り、背中へ続いていた。
その途中に、ほかより濃い場所がある。
タマの感覚が、そこへ強く引かれた。
悪霊の中心ではない。
けれど、体を動かす邪気が集まる継ぎ目だった。
九本の線で、そこだけを囲む。
黒い糸が切れた。
男子生徒の体から力が抜ける。
受け止めようと腕を伸ばしたとき、すぐそばにいた別の女子生徒が、その背中を支えた。
さっきまで、先生と一緒に光の中にいた眼鏡の女子生徒だった。
「こっちは運びます!」
声は震えている。
それでも逃げず、男子生徒の腕を自分の肩へ回していた。
「無理しないでください」
「佐々木さんも!」
言い返せなかった。
先生が光の内側から男子生徒を引き取る。
その間、肩を痛めた男子生徒は、倒れている人たちの頭や足が重ならないよう位置を直していた。
私だけが戦っているのではない。
タマだけでもない。
怖いはずの三人も、自分にできることを探している。
四人目を助けた。
五人目は、破邪九字を完成させる直前に体の向きを変えた。
黒い糸の位置がずれる。
追いかけようとした指を止める。
そのまま術を通せば、生徒の霊気まで巻き込む。
焦らず、初めからやり直した。
その間に拳が二度、顔のすぐそばを通った。
足元を払われかけた。
タマが全部、先に見つけてくれた。
私は九本の細さを揃え、今度こそ邪気だけを断った。
五人目の女子生徒を光へ運んだところで、息が切れた。
膝へ手をつきたくなる。
けれど、止まれば囲まれる。
乱れた呼吸を整えながら、次の黒い糸を探す。
胸の奥では、封印を押す冷たさが少しずつ強くなっていた。
タマの邪気は、消えたわけではない。
私とタマを繋ぐ道のすぐ横で、外へ出ようと膨らみ続けている。
私の霊気を細く巻きつけ、道から逸れないよう押し戻す。
それを続けながら、外にいる悪霊の邪気を見分けなければならない。
頭の内側が熱い。
反対に、胸の奥だけが凍るように冷たかった。
それでも、まだ動ける。
まだ見分けられる。
六人目へ向かう。
相手は、首から笛を下げた顧問の先生だった。
自分の生徒を踏み越え、私へ走ってくる。
その口が動いた。
「調子に乗るな」
顧問の先生の声ではなかった。
低く、ざらついた声。
教室からずっと、いくつもの口を借りて話していた悪霊の声だ。
右の拳が来る。
避ける。
左手が光の中にいる生徒へ伸びた。
間へ入る。
腕で受け止めるのではなく、手首を両手で包み、進む向きだけを横へ逸らした。
タマの力があっても、加減を間違えれば人の骨を折る。
止めない。
引っ張らない。
流れを変えるだけ。
顧問の先生の体が、私の横を通り過ぎる。
背中から伸びる黒い糸が見えた。
ほかの生徒へ繋がっていたものより太い。
その中心を、さらに濃い邪気が移動している。
見つけた。
この体に、悪霊の本体がいる。
私がそう気づいたことも、向こうには分かったらしい。
顧問の先生の顔から、笑みが消える。
黒い塊が、校舎側へ動いた。
本体が別の体へ移ろうとしている。
顧問の先生の膝が折れる。
薄く伸ばした光で肩を支え、頭を地面へ打ちつけないよう横向きに寝かせた。
タマの感覚を追う。
移った先は、昇降口の内側に立つ男子生徒だった。
男子生徒の瞳が、急に深い黒へ変わる。
逃がさない。
顧問の先生へ向けていた九字を解き、移った先へ一から切り直す。
男子生徒が校舎の奥へ走った。
追いかける。
速さなら、今は私たちのほうが上だった。
三歩で背中へ追いつく。
振り向きざまに突き出された肘を避け、横へ並ぶ。
九字を重ねる間、男子生徒は何度も別の体へ手を伸ばした。
黒い塊が糸へ入るたび、その行き先をタマが見つける。
私が先回りし、移ろうとした糸へ霊気を差し込む。
一つ。
二つ。
逃げ道を塞いだ。
悪霊は男子生徒の中へ戻るしかなくなる。
九本目を切った。
光の格子が背中の黒い継ぎ目を断つ。
男子生徒が前へ倒れる。
受け止め、床へ膝をついた。
その背中から、黒い塊だけが飛び出す。
人の頭ほどの大きさに固まった邪気が、床すれすれを校舎の奥へ逃げていく。
周囲に立っていた生徒たちの目から、黒い膜が一斉に消えた。
