ケインとシモンの日常
「いいかニャ!? いくニャよ!?」
猫耳小僧が叫ぶと、崖下から声が返ってくる。
「おう、頼む!」
ケインの声である。一呼吸置いた後、猫耳小僧は手を振るう。
直後、大きな石が音を立てて降っていった。それも、ひとつではない。十を超す数の石が、崖下へと転がっていくのだ。
そして、下にいるのはケインだ。皮のシャツとズボン姿で、降ってくる岩を不敵に見つめている。
次の瞬間、彼は動いた。転がる石を、次々と躱していく。時にはフットワークで避け、時には飛び越していく。
当たれば重傷は確実な局面で、彼は表情ひとつ変えず全て躱してのけたのだ。
しかも、それでは終わらない。ケインは、落ちてきた石のひとつを担ぎ上げる。石といっても、確実に百キロは超えている重量だ。
そんなものを担いだまま、ケインは崖を上がっていく。上には、木製の奇妙な機械があった。トレーニング用にケインが作り上げた仕掛けである。
ケインは石を仕掛けの上に乗せると、何事もなかったかのようにすたすたと降りていく。崖下で石を担ぎ上げると、また崖を上がっていく。
その姿を、猫耳小僧は呆れた顔で見ていた。
「こいつ、本当に人間かニャ。実は、上級妖魔なんじゃないかニャ……」
本日は土曜日であり、授業は半日で終わる。
土曜日になると、ケインは猫耳小僧を連れて、この崖へと現れる。ふたりきりの特訓をするのだ。言うまでもなく、猫耳小僧は無理やり付き合わされているのだ。
もっとも、ブツブツ文句を言いながらも、猫耳小僧は毎回手伝ってあげているのであった。
「ふう、疲れたな。今日はこのくらいにしとこう。オーバートレーニングは避けないとな」
そんなことを言いながら、崖下で寝転ぶケイン。一方、猫耳小僧はようやくパイプをくわえる。これでも、ケインのトレーニング中はマタタビシガーを吸うのを避けていたのだ。万一の事態の時には、彼以外に助けられる者がいない。
「何がオーバートレーニングだニャ。お前の体がオーパーツだニャ」
訳のわからないことを言いながら、猫耳小僧はマタタビシガーの煙を吸い込んだ。途端に、いい気分になる。
「フゥ、やっぱり一仕事終えた後のシガーは格別だニャ。それにしても、あいつはこんなにアホみたいに鍛え抜いて、何がしたいのかニャ……」
そんなことを言いながら、そっと崖下を覗き込む。
ケインはやり切った表情で、寝転がったまま空を見上げていた。何を考えているのか、その顔からは窺い知れない。
「ウチのお嬢もアホだけど、あいつも相当のアホだニャ」
ひとり呟きながら、猫耳小僧はさらに煙を吸い込む。
プァーと煙を吐き出すと、下にいるケインに叫ぶ。
「ケイン、そろそろ帰るニャよ」
「おう。今日も付き合ってくれて、ありがとうな」
しかし、屋敷に帰ったケインを待ち構えていた者がいた。
「坊っちゃん! あなたは今まで、どこに行っていたのですか!?」
教育係のセバスチャンだ。険しい表情を浮かべ、門の前で立っている。
召使いたちは、こいつウザいわ……という表情で見ているが、全く気づいていないらしい。
「いや、あの、ちょっと美術館に」
適当な嘘をついてみた。すると、セバスチャンの目が吊り上がる。
「デタラメを言わないでください! 私にはお見通しなんですよ!」
さすがに美術館は無理があった。ケインは、どう誤魔化そうか咄嗟に頭を回転させる。
と、セバスチャンが鼻をクンクンさせ出した。
「ん、この匂いは……坊っちゃん! あなた、まさかタバコを吸っているのではないでしょうね!」
どうやら、猫耳小僧のマタタビシガーの匂いが移ってしまったらしい。マズいと思い後ずさるケインに、セバスチャンは迫っていく。
「坊っちゃん、正直に言ってください。タバコを吸っているのですか?」
「いや、吸ってないから」
