第15話 引き返す
◇ 久世朔
町を出て、しばらく経ったころだった。
陰陽庁へ向かうタクシーの後部座席で、久世は左の手のひらを膝へ押しつけた。
手のひらの奥を、細い針で貫かれたような痛みが走る。
「朔さん?」
隣にいるすずが、不安そうに顔を覗き込んだ。
運転手から見れば、後部座席にいるのは久世一人だけだ。すずも、その反対側で身を屈めている岳も、車内の鏡には映っていない。
「静かに」
声を落とし、目を閉じる。
痛みはすぐに消えた。
代わりに、遠くから二つの気配が押し寄せてくる。
一つは、底が見えないほど大きな霊気。
もう一つは、冷たく濁った膨大な邪気。
別々に広がっているのではない。
二つは同じ場所から、互いに絡み合うようにあふれていた。
「優香と、タマ……」
タマの首へ施した封印は、久世自身が組んだ術だ。普段の揺らぎまで分かるわけではない。だが、封印が内側から大きく歪められれば、術を組んだ久世にも反動が返る。
今の痛みは、わずかではなかった。
封印が完全に破れた感覚ではない。それでも、押さえ込んでいた邪気が契約を通じて優香の側へ流れようとしている。
封印から返ってくる感覚へ、さらに意識を重ねた。
いや、その入口だけではない。
優香は、タマを自分の身体へ降ろした。
気配を辿った先には、水守南高校がある。
今日、優香が補習を受けている学校だ。
「運転手さん、すみません。行き先を変えてください」
「はい?」
「次に安全に停められる場所で、降ろしてください」
運転手が戸惑ったように鏡越しで久世を見る。
「ここからだと、町へ戻る車を捕まえるのは難しいですよ」
「迎えがいます。急いでください」
「分かりました」
久世は携帯電話を取り出した。
指が一度、画面の違う場所へ触れる。
呼吸を整えてから、高城直人の名前を押した。
二度目の呼び出し音で繋がる。
「朔か。もう着いたのか」
「直人、今どこ?」
「団地だ。眠ってる住民はまだ大勢いる。原因になったものは封じたが、残った邪気を抜くのに時間がかかる」
電話の向こうで、何か重いものを動かす音がした。高城は作業を続けるため、通話をスピーカーへ切り替えているらしい。続いて、ミコの声と玄斎の短い指示が聞こえる。
「優香に渡した連絡札は?」
「反応してない。おい、待て。佐々木に何かあったのか」
「水守南高校にいる。封印越しに、優香の霊気とタマの邪気が重なってるのが分かる」
「こっちじゃ分からなかった。団地の結界の中は、残った邪気で外の気配がほとんど拾えない」
「重なってるって……まさか」
「タマを降ろしてる。たぶん」
電話の向こうが静かになった。
「お前、まだ感覚を合わせる練習しかさせてないって言ってただろ」
「そのとおりだよ」
「一人でやったのか」
「タマと一緒だから、厳密には一人じゃない」
「今それを言うところか?」
「言ってないと、声が震えそうなんだ」
自分で口にして、ようやく気づいた。
携帯電話を握る手に、力が入りすぎている。
すずが膝の上で両手を握りしめていた。岳は何も言わない。けれど、窓の外へ向けた横顔から、いつもの穏やかさが消えている。
「封印は?」
「まだ残ってる。でも、この負荷が続けば長くは持たない。何が起きてるかまでは分からない。連絡札も使えない状況なら、優香たちだけで対処してる可能性が高い」
「分かった。俺が行く」
「そっちの住民はどうするの」
高城が言葉を止める。
電話の向こうで、玄斎の声がした。
「直人。わしが先に参ろう」
「玄斎が抜けたら、この結界はどうする」
「核は封じたのであろう。残りは、おぬしとミコで保たせよ。学校には、守りを張れる者が必要じゃ」
「ですが、玄斎様お一人では――」
ミコの声だった。
「戦いに行くのではない。人と町を守り、朔が着くまで持たせる。年寄りには似合いの役目よ」
「玄斎、頼める?」
