第五章 エデンさんの秘密(中編)
翌日の昼休み。
遥と葵は、昨日と同じように図書室を訪れていた。
目的は一つ。
消えた文芸部誌と、差出人不明の手紙の関係を調べることだった。
司書の先生は、貸出記録が保管されている古いファイルを机の上へ並べてくれた。
「館外貸出禁止の資料だから、本来なら記録は残らないはずなんですけどね。」
先生は困ったように笑う。
「もしかすると、閲覧申請の紙なら残っているかもしれません。」
葵は嬉しそうに身を乗り出した。
「ありがとうございます!」
二人で何年分もの書類を確認していく。
十分ほど経った頃、遥の手が止まった。
「あった。」
一枚だけ、少し色あせた申請書。
そこには一年前の日付と、「文芸部誌 二〇二五年度前期号 閲覧」という記録が残されていた。
しかし、利用者の名前だけが黒く塗りつぶされている。
「消されてる……。」
葵が目を丸くする。
司書の先生も首をかしげた。
「こんなこと、普通はありません。」
「誰かが意図的に?」
「分かりません。」
遥は申請書を静かに見つめた。
名前だけを隠す理由。
それは、「誰が読んだか」を知られたくなかったからではない。
「誰が読んだことになっているか」を隠したかった。
そんな気がした。
◇
図書室を出た帰り道。
二人は中庭のベンチに腰掛けた。
昼下がりの風が若葉を揺らし、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
しばらく沈黙が続いたあと、葵がぽつりと言った。
「エデンさん。」
「なに?」
「昨日、『長くなる』って言ってたよね。」
遥は少しだけ微笑む。
「……覚えてたんだ。」
「もちろん。」
葵は真っすぐ遥を見る。
「私は、エデンさんのことをもっと知りたい。」
その瞳に迷いはなかった。
遥は少し考えたあと、小さく息をつく。
「じゃあ、一つだけ話すね。」
そう言って、遠くのグラウンドへ視線を向けた。
「一年生の頃の話。」
◇
「私は入学したばかりの頃、今よりずっと人と話すのが苦手だった。」
葵は黙って耳を傾ける。
「教室でも本ばかり読んでいたし、自分から話しかけることなんて、ほとんどなかった。」
「今も本は好きだけどね。」
「うん。」
二人は少しだけ笑った。
「ある日、一人の一年生が財布をなくしたの。」
「事件?」
「ううん。」
遥は首を振る。
「最初は、ただの落とし物だった。」
けれど、財布が見つからないことで、クラスでは「あの子が盗ったんじゃないか」という噂が広がってしまった。
「そんな……。」
葵の表情が曇る。
「証拠なんて何もなかった。」
「なのに?」
「思い込みだけで、一人の子が疑われた。」
遥は静かに続ける。
「その子は毎日笑っていたのに、だんだん学校へ来なくなった。」
風が吹き、木々がざわめく。
「私は、それが嫌だった。」
「……。」
「だから放課後、一人で校舎中を探した。」
「見つかったの?」
遥はうなずく。
「図書室の返却ボックスの後ろ。」
財布は、返却された本と一緒に滑り落ちていただけだった。
「盗難なんかじゃなかった。」
葵はほっと胸をなで下ろす。
「その子も戻ってきた?」
「うん。」
「よかった……。」
しかし、遥の表情は晴れなかった。
「でも、その子が言ったの。」
――『ありがとう。でも、もっと早く見つかっていたらよかったね。』
その言葉は、今でも忘れられない。
「噂は、一度広がると消えない。」
遥は小さく笑う。
「だから私は、それから先、人を疑う前に事実を探そうって決めた。」
葵は何も言えなかった。
自分が知っている遥は、いつも冷静で優しい。
その理由が、今ようやく分かった気がした。
「……それで?」
「それを見ていた先輩がいた。」
「先輩?」
「文芸部の三年生。」
遥は少し懐かしそうに目を細める。
「その人が初めて言ったの。」
――『君は、人を争わせない場所を作るんだね。まるで楽園みたいだ。』
――『だから今日から、君は”エデンさん”だ。』
葵は思わず笑顔になる。
「それが始まりだったんだ。」
「うん。」
「素敵なあだ名じゃん。」
遥は少し照れくさそうに笑った。
「最初は恥ずかしかったけどね。」
◇
その日の放課後。
二人が昇降口へ向かう途中だった。
「上乃園さん。」
振り返ると、司書の先生が走ってきた。
「さっき整理をしていたら、こんなものが出てきました。」
一枚の封筒だった。
宛名には、丁寧な字で書かれている。
『上乃園遥さんへ』
「私に?」
「ずっと本の間に挟まっていたみたいです。」
裏には送り主の名前はない。
しかし、封を開ける前から、遥には不思議な予感があった。
震える指で封を開く。
中には短い便箋が一枚。
そこには見覚えのある、優しい字でこう書かれていた。
『君なら、きっと誰かの居場所になれる。』
その文字を見た瞬間、遥の表情が変わる。
「……この字。」
葵が心配そうに顔をのぞき込む。
「知ってるの?」
遥は小さくうなずいた。
瞳には、懐かしさと驚きが入り混じっていた。
「この手紙を書いたのは……。」
その名前を口にしようとした瞬間、校内放送が鳴り響く。
『至急、生徒会役員は会議室へ集まってください。』
放送に遮られ、言葉は途切れる。
遥は便箋を大切に封筒へ戻し、静かにつぶやいた。
「……会いたかった。」
その声は、葵にしか聞こえないほど小さかった。
夕暮れの校舎に長く伸びた二人の影。
過去と現在を結ぶ人物が、もうすぐ二人の前へ姿を現そうとしていた。
(第五章・後編へ続く)