一人ずつ、糸が切れたように崩れ落ちる。
霊気を地面すれすれに広げる。
全員の体を支えることはできない。それでも、膝から落ちた生徒の頭だけは、校舎の床や昇降口のコンクリートへぶつかる前に受け止めた。
全部を祓えたわけではない。
本体が力を集めるため、操っていた体を捨てたのだ。
「終わったのか?」
先生の声が背後から聞こえた。
「まだです」
黒い塊を目で追う。
昇降口から廊下へ入ったところで、角を曲がって見えなくなった。
逃がさない。
右手の二本指を揃え、追いかけながら九字を切り始める。
一字目。
二字目。
三字目。
同時に、胸の奥でタマが強く警戒する。
悪霊の邪気は消えていない。
むしろ、さっきまでより一か所へ濃く集まっている。
廊下の奥から、靴底を擦る音がした。
ゆっくりと、誰かがこちらへ歩いてくる。
最初に見えたのは、見慣れたスニーカーだった。
上履きに履き替えていない。
制服でもない。
淡い色の上着と、膝丈のスカート。
今日、補習が終わったら一緒に昼食を食べるはずだった友達が、廊下の角から姿を現した。
「真帆……?」
声が、自分のものではないように掠れた。
真帆の髪は乱れ、片方の頬には床の埃がついている。
その目は閉じたままだった。
眠ったまま歩いているように、一歩ずつこちらへ近づいてくる。
右手には携帯電話を持っていた。
画面がこちらへ向けられる。
私の名前。
その下に、私が送っていない短い文章が残っていた。
『教室まで来て』
「どうして……」
真帆の瞼が開く。
黒い膜に覆われた目が、私を見た。
「お前の携帯、便利だったぜ」
悪霊が、真帆の口で笑った。
真帆は、私が一人で昼食を食べようとすると、当たり前のように隣へ椅子を運んでくる。
私が黙っている日は、理由を聞かずに一緒に黙っていてくれる。
タマを捜すために学校を休んだときも、何も知らないまま、手伝えることがあったら言って、と連絡をくれた。
私はその真帆に、今日まで本当のことを何も話せなかった。
私の名前を信じた真帆が、危険な場所へ呼び寄せられてしまった。
「真帆から出て」
「嫌だね」
真帆の左手が、自分の喉へ回る。
五本の指が細い首へ食い込んだ。
「術を解け。猫を外へ出せ」
胸の奥で、タマの怒りが膨らむ。
それに触れた邪気が、封印の内側から冷たく押し返してきた。
私の指先が震える。
「言うとおりにすれば、真帆を放すんですか」
「試してみろよ」
放すとは言わなかった。
ここでタマとの繋がりを解けば、私は悪霊の邪気を見分けられなくなる。
真帆を助ける手段まで失う。
黒い糸を見る。
悪霊は今までの誰より深く、真帆の中へ入り込んでいた。
胸の中央に黒い塊がある。
そこから首と両腕へ太い邪気が伸び、真帆の体を内側から動かしている。
けれど、真帆自身の気配は消えていない。
黒い塊のさらに奥に、弱くても温かいものがある。
タマも、同じものを見つけた。
助けられる。
黒い繋がりだけを断てばいい。
私とタマの速さなら、悪霊が真帆の喉を傷つけるより先に届く。
問題は、破邪九字だった。
黒い塊を追っていたときに切り始めた三本の線が、右手の指先に残っている。
あと六本。
真帆を見た瞬間に揺らいだが、まだ消えてはいない。
右手を体の横へ下ろした。
指先を小さく動かす。
四本目。
「早くしろ」
真帆の指へ力が入る。
喉の皮膚が白くへこんだ。
「待って」
五本目。
細く。
真帆の霊気へ触れないように。
「タマを外したら、私は動けなくなります。少しだけ時間をください」
「何をする時間だ」
「繋がりを解く時間です。途中で止めたら、タマまで暴れるかもしれません」
半分は嘘だった。
半分は、本当だった。
悪霊はタマを恐れている。
だから、すぐには止めなかった。
六本目。
胸の奥から冷たさが滲む。
線の端がわずかに太くなった。
タマの警戒が強まる。
胸の奥から、線を解こうとする感覚が流れ込む。
分かっている。
けれど、真帆の喉に食い込む指が深くなっていく。
やり直す時間はない。
太くなった部分だけを、霊気で無理に細く押さえた。
七本目。
真帆の携帯電話が手から落ちる。
