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スノウ・インカネーション/十五

 ジュリが帰ってきたのは兄がロンドンに向かって飛行機に乗った土曜日からさらに一週間後の土曜日の朝だった。ジュリは沢山のお土産を買って帰ってきた。直接その姿を見ることは出来なかったが玄関にそれらのお土産を十二階のマンションの玄関まで運んだのはジュリのお友達で、非常に親密な会話が玄関先から聞こえてしまって私は突発的にヒステリックになったが、ジュリの帰宅がすなわち私が沖ノ宮市に帰る時だと分かっているユウリが私の手をぎゅっと強く握ってくれていたから冷静に「ジュリさん、お帰りなさい、オーストラリアはいかがでした?」と笑顔を作って言うことが出来た。「錦景市はすっかり寒くなったでしょう?」

 ジュリは私が頼んだアボリジナル・アートを忘れずに買って来てくれた。その絵はいつかの講義で見た、まさしく蛇と人間と森と夜の絵だった。私はまさかジュリがこの絵を手に入れて来てくれるとは思わなかったからとても驚いたし、悔しいけれど少し嬉しかった。私はジュリにお礼を何度も言って彼女の機嫌がいいうちにその絵を抱き抱えるようにして、その絵は私の体の半分を隠すくらいの大きさだった、マンションを後にした。玄関に立ち私のことを見送るジュリの後ろでパンダのぬいぐるみを抱いたユウリは今にも泣き出してしまいそうな目をして私のことを見ていた。今にも泣き出しそうなその目はジュリの目だった。ユウリはジュリの娘なのだと私は最後にハッキリと確認させられた。兄が口走った、養子、という概念を私は忘れてタクシーに乗り込み楢崎市駅までと運転手に告げた。

 沖ノ宮市駅に着いたのは午後の三時だった。およそ二週間ぶりの沖ノ宮市の潮風の匂いに、ああ、帰って来たんだと思った。二十歳の私のホームはこの街だ。

 ショウコのマンションに帰る前に私は倫敦パブに寄った。蛇と人間と森と夜の絵は倫敦パブに飾るのが相応しいと思ったからだ。この絵はきっと、ロンドンとパリとローマとカンサス・シティとインカ帝国とエジプトとシリアと南極が混じり合った倫敦パブの異様な雰囲気のスパイスになるだろうと直感的に思ったのだ。

「あら嫌だ、びっくり、」今日は水色のフレッド・ペリーのポロシャツを着たママは、普段通り開店前の準備に追われていた。高杉の姿は例によって見当たらない。二人の人間関係があれからどのようになったのか凄く気になるところではあったが。「ユキコ、帰ってくるなら電話ぐらいしなさいよ、ああ、でも久しぶりね、っていうか、もう帰って来ないかと思ったわよ」

「すいません、ご心配お掛けして」私は手を前で合わせて深くお辞儀した。

「別に心配してないけど」

「そうですか、あ、これ、お土産です」私はG県のお土産の定番の旅がらすというお菓子の詰め合わせをカウンタに置き席に腰掛けた。

「わ、嬉しい、私これ好きなのよね、」ママはさっそく封を開けて食べ始めた。「……んで、その巨大な絵はなんなの?」

「ほら、これ、見てくださいよ、」私はママに絵を見せた。「前、ちょっと話したと思うんですけど、アボリジニの絵ですよ」

「ああ、そう言えば、そんなこと言ってたわねぇ、」旅がらすをバリバリと食べながら関心なさそうにママは言う。「……っていうか、え、ユキコってば、何? まさかオーストラリアに行ってきたわけ?」

「いや、違いますよ、まあ、色々ありまして手に入れることが出来たんですけど、ママ、お願いなんですけどここに飾らせてもらっていいですか?」

「ここにって、店に、ってこと?」

「はい」

 ママは絵を真剣な目で一瞬見て頷いた。「まあ、いいわよ、その絵なら倫敦パブの調和を乱すことはないでしょうしね、ええ、好きなところに飾って頂戴、っていうかやっぱりこのお菓子おいしいわねぇ」

 というわけで倫敦パブのステージの背中の壁に私は蛇と人間と森と夜の絵を飾った。

 思った通りその絵は倫敦パブに調和していたし、その絵があることによって倫敦パブの異様さは活性化していた。空気が大きく躍動しているような気がする。私は大きな躍動を感じながらカウンタ席に座りママが淹れてくれた珈琲を飲んでいた。「ママ、そう言えば高杉は?」

「え?」

「えって、いや、高杉は?」

「し、知らないわよ、あんなやつ、」ママは口を尖らせて言った。なぜか瞬きの回数が急に増えた。「高杉のことなんて知らないっ」

「え、ママ、まさか、」もしかしたらママは高杉のことを辞めさせたんじゃないかって私は邪推してしまった。「まさか、え、ママ、そんなまさか高杉を辞めさせたりなんかしてないですよね?」

 そのタイミングだった。

 扉のベルが鳴って高杉が姿を見せた。

「ただいま戻りましたぁ、」高杉はいつものように、スーパーのビニル袋を手に提げていた。「あ、ユキコさん、お久しぶりですね、いつこちらに帰って来たんですか?」

「さっきだけど、っていうか、なんだ、高杉、辞めてなかったんだ、よかった、よかった」私は高杉の背中をバシバシと叩いて言った。

「なんですか? やぶからぼうに、辞めませんよ、私の居場所はここにしかないんですから」

「……お帰り、」ママは尖らせた唇で高杉の顔を直視することなく小さく言った。なぜかママの顔はピンク色だった。「遅いぞ、この野郎」

「ごめんね、」高杉は私の隣の席に座りながら言った。「どのドレッシングにしようかって真剣に悩んでたらこんな時間に、ごめんね、許してよ、ヨシコ」

「名前で呼ぶなって言ってるだろ、この野郎っ」

「ああ、ヨシコはいつになったら私のことを名前で呼んでくれるのかな?」

「呼ばねぇよ、っていうか、敬語使えよ、こらぁ」

「いいじゃない、お客さんいないし」

「よくないわよ、ユキコがいるじゃないの」

「それが問題なの?」

「問題よ」

「基準がよく分からないな、」高杉は悩ましげに首を横に振る。「どういう時によくてどういう時に駄目なのか、具体的に言ってくれなくっちゃ」

「いや、分かるでしょ、なんとなく分かれよ、とにかく今は駄目なのっ」

「ああ、なるほど、なんとなく分かりました、」高杉はわざとらしく言って人差し指を軽く立てた。「要するにベッドの中ではOKということですね」

「も、もう、高杉の莫迦っ!」ママの顔はピンク色から真っ赤に変わる。「高杉のことなんて知らないんだからっ!」

 なんてそんな風に言い合う二人の人間関係は決して悪くはないようで、むしろ良好のようで、私は心底安心した。応援したいと本気で思った。お似合いだ。可愛らしい恋模様じゃないか。

「……っていうか、ユキコ、あんた、なぁにニヤニヤしてんのよ」ママは私のことをキッと鋭く睨み付けていた。

「いや、別に、ただ、」私はニヤニヤしながら首を大きく横に振って視線を蛇と人間と森と夜の絵に向けた。「ただ時間の速さに驚いているだけですよぉ」


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