第五章 エデンさんの秘密(後編)
翌日の朝。
遥はいつもより少し早く学校へ着いた。
昇降口を抜け、静かな廊下を歩く。
制服のポケットには、昨日見つかった手紙が入っていた。
『君なら、きっと誰かの居場所になれる。』
その筆跡は忘れるはずがない。
一年生の頃、文芸部で何度も見た文字だった。
「本当に、先輩なの……?」
思わずつぶやいたその時だった。
「おはよう、エデンさん!」
背後から元気な声が響く。
振り返ると、葵が両手を大きく振りながら走ってきた。
「おはよう。」
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「少しだけ。」
「やっぱり考えちゃった?」
遥は小さくうなずいた。
「うん。」
「でも、一人じゃないから。」
その言葉に、葵は笑顔で胸を張る。
「もちろん!」
「今日は私も一緒。」
二人は並んで教室へ向かった。
◇
昼休み。
遥と葵は文芸部の部室を訪れた。
部長の美咲は部誌の整理をしていた。
「二人とも、どうしたの?」
遥は事情を説明する。
なくなった部誌。
差出人不明の手紙。
そして、一年前の文芸部の先輩について。
美咲は静かに話を聞き終えると、本棚の奥から古い名簿を取り出した。
「これなら分かるかもしれない。」
ページをめくる。
一年前の部員一覧。
その中に、一つの名前があった。
雨宮千紘。
遥の指が止まる。
「……雨宮先輩。」
葵が名簿をのぞき込む。
「この人?」
「うん。」
「私に『エデンさん』って呼び始めた人。」
美咲は少し驚いた表情を浮かべた。
「そうだったんだ。」
「卒業してから、一度も連絡は取っていません。」
「住所は?」
「個人情報だから残ってないの。」
名簿には卒業年度だけが記されていた。
手がかりは、それだけだった。
◇
放課後。
二人が校門へ向かって歩いていると、警備員が声をかけてきた。
「上乃園さん。」
「はい?」
「今日、お客さんが来ていたよ。」
「私にですか?」
「もう帰ってしまったけどね。」
警備員は受付簿を見せてくれた。
来校者名。
雨宮千紘。
葵が思わず声を上げる。
「えっ!」
遥も目を見開く。
「先輩が……。」
「図書室へ寄って、そのまま帰られたよ。」
二人は顔を見合わせ、急いで図書室へ向かった。
◇
司書の先生は二人を見るなり、優しく笑った。
「間に合わなかったのね。」
「雨宮先輩、来ていたんですか?」
「ええ。」
「何か言っていましたか?」
先生は机の引き出しから、小さな封筒を取り出した。
「これを預かっています。」
遥は震える手で受け取る。
中には、一枚の便箋。
そして、小さなしおりが入っていた。
しおりは文芸部で代々使われてきたものだった。
便箋には、丁寧な文字でこう書かれている。
『突然会いに行ったら、きっと君は驚くと思った。だから手紙にしました。』
『エデンさんという名前は、誰よりも人の気持ちを大切にする君に贈ったものです。』
『でも、その名前に縛られないでください。』
『困っている人を助けることも大切。でも、自分が困ったときは、誰かを頼っていい。』
『君は、一人で頑張り過ぎるから。』
遥は最後まで読み終えると、そっと目を閉じた。
便箋の端には、短くこう添えられていた。
『神原さんという素敵な友達ができたみたいですね。安心しました。』
葵は驚いて遥を見る。
「私のことまで……。」
司書の先生が微笑む。
「昨日、少しだけお話ししました。」
「そうだったんですね。」
遥は涙をこらえるように笑った。
「先輩らしい。」
◇
帰り道。
夕焼けに染まる土手を、二人はゆっくり歩いていた。
しばらく沈黙が続いたあと、葵が立ち止まる。
「……ねえ。」
「なに?」
少し言いづらそうに、葵は笑った。
「ずっと思ってたんだけどさ。」
「うん。」
「私だけ『エデンさん』って呼ぶの、もうやめてもいい?」
遥は少し驚いたように葵を見る。
「どうして?」
「もちろんその呼び名も好き。」
「でも。」
葵は照れくさそうに頭をかいた。
「私は、“みんなが知ってるエデンさん”じゃなくて、遥と友達になったんだ。」
遥は目を丸くする。
その言葉は、不思議なくらい胸の奥へまっすぐ届いた。
「だから……。」
葵は小さく笑う。
「今日から、遥って呼んでもいい?」
一瞬だけ沈黙が流れる。
やがて遥は、今までで一番自然な笑顔を浮かべた。
「もちろん。」
「じゃあ……。」
葵は少し照れながら言う。
「よろしくね、遥。」
その響きは少しくすぐったくて、それでいて心地よかった。
遥も笑う。
「ありがとう、葵。」
葵は驚いて目を見開く。
「えっ?」
「私も。」
「今日から葵って呼ぶ。」
二人は顔を見合わせる。
そして同時に笑い出した。
「なんか照れるね。」
「うん。でも、こっちの方がいい。」
夕焼けに長く伸びる二人の影は、少しだけ昨日までより近づいていた。
◇
翌週。
文芸部の本棚に、一冊の部誌が静かに戻されていた。
なくなっていた『二〇二五年度前期号』である。
誰が返したのかは分からない。
貸出票も残されていなかった。
ただ、一枚だけ栞が挟まっていた。
そこには、美しい文字で書かれている。
『人は、誰かの居場所になれる。』
遥はその栞を本へ戻し、静かに微笑んだ。
「ありがとう、先輩。」
その言葉は、もう届かないかもしれない。
それでも、胸の中には確かな温かさが残っていた。
◇
放課後。
二人が校門を出ようとした、その時だった。
「エデンさん!」
息を切らした一年生の男子生徒が駆け寄ってくる。
「お願いがあります!」
「どうしたの?」
「理科準備室で、誰もいないはずなのに夜になると実験器具が勝手に動くんです!」
葵の目が輝いた。
「また学校の七不思議!」
遥は少し困ったように笑う。
「今度は理科室?」
「面白そう!」
夕暮れの校舎を見上げながら、二人は歩き出した。
人の想いが隠された小さな謎。
誰かの不安や悩み。
そして、自分自身の心。
それらに向き合うたび、「エデンさん」と神原葵は少しずつ成長していく。
この学校には、まだ誰も知らない物語が残っている。
その次の一ページが開かれる日は、もうすぐそこまで来ていた。
――第五章 完――