久世が尋ねる。
「最初から、そのつもりで口を挟んだ」
「ありがとう。学校の中へ入る前に、周囲へ結界を張って。中にいるものを外へ出さないことを優先して」
「承知した」
高城が低い声で続ける。
「こっちは最短で安定させる。ミコを残して、俺も学校へ向かう」
「無理に抜ければ、団地の人たちが危ない」
「分かってる。だから片づけてから行く。学校で何が起きたのか確認するのは、管轄の俺の仕事でもある」
そこで一度、言葉を切った。
「朔。陰陽庁はどうする」
「後回し」
「今日行かなければ、向こうは逃げたと受け取るかもしれないぞ」
「好きに受け取らせればいい。説明しに行ってる間に、説明する相手が死んだら意味がない」
「そう言うと思った」
通話が切れる。
タクシーは、道路脇にある小さな駐車場へ入っていた。
久世は料金を払い、後部座席から降りた。すずと岳も、閉じるドアをすり抜けて外へ出る。
「本当に、迎えは来るんですか」
運転席の窓が開き、運転手が心配そうに尋ねてきた。
「ええ。もう近くにいます」
久世が答えると、運転手は何度か後ろを振り返りながら車を出した。
テールランプが見えなくなるのを待ち、左手の指を空へ向ける。指先に集めた霊気を、細い光にして打ち上げた。
はるか上空にあった妖気が、すぐに降りてくる。
風が渦を巻いた。
地面へ音もなく降り立ったさつきの着物が、遅れて大きくはためく。
「陰陽庁へ行くのではなかったか」
「優香がタマを降ろした。封印は残ってるけど、内側からかなり強く押されてる。水守南高校で、何かと戦ってるみたいだ」
さつきの目が細くなる。
「二人は既に呑まれておるのか」
「まだ暴走した感触はない。だから先に着いても、二人を敵だと決めつけないで。学校にいる人たちを守って、何が起きてるのか確かめることを優先して」
「もし、間に合わなかったならば」
静かな声だった。
それでも、問いの意味は軽くない。
「町へ被害を出さないようにして。二人を祓わずに、俺が着くまで抑えていてほしい」
「心得た」
「玄斎も学校へ向かってる。すずはさつきと先に行って、学校の中を見てきて。玄斎と合流できたら、分かったことを伝えるんだ」
「はい」
すずの返事は震えていた。
「優香さんたち、大丈夫でしょうか」
「大丈夫とは言えない」
久世は答えた。
いつものように、安心させるための軽口は出てこなかった。
「だから戻る」
すずは唇を結び、さつきが差し出した手を迷わず握った。
「それと、さつき。俺が町まで走る間、人の目から隠せる?」
さつきの視線が、吊られたままの久世の右腕へ落ちる。
「怪我人が岳を降ろして駆けることについては、後で話がある」
「今は?」
「隠してやる」
さつきが袖を払った。
久世の周囲で景色が揺らぎ、背後にある道路とガードレールの幻影が輪郭を覆い隠す。自分の手足は見えているのに、路上のカーブミラーには何も映っていなかった。
さつきはすずの手を引き、空へ舞い上がる。二人の姿は瞬く間に小さくなり、町の方角へ消えた。
久世は岳へ向き直った。
「岳。力を貸して」
大男は一度だけ、深く頷いた。
輪郭が白い霊気へほどけ、久世の胸へ流れ込む。
両足が重くなる。
違う。
体の芯が、急激に密度を増している。
骨と筋肉の一本一本へ、岳の力が満ちていく。治りきっていない右腕の痛みは消えない。その周囲だけを、内側から幾重にも支えられた。
治ったわけではない。
今だけ、壊れないように固めている。
一歩目で、景色が後方へ流れた。
二歩目には、駐車場が遠ざかっている。
岳の力で地面を蹴り、車道を避けて町へ続く道の脇を駆ける。
封印を通して伝わる二つの力は、今も絡み合ったままだった。
その中で、優香の霊気だけは消えずに脈打っている。
まだ戦っている。
久世は痛みの残る右腕を庇いながら、さらに速度を上げた。




