第七章 夏空に咲く約束(後編)
翌日の放課後。
文芸部の部室には、いつものように静かな時間が流れていた。
窓から差し込む夕日が本棚を赤く染め、部員たちはそれぞれ原稿用紙へ向かっている。
しかし、部室の中央に置かれた机の上には、あの封筒がまだ残されていた。
『最後の一編を書き終えるまで、探さないでください。』
部長の美咲は不安そうにため息をつく。
「これを書いた人は、何を考えているんだろう……。」
遥は封筒をもう一度手に取った。
何度見ても、そこには焦りや悪意は感じられない。
むしろ――。
「……誰かを傷つけたくない。」
そんな優しさがにじむ文字だった。
「葵。」
「うん?」
「昨日、部室で気になったことがある。」
「何?」
遥は本棚へ歩いていく。
歴代の部誌が並ぶ棚。
その一角だけ、本がわずかに前へずれていた。
「ここ。」
遥は一冊の部誌を抜き取る。
その奥から、小さな紙片がひらりと床へ落ちた。
葵が拾い上げる。
「これって……。」
紙には、一つの教室番号だけが書かれていた。
旧校舎 三階 第三視聴覚室
葵は遥を見る。
「行こう。」
遥は静かにうなずいた。
「うん。」
◇
第三視聴覚室は、数年前から使われなくなった古い教室だった。
放課後になると人通りも少なく、窓の外ではセミの鳴き声だけが響いている。
扉を開けると、部屋には古い机や椅子が整然と並んでいた。
その奥。
窓際に、一人の女子生徒が座っている。
机には、一冊のノート。
そしてシャープペンシル。
その人物はこちらに気付き、ゆっくりと顔を上げた。
「……藤原さん。」
遥が静かに名前を呼ぶ。
文芸部副部長、藤原沙紀。
彼女は少し困ったように笑った。
「見つかっちゃったね。」
机の上に置かれていたのは、文芸部の創作ノートだった。
◇
「どうして持ち出したんですか?」
葵が尋ねる。
藤原はノートをそっと撫でる。
「怒る?」
「理由を聞いてからです。」
遥の穏やかな返事に、藤原は少し安心したように笑った。
「このノートにはね。」
「歴代の部員が、一人一編ずつ物語を書いてる。」
「だから私も最後の一編を書きたかった。」
「部室じゃ書けなかったの?」
葵が首をかしげる。
「……書けなかった。」
藤原は窓の外を見つめる。
「書こうとすると、どうしても途中で止まっちゃうの。」
「どうして?」
「怖かったから。」
その言葉に、部屋は静まり返る。
「私が書いた物語で、このノートが終わる。」
「そう思うと、どうしても書けなかった。」
「みんなの思い出を壊してしまう気がして。」
遥はその気持ちが少し分かるような気がした。
大切なものだからこそ、一歩が踏み出せない。
そんな経験は、自分にもあった。
◇
遥はゆっくり藤原の隣へ歩み寄る。
「少し、読んでもいいですか?」
藤原は黙ってノートを差し出した。
書かれていたのは、まだ途中までの物語。
文化祭を舞台にした、友達同士の小さな物語だった。
文章は温かく、読んでいるだけで情景が浮かんでくる。
けれど最後だけが、真っ白だった。
「……素敵なお話です。」
遥は静かに言った。
「本当に?」
「はい。」
「続きが読みたいと思いました。」
その一言に、藤原は目を見開いた。
「続きが……。」
「誰かに読んでもらうのが怖いなら。」
遥は優しく微笑む。
「最初の読者になります。」
葵も笑顔でうなずく。
「私も!」
「二人で感想いっぱい言う!」
藤原は思わず吹き出した。
「感想、多そう。」
「もちろん!」
葵は胸を張る。
「面白かったら五十個くらい言う。」
「それは多すぎ。」
遥が小さく笑う。
その笑顔につられるように、藤原も笑っていた。
◇
「ありがとう。」
藤原は創作ノートを抱きしめる。
「一人で抱え込んでた。」
「でも。」
「誰かに読んでもらってもいいんだね。」
「はい。」
遥はうなずいた。
「物語は、一人で閉じ込めるものじゃないと思います。」
「誰かに届いて初めて完成する。」
その言葉に、藤原はゆっくりとうなずいた。
◇
一週間後。
文芸部の部室。
創作ノートは、元の棚へ静かに戻された。
最後のページには、藤原が書き上げた物語が綴られている。
そして、その最後にはこんな一文が添えられていた。
『物語は終わっても、人との縁は続いていく。』
部員たちは拍手を送り、美咲は涙ぐみながら笑った。
「これで、また次の代へ渡せるね。」
藤原は少し照れながら頭を下げた。
「ありがとう。」
◇
その帰り道。
空はすっかり夏色になっていた。
夕焼けに染まる河川敷を、遥と葵は並んで歩く。
風が心地よい。
川面が夕日にきらめいている。
「ねえ、遥。」
「なに?」
「最近さ。」
葵は空を見上げながら笑う。
「一緒にいるのが普通になっちゃった。」
遥は少しだけ驚き、それから優しく笑った。
「私も。」
「朝も。」
「昼も。」
「放課後も。」
「気づいたら隣に葵がいる。」
葵は照れ笑いを浮かべる。
「それ、嬉しい?」
「うん。」
迷いのない返事だった。
葵の胸が少しだけ高鳴る。
しばらく歩いたあと、葵が小さく言った。
「夏休みさ。」
「うん。」
「学校がなくても、会ってくれる?」
その声は、いつもの葵らしくないくらい控えめだった。
遥は立ち止まる。
「もちろん。」
「本当?」
「うん。」
「図書館でも。」
「水族館でも。」
「どこでも。」
葵の表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ……。」
「夏祭りも行こう。」
遥は少しだけ驚き、それから笑った。
「浴衣?」
「着る!」
「葵らしい。」
「遥も着る?」
「……たぶん。」
「やった!」
葵は子どものように笑った。
その笑顔を見ているだけで、遥の心まで温かくなる。
夕暮れの風が二人の髪を優しく揺らした。
何気ない約束。
それなのに、どんな事件を解決した日よりも胸が高鳴る。
この気持ちが何なのか、まだ二人には分からない。
けれど確かなことが一つだけあった。
隣にいるこの人と、もっとたくさんの時間を過ごしたい。
そんな願いが、お互いの胸に静かに芽生え始めていた。
夏空には、一番星がゆっくりと輝き始めていた。
――第七章 完――




