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第六章 雨上がりの約束(後編)


 窓を打つ雨は、さらに勢いを増していた。


 第二実験室には、雨音だけが静かに響いている。


 桐谷詩織は窓際へ歩き、しばらく外を眺めていた。


「……約束した相手はね。」


 小さく息をつき、振り返る。


「私の幼なじみ。」


 遥と葵は黙って耳を傾ける。


「名前は坂井優奈。」


「小学生の頃から一緒で、理科が大好きだった。」


 桐谷は机の上に置かれた古い写真立てを手に取った。


 そこには、白衣を着て笑う二人の少女が写っている。


「高校に入ってからも、二人で全国科学コンテストを目指してた。」


「でも去年の秋、優奈は病気が見つかって入院したの。」


 葵の表情が曇る。


「そんな……。」


「退院したら、一緒に完成させよう。」


「そう約束した。」


 桐谷は苦笑した。


「でも退院は、思っていたよりずっと先になってしまった。」


 机の上には、小さな機械が置かれていた。


 透明なガラス球の中で、小さな歯車が静かに回っている。


「これが去年の作品ですか?」


 遥が尋ねる。


「うん。」


「テーマは『雨の記憶』。」


 スイッチを入れると、小さなモーターが回転する。


 ガラス球の中に細かな水滴が舞い、光を受けて星空のように輝いた。


 葵は思わず息をのむ。


「きれい……。」


「でも。」


 桐谷は悲しそうに笑う。


「まだ完成じゃない。」


「優奈が考えていた最後の仕掛けだけが作れない。」


 その声には、自分を責めるような響きがあった。


     ◇


 遥は作品を静かに見つめていた。


 ガラス球。


 配線。


 歯車。


 そして机に広げられた設計図。


 ふと、一枚のメモが目に入る。


 そこには、優奈の字でこう書かれていた。


「完成したら、二人で雨の日に動かそう。」


 遥は優しく微笑んだ。


「素敵な約束ですね。」


 桐谷は目を伏せる。


「だから完成させたい。」


「一人でも。」


 その言葉を聞いた瞬間、遥はゆっくり首を横に振った。


「一人じゃありません。」


 桐谷が顔を上げる。


「え……?」


「約束は、一人で守るものじゃないと思います。」


 葵も大きくうなずいた。


「そうです!」


「困った時は頼ってください。」


「みんなで完成させればいいじゃないですか!」


 桐谷は驚いたように二人を見つめる。


「でも……。」


「学校に黙って作品を持ち出したこともあるし……。」


「怒られる。」


 遥は静かに微笑んだ。


「怒られるかもしれません。」


「でも。」


「理由を話せば、きっと分かってくれます。」


 その言葉は、どこか自分自身にも言い聞かせているようだった。


     ◇


 翌日。


 三人は理科教師の森に事情を説明した。


 森はしばらく黙って話を聞いていたが、最後には優しく笑った。


「最初から相談してくれればよかったのに。」


 桐谷は深く頭を下げる。


「すみません。」


「謝る相手は私じゃない。」


 森はガラス球を見つめる。


「約束した友達だ。」


「完成させよう。」


「学校のみんなも協力する。」


 その一言で、桐谷の目から涙がこぼれた。


     ◇


 一週間後。


 放課後の理科室。


 理科部だけではなく、美術部や技術研究会の生徒も集まり、作品づくりを手伝っていた。


 ガラス球を磨く者。


 配線を確認する者。


 台座を作る者。


 少しずつ、作品は完成へ近づいていく。


「ここ、押さえて。」


 葵が工具を持ちながら笑う。


「はい。」


 遥も笑顔で応える。


「ありがとう、葵。」


「どういたしまして、遥。」


 そのやり取りを見ていた桐谷が、ふっと笑った。


「二人、本当に仲がいいね。」


 葵は照れながら笑う。


「まあ、親友ですから。」


 遥は少し恥ずかしそうにしながらも、小さくうなずいた。


「うん。」


 その返事だけで、葵は嬉しそうに笑った。


     ◇


 夕方。


 作品はついに完成した。


 スイッチを入れる。


 静かに歯車が回り始める。


 やがてガラス球の中に、小さな雨粒が舞った。


 天井の照明を受けて、水滴は七色に輝く。


 まるで雨上がりの空に架かる虹のようだった。


「完成だ……。」


 桐谷は涙を浮かべながらつぶやいた。


「優奈。」


「約束、守れたよ。」


 部屋の中には自然と拍手が広がった。


     ◇


 帰る頃には、外は土砂降りになっていた。


「うわぁ……。」


 昇降口で空を見上げた葵が苦笑する。


「やっぱり降った。」


 遥は鞄から折りたたみ傘を取り出した。


「一本しかないけど。」


 葵がにやりと笑う。


「入れて。」


「もちろん。」


 二人は一本の傘を開く。


 肩が少し触れる距離。


 歩幅を合わせながら校門を出た。


 雨は強く、風も吹いている。


 その時。


 横風にあおられた葵が少しだけ足を滑らせた。


「あっ!」


 とっさに遥が腕をつかむ。


「大丈夫?」


「う、うん。」


 葵は照れ笑いを浮かべた。


「危なかった。」


 しかし今度は、水たまりを避けようとした遥がバランスを崩しかける。


 今度は葵が遥の手を握った。


「今度は私。」


 二人は一瞬だけ顔を見合わせる。


 思わず笑ってしまう。


「今日はお互い様だね。」


「そうだね。」


 葵は少し照れながら言った。


「……このままでいい?」


 握った手を、少しだけ見つめる。


 遥は優しく微笑んだ。


「うん。」


「今日は、このまま帰ろう。」


 雨の中、二人は手をつないだまま歩き始めた。


 恋人ではない。


 けれど、互いにとって誰よりも大切な存在になり始めていることを、二人とも少しずつ感じていた。


 沈黙さえ心地よい帰り道。


 雨音の向こうで、雲の切れ間からわずかな光が差し込む。


 雨はいつか止む。


 その先には、きっと晴れた空が待っている。


 遥は空を見上げ、小さく笑った。


「ありがとう、葵。」


 葵も笑顔で答える。


「どういたしまして、遥。」


 二人の歩幅は、もう自然と同じになっていた。


 翌朝。


 教室へ入ると、クラスメイトが遥に声をかける。


「おはよう、エデンさん!」


 いつもと変わらない朝。


 いつもと変わらない呼び名。


 遥は笑顔で「おはよう」と返す。


 その隣で葵は、小さく笑ってささやいた。


「おはよう、遥。」


 その一言だけは、この学校で葵だけに許された特別な呼び名だった。


 遥も誰にも聞こえないくらい小さな声で返す。


「おはよう、葵。」


 そんな何気ない朝の始まりが、二人にとっては何より大切な時間になっていた。


              ――第六章 完――

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