第七章 夏空に咲く約束(前編)
七月。
梅雨明けを目前に控えた朝の空は、薄い雲の隙間から青空をのぞかせていた。
校門脇の花壇では、色とりどりのアジサイが少しずつ色あせ始めている。
もうすぐ夏が来る。
そんな空気を学校中が感じていた。
昇降口で上履きに履き替えた上乃園遥は、教室へ向かう階段をゆっくりと上る。
「おはよう、エデンさん!」
すれ違った一年生が笑顔で頭を下げる。
「おはよう。」
柔らかく返事をすると、今度は生徒会役員が手を振った。
「上乃園さん、おはようございます。」
「おはようございます。」
いつもと変わらない朝。
けれど教室の扉を開いた瞬間、その「いつも」に一つだけ特別な声が重なった。
「おはよう、遥。」
窓際の席から笑顔で手を振る神原葵。
その呼び方をするのは、この学校で葵ただ一人だった。
遥は自然と笑みを浮かべる。
「おはよう、葵。」
その短いやり取りだけで、一日の始まりが少しだけ明るくなる。
そんな感覚を、遥は最近になって知った。
◇
ホームルームが終わると、担任の佐伯先生が教壇を軽く叩いた。
「今日は一つ連絡があります。」
教室が静かになる。
「今年の文化祭実行委員を決めます。」
教室のあちこちから小さなため息が漏れた。
「立候補はいませんか?」
静寂。
誰も手を挙げない。
佐伯先生が困ったように名簿を見つめる。
「じゃあ推薦でも……。」
その時だった。
「上乃園さんがいいと思います!」
一人の女子生徒が声を上げた。
「私も!」
「エデンさんなら安心!」
次々と賛同の声が上がる。
遥は慌てて立ち上がった。
「私は……。」
断ろうとした、その瞬間。
「じゃあ、私もやります!」
元気な声が教室に響いた。
葵だった。
「神原さん?」
先生が驚く。
「上乃園さん一人じゃ大変ですから。」
葵は笑顔で続けた。
「二人なら頑張れます。」
教室から拍手が起こる。
「決まりだね!」
「よろしく!」
こうして二人は、文化祭実行委員になった。
◇
昼休み。
いつもの中庭のベンチ。
葵はジュースを飲みながら笑った。
「実行委員になっちゃったね。」
「葵。」
「ん?」
「私のため?」
葵は少しだけ照れたように笑う。
「半分はね。」
「半分?」
「文化祭、楽しそうだったから。」
「それに。」
少しだけ声を小さくする。
「遥と一緒なら、何でも楽しそうだし。」
遥は思わず言葉を失った。
照れ隠しのようにお茶を一口飲む。
「……ありがとう。」
その一言だけで、葵は十分だった。
◇
放課後。
実行委員会の初会議が始まる。
文化祭まで約二か月。
出し物や装飾、ポスター制作など、決めることは山ほどあった。
会議が終わる頃には、外は夕焼けに染まっていた。
「疲れたぁ。」
葵が机へ突っ伏す。
遥は苦笑する。
「まだ初日だよ。」
「あと何回あるの?」
「毎週。」
「……帰りたい。」
「今から帰るよ。」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
教室を出ようとした時だった。
「あれ?」
文芸部部長の美咲が、部室前で首をかしげていた。
「どうしたんですか?」
遥が近づく。
美咲は困った表情を浮かべた。
「創部以来ずっと受け継がれてきた『創作ノート』がないの。」
「創作ノート?」
葵が聞き返す。
「歴代の部員が一つずつ短編を書いて、次の代へ受け継ぐノート。」
「文芸部の宝物なんだ。」
遥の表情が変わる。
「いつなくなったんですか?」
「昨日まではあったの。」
「鍵は?」
「ちゃんと閉めてた。」
部室の中を見回す。
本棚も机も荒らされた形跡はない。
盗難というより、誰かが一冊だけ持ち出したように見えた。
「また謎だね。」
葵が小さく笑う。
遥も静かにうなずく。
「でも今回は。」
「何か理由がある気がする。」
部室の窓から吹き込んだ風が、一枚の原稿用紙を床へ落とした。
葵が拾い上げる。
「これ……。」
紙には一文だけ書かれていた。
『続きは、まだ書けない。』
作者名はない。
しかし、その文字はどこか震えていた。
遥はその筆跡をじっと見つめる。
「この字。」
「知ってるの?」
葵が尋ねる。
遥はゆっくり首を横に振った。
「ううん。」
「でも。」
「この人は、誰かに盗まれたくて持ち出したんじゃない。」
「誰にも読まれたくなかったんだと思う。」
夕日が部室を赤く染める。
夏の始まりとともに、新たな謎が静かに幕を開けた。
そして、この事件は遥と葵の心を、さらに近づけることになる――。
(第七章・中編へ続く)