床へぶつかり、乾いた音を立てた。
画面には、まだ私の名前が映っている。
八本目。
悪霊の目が、下ろした私の右手へ向いた。
「お前――」
気づかれた。
九本目を切る。
完成した光を握るように右手を閉じ、地面を蹴った。
真帆の指が喉を締める。
私の一歩目と、真帆の左手が動くのはほとんど同時だった。
床が後ろへ流れる。
二歩目は要らなかった。
真帆の顔が、目の前にある。
届いた。
悪霊より先に。
右手の光を、胸の中央にある黒い塊へ重ねる。
本当なら、そのまま邪気だけを断てた。
真帆の顔を見なければ。
埃のついた頬。
苦しそうに開いた口。
喉へ食い込む、自分自身の指。
怖い。
真帆を傷つけたくない。
その気持ちが、踏み込んだ足を止めた。
胸の奥で、タマは止まらずに前へ出ようとする。
私の体が、一瞬だけ二つの方向へ引かれた。
肩がぶれる。
右手の角度がずれた。
細く揃えたはずの九本の線へ、封印から漏れた冷たいものが触れる。
光が膨らんだ。
「駄目っ!」
止めようとしたときには、九字が真帆の胸へ重なっていた。
黒い繋がりが切れる。
真帆の背中から、悪霊の塊が弾き出された。
同時に、邪気だけを通り抜けるはずだった私の霊気が、真帆の左肩へぶつかった。
真帆の体が横へ飛ぶ。
手を伸ばす。
指先が上着の袖を掠めた。
掴めない。
真帆の肩が下駄箱へ当たり、体が回る。
そのまま、額が金属の角へぶつかった。
鈍い音がした。
真帆が床へ崩れ落ちる。
「真帆!」
駆け寄り、床へ膝をついた。
黒い膜は、もう目にない。
悪霊の邪気も体から消えている。
助けられた。
それなのに、真帆は目を開けない。
乱れた髪の間から、赤いものが流れてくる。
こめかみを伝い、頬へ細い線を引いた。
「真帆、起きて。お願い」
肩へ触れようとして、手を止める。
頭を打った人を、勝手に動かしていいのか分からない。
何をすればいいのかも分からない。
「佐々木、動かすな! 呼吸を見ろ!」
先生の声が飛んでくる。
真帆の口元へ手を近づける。
浅く、温かい息が指へ触れた。
生きている。
息をしている。
安堵しようとした。
できなかった。
真帆の血の匂いが、タマの嗅覚を通して強く流れ込んでくる。
鉄のような匂い。
私が傷つけた、真帆の血だ。
「お前がやった」
背後から声がした。
真帆から追い出された黒い塊が、少し離れた床で蠢いている。
人の口を借りていないのに、その声だけははっきり聞こえた。
「黙って」
「間に合ったのにな」
否定できなかった。
悪霊より先に届いた。
黒い繋がりも断った。
真帆を傷つけたのは、悪霊ではない。
私の霊気だった。
胸の奥で、タマの気配が強く揺れる。
強い否定と、私を支えようとする温かさが、言葉にならないまま流れ込んでくる。
一人で背負わせまいとしているのだと分かった。
タマは私を支えようとしている。
分かっているのに、真帆の頬を流れる血から目を離せなかった。
右手の指先に残っていた九字が、一本ずつ崩れる。
同時に、胸の奥で邪気を包んでいた霊気がほどけた。
新しい邪気が生まれたのではない。
ずっと封印の内側で押し返していたものが、支えを失っただけだった。
冷たさが、一気に道へ流れ込む。
「駄目……」
霊気で包み直そうとする。
指が震え、細い形にならない。
冷たいものが胸から肩へ、肩から両腕へ広がっていく。
自分の鼓動が聞こえなくなる。
代わりに、タマの怒りと恐怖が、体中で脈打った。
真帆をこんな場所へ引き入れた悪霊への怒り。
私を傷つけ、すべてを奪おうとするものへの怒り。
もう何も奪わせたくないという、十年分の恐怖。
そのすべてに、封じられていた邪気が重なってくる。
タマが内側から止めようとしている。
私も止めなければならない。
分かっている。
それなのに、手足の感覚が遠ざかっていく。
「佐々木!」
先生の声が聞こえた。
遠くで、薄いガラスが割れたような音がした。
皆を守っていた光が崩れたのだと分かった。
振り返れなかった。
真帆の頬を流れる赤い線だけが、視界の中に残っている。
その赤まで黒く塗り潰されるように、意識が沈んだ。




