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スノウ・インカネーション/十四

 私がマンションに来て一週間後の金曜日の深夜に帰ってきたのはジュリではなく兄だった。兄はジュリから事情も何も聞かされていないようだったが、ジュリの代わりに私がマンションにいても特に驚く様子も見せず「ああ、そうなんだ、オーストラリアか」と疲れ果てているという窪んだ目元で頷き寝室で眠るユウリの寝顔をそっと確認してから浴室に向かった。兄はまだ、ジュリに比べればユウリのことを考えている。多分、仕事が忙し過ぎてユウリに愛嬢を注ぐ暇がないのだと思う。兄は錦景市の隣の楢崎市に本社を構えるパイザ・インダストリィという巨大な企業に勤めている。具体的に何をしているのかは知らないけれど朝まで会社にいることもあったり出張も海外国内問わず多いのでマンションにはほとんど帰っていないようだった。

「また明日、朝一でロンドンに行かなくっちゃならないんだ」兄は私を晩酌に誘って乾杯して一口ビールを飲んでから言った。兄とテーブルを挟んでこんな風に向かい合って話すのは本当に久しぶりだった。前がいつだったか、すぐに思い出せないくらい。

「倫敦?」私は一瞬、私が働く倫敦パブのことだと思って胸がドキリとなった。兄にそういう場所でアルバイトをしていることは話していないし、それが両親に知られたらただでは済まないからだ。私の両親は厳格でとにかく礼儀にうるさくて女の私は兄よりもそういうことに関して矯正されていたと思う。とにかくすぐに英国の首都のロンドンであることに気付き「ああ、そうなの、」と私はテーブルに頬杖付き微笑んだ。「いいね、世界中を旅出来て、まるで旅人だね、兄さん」

「いいもんか、何回ロンドンに行ったか分からないけれど観光なんてしたことないんだから、旅人じゃないよ、そりゃ、風景くらいは楽しめるし、曇り空のロンドンの空気は無条件に俺に合ってるし好きだし、ロンドンに出張の時は他の、例えば東南アジアの方とかアフリカの方とか中東とかに比べれば気楽だけどさ、仕事が終わったらすぐに日本に帰ってこなくっちゃならないことがほとんどで、バッキンガム宮殿なんかも見たこともないし、いつもマンチェスター・シティのユニフォームをスーツケースに詰め込んで持って行ってるのにサッカーも観戦出来たことないし、ビートルズ・マニアの俺がアビィ・ロードの横断歩道も歩いたことないんだぜ」

 兄は苦笑してビールの缶を一気に空にした。兄と私は笑顔がとてもよく似ていると両親は言う。兄の笑顔にはいつも陰があった。心底何かに喜び笑っているという顔を見た記憶が私にはなかった。いつも何か気がかりがあって、その何かに怯えているような陰があって、いつその陰に襲われるか分からないから焦っているというような笑顔なのだ。私の笑顔にも時折、同じような陰が出来る。原因を上手く説明出来ない笑顔の陰だったが、その説明不能な笑顔の陰に、私は根拠を要求せずに一応は納得することが出来た。そしてそれを私は嫌だとは思わなかった。別にそれは、そうなのだから。

「まあ、でも忙しいことが嫌いじゃないんだよな、好きなんだ、何かに忙殺されている方が生きているって感じがするし、多分、余計なことを考えずに済むからな」

「……余計なことって、もしかしてジュリさんのこと?」

 兄は肯定的に苦笑してハイボールの缶を開けた。「……まあ、色々だよ、色々だ」

「ふうん、……色々ねぇ」 

 その色々の中にユウリは含まれていますか?

 とは、私は聞かなかった。

 さすがにその質問は可哀想だ。兄を追い詰める質問だ。私は兄を追いつめるつもりはない。十個も年が離れているから私は兄のことをもう一人の父親みたいだと思っているし、兄は何度も様々な場面で私のことを助けてくれた。兄には恩がある。私は義理堅い女だ。それは両親による礼儀の矯正のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 兄は煙草を咥え煙を細く吐きながら、アルコールに頬を僅かに朱に染めて私のことをなんだかぼうっと、しかし真っ直ぐに見つめていた。「……しばらく会わない内になんだか大人になったよな、ユキコ」

「急に何?」私は兄の煙草の箱に手を伸ばして一本口に咥えた。

「煙草も吸うの?」兄は僅かに目を見開いた。

「いけない?」私は白い煙を吐いた。

「そんなことはないさ、」兄は優しく言って首を横に振る。「時間の速さに驚いているだけだよ」

「あははっ、」私は兄の口からそんな台詞が聞けておかしくなって倫敦パブの調子で豪快に笑ってしまった。「時間の速さに驚いているんだね、あははっ」

「本当に変わったな」兄は嬉しそうに言う。

「兄さんは少し痩せた?」私は首の角度を斜めにして言う。

「忙しいからな、これが老化じゃなかったらいいんだけれど、でももう、三十だからな」

「大丈夫、まだ若く見えるよ」

「時間の速さに驚いているんだよなぁ」

「兄さんってば、まだ言ってるの」

「疲れてるんだよ、」兄は灰皿に煙草を押しつける。「時間の速さに付いていけてなくて」

「そうね、確かにそれを感じることってある、ユウリだってすぐに成長するよね、子供は一ヶ月とか二ヶ月とかですぐに変わっちゃうんだ、それは、なんだか、戸惑うことだよね」

 私はビールを傾けた。

 兄は私がビールを飲むのをじっと見ていた。「……なあ、ユキコ」

「ん?」

「ユウリのことが好きか?」

「何? その質問は」

「いいから答えなさいよ」

「好きよ、大好きよ、兄さんに負けないくらい愛してる、何度も言ったと思うけど」

「そうか」兄は顔を両手で擦って目元を指圧する。

「そうかって、何なの?」

「養子ってどう思う?」兄は神妙な面持ちで言った。

「……急に何?」私の唇は震えていた。

「いや、冗談だよ、」兄は苦笑する。「冗談だ」

「冗談のトーンじゃなかったでしょ?」

「……悪い、忘れてくれ、」兄は早口になった。「お願いだ」

「多分、無理、」私は兄のことを睨んでいた。「兄さん、私、怒ってもいいかな?」

「ごめんな」

「ごめんで済まないって、最低最悪の気分だわ」心がずしんと重かった。

「……すまない、ここのところ最近、追いつめられてるんだ、自分では全部、抱えていられないんじゃないかって、思ってて、」兄は目元を押さえて声を殺して泣いていた。「俺は不器用だから、何でもかんでも上手に出来ないんだよ、でも変に完璧主義者のところもあるから抱えているんだったら全部完璧にやりたいんだよ、でもそんなことは無理なんだよ、全部中途半端になる、この状況に俺は追いつめられてるって感じてる、逃げたくなるんだよ、ずっと頭の片隅には逃げることを考えている意志が騒いでいるんだ、その意志は消そうと思っても消えないんだ、辛いんだ」

「ユウリのことを考えて」

「考えてるよ」

「考えてたら兄さんはきっと、泣いてない」

「……ああ、そうかもしれないな、そうだよな」

「そうだよ、絶対に」

「俺はどうすればいいのかな?」

「とにかくユウリのことを考えて、お願いよ」

「ああ、うん、頑張るよ、」兄の目元は真っ赤で、兄の顔を私はまともに見ることが出来なかった。「……とにかくユキコ、あいつが帰ってくるまで、ユウリのことを頼んだよ」

「ええ、言われなくても」

「ありがとう」

「真剣に言わないでよ」

「本当にありがとう」

「ええ、こちらこそ、どういたしまして」


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