エンディングその3
「裕樹さん……」
百合子は、息を切らして駆け寄った。
裕樹は静かに両腕を開き、彼女の小さな体を優しく、しっかりと抱きとめた。
「いいんだ。もう、何も言わなくていいよ」
「え……んっ、えん……!」
百合子は、幼い子どもが母にすがるように、声を限りに泣きじゃくった。
わんわんと、抑えきれない嗚咽が銀色の部屋に響き渡る。
裕樹はそっと彼女の髪を撫で続けながら、穏やかで優しい声で尋ねた。
「なぜ、僕なんだ?なぜ、僕を選んだんだい?」
百合子は涙に濡れた顔を上げ、震える瞳で彼を見つめた。「あなたの作品が……幼くして両親を失った少女を、どん底の闇から、救い出してくれたの」
「私は、それだけを頼りに……三百年の時を越えて、あなたを探しに来たのよ」
「だから……スランプなんて、気にしないで。
もっと、もっと素晴らしい物語が、あなたを待っているわ」
裕樹は、静かに、深く息を吐いた。
「……そうだったのか。それを聞けただけで、僕はもう、十分に幸せだ」
百合子は震える指先で、一粒の銀色のカプセルを取り出した。
「これで……僕の、この一年の記憶は、なくなるのかい?」
彼女は頬を伝う涙を拭うこともせず、無理に微笑みを浮かべて、かすかに頷いた。
「未来って……本当に、残酷だな」
「こんな小さな一粒の薬で、僕の一生を、壊してしまうなんて……」
百合子はカプセルを自分の唇に含み、裕樹にそっと、深く口づけをした。
全宇宙が砕け散るような、激しく、切なく、永遠を賭けたようなキス。
甘いバニラの香りが、再び裕樹の意識を優しく、残酷に包み込んだ。朦朧とする視界のなかで、百合子の声が、遠く、かすかに響いた。
「どんなことをしても……必ず、あなたにまた会いに行くから。
そのときに、私のことを……思い出して……」
★ ★ ★ ★ ★
2329年、ステファンは十五歳になっていた。二年前の交通事故で両親を失って以来、彼女はほとんど誰とも口をきかなくなっていた。
里親となった叔母は、胸を締めつけられる思いで日々を過ごしていた。
そんなステファンの心に、唯一、細く細い糸を繋いだのは、一冊の本との出会いだった。タイトルは『時空超えの恋人』。
三百年前、今の統合政府管轄エリア061区——かつて「日本」と呼ばれた国——の作家が綴った、SF恋愛小説。
なぜかステファンは、この物語を何度も、何度も読み返していた。
ページをめくるたび、胸の奥に小さな灯りがともるような気がした。ある夕暮れ、叔母と二年ぶりに交わした会話は、その小説のエンディングについてだった。
ヒロインが百合の花びらを身につけ、それだけを頼りに、別時代からやってきた恋人が雑踏のなかから彼女を見つけ出す——さほど珍しくもなく、恋愛小説の定番ともいえる結末を、ステファンは熱を帯びた声で語った。
叔母は、ただ静かに耳を傾けていた。ステファンは、タイムトラベラーに強い憧れを抱いていた。
叔母が最初に恐れたのは、亡くなった両親に会いに行こうとするのではないか、あるいはあの事故を止めようとするのではないか、という思いだった。
確かに、この時代では過去への時間跳躍は可能だ。
だが、厳格な制限が設けられている。
特に「三世代以内」——現代から遡って120年以内の時空への移動は、固く禁じられている。
タイムトラベラーの三大原則の一つ、「過去の親族との交わりは現代を破壊しかねない」という鉄則が、冷たく重くのしかかっていた。叔母の心配をよそに、若いステファンは、
自分の人生で最も深い闇に沈んだときに、光を灯してくれたこの小説の世界に、そして何より、その物語を生み出した作者に、心を奪われていた。その夜、流星群の予報通り、夜空に無数の光の筋が走った。
ステファンは窓辺に立ち、静かに手を合わせた。
「いつか……その時代に、その作者に、会いに行こう」
そして、物語のエンディングに倣って、そっと呟いた。
「そうだ……百合子、という名前にしよう。
昔の日本人のように、姓を前にして——吉田百合子」
「あぁ……星空が、綺麗だなぁ。
吉田百合子……心地よい響き」
満天の星の下で、ステファンは小さく、しかし確かに笑みを浮かべた。
そのまま、穏やかな眠りへと落ちていった。夢のなかで、彼女はもう、白馬の王子様と静かに語り合っている。
優しい声が、遠くから、そっと彼女を包み込んでいた。




