第一章 春風と転校生(前編)
四月。
校門脇に咲く桜は満開を迎え、登校する生徒たちを淡い桃色で迎えていた。風が吹くたび、花びらは雪のように舞い上がり、新しい一年の始まりを祝福しているようだった。
上乃園遥は、その桜並木をゆっくりと歩いていた。
制服のポケットには文庫本が一冊。毎朝少し早く登校し、始業まで教室で読書をするのが彼女の日課だった。
「おはようございます、エデンさん!」
後ろから元気な声が飛んでくる。
振り返ると、一年生の女子生徒が笑顔で手を振っていた。
「おはよう。」
遥も微笑み返す。
名前を覚えているわけではない。それでも、その生徒は嬉しそうに友人のもとへ駆けていった。
――まただ。
高校に入学して一年。
今では学年を問わず、多くの生徒が彼女を「エデンさん」と呼ぶ。
最初は苗字の「上乃園」を縮めて呼ばれ始めたあだ名だった。それがいつしか、「困ったことがあればエデンさんに相談しよう」という意味まで持つようになっていた。
遥自身は、今でもその理由がよく分からない。
ただ、目の前で困っている人を放っておけない。それだけのことだった。
教室へ入ると、すでに何人かのクラスメイトが登校していた。
「おはよう、エデンさん。」
「おはよう。」
自然と返事をし、自分の席へ向かう。
窓際の一番後ろ。
遥のお気に入りの席だった。
カバンを置き、文庫本を開こうとした、その時だった。
教室の前方で、担任の佐伯先生が手を叩いた。
「みんな、席についてくれ。」
教室が静まる。
「今日は転校生を紹介する。」
一瞬で教室がざわめいた。
「転校生?」
「この時期に?」
「男子かな、女子かな。」
期待と好奇心が入り混じった声が飛び交う。
佐伯先生は苦笑しながら教室の扉へ目を向けた。
「入ってきて。」
勢いよく扉が開いた。
「神原葵です!」
教室いっぱいに響く明るい声。
肩までの黒髪が春風に揺れ、大きな瞳が教室中を見回す。
「今日からよろしくお願いします!」
元気よく頭を下げると、自然と拍手が起こった。
「うわ、明るそう。」
「元気な子だな。」
そんな声が聞こえてくる。
遥も静かに拍手を送った。
すると葵は、その拍手の中でふと遥の方を見た。
一瞬だけ目が合う。
その瞬間だった。
葵はにっこりと笑った。
まるで以前から知り合いだったかのような、まっすぐな笑顔だった。
自己紹介が終わると、先生が席を案内する。
「神原の席は……上乃園の隣だ。」
「やった!」
教室が少し笑いに包まれる。
葵は軽い足取りで遥の隣へやって来た。
「よろしく!」
机にカバンを置くなり、そう声をかける。
「よろしく。」
遥も穏やかに返す。
「ねえ。」
「うん?」
「君がエデンさん?」
遥は思わず瞬きをした。
「もう知ってるの?」
「職員室で先生たちが話してた。」
葵は小さく身を乗り出す。
「『困ったらエデンさんに相談しなさい』って。」
遥は思わず苦笑した。
「そんなこと言われてた?」
「うん。」
「困るなあ……。」
「なんで?」
「そんな立派な人じゃないから。」
葵は少し考え込むような表情を見せる。
「でもさ。」
「?」
「本当に立派な人って、自分ではそう思わない人なんじゃない?」
思いがけない言葉だった。
遥は返事に困り、窓の外へ目を向けた。
校庭では体育の授業が始まり、生徒たちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。
この転校生は、不思議な子だ。
初対面とは思えないほど距離が近く、それでいて人を不快にさせない。
そんな印象を受けた。
午前中の授業は、葵にとって初めての学校生活ということもあり、教科書の確認や先生方への挨拶で終わった。
休み時間になるたび、クラスメイトが葵の席へ集まる。
「前の学校どこだったの?」
「部活は?」
「好きな教科は?」
質問攻めにも、葵は一つひとつ笑顔で答えていた。
その姿を見ながら、遥は読書を続ける。
ふと視線を感じて顔を上げると、葵がこちらを見ていた。
「エデンさん。」
「なに?」
「昼休み、一緒にご飯食べよう!」
あまりにも自然な誘い方だった。
遥は少し驚いたが、小さく笑ってうなずく。
「いいよ。」
「やった!」
その笑顔は、春の陽だまりのように明るかった。
しかし、その昼休み。
二人が初めて一緒に昼食をとろうとした矢先、小さな”事件”が学校で起こることを、このときの二人はまだ知らなかった。




