第18話 朝と私
「これが夜?」
「そうじゃ、夜風に当たってみるかのぅ?」
「はい!」
「元気になってよかったわい」
お爺さんが窓を開けると明るい内に感じた空気とはまた違った香りがした。少し冷たい感覚もある。それに何か甲高い音もする。
「気付いたかのぅ? あれは鈴虫じゃよ」
「すずむし?」
私の記憶にはそういう言葉は出てこない。このお爺さんがいる世界固有の生き物なのだろうか。
「そう、鈴虫じゃ。この時期になると良い音色を奏でるんじゃぞ」
「時期によって音色が変わるの?」
「正確には、鳴く虫の種類が入れ替わるんじゃ」
「どのくらいの時期で入れ替わるの?」
「そうじゃのぅ、あと、三月も経てば虫の音色が変わる時期じゃろうて」
「この世界って不思議だね」
「私の知らない言葉や景色がずっと遠くまで広がっている」
「そうかい? 気に入ってくれたのであれば儂も嬉しいものじゃ。少し外を散歩してみるかい?」
「よろしいのですか?」
「もちろんだとも、食後の散歩には丁度良い気温じゃしな。しかも、今日の星夜は雲がかかってなく澄んでおる。こういう時に散歩は良いものじゃぞ」
お爺さんがそういうと出掛ける支度を簡単に始めた。小さな肩掛けの荷物入れを斜めがけ小物を中に入れて用意は出来たという。私は持ち物とか何もないのでそのままだ。お爺さんと一緒に玄関ドアを出て、夜の草原へ飛び出した。
「これが夜の風……」
凄く気持ちが良い。全身を吹き抜けて悩みや心配ごとも全て吹き飛ばしてくれてるようだ。実際に私の気持ちはとても軽くなった。まるで奇跡のようだ。
「お嬢さん、こちらへ」
お爺さんの案内で草原の合間にある道へと出た。ジャリジャリと歩く度に音がなる。
「気になるかの? ここは舗装されておらんでの。石ころが散らばっておるのじゃ」
「舗装って何?」
「道を歩きやすくするために整えた道のことじゃ」
「ここはそうしないの?」
「ここには必要はないんじゃよ。ありのままで儂は良いと感じておる。人の手が最小限に入った世界で過ごすというのも結構楽しいもんじゃぞ」
「私にはわからない事ばかりで、お爺さんが見せてくれる景色や時間全部が奇跡みたいで私感動しているんです」
お爺さんが優しく私の発言に驚きつつも微笑みかける。
「儂は大したことはしてやれておらんよ。その感覚や体験を得て感じたお嬢さん自身の感性が豊って証拠じゃ」
「かんせい?」
「そう、自然や体験したことを受け取れる感覚のことじゃ」
「私にそんな感覚があっただなんて知らなかったよ」
「どんな存在であれ、己自身を全て理解することなんて最初からは無理な話じゃ。これからお嬢さんも多くのことを体験して経験して自分自身を理解していくことじゃろう。その瞬間を大切にすることじゃ」
「お爺さんもそういう体験をしたの?」
「そうじゃぞ、儂だって最初からこんな老人ではなかったわい。ただ若い頃から変わった事と言えばさらに自分自身と対話する時間する時間が増えたことかのぅ」
お爺さんの表情と目にはどこか懐かしさと寂しさも幸せや満足した表情をしていた。私には見たことがない表情だ。私の表情も今までの自分が知らない表情をしているのだろうか。
「この道はどこまで続いているの?」
「ずっと続いておる。人が辿り着きたいところまでな」
「そうなんだね。この道は人を導くんだね」
「そうじゃ、今夜の星々が照らす道、これは良い知らせかも知れぬのぅ」
「良い知らせって?」
「ふふそうじゃな。明日はきっとお嬢さんは帰れるって意味じゃよ」
「なんだか、帰りたいって感覚も強いけど、ここに居たいという気持ちも強いよ」
「それだけ、お嬢さんが落ち着いたってことじゃよ。儂の家を訪れた時とまるで表情が違うしのぅ」
「ふふ、そうね。私も風に当たっていたら何か自然と私の中が落ち着くんだ」
「それは、心じゃな」
「こころ? こころって何?」
「お嬢さんが感じている器を指す言葉じゃよ。その心という器は意思を持っておる。そのお嬢さんという器がある限り、お嬢さんは大丈夫」
「この感覚が心という器?」
「そう、感動したら溢れたり、不安になったり、風を感じたら吹き飛んだり、それらは全て器の中が何で満ちて、どうなっているかの状態の話じゃ」
「心の器って見えないものなんだね」
「そうじゃな。お嬢さんにはお嬢さんだけの器が確かにそこにあり生きておる。しかも、その器は壊れたり見失ったりしても、強く美しくなるというものなのじゃ」
「心って凄いね」
「そうじゃよ、何者であろうとも心や感情があり、それらを動機に自分から選択し動き歩き始めるのじゃ」
「不思議だね、私には知らないことばかりの話でなんだかふわふわするよ」
「ほっほっ、さて、もう少し散歩したら戻るかの。明日はお嬢さんを送り出さなくちゃいけないしの」
お爺さんと色々な話をした。星々の夜空は時期によって配置が変わったり、光の輝く強さも変わったりするとか。消えたり生まれたりするとかの話もした。私の記憶や知識がほとんどないというのも理由としてあるけれど、お爺さんと一緒にいると何でも教えてくれて私の知らない世界が1つ広がったように感じた。この感じたという感覚も私の中にある心という器が広がった証拠なのだろうか。
