スノウ・インカネーション/十六
そして沖ノ宮市の夕方の五時、私はショウコのマンションに帰った。私はショウコにも帰ることを連絡していなかった。突然帰って驚かせてやろうと思ったのだ。けれど連絡をしていなかったこともあって、まだ仕事中なのだろう、ショウコは留守だった。
「ただいま、」久しぶりに帰ってきたショウコのマンションはあらゆるものがテーブルとか本棚とか床とかソファとかの上に散乱していた。私が錦景市に帰ってから掃除されたという形跡が一切なく膨らんだゴミ袋も玄関にそのままだった。洗濯物も溜まっていてドラム式の中には乾燥させ過ぎて縮んでしまったショウコのパンツがあった。「……もうしょうがないんだから」
私は散乱した衣類を回収してドラム式に放り込んでとりあえず回転させてから髪を後ろでまとめてエプロンを纏って掃除を開始した。汗を搔くくらい真剣に掃除機を掛けていく。汚れたパンツが様々な場所で見つかった。ショウコは穿くものに困って私のパンツにも手を出していたようだ。もうしょうがないんだから。多分、忙しくって家事にまで手が回らなかったのだろう。私がいなくっちゃ、駄目みたいね、なんて私は奥様の気分で、シャララと鼻歌を歌いながら、掃除機を動かしていた。
ショウコが帰って来たのは沖ノ宮市の夜の七時だった。「お帰り」とリビングで出迎えた私を見てショウコは凄く吃驚していた。
「ユキコ? ああ、びっくりした」
そのショウコの驚きは私が期待していたものとはまるで違っていた。ショウコの幸福に満ち足りた、そして私のことを柔らかく包み込み受け入れてくれるような、優しい顔が私は見たかった。ショウコはいかにも罰が悪そうな、いかにも予期せぬことが起こったという風な深い陰を顔に見せた。ショウコがそんな顔をした理由はすぐに分かった。ショウコの後ろでニコニコとした女の顔が動いていた。明るい茶色の髪をポニーテールにした、ショウコと同じように灰色のビジネススーツを纏った、いかにも天真爛漫という風な愛嬌のある顔立ちの女がいて彼女はショウコと腕を絡めていて指も絡めていて太ももも擦り合わせているように密着させていた。ショウコは咄嗟に密着していた女から離れようともがいたがニコニコとした女はそれを頑なに許さなかった。ショウコは女から離れることを諦めて唇を震わせながら息を吐いて冷静を取り繕って言う。「……っていうか、ユキコ、帰って来るなら連絡くらいしなさいよね」
「ショコちゃん、その女は何なの?」
「先輩、この娘は誰なんですか?」
私と茶色のポニーテールの女が笑顔でショウコを問い質そうとしたのは同時だった。「ユキコよ、」とショウコは私ではなく、女の質問から先に処理した。「國丸ユキコって言ってF女子大に通う大学生で、まあ、色々あって一緒に暮らしているのよ、」次に私だった。私はそれが許せなかった。次に回されたことが凄く癪に障った。「それでユキコ、この娘は私の部下で、名前は吉田アサカ」
「アサカです、」アサカはショウコから離れこちらに一歩進み出て満天の笑顔でユキコに手を差し出してきた。「よろしくね、ユキコちゃん」
「……よろしくって、意味分かんないんだけど、」私はアサカの手を握らずじっと睨み付けたまま言った。私の唇は震えていてそれが声に表れてしまったのが悔しい。アサカは何も動じていない風に見えるからだ。動じていないどころか余裕すら感じられた。アサカは自分の唇のコントロールを失っていない。それは私とアサカとの大きな違いだと思えた。「こっちはよろしくなんて、出来るかよ」
私の生意気さ加減にアサカは盛大に舌打ちして私に向けていた笑顔を一瞬消して私に差し出していた手を引いてそれを腰に当てた。
アサカは私のことを強く睨んでいた。
私はアサカの豹変に動揺して狼狽えた。
この女は敵だと思う。
私は一歩、後退してしまった。
それがまた悔しくて泣きそうになる。自分の中に弱さがまた一つ、産まれてしまったのだ。すぐに振り払えない。弱さに囚われてしまう。心が委縮していて血液が滞り頭に血が不足して回らない。とにかく目の前の女が怖くて泣きそうになる。
私はどうすればいいのか分からない。
「ねぇ、先輩は、」アサカは笑顔を作り直し、立っていられないという風にソファに腰掛け膝の上で手の平を合わせて俯き黙り込んでいたショウコのことを見て言う。「先輩はこのユキコって娘とセックスしたりするんですか?」
ショウコはその質問に額を押さえて首を振り、語気強く言った。「……アサカ、悪いけど今日は帰ってくれるかな?」
