19-優しい檻
「あら、もうお帰りになりますの?本邸にお寄りになればよろしいのに。」
澄んだ女の声だった。
振り返る。
離れへ続く石畳の向こう。
本邸から伸びる回廊の入口に、侍女を連れた一人の女性が立っていた。
リュシエンヌ。
シエルの母親で、ベルトラン・エトワールの娘だ。
結い上げられた濃い銀髪に、濃い青の瞳。
年の頃は二十代半ばほど。母親というよりは令嬢めいた雰囲気だ。たしか、シエルの父とはひと回りほど、年の差があったはず。
仕立ての良い外出着。完璧な姿勢。
社交界の花、と評されるのも納得できる美貌。
だが。
その美しさに反して、どこか温度がない。
「…奥様。」
マルタさんが頭を下げる。
ヨハンさんも続いた。
(この人が。)
つい先ほどまでの穏やかな雰囲気が、薄い氷を張ったように静まる。
モロー先生へ優雅に会釈するリュシエンヌ。
完璧な所作。非の打ちどころがない。
「いえ、診察も終わりましたので、このままお暇します。」
「ちょうど茶会から戻ったところですの。モロー先生には、息子がお世話になっておりますし、いつかきちんとしたお茶会でもてなさせて下さいませ。」
「お気遣いなく。当然の務めですよ。」
モロー先生が応じる。ジュールさんと俺を見やって、続けた。
「本日は同行者も居りますのでね。また、後日に。」
彼女の視線が、ちらりとこちらへ向いた。
「父から聞いております。辺境から勉強しにいらしたとか。」
俺は、とっさに片膝をついた。
「レイン・グレイと申します。」
「だいぶ、お若いのね。」
微笑む。
社交用の笑み。
そこに悪意はない。だが、親しみもない。
俺に向けられたのは、相手を見定める笑み。そしてのその下に隠された、田舎者の少年に対する静かな嘲りだ。
モロー先生の同行が無ければ。
研究塔の権威であるベルトラン様の口添えが無ければ。
平民『レイン・グレイ』に言葉をかけることもせずに終わっただろう。
じつに、貴族らしい対応、というところか。
「…塔ではなく、モロー先生について学ぶことになりましたの?」
「いえ、息子のジュールが、」
「辺境を見聞きして、面白かったことがたくさんありましたので、ぜひシエル様にも、と。」
リュシエンヌは、俺を視界から完全に外して、モロー先生に話しかける。
ジュールさんが俺に目くばせをくれる。さりげなく歩みをすすめ、俺を背後に隠す形になる。
後ろ手で立ち上がるようにハンドサインをくれたので、俯きながら立ち上がって、シュナイダー夫妻より少し後ろ、あたりまで下がる。
「ジュールさんは、息子の無聊を慰めてくださっているとか。父から頼まれたのでしょう?研究のお邪魔になってはいないかしら。」
「いえ、シエル様は幼くとも聡明でいらっしゃいますので、話すうちに、こちらが学びを得たような心持ちになるくらいです。」
如才ないジュールさんの受け答え。いや、ホント、ジュールさん、シゴデキ過ぎん?
「庭をご覧になって、花に興味を持たれたようで、楽しく話させていただきました。」
「まあ、そうなの。」
「ヨハンさんの庭造りも素晴らしいので、私も心慰められます。シエル様も、そのようにお見受けいたします。」
「ええ。あの子は、外へ出せませんから。せめて窓から眺めるくらいは許しておりますの。」
――あ゛、今なんつった、この女。
外へ『出せません』、っつったか?――『出られない』、じゃなく。
しかも『許す』?たかが庭の花見るのに、なんで母親の許可がいるんだ?
「体が弱い子ですから、あまり、刺激を与えないようにしています。」
医者をさしおいて、何言ってやがる。
ジュールさんが続ける。
「辺境の花にも、興味を持たれたようです。」
「あら、そう。」
「行ってみたい、と。」
リュシエンヌは、シエルに似た美しい顔に、憂いを浮かべてみせる。
「まあ。夢を見るのは結構ですけれど。」
白手袋を嵌めた手で、口元を覆う。
「現実には難しいのではなくて?」
――ぐらり。
めまいがする。
怒りのあまりに。
「期待させるのは可哀想ですわ。息子は、危険な目には遭わせたくありませんの。」
子供の身を案じる言葉の裏で。
『だから期待は持たせません。』
シエルが何かを望む前に、諦めることを強要している。
マルタさんが肩を震わせる。
ヨハンさんが下を向く。
こいつだ。
やっぱり、こいつが、シエルの未来を削る、『最大の原因』だ。




