第3話 世界がひっくり返った日
「神崎くん見るだけで心臓がやばいんだってば……」
朝倉紗雪の声が聞こえた瞬間。
俺――神崎悠斗の思考は停止した。
廊下の角。
俺は咄嗟に足を止める。
聞くつもりなんてなかった。
本当だ。
ただ忘れ物を取りに戻っただけだった。
なのに。
聞こえてしまった。
「はぁ……もう三年だよ?」
親友らしい女子の声。
「中学からずっと好きなんでしょ?」
「し、静かにして!」
紗雪の慌てた声。
俺の鼓動が跳ね上がる。
好き?
誰が?
誰を?
いや。
聞き間違いかもしれない。
落ち着け。
勝手に期待するな。
そう自分に言い聞かせる。
しかし。
次の言葉が追い打ちをかけた。
「神崎くんのことになると紗雪、本当にポンコツになるよね」
「うぅ……」
「話しかけられただけで赤くなるし」
「だって仕方ないじゃん……」
「屋上も神崎くんがいたから逃げたんでしょ?」
「……うん」
俺は固まった。
昨日の昼休み。
屋上。
あれは。
俺を避けたんじゃなかったのか?
「だって隣に座ったら絶対変な顔になるし……」
「もうなってるよ」
「うるさい……」
親友の女子が笑う。
紗雪は本気で恥ずかしそうだった。
そして。
小さな声で言った。
「好きすぎて無理なの……」
世界が止まった。
いや。
正確には。
俺の世界がひっくり返った。
---
その後の記憶が曖昧だ。
気付けば教室に戻っていた。
忘れ物の教科書を手に持ったまま。
席に座る。
考える。
整理する。
無理だった。
全然整理できない。
だって。
嫌われていると思っていた相手が。
実は。
俺のことを好きだった。
そんなことあるか?
漫画じゃないんだから。
いや。
でも本人が言っていた。
好きすぎて無理。
中学からずっと好き。
聞き間違いじゃない。
どう考えても俺だった。
「……マジかよ」
思わず呟く。
誰もいない教室に声が響いた。
---
帰宅途中。
頭の中は紗雪でいっぱいだった。
今までの出来事が次々と思い出される。
目が合うと逸らす。
↓
嫌われていたと思っていた。
↓
違う。
照れていただけ。
話しかけると慌てる。
↓
嫌われていたと思っていた。
↓
違う。
緊張していただけ。
ぶつかった時に逃げた。
↓
嫌われていたと思っていた。
↓
違う。
好きな相手と接触してパニックになっただけ。
「いや、可愛すぎるだろ……」
思わず立ち止まる。
通行人に変な目で見られた。
慌てて歩き出す。
だが顔が熱い。
冷静になれない。
今まで全部勘違いだった。
そう思った瞬間。
朝倉紗雪という存在が急に違って見えた。
学校一の美少女。
優等生。
男子から人気。
近寄りがたい存在。
そう思っていた。
でも実際は。
好きな男子を前にすると逃げ出してしまう女の子だった。
ギャップが凄まじい。
反則だろ。
---
その夜。
布団に入る。
眠れない。
何度も寝返りを打つ。
そして気付く。
俺は。
明日どういう顔で紗雪に会えばいいんだ?
知ってしまった。
彼女の気持ちを。
本人は俺が知っているなんて思っていない。
つまり。
俺だけが秘密を握っている状態だ。
気まずい。
ものすごく気まずい。
しかも。
考えれば考えるほど。
紗雪のことが可愛く見えてくる。
「終わった……」
俺は天井を見上げた。
これまで平穏だった高校生活。
その平穏は今日で終わった。
なぜなら。
嫌われていると思っていた美少女が。
実は俺のことを好きだったと知ってしまったから。
そして。
翌朝。
俺はさらに大きな問題に直面することになる。
朝倉紗雪を見ただけで。
今度は俺の方がまともに目を合わせられなくなっていた。
――続く。




