第四章 消えた優勝旗(前編)
五月。
校庭を吹き抜ける風は少しずつ暖かさを増し、学校全体が体育祭へ向けた熱気に包まれていた。
朝からグラウンドでは体育委員がラインを引き、昼休みには応援団の掛け声が校舎まで響いてくる。
「今年は絶対優勝する!」
「リレーだけは負けられない!」
そんな声を聞きながら、遥は窓際の席で本を閉じた。
「エデンさん。」
隣から葵が顔をのぞかせる。
「体育祭、楽しみ?」
「見るのは好きかな。」
「出るのは?」
「少し苦手。」
遥が苦笑すると、葵は吹き出した。
「やっぱり!」
「葵は?」
「全部本気!」
「知ってる。」
二人が笑っていると、教室の前方から担任の佐伯先生が声を上げた。
「上乃園、神原。」
「はい。」
「昼休みに生徒会室へ行ってくれ。」
「生徒会室ですか?」
「会長から頼みがあるそうだ。」
葵は目を輝かせた。
「相談だ!」
遥は小さくため息をつきながらも立ち上がる。
「まずは話を聞こう。」
◇
昼休み。
二人は校舎二階の生徒会室を訪れた。
扉をノックすると、中から落ち着いた声が返ってくる。
「どうぞ。」
部屋には三人の生徒がいた。
一人は眼鏡をかけた三年生の男子。
生徒会長の朝倉悠真だった。
その隣には副会長の白石美月、そして書記の一年生・高瀬結衣が立っている。
「来てくれてありがとう。」
朝倉は立ち上がり、二人に頭を下げた。
「急に呼び出してすまない。」
「いえ。」
遥が答える。
「相談というのは?」
朝倉の表情が曇った。
「実は……優勝旗がなくなった。」
一瞬、部屋の空気が止まる。
「優勝旗?」
葵が聞き返す。
「体育祭で優勝したクラスに渡す、あの旗ですか?」
「そう。」
副会長の白石が言葉を続ける。
「歴代の優勝クラス名が刺繍された、大切な旗よ。」
「今朝、飾るために保管庫へ取りに行ったら……。」
高瀬が小さな声で言った。
「ありませんでした。」
遥は静かに尋ねる。
「最後に確認したのは?」
「昨日の放課後。」
朝倉が答える。
「生徒会で体育祭の準備を終え、保管庫へ戻した。」
「鍵は?」
「私が持っている。」
机の上には一本の真鍮色の鍵が置かれていた。
「合鍵はありません。」
遥は鍵を見つめる。
「保管庫を見せてもらえますか。」
◇
保管庫は体育館の裏手にある、小さな倉庫だった。
朝倉が鍵を差し込み、扉を開ける。
中には長机や折りたたみ椅子、運動会用品が整然と並んでいる。
壁際には、優勝旗を立てるための木製の台だけが残されていた。
「昨日はここにありました。」
白石が指差す。
確かに、旗だけがなくなっている。
荒らされた形跡はない。
棚も段ボールもきちんと整理されたままだ。
「エデンさん。」
葵が小声で言う。
「また密室だね。」
「うん。」
遥は倉庫の中をゆっくり見回した。
床。
棚。
窓。
そして天井。
何か違和感はないか、一つひとつ確かめていく。
やがて、入口近くで足を止めた。
「朝倉さん。」
「何だい?」
「昨日、雨は降りましたか?」
「夕方に少しだけ。」
「そのあと、この倉庫へ来ました?」
「いや。」
遥はしゃがみ込む。
土間には乾いた泥が少しだけ残っていた。
その上に、新しい靴跡が一つ。
「この靴跡……。」
葵も隣にしゃがむ。
「体育館シューズじゃない。」
「外靴。」
しかも泥は一方向だけについている。
入ってきた跡はある。
しかし、出ていった跡が見当たらない。
「変だね。」
葵が首をかしげる。
「旗を持って帰ったなら、出る足跡もあるはずなのに。」
遥は黙ったまま床を見つめていた。
数秒後、ゆっくりと立ち上がる。
「この人は……。」
「え?」
「歩いて出ていない。」
生徒会の三人が顔を見合わせる。
「どういうこと?」
遥は倉庫の奥を見つめる。
壁には、小さな換気用の窓が一つだけあった。
窓は人が通れるほど大きくはない。
しかし、そのすぐ下には古びた脚立が立てかけられている。
「葵。」
「うん。」
「脚立を見て。」
葵は近づいて脚立を調べる。
「何かある?」
「……あ。」
脚立の一段目に、青い繊維が一本引っかかっていた。
細く、光沢のある糸。
遥はそれをそっと指先でつまむ。
「これは……。」
朝倉が目を見開く。
「優勝旗の房と同じ色だ。」
部屋の空気が張り詰める。
誰かが確かにこの脚立を使った。
だが、何のために?
そして、優勝旗はどこへ消えたのか。
遥はもう一度、保管庫の奥を見渡した。
その視線の先には、誰も気に留めていなかった古い木箱が静かに置かれていた。
――何かがおかしい。
そんな予感だけが、胸の中で静かに大きくなっていった。
(第四章・中編へ続く)




