第五章 エデンさんの秘密(前編)
体育祭が終わって三日。
校庭にはいつもの穏やかな時間が戻っていた。
教室の窓から吹き込む初夏の風が、黒板の時間割をわずかに揺らしている。
「終わっちゃったね、体育祭。」
葵が机に突っ伏しながら大きく伸びをした。
「燃え尽きた?」
遥が笑いながら尋ねる。
「うん。でも、優勝できなかったのは悔しい!」
「十分頑張ってたよ。」
「エデンさんは?」
「筋肉痛が二日続いた。」
その一言に葵は思わず吹き出した。
「やっぱり運動苦手なんじゃん!」
「否定はしないかな。」
二人が笑っていると、始業を告げるチャイムが鳴った。
◇
放課後。
文芸部へ向かおうとした遥は、自分の下駄箱の前で足を止めた。
「……?」
一通の白い封筒が入っている。
宛名はない。
差出人も書かれていなかった。
葵が隣からのぞき込む。
「ラブレター?」
「違うと思う。」
遥は静かに封を開ける。
中には、折り畳まれた一枚の紙だけが入っていた。
そこには黒いペンで、たった一行だけ書かれている。
あなたは、本当の『エデンさん』を知っていますか。
葵の笑顔が消えた。
「……何これ。」
遥も黙ったまま紙を見つめる。
その文字には見覚えがなかった。
しかし、不思議と胸がざわつく。
「いたずらかな。」
葵が言う。
「かもしれない。」
遥はそう答えたが、心のどこかで違和感を覚えていた。
これは悪ふざけではない。
そんな気がした。
◇
翌日。
昼休みになると、妙な噂が校内を駆け巡り始めた。
「知ってる?」
「エデンさんって、本当は先生なんじゃない?」
「違うよ。昔、事件を解決したらしい。」
「えっ、警察から表彰されたとか?」
教室のあちこちで、自分の名前が聞こえてくる。
葵は机を叩いた。
「何なの、この噂!」
「放っておけば、そのうち落ち着くよ。」
「でも!」
葵は納得できない様子だった。
「エデンさんは普通の高校生なのに。」
遥は少し困ったように笑う。
「普通……かな。」
「普通だよ。」
葵は即答した。
「少し観察力が良くて、人のことを放っておけないだけ。」
遥はその言葉に少し照れくさそうな表情を浮かべる。
その時だった。
「上乃園さん。」
二人の前に現れたのは、一年生の高瀬結衣だった。
生徒会書記として何度か話したことがある。
「会長がお呼びです。」
「また相談?」
「いえ。」
高瀬は首を横に振る。
「この手紙を預かりました。」
差し出された封筒を見た瞬間、遥は息をのんだ。
昨日と同じ白い封筒。
差出人も書かれていない。
中には一枚の紙。
今度は短く、こう書かれていた。
図書室へ。
◇
放課後。
二人は図書室を訪れた。
静かな館内には、ページをめくる音だけが響いている。
司書の先生は本の整理をしていた。
「何か探しもの?」
「少し古い文芸部の資料を見せていただけますか。」
「いいですよ。」
案内された書庫には、歴代の部誌がきれいに並んでいた。
創部から三十年以上続く文芸部。
一冊ずつ年代順に並んでいる。
遥は背表紙を指でなぞりながら数えていく。
「二〇二四年……二〇二五年……。」
その時だった。
「あれ?」
葵が首をかしげる。
「一冊ない。」
確かに、二〇二五年度前期号だけが抜け落ちている。
隣の部誌には貸出票が挟まっていた。
最後に借りた人の欄は空白。
返却日も書かれていない。
「先生。」
遥が司書に尋ねる。
「この部誌は誰か借りていますか?」
司書は棚を見て驚いた。
「あら?」
「どうしました?」
「おかしいですね。」
貸出記録を確認する。
「この部誌は館外貸出禁止なんです。」
「……。」
「本来なら、ここから持ち出せません。」
つまり。
誰かが無断で持ち出したということになる。
葵は小さくつぶやいた。
「手紙を書いた人?」
遥は棚を見つめたまま答えない。
視線は、部誌があったはずの隙間に向けられていた。
まるで、その一冊だけが最初から存在しなかったかのように。
◇
帰り道。
夕日が校舎を赤く染めていた。
「エデンさん。」
葵が静かに歩幅を合わせる。
「一つ聞いていい?」
「うん。」
「どうしてみんな、エデンさんって呼ぶようになったの?」
遥は立ち止まった。
今までなら笑ってごまかしていた質問。
しかし今日は違った。
遥はゆっくりと空を見上げる。
「……その話は。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「長くなるよ。」
「聞きたい。」
葵の声は真っすぐだった。
「友達だから。」
その言葉に、遥は目を閉じる。
初夏の風が二人の間を静かに吹き抜けた。
「分かった。」
遥は小さくうなずく。
「でも、その前に。」
制服のポケットから二枚の手紙を取り出す。
「この手紙を書いた人を見つけよう。」
「うん。」
「たぶん、その人は私の過去を知っている。」
そう言った遥の横顔は、どこか今までより大人びて見えた。
そしてその頃、校舎の屋上では、一人の人物がフェンス越しに夕焼けを見つめていた。
その人物の手には、一冊の古い文芸部誌。
表紙には大きく、
『二〇二五年度前期号』
と書かれている。
その人は部誌を静かに閉じ、小さくつぶやいた。
「気付いてくれたね、遥。」
夕日に照らされたその笑顔は、どこか懐かしさを帯びていた。
しかし、その正体を知る者は、まだ誰もいなかった。
(第五章・中編へ続く)




