第三十三話 滴る焦燥
「ディエラ。聞かなくていい」
男はレイヴンの首を掴んだまま、横目でディエラの様子を窺った。
声には隠しきれない苛立ちが混じり、その感情が指先からレイヴンへと伝わる。
レイヴンは男を一瞥すると、再度ディエラへと視線を戻した。
男の声が届いていないのか、ディエラは変わらずレイヴンを見つめている。
「私のところまで来い」
「ディエラ!!」
喉を圧迫されながら、レイヴンは口元を歪ませる。
男は、レイヴンの言葉をかき消すようにディエラの名前を呼んだ。
ディエラの無機質な表情は、どちらの声にも反応しない。だからこそ、男の中で焦りが募った。
「傍にいれば…っ、まだ知らない楽しみを、教えてやる」
「黙れって言ってるだろ!」
男が声を荒げ、感情を露わにした。
レイヴンの首を掴む指に、さらに力が込められる。指先から、レイヴンの高鳴る鼓動が伝わった。
怯えているわけではない。むしろ歓喜しているのだろう。ディエラという理想の駒が現れ、それを手中に収められる喜びに。
彼女が奪われるぐらいなら───
男が指先に魔力を流したその瞬間、背後で靴音が鳴り響いた。
かつ、と一度鳴り、少し間をおいて続けてもう一度鳴る。
男が咄嗟に振り返り、背後へと視線を向けた。
ディエラが、変わらぬ表情でこちらへと歩みを進めていた。止まる気配も、こちらへ言葉をかける様子もない。
どこへ行く。
誰のところに。
その問いに既に答えが出ていることを男は理解しつつも、受け入れることができなかった。
自分の知るディエラならあるいは、と淡い妄想が脳を占める。
ふと、レイヴンの唇に残る笑みが、視界の端に入った。
男は、その笑みが何を意味するのか、考える前に放棄した。
許さない。許されないよ。君が誰かの監視下に置かれ、ただの駒になり果てるなんて。
男は空いている方の手を上げた。
「そこで大人しくしてて」
男が上げた手を握ると、ディエラの足元で影が揺らめいた。
揺らめく影は、蔦のように地面から伸びていき、ディエラの身体に沿ってとぐろを巻いていく。
ディエラは眉一つ動かさず、自分の身体に纏わる影を視線で辿った。
それを見届けると、男は再度レイヴンに向き直った。
当主の首を折るのは容易い。
だが、こいつは底が読めない。抗われ、そこに万が一ディエラの魔法が加わったら、面倒だ。
まずはディエラを拘束し、それから当主を殺す。
その瞳は殺意に染まり、レイヴンでさえも息を吞んだ。
レイヴンに纏う影がより一層深みを増し、あっという間にレイヴンの首元まで覆いつくした。
…かつ。
男の頬に一筋の汗が伝った。




