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第六章 雨上がりの約束(前編)


 六月。


 梅雨入りした空は、朝から灰色の雲に覆われていた。


 雨はまだ降っていない。それでも湿り気を含んだ風が校舎の廊下を通り抜けるたび、開け放たれた窓際のカーテンがゆっくりと揺れる。


 ホームルーム前の教室は、いつもより少し静かだった。


 体育祭が終わってから数週間。慌ただしかった毎日も落ち着きを取り戻し、生徒たちはそれぞれの日常へ戻っていた。


 窓際の席で文庫本を閉じた上乃園遥は、空を見上げる。


「午後から降るかな……。」


 その小さな独り言を聞き逃さなかった人物がいる。


「降るよ、絶対。」


 元気な声とともに、神原葵が隣の席へ腰掛けた。


「おはよう、遥。」


 その呼び方に、遥は自然と笑みを浮かべる。


「おはよう、葵。」


 二人だけの名前。


 あの日から、葵だけが遥を名前で呼ぶようになった。


 周囲の生徒は今まで通り「エデンさん」と呼び、先生は「上乃園さん」と呼ぶ。


 その中で、「遥」という呼び名だけが、葵との間にだけ存在する特別なものだった。


「……また傘忘れた?」


 遥が葵の机の横を見る。


 何もない。


 葵は悪びれる様子もなく笑った。


「正解!」


「昨日、天気予報見た?」


「見た!」


「じゃあ、どうして?」


「朝は降ってなかったから!」


 遥は小さくため息をつく。


「葵らしい。」


「褒めてる?」


「たぶん違う。」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 その様子を見ていたクラスメイトの一人が笑う。


「神原さんって、本当にエデンさんと仲良いよね。」


「そうかな?」


「うん。上乃園さん、神原さんといる時だけよく笑う。」


 その一言に、遥は少し照れたように視線をそらした。


 葵は嬉しそうに笑う。


「そう見える?」


「見える見える。」


 ホームルーム開始のチャイムが鳴り、会話はそこで途切れた。


     ◇


 昼休み。


 二人はいつものように中庭のベンチで昼食を広げていた。


 雲はさらに厚くなり、風も少し冷たくなっている。


「今日は部活ある?」


 葵がおにぎりを頬張りながら尋ねる。


「文芸部はあるよ。」


「私は今日は帰宅部。」


「毎日帰宅部だけど。」


「細かいことは気にしない!」


 そんな何気ないやり取りをしていると、一人の男子生徒がこちらへ走ってきた。


「上乃園先輩!」


 息を切らしながら頭を下げる。


「神原先輩も!」


「どうしたの?」


 葵が心配そうに尋ねる。


 一年生の男子は少し周囲を気にしてから、小さな声で言った。


「相談があるんです。」


「相談?」


「はい。」


 男子生徒は少し迷ってから続けた。


「理科準備室で……。」


 葵の表情がぱっと明るくなる。


「七不思議?」


「えっ?」


「またそういう話?」


「は、はい。」


 男子生徒は戸惑いながらもうなずいた。


「夜になると、誰もいない理科準備室から音がするんです。」


「音?」


 遥が静かに聞き返す。


「ガラスがぶつかる音とか、棚が動く音とか……。」


「見た人は?」


「理科部の先輩です。」


「先生には?」


「風じゃないかって言われました。」


 遥は少し考え込む。


「その音は毎日?」


「ここ一週間くらいです。」


 葵は遥を見る。


「どうする?」


 遥は少しだけ微笑んだ。


「放課後、行ってみよう。」


「決まり!」


 一年生はほっとしたように頭を下げた。


「ありがとうございます!」


     ◇


 放課後。


 二人は理科棟へ向かう途中、生徒会長の朝倉と廊下ですれ違った。


「エデンさん。」


 朝倉は手を振る。


「また事件?」


 遥は苦笑する。


「まだ事件かどうかは分かりません。」


「神原さんがいるってことは、たぶん事件なんだろうね。」


「ひどい!」


 葵が抗議すると、朝倉は笑った。


「期待してるよ。」


 二人は理科棟へ向かう。


 夕方になると校舎は急に静かになる。


 部活動の声だけが遠くから聞こえてくる。


 理科準備室の前では、理科教師の森が待っていた。


「上乃園さん。」


「急にすみません。」


「構わないよ。」


 森は鍵を取り出した。


「七不思議の調査だろう?」


「もう先生にも広まってるんですね。」


「ここ数日、生徒が何人も様子を見に来たからね。」


 扉がゆっくり開く。


 部屋には薬品棚や実験器具が整然と並んでいた。


 アルコールと木材が混ざった独特の匂いが漂う。


 葵は部屋を見回し、小さく息をついた。


「何も変わったところは……。」


 その時だった。


 コツン。


 小さな音が部屋の奥から聞こえた。


 三人は同時に振り返る。


 誰もいない。


 しかし、試験管立てがわずかに揺れている。


 葵は思わず遥の制服の袖をつかんだ。


「……今、動いたよね。」


「うん。」


 遥はゆっくり部屋の奥へ歩き出す。


 恐怖ではなく、確かめるような足取りだった。


 実験台の近くで足を止め、床へ視線を落とす。


「……これ。」


 そこには、小さな水滴が点々と続いていた。


 雨はまだ降っていない。


 なのに床だけが濡れている。


 水滴は理科準備室の一番奥、ガラスケースの前で途切れていた。


 ケースの中には歴代の科学コンテスト受賞作品が並んでいる。


 しかし、一番端だけが空いていた。


「先生。」


 遥は静かに尋ねる。


「ここには何が飾ってあったんですか?」


 森はケースを見て首をかしげる。


「あれ……。」


「どうしました?」


「去年の最優秀作品があったはずなんだが。」


「今は?」


「なくなっている。」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ張り詰めた。


 七不思議。


 夜に鳴る音。


 濡れた床。


 消えた作品。


 それぞれが別々の出来事のようでいて、どこか一本の糸でつながっている気がする。


 遥は静かにガラスケースへ触れた。


 ひんやりとした感触が指先に伝わる。


 その時だった。


 廊下から、誰かが走り去る足音が聞こえた。


 タッ、タッ、タッ――。


「誰かいる!」


 葵が勢いよく飛び出す。


「待って!」


 遥もあとを追う。


 廊下の角を曲がる直前、一瞬だけ白衣の裾が視界をかすめた。


 だが、その人物は夕暮れの校舎の奥へ消えてしまう。


 葵は悔しそうに息をついた。


「逃げられちゃった……。」


 遥は白衣が消えた先を見つめながら、小さくつぶやく。


「……誰かが、この理科準備室を使っている。」


 そして、その声はどこか確信に満ちていた。


 窓の外では、ぽつり、と一粒の雨がアスファルトを濡らした。


 梅雨空の下、新たな謎は静かに動き始めていた。                    (第六章・中編へ続く)

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