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不安

朝、目が覚めた時、部屋が妙に静かだった。


ぼんやりした頭のままリビングへ向かう。ソファの上には脱ぎっぱなしの黒いパーカー。灰皿には吸い殻。開きっぱなしの酒缶。テーブルには昨日僕が畳み忘れたコンビニの制服。


見慣れた部屋だった。


ハルさんと暮らし始めて、もう一年近く経っていた。


最初は他人の部屋だったはずなのに、今では冷蔵庫の位置も、軋む床も、夜中に勝手に点く古い換気扇の音も、全部身体に馴染んでしまっている。


だからこそ、違和感がすぐにわかった。


ハルさんだけがいない。


「……ハルさん?」


返事はない。


コンビニへ行ったのかと思った。でも、煙草も財布もない。


嫌な感じがした。


スマホを開く。


既読はつかない。


電話をかける。


呼び出し音だけが虚しく続いた。


昼になっても、夜になっても帰ってこなかった。


部屋の中は静かなままだった。


静かすぎて、落ち着かなかった。


いつもなら聞こえるはずの音がない。


煙草を吸う音。冷蔵庫を開ける音。ソファの軋む音。夜中、眠れないハルさんが無意味に動画を流す音。そして。


カチ。


あの指輪の音。


ハルさんは考え事をしている時、よく無意識に指輪を机へ当てていた。イライラしている時は速くなるし、酒を飲んでいる時は一定のリズムになる。最初は気になっていたはずなのに、いつの間にか僕はその音で安心するようになっていた。


だから今、その音がしないことが怖かった。


僕は机の上を見る。


そこに、銀色の指輪が置かれていた。


心臓が嫌な跳ね方をする。


なんで置いていったんだ。


あんなにいつも触っていたのに。


僕はゆっくりそれを手に取る。少し冷たい。ハルさんの体温が消えたみたいで、妙に現実感がなかった。


気付けば僕は、その指輪を自分の指にはめていた。


サイズは少し大きい。


似合わない、と思った。


それでも外せなかった。


静かな部屋。僕は机に肘をつきながら、ぼんやり床を見る。無意識に指が動いた。


カチ。


小さな音。


僕は少し息を止める。


また鳴らす。


カチ、カチ。


あの音だった。


ハルさんが毎日鳴らしていた音。


それだけで胸の奥がぐちゃぐちゃになる。


会いたかった。


今すぐ。


声が聞きたかった。


僕は何度も指輪を鳴らす。


でも違った。


音は同じなのに、全然違う。


ハルさんがいない。


それだけで、この部屋は急に空っぽに見えた。


嫌な想像ばかり浮かぶ。


OD。知らないホテル。川。電車。


前にハルさんが冗談みたいに言った「俺、ふらっと消えそうだよね」という言葉まで思い出してしまう。


呼吸が浅くなる。


気持ち悪い。


僕は立ち上がった。


探しに行こう。


どこへ行けばいいのかもわからない。でも、じっとしていられなかった。


財布を掴む。スマホを握る。


その時だった。


玄関の鍵が回る音がした。


ガチャ。


僕は固まる。


扉が開く。


「……あれ、ユウ起きてたんだ」


ハルさんだった。


いつも通りの声。コンビニ袋を提げて、眠そうな顔で立っている。


その瞬間、力が抜けそうになった。


「……どこ行ってたんですか」


自分でも驚くくらい低い声が出た。


ハルさんは少し目を丸くする。


「え、コンビニ」


「丸一日?」


「あー……途中でネカフェいた」


軽い調子だった。


でも、その目の奥だけが妙に暗かった。


僕は何も言えなくなる。


ハルさんは靴を脱ぎながら、ふと僕の手を見る。


「あ」


小さく笑った。


「それ、つけてくれてんだ」


僕は反射的に指輪を隠しそうになる。


「……置いてったから」


「ごめんごめん」


ハルさんは笑う。


いつもの、誤魔化すみたいな笑い方だった。


でも。


その笑顔を見た瞬間、僕は理解してしまった。


たぶんこの人、帰ってくるつもりがなかった。


カチ。


無意識に、指輪が机へ当たる。


その音に、ハルさんが少しだけ目を細めた。


「ユウまでそれやるんだ」


冗談っぽく笑う声。


僕はうまく笑えなかった。


指輪の冷たさだけが、ずっと指に残っていた。

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