第二十九話 不協和音の鎮魂歌
「いやぁぁああああっ!!!」
耳を劈くような甲高い悲鳴が、広間を満たす。
フィオルナは強大すぎる悪意から逃れようと、床を搔きながら後退る。
その言葉を、幾度となく聞いてきた。
朝、髪を梳いてやった時。欲しがっていたドレスを与えたとき。何も無くても、目が合えば駆け寄ってきて、愛らしい笑顔を浮かべて言うのだ。
『お母様、大好き!』
と。
柔らかな頬。腰へ回される細い腕。首元にうずめる愛らしい笑顔。
その記憶が鮮明にフラッシュバックする中、そのどれとも合わない娘が、目の前でフィオルナを見下ろしている。
母を映さない瞳で。
息をしない身体で。
「やめて、おねがい…やめてっ!!」
「何をそんなに……ああ、そうよね。忘れてたわ」
心底不思議そうに首を傾げたディエラが、何かを思い出し、納得したように微笑んだ。
頬へ添えていた指を動かし、エリノアの唇の両端を持ち上げる。
「エリノアと言ったら、笑顔、だものね」
生気のない顔に、口元だけが不自然に笑みの形を浮かべた。
猟奇的。悪逆非道。無慈悲。凶悪。
そのどれもが、この女の前では陳腐なものと化す。魔王ですら血相変えて逃げ出すだろう。
フィオルナは、全ての事象から目を背けるように、両手で顔を覆った。
「もうやめて!お願い、もう……!」
ディエラは、フィオルナから男の方へと視線を移した。
男は頷く代わりに、指を軽く動かす。
すると、フィオルナの腕が、その意思に反して顔から離れていった。
「いや、いやぁ…!」
肘を曲げようと試みるも、その腕が戻ることは無い。床へ押さえつけられたように下がったまま、指先さえも動かない。
顔の制御もきかず、視線を外してもその中には必ず娘の身体が映る。目を瞑ると、記憶のエリノアが愛らしい笑顔を私に向けていた。カナリアのような美しい声が母を呼ぶ。何度も、何度も、何度も、何度も。
目を瞑っていても開いても、気がおかしくなりそうだった。
「エリノア!エリノア……っ!」
涙が頬を伝り、酷使した喉が限界を示すように、フィオルナの声が掠れ始める。
「許さない…どうして……その手を放して!…お願いよ、その子に触らないで!」
懇願と罵倒が、途切れ途切れに溢れていく。
ディエラは何も答えなかった。ただ、黙ってフィオルナを見下ろしている。
喉が裂けることを厭わない悲鳴も、自分へ向けられる憎悪も、この女の全てが言いようのない満足感を生む。
あれほど遠かった人が、ようやく手の届く場所で苦しんでいる。
ディエラの口元が、フィオルナの叫びに呼応するように、ゆっくりと歪んだ。