「ほれ、中へ先に入りなさい」
「ありがとうございます」
お爺さんの自宅に着き、中でくつろいだ。
「お嬢さん、今夜は儂の散歩に付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそです。貴重はお話をお聞かせいただいて私も嬉しかったです」
「ほっほっ、嬉しいのぅ。お嬢さんのお部屋は一番奥の部屋じゃ。今晩はゆっくり休みなさい」
「お部屋を貸していただいてよろしいのですか?」
「客人をリビングで寝かせるわけにはいかんじゃろう。お嬢さんのように迷子になる子や客人用の部屋を用意しおるのじゃ」
「何から何までありがとうございます」
お爺さんに御礼を言い、私は一番奥の部屋へ向かい部屋の中へと入った。
「とても広いわ」
この小さな家のどこにそういう空間があるのかは私にはわからないけれど、この部屋はきっと不思議な部屋だ。この小さな家の間取りでは有り得ない大きさをしているから。かと言って広すぎるわけではない。
多分、ここの部屋だけで見た目通りの家のサイズの半分になるんじゃないかと思うぐらいには広いのだ。部屋の中には手入れの行き届いた家具とベッドが置いてあった。
「何故、私はこの物をベッドとか、家具って思ったのかしたら? なんだろう、不思議な感覚が私の心の中で広がる感じ」
嫌な感覚じゃない。どこか忘れている何かを思い出させるような不思議な感覚だ。私は家具の引き出しから布製のふかふかの生地を取り出して身体を拭いて、布団の中に入った。自分の体温でだんだんと温もりが広がっていく。
「私は誰なんだろう。どこから来たんだろう。だけど、今、とても安心しているな」
今日はとても幸せな日だ。きっと忘れることが出来ない日になった。忘れるものか。今日の起きたことを思い出しながらふかふかの布団の中へと私は潜って包まれる優しい感覚を感じながら深い眠りについた。
翌朝、目覚めると窓にかかる布の隙間から明かりが漏れていた。布をサッと両側へ広げると、眩い光が部屋全体を照らした。
「眩しい」
次第に目が慣れていき、視界が開けた。青々とした草原が地平の果てまで続いている。窓を開けると気持ち良い風が部屋の中へと入り込んで来た。とても良い香りがする。なんの香りだろう。目の前にある草木の香りだろうか、土の香りだろうか。
「お爺さんは起きているかな?」
支度を調えて、昨夜夕食を食べた食卓へと向かった。
「おはよう、お嬢さん。朝食の用意は出来ておるぞ」
「おはよう、お爺さん。ちょうしょく? って、夕食のようなもの?」
「そうじゃぞ、朝に食べる食事を朝食って言うのじゃ。ところで昨夜、良く眠れたかのぅ?」
「ええ、とてもぐっすりと眠れました」
「それはよかった」
「お爺さんも眠れましたか?」
「ああ、もちろんだとも。儂も昨夜はぐっすり眠れたのぅ。今日は張り切って朝一番で目が覚めてしまったわい」
お爺さんはとても楽しそうに語りかけてくる。嬉しいって感情が私の心に響く。食卓にお爺さんが食事を並べていく。私も微力ながらお手伝いをした。
「ほれ、トーストした食パンと、オレンジジュースじゃ。目玉焼きにソーセージ、ハムもあるんじゃ。ほれ、このイチゴジャムを付けて食パンにかけて食べてみぃ」
お爺さんからジャムと呼ばれる固形と液体の中間をした赤いものが入った小瓶を渡された。蓋は開いており、中からとても甘い香りがした。お爺さんが言うには果物と砂糖を煮詰めたものでお爺さん特製の自家製ジャムのようだ。早速、食パンというものに塗って食べてみる。
「こっ、これはッ!」
「儂が作ったジャム最高じゃろ?」
「とっても最高ッですよ、お爺さん!」
「ほっほっ、喜んで貰って嬉しいわい」
お爺さんが大笑いする。他にも、バターやチーズとかも取り出してきた。どれもこれも全部美味しい。これが朝食。凄いな朝食とは。
「このオレンジジュースって言うのは?」
「果実を搾った果汁じゃよ。儂の庭に生えておる樹の実になるものでな、オレンジと儂は呼んでおる。甘くて美味しいものじゃ」
「甘い」
一口飲んだだけで、口の中で酸味と甘味、そして清涼感が広がる。飲む口が止まらない。食パンとの相性もいい。無限に食べられてしまうくらいに。
「焦らんでもよのじゃ、食パンもジュースやジャム、肉も沢山あるからのぅ」
「こんなに美味しいと、思う食べ物というのに出会えたことが無かったので私とても感動しています」
「お嬢さんや、涙が出ておるぞ。ほれ、これを使いなさい」
「お爺さん、ありがとうございます」
「気にしなくてよいのじゃ、今はゆっくりと朝食を急ぐことなく楽しみなさい。きっとお嬢さんの心の糧となるのじゃから」
お爺さんの言う通り、朝食を食べただけでこんなに心が感動で嬉しくて喜びで震える体験なんてしたことが無かった。私にとってきっと忘れない瞬間になった時だった。




