第三十九話 輪郭の融解
『この腕輪は、私が貴女に贈った二つ目のプレゼントね』
『二つ目?一つ目は?』
『ディエラ。愛する貴女の名前よ』
声も表情も曖昧な記憶の中で、交わした言葉だけが鮮明に浮かび上がる。
それを知るのは、あの場にいた者だけ。私とお母様、そしてお母様の腹心だったフィエルテだけだ。
「そう」
ディエラは小さく呟き、腕を下ろした。
本人であるという証明は済んだ。納得はできないが、それは疑いようのない真実だった。
傷のない腕輪。平穏な屋敷。そして、死んだはずの人間。
個別に考えていた事象を脳内で並べたとき、ディエラの思考が止まった。
全てが失われる前だとしたら─────。
「……フェル。今日の日付は?」
「帝国歴千九十二年、六月十八日でございます」
ディエラはフィエルテの顔を見つめたまま、その日付と記憶を照らし合わせた。
五年前。
あの夜よりも、フェルが殺されるよりも、もっと前。
有り得ないと退ければ、それまでだ。だが、その言葉を鵜呑みにすると、目の前の状況に説明がつく。
私が、回帰したのなら。
ディエラは手首に残る腕輪の重みを確かめた。
その仮定だけが、今ある矛盾を一つも残さず繋いでいた。
*
ディエラは、しばらく何も言わなかった。
フィエルテもまた、発言を重ねることもなく控えている。
流れる沈黙の中で、ディエラの頭の奥で滞っていた思考が、ようやくまともな働きを取り戻し始めた。順序を見極め、改めてピースを当てはめていく。
回帰。原因も、仕組みも分からない。
だが、今はこの仮定で動くほかない。
少なくとも、あの夜の続きでないことは確かだ。
弟妹達の死も、廃人と化したフィオルナも、お父様の手のひら返しも、全てがまだ起こってないのなら。
その考えに行き着いた途端、脳裏に金色の瞳が浮かんだ。
最期に腕へ触れた感触。あれが男の手だったとすれば、回帰にも関わっているのだろうか。
考えを深掘りしようとして、やめた。
分からないことを、別の不明点と結びつけるは早計だ。
寝具の上で、ディエラがいつの間にか握っていた拳を、ゆっくりとほどく。
時が戻っても、お母様は既に亡くなってる。その事実まで覆ったわけではない。
だが、私から全てを奪った者達は、まだ何も失っていない。
屋敷の状況に加えて、外の情報も記憶と照らし合わせる必要がある。回帰の原因を探るにしても、今のままでは判断に使える材料が少なすぎる。
目下優先すべきは、自分の置かれている状況を確かめて、動ける環境を整えることだ。
男について考えるのは、その後でも遅くはないだろう。




