第九章 夏のしおり(前編)
夏祭りから三日。
窓の外では、朝早くから蝉が元気よく鳴いていた。
遥は机の上に置かれた柴犬のぬいぐるみを見つめ、小さく笑う。
あの夏祭りの帰り道。
葵と交換した、小さな宝もの。
朝起きるたびに目へ入るそのぬいぐるみを見ると、自然と頬が緩んでしまう。
「今日も暑そう……。」
カーテンを開けると、真っ青な空が広がっていた。
夏休みは始まったばかりだ。
◇
午前十時。
市立図書館。
冷房の効いた館内は、夏休み中の学生でほどよくにぎわっていた。
入口の近くで待っていると、遠くから聞き慣れた声がする。
「遥!」
振り向くと、葵が手を振りながら駆け寄ってきた。
白い半袖にデニムというラフな服装だった。
「お待たせ!」
「そんなに待ってないよ。」
「よかった。」
葵は笑顔になる。
「今日は宿題を終わらせる日!」
「全部?」
「……半分くらい。」
遥は思わず笑った。
「最初から正直なんだね。」
「嘘ついても遥にはばれそうだから。」
二人は顔を見合わせて笑いながら館内へ入る。
◇
参考書を広げ、向かい合わせに座る。
静かな時間が流れていく。
ページをめくる音。
鉛筆がノートを走る音。
冷房の風。
そのどれもが心地よかった。
一時間ほど経った頃だった。
葵が小さくうなった。
「……分かんない。」
「どこ?」
「この数学。」
ノートを遥へ向ける。
遥は問題を見ると、小さくうなずいた。
「ここはね。」
紙へ図を書きながら丁寧に説明する。
「なるほど!」
「分かった!」
「ありがとう、遥!」
嬉しそうな笑顔に、遥も自然と笑顔になる。
「役に立ててよかった。」
◇
昼過ぎ。
二人は図書館近くの公園で昼食を食べていた。
木陰を渡る風が心地よい。
「この前のぬいぐるみ。」
葵がサンドイッチを食べながら話し始める。
「毎日見てる。」
「本当?」
「うん。」
「見るたびに夏祭り思い出す。」
遥も微笑んだ。
「私も。」
「机の上に飾ってる。」
「おそろいだね。」
「うん。」
二人は笑い合う。
その穏やかな時間が、何よりも心地よかった。
◇
午後。
宿題を終えた二人は、図書館の郷土資料コーナーを歩いていた。
そこで葵が一冊の古い本を手に取る。
「『星見町の伝説』?」
「面白そう。」
ページをめくると、一枚の古い写真が挟まれていた。
今いる図書館が建て替えられる前の写真らしい。
「懐かしい建物。」
遥が写真を見つめる。
その裏には、鉛筆で短い文章が書かれていた。
『八月十五日、午後四時。本を返しに来ます。』
「……誰が書いたんだろう。」
葵が首をかしげる。
遥は写真をそっと裏返す。
「栞代わりだったのかもしれない。」
「でも。」
「返しに来るって書いてあるのに、本の中に残ったまま。」
その言葉に、葵も写真を見つめる。
何十年も前の約束。
果たされたのか、それとも果たせなかったのか。
二人の胸に、小さな疑問が芽生える。
◇
図書館を出る頃には、西日が街をオレンジ色に染めていた。
「今日も楽しかった。」
葵が笑う。
「うん。」
遥もうなずく。
「夏休みって、こんなに早く一日が終わるんだね。」
「それだけ楽しかったってこと。」
二人は並んで歩き始める。
その時、遥のスマートフォンが小さく震えた。
画面には、文芸部部長・美咲からのメッセージが表示されている。
『夏休み中なのにごめんね。文芸部で少し困ったことがあって、相談に乗ってもらえないかな?』
遥は画面を見つめ、小さく息をついた。
「どうしたの?」
葵が尋ねる。
遥はスマートフォンを見せながら微笑んだ。
「どうやら。」
「夏休みも、ゆっくりはできなさそう。」
葵は少し驚いたあと、楽しそうに笑った。
「じゃあ、また一緒だね。」
遥も笑顔でうなずく。
「うん、一緒。」
夏休みはまだ始まったばかり。
二人の夏は、これからさらに色鮮やかな思い出を重ねていくのだった。
(第九章・中編へ続く)




