第一章 春風と転校生(中編)
昼休みを告げるチャイムが校舎中に響き渡った。
それまで静かだった廊下は、一斉に賑やかな声で満ちていく。
「エデンさん、行こう!」
神原葵は待ちきれない様子で立ち上がると、弁当箱を抱えて遥の机へやってきた。
「中庭ってあるんでしょ?」
「うん。桜がきれいだから、この時期は人気なんだ。」
「決まり!」
二人は教室を出て、中庭へ向かった。
春の日差しは柔らかく、芝生には新入生や上級生が思い思いに昼食を楽しんでいる。桜の花びらが風に舞い、弁当箱の上にひらりと落ちるたび、誰かが笑顔で払いのけていた。
「いい学校だね。」
葵が空を見上げながら言った。
「転校が多かったから、こんなに落ち着いた学校は初めて。」
「何回くらい転校したの?」
「小学校で二回、中学校で一回。高校はここで四校目。」
「そんなに……。」
「慣れちゃった。」
葵はそう笑ったが、その笑顔の奥にほんの少しだけ寂しさが見えた気がした。
遥は何も聞かなかった。
聞かないことも、時には相手への思いやりだと知っていたからだ。
二人は桜の木の下に腰を下ろした。
「いただきます。」
「いただきます。」
しばらくは穏やかな時間が流れる。
葵の弁当は色鮮やかだった。
「すごいね。」
「これ?」
葵は照れくさそうに笑う。
「父が作ってくれた。」
「お父さんが?」
「料理が趣味なんだ。」
「いいな。」
遥の言葉に、葵は目を丸くした。
「エデンさんも料理しないの?」
「簡単なものだけ。」
「じゃあ今度、お弁当交換しよう!」
「交換?」
「お互い一品ずつ。」
「……それなら。」
二人が笑い合った、その時だった。
「すみません!」
慌てた声が聞こえた。
一年生の男子生徒が、息を切らしながらこちらへ走ってくる。
「あの……エデンさんですよね?」
「そう呼ばれてるけど……どうしたの?」
少年は泣きそうな顔で何度も頭を下げた。
「先生に渡す書類がなくなったんです!」
「書類?」
「職員室へ提出する健康調査票です……。」
その一言で、遥は事情を理解した。
提出期限が今日なのだろう。
なくしてしまえば大騒ぎになる。
「最後に見たのは?」
「教室です。」
「そこから?」
「体育館へ移動して……今、中庭に来ました。」
遥は落ち着いた声で尋ねる。
「途中でカバンを開けた?」
「体育館で水筒を出しました。」
「その時、書類は?」
「見てません……。」
葵が腕を組む。
「体育館かな?」
「可能性はあるね。」
三人は急いで体育館へ向かった。
しかし、更衣室にも、ステージ脇にも、書類は見当たらない。
「やっぱりない……。」
少年は肩を落とした。
その様子を見て、葵は床をじっと見つめる。
「エデンさん。」
「なに?」
「これ。」
体育館の床には、細かな泥の跡が続いていた。
誰かの靴跡だ。
その跡は入口ではなく、体育倉庫の方へ向かっている。
遥は少年を見る。
「体育倉庫に入った?」
「いいえ。」
「先生は?」
「誰も。」
遥は静かに倉庫の扉を開けた。
中にはボールやマットが整然と並んでいる。
ふと、一番下のマットの角から白い紙が少しだけ見えた。
「……あった。」
マットを持ち上げると、一枚の健康調査票が挟まっていた。
「それです!」
少年は目を輝かせる。
「ありがとうございます!」
何度も頭を下げる姿を見て、葵が首をかしげた。
「でも、どうしてここに?」
遥は紙を見ながら答えた。
「風じゃない。」
「え?」
「体育館の窓は閉まってた。」
「確かに。」
「たぶん誰かがマットを運んだ時に、書類を一緒に巻き込んでしまったんだと思う。」
少年は安心したように胸をなで下ろした。
「本当に助かりました!」
走り去っていく背中を見送りながら、葵は感心したように笑う。
「すごいね。」
「何が?」
「落ち着いてる。」
「普通だよ。」
「いや、普通じゃない。」
葵は少し真剣な表情になる。
「私は勢いで探しちゃう。でもエデンさんは、『どうしてなくなったのか』から考える。」
遥は照れたように笑う。
「一人だったら見つけられなかったよ。」
「え?」
「泥の跡に気付いたのは葵だった。」
葵は一瞬きょとんとしたあと、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、一人じゃなくて二人で解決したんだ!」
その笑顔を見て、遥も自然と笑みを浮かべる。
この子となら、これから先もいろいろな出来事を乗り越えられる。
そんな予感が、胸の奥で静かに芽生えていた。
だが、この日の出来事はまだ始まりに過ぎなかった。
放課後、文芸部の部室で二人を待ち受ける”本当の事件”が、静かに幕を開けようとしていた。




