エンディングその1
「裕樹さん……」
百合子は、息を切らして駆け寄った。
裕樹は静かに両腕を開き、彼女の小さな体を優しく、しっかりと抱きとめた。
「いいんだ。もう、何も言わなくていいよ」
「え……んっ、えん……!」
百合子は、幼い子どもが母にすがるように、声を限りに泣きじゃくった。
わんわんと、抑えきれない嗚咽が銀色の部屋に響き渡る。
裕樹はそっと彼女の髪を撫で続けながら、穏やかで優しい声で尋ねた。
「なぜ、僕なんだ?なぜ、僕を選んだんだい?」
百合子は涙に濡れた顔を上げ、震える瞳で彼を見つめた。「あなたの作品が……幼くして両親を失った少女を、どん底の闇から、救い出してくれたの」
「私は、それだけを頼りに……三百年の時を越えて、あなたを探しに来たのよ」
「だから……スランプなんて、気にしないで。
もっと、もっと素晴らしい物語が、あなたを待っているわ」
裕樹は、静かに、深く息を吐いた。
「……そうだったのか。それを聞けただけで、僕はもう、十分に幸せだ」
百合子は震える指先で、一粒の銀色のカプセルを取り出した。
「これで……僕の、この一年の記憶は、なくなるのかい?」
彼女は頬を伝う涙を拭うこともせず、無理に微笑みを浮かべて、かすかに頷いた。
「未来って……本当に、残酷だな」
「こんな小さな一粒の薬で、僕の一生を、壊してしまうなんて……」
百合子はカプセルを自分の唇に含み、裕樹にそっと、深く口づけをした。
全宇宙が砕け散るような、激しく、切なく、永遠を賭けたようなキス。
甘いバニラの香りが、再び裕樹の意識を優しく、残酷に包み込んだ。朦朧とする視界のなかで、百合子の声が、遠く、かすかに響いた。
「どんなことをしても……必ず、あなたにまた会いに行くから。
そのときに、私のことを……思い出して……」
★ ★ ★ ★ ★
「一條裕樹先生の作家生活二十年目を飾る大ベストセラー、『時空超えの恋人』。
サインをご希望の方は、こちらから順にお並びください。先生との握手も可能です」
会場は熱気に満ち、女性ファンたちの長い列が、尽きることなく続いていた。
四十五歳になった裕樹は、穏やかな笑みを浮かべながら、一人ひとりに丁寧にメッセージを書き込み、サインを入れ、握手を交わした。
その優しく繊細な作風は、多くの女性の心を捉え続けていたが、彼自身は今なお独身のままだった。黒いスーツを纏った一人の女性が、列の先頭に立った。
「私は、先生の作品の大ファンであることを……ようやく、思い出しました」
意味深な言葉に、裕樹は一瞬、眉を寄せた。
だがすぐに柔らかな笑みを戻し、ペンを走らせながら応じた。
「そうですか。それは、本当に嬉しいです。お嬢さん、お名前は?」
「ステファン・カーター・ヨシダです」
「ほう……ご両親に外国の方がいらっしゃるんですか?」
サインを書き終えながら、自然に尋ねた。女性はふっと、静かに笑った。
「いいえ、純粋な日本人です。
名前は、あくまで記号ですから」
裕樹はペンを置き、彼女と握手を交わした。その瞬間、かすかな甘いバニラの香りが、遠い記憶の底から、そっと鼻腔をくすぐった。
女性の穏やかで、どこか懐かしい笑顔を見て、裕樹もまた、静かに、深く会心の笑みを浮かべた。時空の糸が、再び、細く、確かに繋がったような——
そんな、温かく、切ない予感が、胸の奥に静かに広がっていった。




