第三十八話 不可解のオーバーフロー
「はい、お嬢様」
腰を折っていた侍女が顔を上げ、ディエラを見つめた。
声にも、表情にも、変わったところはない。ただ、次の命令を待っている。
主人のいつになるか分からない起床の為に、何分でも何時間でも待つ背筋を崩すことなく待っていた。起こせと命じられなければ声もかけず、その寝息が聞こえていても壁に背を預けることすらしない。
お母様の逝去後、感情を表に出すことをやめ、命令が無ければ動かない無機質な存在となった。
だが、フェルは殺されたはずだ。
あの夜の夢をどう解釈しようと、それ以前に失った者まで返ってくることはない。
一度死んだ者は、万能な魔法をもってしてもその摂理を覆すことはできない。
髪をかきあげた状態で硬直するディエラを、侍女は黙って見つめている。
お母様より彩度の低いヴァニーユの髪も、感情を宿さない表情も、淡いシェルピンクの瞳も、私の記憶にあるフィエルテ・リーデンスの姿を忠実に形どっている。
何者かが差し向けた間者なのであれば、姿形を似せるだけなら不可能ではない。魔法や魔道具を使えば、尚更。
ただ、死者に擬態して何になる?私を殺すでもなく、ただじっと起きるのを待っていた。彼女の行動を忠実に再現して…その先は?
あまりにも理解し難い現状に、ディエラの脳内が過分な負荷に苛まれた。どっと押し寄せる膨大な思考と突飛な光景。数多の憶測を立てても、到底納得できるものじゃない。
「…これの意味は?」
口をついて出た言葉は、普段のディエラなら行うはずのない愚行だった。
他の者が知り得ない秘密を尋ねる愚策。間者であれば、疑念を向けられているとすぐに勘付かれてしまうだろう。
間者ならば、どう始末するか。脳内では、その判断まで見据えていたはずだった。
だが、悪夢の余韻も抜けきらぬうちに、辻褄の合わない現実と疑念が次々に押し寄せる。膨大な量の処理が追い付かず、最初に切り捨てたはずの確認手段が、吟味し直す間もなく口をついて出て行ってしまった。
口にした以上、取り繕えば返って不審を招く。
ディエラは額に添えていた右手を下ろし、左腕を持ち上げた。侍女の反応を見逃さぬよう、その顔を見据えたまま手首を返す。
小さな宝石が、日の光を弾いた。
「グレイス様が、お嬢様のご多幸を願って贈られた、二つ目の贈り物でございます」
侍女が腕輪へ視線を落とし、答えるまで、考え込むような間は無かった。
”二つ目”
ディエラは頭の中でその言葉を繰り返した。




