第六章 雨上がりの約束(中編)
理科棟の窓を打つ雨は、次第に強くなっていた。
夕暮れの校舎は昼間とは別の顔を見せる。
廊下を照らす蛍光灯。
遠くから聞こえる運動部の掛け声。
そして、雨音だけが静かに響いていた。
白衣の人物を見失った遥と葵は、理科準備室の前へ戻ってきた。
「速かったね……。」
葵は肩で息をしながら苦笑する。
「あと少しだったのに。」
遥は廊下の床へ目を向けた。
「葵。」
「うん?」
「ここ。」
床には、小さな水滴が点々と続いていた。
理科準備室から廊下へ。
そして階段の方へと続いている。
「さっきは気付かなかった。」
葵もしゃがみ込み、水滴を見つめる。
「外から入ってきたなら雨だけど……。」
「まだ降り始めたばかり。」
遥は首を横に振る。
「それに、この水滴は透明すぎる。」
「透明?」
「雨水なら少し砂やほこりが混ざることが多い。」
「じゃあ?」
「蒸留水かもしれない。」
理科室で実験に使われる、純度の高い水。
葵は目を丸くした。
「そんなことまで分かるの?」
「確信はないよ。」
遥は微笑む。
「でも、理科準備室で一番手に入りやすい水だから。」
葵は感心したようにうなずいた。
「やっぱり遥ってすごい。」
遥は照れくさそうに目をそらす。
「観察してるだけ。」
「それがすごいんだって。」
その言葉に、遥は少しだけ頬を緩めた。
◇
二人は水滴をたどって階段を上がる。
たどり着いたのは、普段ほとんど使われない理科準備室の上階にある小さな実験室だった。
扉には「第二実験室」と書かれた古いプレートが掛かっている。
「ここって使われてるの?」
葵が小声で尋ねる。
「授業では使わないはず。」
遥が答えた、その時。
部屋の中から、小さな金属音が聞こえた。
カチッ。
二人は顔を見合わせる。
葵が小さくうなずく。
遥はゆっくりと扉に手を掛けた。
静かに開く。
中は薄暗く、夕日の赤い光だけが窓から差し込んでいた。
机の上には工具や電子部品、小さなモーターが並んでいる。
誰かが作業をしていたことは一目で分かった。
「……誰もいない。」
葵が辺りを見回す。
しかし、机の上にはまだ温かいマグカップが置かれていた。
「ついさっきまでいた。」
遥はそうつぶやき、机の上のノートへ目を向ける。
そこには回路図と細かな計算式。
そしてページの隅に、小さく書かれた文字。
『約束まで、あと十五日。』
葵もその文字を見つけた。
「約束……?」
遥は静かにページを閉じる。
「誰かとの約束。」
「作品と関係あるのかな。」
その時だった。
廊下から誰かの咳払いが聞こえた。
二人が振り返ると、そこには三年生の女子生徒が立っていた。
長い黒髪を一つに結び、白衣を羽織っている。
その手には工具箱が握られていた。
「……あなたたち。」
落ち着いた声だった。
「ここで何をしているの?」
葵は一歩前へ出る。
「それはこっちの台詞です。」
女子生徒は少し困ったように笑った。
「そうね。」
「私は桐谷詩織。」
「理科部の部長。」
遥は軽く頭を下げる。
「上乃園です。」
「神原です。」
桐谷は二人を見比べる。
「噂のエデンさん。」
「……。」
「それに、いつも一緒の神原さん。」
葵は少しだけ警戒した表情になる。
「私たちのこと、知ってるんですか?」
「学校では有名だから。」
桐谷は優しく笑った。
しかし、その笑顔の奥にはどこか疲れたような影があった。
◇
「ここには、毎日来ているんですか?」
遥が尋ねる。
桐谷は少し迷ってから答えた。
「そう。」
「放課後になると。」
「一人で?」
「うん。」
葵は部屋を見回す。
「じゃあ、理科準備室の音って……。」
「私。」
あまりにもあっさりした返事だった。
「ごめんなさい。」
「驚かせるつもりはなかったの。」
謎は、思いのほか簡単に解けた。
だが、遥は首を横に振る。
「それだけじゃありませんよね。」
桐谷の表情がわずかに曇る。
「去年の科学コンテストの作品。」
「なくなっています。」
沈黙。
雨音だけが部屋に響く。
「……私が持っています。」
葵が驚いて声を上げる。
「どうして?」
桐谷は工具箱を静かに机へ置いた。
「修理しているの。」
「修理?」
「完成させるため。」
その言葉に、遥は小さく目を細めた。
「完成?」
「去年の作品は、未完成だったんですか。」
桐谷は静かにうなずいた。
「ええ。」
「本当は二人で完成させる約束だった。」
「でも。」
そこで言葉が止まる。
窓の外では、雨がさらに激しくなっていた。
ぽつり、と桐谷はつぶやく。
「約束した相手は、もう学校へ来られない。」
その横顔は、今にも泣き出しそうに見えた。
遥は何も言わず、その表情を見つめる。
葵もまた、胸の奥が締めつけられるような思いを感じていた。
事件の裏には、誰かの悪意ではなく、誰にも言えない「約束」が隠されていたのだ。
遥は静かに息を吸う。
「……その約束のこと、私たちに話してもらえませんか。」
桐谷は二人を見つめる。
その瞳に浮かんでいた迷いが、少しずつ揺らぎ始めていた。
(第六章・後編へ続く)




