第九章 夏のしおり(後編)
図書館をあとにした二人は、ゆっくりと商店街を歩いていた。
真夏の太陽は少し西へ傾き始めている。
照り返しはまだ強いものの、ときおり吹く風にはどこか夕方の気配が混じっていた。
「お腹空いたね。」
葵がお腹を押さえながら笑う。
「さっきからそれしか言ってない気がする。」
遥がくすりと笑う。
「だって、本当に空いたんだもん。」
「じゃあ、あのお店。」
遥が指差したのは、小さな喫茶店だった。
ガラス越しには、昔ながらのクリームソーダやナポリタンの写真が並んでいる。
「入ってみよう。」
「賛成!」
◇
店内は冷房が心地よく効いていて、レトロな音楽が静かに流れていた。
二人は窓際の席へ座る。
葵は迷わずクリームソーダを注文し、遥はアイスティーを頼んだ。
「なんか落ち着くね。」
葵が店内を見回す。
「時間がゆっくり流れてるみたい。」
「そうだね。」
遥も窓の外を眺める。
商店街を行き交う人たち。
自転車で走り抜ける小学生。
夏休みらしい穏やかな午後だった。
「ねえ、遥。」
「なに?」
「今年の夏休み、楽しい?」
少し考えてから、遥は笑顔で答えた。
「うん。」
「去年よりずっと。」
「どうして?」
遥は少し照れくさそうに笑う。
「一緒に過ごせる人がいるから。」
その言葉に、葵はクリームソーダのストローを持ったまま固まる。
「……それ、反則。」
「え?」
「そういうことを自然に言うんだから。」
遥は不思議そうに首をかしげる。
「本当のことだよ。」
葵は思わず吹き出した。
「もう。」
「やっぱり遥にはかなわない。」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
店を出る頃には、空が少しだけ茜色に染まり始めていた。
帰り道、公園の前を通ると、小さな子どもたちがセミ取りをして遊んでいる。
「懐かしい。」
葵が足を止める。
「小さい頃、毎日虫取りしてた。」
「葵らしい。」
「遥は?」
「読書かな。」
「やっぱり。」
二人は笑いながら公園のベンチへ腰を下ろした。
木陰を吹き抜ける風が心地よい。
しばらく何も話さず、蝉の鳴き声に耳を傾ける。
「こういう時間も好き。」
葵がぽつりと言う。
「何もしない時間?」
「うん。」
「遥と一緒にいるだけで、なんだか落ち着く。」
遥は静かにうなずいた。
「私も。」
「話していても。」
「話していなくても。」
「葵といると安心する。」
その言葉に、葵は少しだけ照れ笑いを浮かべた。
「よかった。」
◇
夕日が木々の間から差し込み、公園全体をオレンジ色に染めていく。
葵はベンチに座ったまま空を見上げた。
「夏休みも、あと少しだね。」
「うん。」
「始まる前は長いと思ってたのに。」
「本当に早かった。」
遥は小さく笑う。
「でも。」
「まだ文化祭がある。」
「そうだ!」
葵の表情がぱっと明るくなる。
「文化祭も一緒に頑張ろう。」
「うん。」
「最高の文化祭にしよう。」
二人は自然と笑顔になった。
◇
駅へ向かう途中、夕焼け空に一番星が輝き始める。
葵はふと思い出したように言った。
「夏祭りでもらったうさぎ。」
「毎日、おはようって言ってる。」
遥は思わず笑う。
「私は柴犬に、おやすみって言ってる。」
「本当に?」
「うん。」
二人は顔を見合わせると、どちらからともなく笑い出した。
「なんだか似てるね。」
「そうだね。」
そんな何気ない共通点が、少しうれしかった。
◇
駅前に着くと、別れの時間がやってきた。
「今日はありがとう。」
葵が笑顔で手を振る。
「こちらこそ。」
遥も笑顔で応える。
「また明日?」
「うん。」
「図書館?」
「宿題の続き。」
「約束。」
葵は元気よくうなずく。
「約束!」
二人は手を振り、それぞれの帰り道へ歩き始めた。
振り返ると、ちょうど同じタイミングでお互いが振り返っていることに気付く。
一瞬だけ目が合う。
照れくさそうに笑って、もう一度手を振る。
その何気ない瞬間が、二人にとっては何より大切な夏の思い出になっていく。
夏休みは、もうすぐ終わる。
けれど、二人で重ねた時間は、これからも少しずつ増えていく。
そんな予感を胸に抱きながら、遥は静かに夕焼け空を見上げた。
次に待っているのは、文化祭。
新しい季節と、新しい思い出が、二人を待っていた。
――第九章 完――




