第16話 積み重なっていく後悔
「あれ、わたしの名前、なんだっけ?」
その言葉がわたしの口から零れ落ちる。その言葉に私は、自分の呼吸が荒くなっていくのを感じる。暑さとは別の汗が頬を伝い、聞こえてくるセミの鳴き声が遠のいていく。
わたしの名前は、 。分かるのに、分からない。口でも言えるし、多分おかあさんも私の名前を呼んでいた。でも、分からない。脳が認識できない。わたしの名前だけがフィルターに掛けられたようにぼやけている。
「――っ、おぇ」
分かるのに分からないというその矛盾に、吐き気が込み上げてきて、思わずしゃがみこんでしまう。
「ダメ……ここで吐いたらっ、」
わたしは、込み上げてくるものを必死に抑えた。玄関先で吐いたら、流石におかあさんにバレる。だから、数十秒かけて、じっくりと耐える。
その甲斐あってか、段々と吐き気は引いてきた。遠のいていたセミの鳴き声も、思い出したかのように戻ってくる。
荒い息を何度もして、深く呼吸をする。口の中は胃液の苦い味が広がっていて、気持ち悪い。何度かゆっくりと呼吸をすると、段々と落ち着いてきた。
「行かないと」
そう言って、わたしは立ち上がる。
体調は、つい先程まではそこそこ元気だったはずなのに、今ではすこぶる悪い。それでもわたしは足を動かした。学校に向けて。
◆◇◆◇◆
「――ちゃん」
誰かがわたしの名前を呼んでいる。まどろみの中、聞きなれたその声からは、心配していることが分かる。だけど、もう少しだけ寝させてほしかったわたしは、まどろみの中に潜っていく。
「 ちゃんっ!」
先程と違って、背中を揺すられる。背中に感じる手は、声と同様に気遣いを感じた。こんなことが、ついさっきもあったような気がする。そんなことを思いながらも、わたしの意識はまどろみの中を漂うばかりだった。
「 ちゃん、起きてっ!もう、帰る時間だよっ!」
三度目。そこまで来てようやく、私の意識は浮上し始めた。同時に、頭も働き始める。自分は何をしていたのか。ここが何処で、そして、話している相手は誰なのか。
「ごめん……わたし、寝てたよね」
「そうだよっ!顔真っ青で登校するし、心配しても大丈夫の一点張りだし、死んだみたいに寝てるし……私、何かあったんじゃないかって」
そう涙目で心配してくるのは、わたしの友達で親友。――穂積茜里。親友とは言っても、知り合ったのは一年と少し前。知り合ってからはすぐに仲良くなれた。それは、彼女の優しさが大きいと私は思う。現に、私を心配するその顔からは、本気で心配してくれたことが分かる。
「……また、やっちゃったんだ、わたし」
私の口から小声で、そんな言葉がこぼれる。こぼすつもりのなかった言葉。だが幸い、アカリには聞こえなかったらしい。
「何?何かあるなら、言って」
「ううん、大丈夫。昨日徹夜したからしんどくって」
見え透いた嘘。でも、これくらいしか思いつく嘘がない。それを聞いたアカリは、少し傷ついたような顔をした。拒絶したように思われたのだと思う。それでも、一度ついた嘘をひっこめることはできない。わたしは、何とか話をそらすように聞いた。
「花音達は、もう部活に行ったの?」
「うん……花音ちゃん達も心配してたんだけど……ほら、明日試合があるから呼び出されちゃって」
基本的に私たちは、いつも四人で行動していた。その中で私とアカリは、文化部なので、他の二人と違って部活に必ず出ないという訳ではない。ただ、アカリは私と違って真面目なので毎日部室に顔を出しているのだ。
「アカリは、今日も部活に行くんだよね。わたしは、今日もおばあちゃんのお見舞いに行かないといけないから」
「ぇ……ぁ、うん。えっと、本当に……気を付けてね?」
そう言って、わたしは通学バックをもって、速足で教室を去る。
最低。その言葉が、思い浮かんでくる。心配してくれる親友を突き放して、そしてさらに心配させた。本末転倒だ。
――そんな自分に、怒りが込み上げてくる。
「おとなしく、帰って寝るって言えばよかった」
そう、誰もいない廊下を早歩きで移動しながら自責する。体調が悪いから帰って寝ると言えば、少なくとさらに心配させることもなかっただろう。
「本当に、何してるのよ……わたし」
それでも、目的地は変えない。次の目的地は、おばあちゃんが入院している病院。
学校前のバス停から出るバスで三十分ほどで着く、見晴らしの良いことで有名な病院だ。おばあちゃんは今、そこに入院している。家が近いこともあって、幼い頃からよくあっている私の祖母。おばあちゃんが入院をしたのは一年前。前までは、一か月に一回だけだったけどここ最近は、毎日お見舞いに行っている。
バス停に着くと、丁度バスがついていた。
「のりますっ!」
そう大声を上げて、乗り込む。
バスはほぼ空席で、唯一居たのは、最前席に一人だけだった。
――黒いセーラー服を着た、不思議な雰囲気をまとった女の人だった。
その瞬間、景色がまるで、スローモーションのように映った。その女の人は、儚げに窓の外を向いていた。そして私に気づいて、その目をゆっくりとこちらに向けてくる。
目が合った。
「こんにちは」
その女の人は、目が合った私に向けて一言、微笑みながらそう言った。




