第三十一話 当主の疑似餌
ディエラの両手が力なく落ちていく。
男は首を傾げた。
ディエラの顔から、笑みが消えていた。怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。ただ、その瞳から光が消えていた。
「……ディエラ?」
男が小さく名前を呼んだ。
ディエラがゆっくりと男へ視線を向けると、男は眉を僅かに下げ、こちらの様子を窺っていた。
何故、そんな顔をする。
お前は、私の反応が見たかったんだろう。
脳に浮かぶ言葉を告げる気力さえ湧かず、ディエラは男をじっと見つめていた。
男は、焦点の合わないディエラの瞳に、悪寒が走った。
*
「虚しいか、ディエラ」
ふと、レイヴンが口を開いた。
妻が壊れていくのを黙って見ていた男が、今更どういう了見だ。
男は、横目でレイヴンを見た。
「満たされないだろう。自分の手で成し遂げられなかった復讐は、後から何を加えても埋まることは無い」
ディエラは答えなかった。
だが、顔を背けることもしなかった。
あの顔、どこかで……
男は、ディエラの表情に何処か既視感を感じながらも、流暢に語りだしたレイヴンの様子に眉を顰めた。
今までディエラに見向きもしなかった男が、能力を知った途端、目の色を変える。いつぞやの貴族達の姿が、男の脳裏をよぎった。
「分かるさ。私もそうだった」
広間には、フィオルナの途切れ途切れの嗚咽が残っていた。
だが、広間の誰もその音に耳を傾けることは無い。もはや、その扱いはそこらに転がる死者同然だった。
レイヴンも例外なく、その視線をディエラに向けて話を続けた。
「私が当主になったのは、かつての部下が先代当主を殺したからだ」
ディエラの肩が、微かに動いた。
ディエラにとっても、もちろん男にとっても、初めて聞く話だった。
レイヴンは先代を討ち、その力で当主の座を奪った。屋敷内外関わらず、そう語られていた。
肉親を殺してでも当主の座を得ようとするその野心と、それを成し遂げる実力を知っているからこそ、誰もがレイヴンに畏怖を抱いていた。
レイヴン自身、それを否定したことは無い。
「余計な真似をしてくれたものだ。私の為だと戯言まで吐いていた」
鬱陶しそうに眉を顰め、目を閉じる。過去を振り返り、その憎悪に触れているようだった。
男は、レイヴンが語る内容に苛立ちが募った。
今、まさにこの現状を作り出した自分の存在と重なっている。同じ境遇だと取り繕った哀れみが酷く気に入らなかった。
「その後、そいつも殺した。だが、何も変わらなかった。先代を殺したのは、最後まで私ではなかったからだ」
ディエラもまた、自分と同じ考えだろうと視線を戻した時、男は目を見開いた。
ディエラの視線が、父へ向いていた。
焦点の合わない虚ろな瞳ではなく、そこに確かにレイヴンが映っていた。
男が声をかけても戻らなかったものが、レイヴンの言葉で動いている。
男の指先に力が入った。