「では、この匂いはなんですか?」
鬼の如き表情でズンズン接近してくるセバスチャンに、ケインはたまらず逃げ出した。しかし、セバスチャンは追いかけてくる。
「坊っちゃん! 待ちなさい!」
セバスチャンも追いかけていくが、ケインの足は速い。あっという間に引き離していく……はずだったが、途中でケインは息を切らせ足を止めた。本気を出して、実力を知られてはマズい。
ここは仕方ない。セバスチャンの追及を、のらりくらりと躱しきるしかない。
すぐに追いついたセバスチャンだったが、その顔には驚愕の表情が浮かんでいる。
「坊っちゃん、あなた走るの速いですね。あの距離を、あっという間に走りきった……これは、恐ろしいスピードですぞ」
「えっ? いや、偶然偶然」
「偶然で、あの速さは出せません! 伝説の勇者アキレウス並の速さですぞ!」
「それは、その……あ、トイレトイレ! 漏らすぞ! このままだと漏らすぞ!」
「そ、それは大変だ! 坊っちゃん、今すぐお連れします!」
◆◆◆
その日の夜、都の地下ではとあるイベントが行われていた。
闇ギルドでも一番の拳闘術の使い手、マシアス・ウレイのデモンストレーションが行われるのだ。
「この地下格闘技チャンピオン、マシアス・ウレイ!」
鉄格子に囲まれた円形の闘技場にて、道化師の格好をした男が叫ぶ。
中央に進み出てきたのは、長身の白人男性だ。金色の髪は肩まで伸びており、逞しい筋肉に包まれた上半身を露わにしている。手足は長く、拳にはタコがある。
「そして、このマシアスに挑む命知らずの素人がいる……こいつらだ!」
道化師の言葉に反応し、反対側の扉から現れたのは五人の男だ。いずれも体格は良く、喧嘩慣れした面構えをしている。
「さて、今回行われるのは五対一のエキシビション・マッチ! この五人は、全員が囚人だが勝てば自由の身となる! ルールは無し、殺しても構わん! さあ……レディ、ゴー!」
声と同時に、男たちは一斉に襲いかかっていった。だが、マシアスは平静な顔で迎え討つ。
次の瞬間、マシアスの拳が唸った──
数秒後、闘技場に倒れていたのは五人の囚人たちであった。いずれも、顔面が陥没している。マシアスの放ったパンチで、全員が気を失ってしまったのだ。
客席からは、おおお! という声が聞こえてきた。だが、観客の中にひとり不満そうな表情の少年がいる。
マシアスの雇い主・シモン・マイロードである。体は小さく、黒縁のメガネをかけている。黒髪はねじれた癖っ毛だ。まるで、本人のねじれた性格を表しているかのようであった。
「マシアス、あれでは面白くないな。もう少し、客を楽しませろ」
エキシビションが終わり控室に戻ったマシアスに、シモンは声をかけた。しかし、マシアスは苦笑しつつ首を横に振る。
「それは無理ですなあ。私は芝居が苦手なんですよ」
「そうか、では仕方ない。ところで、もしかしたら別の仕事を頼むことになるかもしれない」
「次はなんです?」
「闇の生徒会関連だ。アベルとシーラとかいうふたりのバカに、レッドカードが出された。とりあえず、シーラをチンピラに痛めつけようとしたら、返り討ちにあってしまったのだよ」
「はい? シーラというのは女ですよね? それも、十五か十六の小娘ですよね? そんな奴にやられるとは……どこのバカを雇ったのです?」
「それがな、チンピラをぶちのめしたのは、イライザ・グレイスなんだよ」
「イライザ・グレイス……ああ、聞いたことはあります。グレイス家の女は、一子相伝の怪しげな拳法を習うらしいですな。まあ、しょせんはガキの遊びレベルでしょう。必要とあらば、私が行って顔面を変形させてやりますよ。綺麗な女の顔を、二目と見られぬ醜女に変えるのもオツなものです」
「そうか、実に楽しみだな。その場面は、僕にも見せてくれ」




