エンディングその2
「裕樹さん……」
百合子は、息を切らして駆け寄った。
裕樹は静かに両腕を開き、彼女の小さな体を優しく、しっかりと抱きとめた。
「いいんだ。もう、何も言わなくていいよ」
「え……んっ、えん……!」
百合子は、幼い子どもが母にすがるように、声を限りに泣きじゃくった。
わんわんと、抑えきれない嗚咽が銀色の部屋に響き渡る。
裕樹はそっと彼女の髪を撫で続けながら、穏やかで優しい声で尋ねた。
「なぜ、僕なんだ?なぜ、僕を選んだんだい?」
百合子は涙に濡れた顔を上げ、震える瞳で彼を見つめた。「あなたの作品が……幼くして両親を失った少女を、どん底の闇から、救い出してくれたの」
「私は、それだけを頼りに……三百年の時を越えて、あなたを探しに来たのよ」
「だから……スランプなんて、気にしないで。
もっと、もっと素晴らしい物語が、あなたを待っているわ」
裕樹は、静かに、深く息を吐いた。
「……そうだったのか。それを聞けただけで、僕はもう、十分に幸せだ」
百合子は震える指先で、一粒の銀色のカプセルを取り出した。
「これで……僕の、この一年の記憶は、なくなるのかい?」
彼女は頬を伝う涙を拭うこともせず、無理に微笑みを浮かべて、かすかに頷いた。
「未来って……本当に、残酷だな」
「こんな小さな一粒の薬で、僕の一生を、壊してしまうなんて……」
百合子はカプセルを自分の唇に含み、裕樹にそっと、深く口づけをした。
全宇宙が砕け散るような、激しく、切なく、永遠を賭けたようなキス。
甘いバニラの香りが、再び裕樹の意識を優しく、残酷に包み込んだ。朦朧とする視界のなかで、百合子の声が、遠く、かすかに響いた。
「どんなことをしても……必ず、あなたにまた会いに行くから。
そのときに、私のことを……思い出して……」
★ ★ ★ ★ ★
2004年の春、裕樹は自宅の机に向かい、ようやく自信作を書き終えたところだった。
「いつの間にか……五十ページも増えていたんだな。今日の夕方、佐藤さんが取りに来る時に、どう言おうか」
独り言のように呟きながら、インスタントコーヒーの湯気を眺める。
カップを手に、積み上がった原稿の束を見つめているだけで、胸の奥が温かく満たされた。
窓から差し込む柔らかな春の光が、紙の端を優しく照らしている。チャイムが、静かに鳴った。ドアを開けると、そこにはいつもの担当編集者・佐藤氏が立っていた。
その隣に、若い女性が控えめに寄り添っている。
「どうも、先生。お疲れ様です」
佐藤氏の声は、相変わらず軽やかで調子がいい。
「いやはや、ついに歴史長編が完成したんですね。心待ちにしておりましたよ」
「どうも……えっと……」
裕樹の視線が、自然と隣の女性に移る。
「ああ、ごめんなさい。うっかりしてました。こちら、うちの新入社員の吉田君です。今日は一緒にご挨拶に参りました」
女性は一歩前に出て、明るく、弾むような声で頭を下げた。
「吉田百合子と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
その笑顔は、花が一気に咲き誇ったかのように鮮やかだった。
元気いっぱいの瞳、屈託のない表情。
そして、かすかに——甘いバニラの香りが、そっと鼻先をくすぐった。だがその瞬間、裕樹はただ、彼女の笑顔に見とれていた。
他のことに気づく余裕など、まるでなかった。そう、二人の恋は——
今、ここから、静かに始まろうとしていた。




