夜
「はっぁ・・・」、あくびをしながら、ゆっくりと目を開けた裕樹は鈍い頭痛に襲われた。窓越しに、夕焼けが差し掛かっている。
「4時か・・」、約10時間近く寝たのである。時計を見ながら裕樹は体を起こした。寝室のベッドの上にいた自分がちょっと不思議な感じがした。全身がひどくだるい。それと、かすかなバニラのような匂いがした。これは・・前にもどこかで嗅いだような気がするな。いつで、どこでだろう・・・
おぼつかない足どりで居間に来て見ると、百合子はいない。テーブルの上に空瓶とグラス2個置いてある。あまり酒を飲まない裕樹であったが、
「いつの間に飲んだのか・・」とすぐ隣に整頓とプリントされた原稿の紙が見えた。それを手にとって見ると、雑誌連載の小説が2つと自分が考えているミステリー短編が綴られていた。
しかも、内容が本当に自分の構想にあったすばらしい出来である。でも、自分が書いた記憶はないのだ。裕樹は書斎へ行き、執筆するノートパソコンをチェックした。予定の原稿ファイルは依然と空白のままである。「まさか、百合子が・・」、裕樹は直ちに百合子の携帯に電話を入れた。不通だったので、すぐに出版社に連絡した。
「先生、おはようございます。吉田ですか?昼前に会社を出て、まだ帰社されてないのですが」との返答。「どうしたものか?」状況を把握できないまま、裕樹は困惑した。とりあえず、シャワーを浴び、冷蔵庫から氷嚢を出して、額を冷やす。
再度原稿を読み返した。たしかに、自分の文筆である。しかも連載の2作品は3、4回の分量があった。また、短編のほうは実によくできていた。
そいえば、最近よくアイディアがまとまらず、以前のようにうまく書けなくなったことを百合子に幾度となく相談したものだ。あいつ、そのことを気にして、代筆してくれていたのか。
思考がまとまらないと思い、裕樹は結果を急がず、百合子が戻るのを待つことにした。
時刻は夜9時を回り、裕樹は連載の原稿を整理して、出版社にファックスを流した。短編は百合子が担当なので、ひたすら彼女の帰りを待つ。
11時ぐらいである。チャームがなり、ドアを開けると、百合子ではなく、同じ出版社の百合子の上司である。
「どうも、先生お疲れ様です。原稿を取りにあがりました」、
「えーと・・」、
「はい、佐藤です。」
「吉田さんは?」
「申し分けございませんが、吉田はまだ会社に戻っておりません。連絡を取ろうとしたのですが・・、それで私がかわりに原稿を・・」
「なるほど、そうですか、わかりました。どうぞ、あがって下さい」。居間のソファまで上げて、短編の原稿を佐藤氏に渡す。
「これは・・、すばらしいです」読み終えた佐藤氏は感激したようである。「書下ろしにはもったいない、さっそく会社に持ち帰って、今度の作品賞に挙げたいと思います」。
「そうですか、それはうれしいです」と裕樹は淡白な口調で他人かのごとくつぶやいた。
「それでは先生、遅くまでお疲れ様でした。お邪魔致しました。」、玄関まで送り、帰りの際に佐藤氏は「吉田から連絡入り次第、先生の所へ出頭させますので」と言い残した。
なんとか、無事に今日の締め切りを乗り越えた裕樹は、抜け殻のようになり、謎と頭痛を抱え込んだまま、再び眠りについた。