第八章 夏空に咲く花火(前編)
夏休みに入って最初の土曜日。
朝から窓の外では蝉が元気よく鳴いていた。
遥は部屋のカレンダーに丸を付けた今日の日付を見つめ、小さく息をつく。
「……楽しみ。」
自分でも思わず口にしてしまった一言に、少し照れて笑う。
今日は、葵と約束した夏祭りの日だった。
◇
午後五時。
待ち合わせ場所の神社には、色とりどりの浴衣姿の人たちが集まり始めていた。
遥は淡い水色に朝顔模様の浴衣をまとい、境内の鳥居の前で静かに立っている。
普段は一つに結んでいる髪も今日はゆるくまとめ、小さな白い花の髪飾りをつけていた。
少しだけ緊張している。
葵はどんな浴衣を着てくるのだろう。
そんなことを考えていると——。
「遥!」
聞き慣れた元気な声。
振り向いた瞬間、遥は言葉を失った。
紺色の浴衣に白い金魚が描かれた柄。
髪はいつもより少しだけ丁寧にまとめられ、小さなかんざしが夕日にきらりと光っている。
いつもの制服姿とはまるで違う葵が、笑顔で手を振っていた。
「お待たせ!」
駆け寄ってきた葵は、少し照れたように首をかしげる。
「……どうかな?」
遥はしばらく見つめたまま動けなかった。
「遥?」
「あ……。」
我に返った遥は、少し頬を赤くしながら微笑む。
「すごく似合ってる。」
「本当に?」
「うん。」
「今日は、いつもより大人っぽい。」
その言葉に、今度は葵が照れてしまう。
「そんなこと言われると思わなかった。」
笑いながら髪を触る。
「ありがとう。」
葵は少しだけ背伸びをして、遥の浴衣を見つめた。
「遥も。」
「水色、すごく似合う。」
「きれい。」
遥は照れ隠しに視線を逸らす。
「ありがとう。」
二人は顔を見合わせる。
どちらからともなく笑みがこぼれた。
◇
「まず何食べる?」
祭りの通りは、焼きそばやたこ焼きの香りでいっぱいだった。
「焼きとうもろこし!」
葵が迷わず答える。
「即決だね。」
「お祭りと言えばこれ!」
一本買うと、葵は笑顔でかじる。
「おいしい!」
すると遥はくすりと笑った。
「ほら。」
口元に醤油がついている。
「え?」
「動かないで。」
遥はハンカチを取り出し、そっと口元をぬぐう。
「……はい。」
「ありがとう。」
葵は少し照れくさそうに笑った。
「なんか遥、お姉ちゃんみたい。」
「そう?」
「うん。」
「でも、そういうところ好き。」
何気ない一言。
遥は少しだけ驚いたあと、優しく笑った。
「私も。」
「葵といると楽しい。」
葵は思わず顔をほころばせる。
「それだけで今日は来てよかった。」
◇
二人は射的で勝負をしたり、金魚すくいで笑い合ったり、冷たいラムネを飲みながら境内をゆっくり歩いた。
人混みの中で、前を歩いていた小さな子どもが急に立ち止まる。
遥が避けようとすると、人の流れで少し離れそうになった。
「遥。」
葵が自然に手を差し出す。
「はぐれちゃう。」
遥は一瞬だけその手を見つめる。
それから、静かにその手を握った。
「ありがとう。」
指先から伝わる温もりに、二人とも少しだけ照れながら歩き出す。
どちらも手を離そうとはしなかった。
祭りのにぎわいの中でも、不思議と安心できる。
その手の温もりが、「一緒にいる」ということを何よりも実感させてくれていた。
夕暮れの空はゆっくりと藍色へ変わり始める。
もうすぐ花火が始まる。
二人だけの夏の思い出は、まだ始まったばかりだった。
(第八章・中編へ続く)




