指輪
夜中だった。
コンビニ帰りの僕は、ビニール袋を提げたまま玄関の前で少し立ち尽くした。部屋の奥から、微かに音が聞こえたからだ。
カチ。
小さな、硬い音。
一瞬、何の音かわからなかった。鍵だろうか、とも思った。でも違う。もっと乾いた音だった。
カチ、カチ。
一定のリズム。静かな部屋の中で、その音だけが妙に耳に残る。
僕はゆっくり扉を開けた。
煙草の匂い。酒の匂い。薄暗いリビング。
ハルさんはソファに座ったまま、ぼんやりテレビを眺めていた。音量は小さい。たぶん内容なんて見ていない。
右手だけが動いている。
中指につけた銀色の指輪が、テーブルの縁に当たっていた。
カチ。
カチ。
「……何してるんですか」
僕が声をかけると、ハルさんは少し遅れて顔を上げた。
「あ、おかえり」
眠そうな声。
それから、自分の手元を見て小さく笑う。
「あー、これ?」
また、カチ、と音が鳴る。
「癖」
「癖?」
「無意識にやっちゃうんだよね」
そう言いながら、ハルさんは指輪をくるりと回した。銀色の輪が、部屋の灯りを鈍く反射する。
「昔から?」
「んー。たぶん」
興味なさそうな返事だった。
でも、その音は妙に僕の耳に残った。
僕は買ってきた煙草と酒をテーブルに置く。ハルさんが「ありがと」と言う。それだけで、少し安心する。
冷蔵庫を開けながら、後ろでまた音が鳴った。
カチ。
カチ、カチ。
不思議と嫌じゃなかった。むしろ、静かな部屋だと落ち着くくらいだった。
「その指輪、好きなんですか」
なんとなく聞く。
ハルさんは煙草を咥えながら、自分の手を見る。
「別に。安物だし」
「じゃあなんでつけてるんですか」
「なんでだろ」
少し考えてから、
「ないと落ち着かない」
とだけ言った。
その言葉が、妙に頭に残った。
夜が深くなる。
動画を流しっぱなしにしながら、二人で酒を飲む。会話は途切れ途切れだった。でも、沈黙は苦じゃない。
カチ。
ハルさんがまた指輪を鳴らす。
「それ、結構鳴らしますね」
「うるさい?」
「……別に」
ハルさんは少し笑った。
「ユウって、“別に”多いよね」
図星だった。
僕は返事をしない。
その間にも、また小さな音が鳴る。
カチ。
その音を聞いていると、不思議と安心した。
ハルさんがそこにいる、とわかるからだ。
煙草の匂い。酒の缶。動画の光。そして、指輪の音。
気付けば僕は、それを“この部屋の音”として覚え始めていた。
深夜二時過ぎ。
ハルさんはソファに身体を預けたまま、うとうとしていた。煙草は灰皿の上で細く煙を上げている。
静かな部屋。
もう指輪の音は止まっていた。
その瞬間、妙に落ち着かなくなる。
さっきまで鳴っていたはずの音が消えただけなのに。
僕は思わずソファを見た。
ハルさんは目を閉じて、ゆっくり呼吸している。
生きている。
それを確認して、少しだけ安心した。
自分でも気持ち悪いと思った。
たかが指輪の音が止んだくらいで、不安になるなんて。
でも。
もう僕は、その音を覚えてしまっていた。