「え、どうしてですか?」アサカは大きく体を傾けて胸の前で手を合わせて可愛い声を出して言う。「夜も一緒にいられるって思っていたんですけれど」
「いいから帰って、」ショウコの呼吸は荒かった。「お願いだから」
「嫌です、寂しくてしょうがないのって私を誘ったのは先輩の方ですよ、帰ってなんて意味が分かりません、理解不能意味不明ってやつです、ね、ユキコちゃん、」アサカは馴れ馴れしく私の肩を触り体重を乗せて来た。アサカは私の耳元で囁く。「あなたもそう思うでしょ?」
アサカに触られて、耳元で囁かれて、悪寒、というものが現実に背筋に走った。私は彼女の唾棄すべき質問に肯定も否定も出来ずに黙りこみ、ただじっと、この時間に耐えていることしか出来なかった。私はアサカという女に手も足も出ないのだと感覚的に、すでに分かっていた。分からされていた。この女にはおそらく暴力だって通じない。この女の果てしない強靭さのようなものは暴力を軽く凌駕している。この女は次元が違う、と私は思わざるを得なかった。ここではない次元が違うところから力を引き出して来て、まさに引用するようにして、自らの強靭的な部分をさらに強固にしている。アサカはその果てしない強靭さを包み隠すこともせずにありのままに私に知覚させている。
私はどうすればいいのか分からない。
「アサカ、ユキコに触らないで」ショウコはヒステリックに言う。
「怒らないでくださいよ」
「怒ってないわよ、だから早くその手を離しなさいってば」
「怖い顔しないで下さいよ」アサカはおどけるように言って、ピストルを突き付けられたみたいに両手を顔の横に持ち上げた。
「さ、そのまま帰ってよ、アサカ」ショウコは玄関の方を指差している。
「だから嫌ですって」アサカは簡単に両手を降ろした。
「言うこと聞きなさいよ」ショウコはソファから立ち上がりアサカに詰め寄り言う。
「これはプライベートですよね?」
「ええ、そうよ」
「だったら先輩の命令に従う義務は私にはないはずです」
「困らせないでよ」
「何に困っているんです?」
「嫌な性格」
「自分ではそうは思いません」アサカは満天の笑顔で言った。
そのタイミングで私は声を上げた。「ショ、ショコちゃん、私、」なんて弱々しい声だろう。「そろそろ店に行かなくっちゃいけないから」
そして私はショウコが呼び止める声を無視して一つにまとめた髪を解きエプロンをソファに向かって投げてウォークマンだけポケットに押し込んでマンションを飛び出した。ショウコは私の名前を叫んで追いかけて来たけれど私はイヤホンで耳を塞いで走って逃げた。私は足だけは昔から早かった。ランニングシューズを履いているからショウコは決して私に追い付くことは出来ない。走りながら私はスノウ・インカネーションを聞いて真新しい傷の痛みに絶望的になって死なないように感情を高めていた。
死んでは駄目だ。
強くなるんだよ。
この傷はまだ再生可能でしょ?
沖ノ宮市の夜の七時の空気は肌を刺すように冷たく胸が苦しくなってすぐに息が上がってしまった。けれど私は苦しくなってもしばらくは歩かなかった。沖ノ宮市の街をどこを目指すわけもなく走り続けた。苦しさで絶望的な感情を薄めようと思った。珈琲にミルクをたっぷり注いでその黒を薄める様に。
私はブラック珈琲が苦手だ。
スノウ・インカネーションの激しいロックンロールの吹雪を追い風にして私は走り続けた。耳に響くのはアプリコット・ゼプテンバの声だったが、そこにはユウリの声も微かに混じっているようにも聞こえた。もちろん私の記憶が再生させた幻聴に違いないのだろうが、確かにユウリの声が今に、私の耳には響いているんだ。
私は赤信号に立ち止まり目を瞑り呼吸を整えユウリの声に耳を澄ませた。
そして……。
ユウリだと思う。
私の死ねない理由。
それはユウリだ。
ショウコじゃない。
ユウリ以外の他の女であるわけがないんだ。
他の女のことなんてどうだっていいことでしょ?
私は呼吸を整えながら、そう、心に虚勢を張って冷やした。
冷たい。
急に頬に冷たいものを感じて私ははっと目を開けて驚いた。
雪が降らないこの街に、雪が降っている。
雪の結晶がゆっくりと夜空から落ちて来ている。
赤信号の無機質な血の色を雪は隠そうとしている。
熱くなった顔が雪に冷えた。
傷跡に雪で化粧を施し私は少し安らいだ。
しかし雪はいずれ熱に解けてしまうもの。
一度雪に隠されてしまっても傷跡はまだこの胸できっと燃えている。
再燃するのでしょうね。
それは分かってる。
でも今は隠させて。
私はどうすればいいのか分からないから。
二十歳の冬。
私はまだ弱くて相も変わらず、ブラフガールのままだったんだ。




