ダークエンジェル01 招待状
ダークエンジェル編 第一話 招待状
▼1
駒が木の盤に置かれる音は、とても小さかった。誰かを起こさないように気をつけているみたいに。
「王手」
アンソニアは病室のベッドで枕にもたれていた。雪のように白い瞳を天井に向けたまま、口元を少しだけ持ち上げている。指先を盤の縁にかけていて、今置いたばかりの「砲」が、夢人の「帥」の前、駒ひとつ挟んだ位置にぴたりと止まっていた。彼女には盤が見えない。それなのに、この一局で一手も間違えていなかった。ついでに言うと、このベッドの下にこっそり棋譜のコンピュータが隠してあるんじゃないかと夢人が疑うのは、これで何度目か分からない。
夢人はシャンチー——中国将棋の盤を長いあいだにらみつけて、ようやくのろのろと「士」を動かして盾にした。
「これでどうだ」
「じゃあ、これをいただきます」
彼女がまた一手指した。見下ろすと、さっき動かしたばかりの「士」が、彼女の「馬」にあっさり取られていた。
(……また負けた)
彼は後ろに手をついて、背もたれに体をあずけた。椅子がギシッと鳴る。この体は脚が短くて、三〇二号室の硬い椅子に座ると、つま先がやっと床に届くくらいだった。いつもの癖で脚を組もうとして、途中でスカートだったことを思い出し、黙って脚を戻した。「頭より体のほうがよく覚えている」というこの瞬間に、この数か月で二十回は出くわしている。そのたびに、天に苦情を申し立てたくなる。
そういえば、黒い羽に屋上へ縫いつけられてから、ちょうど四か月がたつ。
傷はとっくに治っていた。ラフィアのおかげだ。羽に貫かれた背中と太ももには、今はうっすらと赤い跡が残っているだけで、風呂に入るときには見えるが、痛みはない。本当に残っているのは、別のものだった。夜中にふっと目が覚めることがある。耳元で、子供の震える声が「おじいちゃん」と呼んでいる。
そのことは、誰にも話していなかった。
「次は私が問題を出しますね」アンソニアがふいに言った。
「またかよ」
「口にしたとたんに壊れてしまうもの。なーんだ?」
夢人は少し考えた。「秘密?」
「半分だけ正解です」彼女は笑って首を振った。「答えは、沈黙。『沈黙』って言った瞬間に、もうそこにはないでしょう?」
「それ、ただの言葉遊びだろ!」
「私は病人なんですから、いじめないでください」
窓辺でパタンと音がした。本を閉じる音だった。ジュリエットが本棚のそばの低い腰かけに座っていた。膝の上にはいつまでも読み終わらないあの本、その上にもう一冊ノートを広げて、ごく小さな鉛筆で何かを書いている。二行書いたところで顔を上げた。片目の金縁の単眼鏡が、きらりと光った。
「あなたたち二人がうるさくて、書けないじゃない」
「何書いてるんだ?」夢人が聞いた。
「物語の新しい章よ」ジュリエットはノートを胸に抱え込んで、見せようとしなかった。「タイトルはまだ決まってないけど、第一章はもうできてるの。『車椅子の少女、女子高生に百八連勝』」
「三十七局だっての!」
「百八局よ。覚えてるもの」
「お前の『覚えてる』は記録音の『覚えてる』だろ!」
ジュリエットは肩をすくめて、ノートをめくり、また書きはじめた。ベッドの上でアンソニアが声を立てて笑った。とても小さな笑い声で、小石がひとつ水に落ちたみたいだった。
夢人もつられて少し笑った。そしてそのとき初めて気づいた。この部屋で過ごす時間が、いつの間にか、一日でいちばん楽しみな時間になっていたことに。朝は学校に行って、放課後は三〇二号室に寄って、アンソニアとシャンチーを指して、ジュリエットが新しく書いた段落を読むのを聞く。夜は家に帰って、警部——君語の父親——がテーブルに置いていったカップ麺を食べる。ときどき廊下の突き当たりの二〇一号室の前を通りかかると、足を止めて、ドアの細い窓越しにベッドの上の人をひと目だけ見て、また歩き出す。
今日は中に入らなかった。ドアの前で少しだけ立ち止まって、「あとでまた来る」と言っただけだった。
横たわっている人は、答えなかった。
★ ★ ★
▼2
午後三時過ぎ、三〇二号室のドアが軽く二回ノックされた。
「おじゃましまーす」
ドアが開いて、白いナース服の人影がのぞき込んできた。ピンクのショートヘアが耳元で揺れ、目は三日月みたいに細められている。手には何かの束を、取られまいとするみたいに高々と掲げていた。
「ラフィアお姉さん!」アンソニアが顔を上げて、声のするほうに少し顔を傾けた。
「いい知らせがあるのよ」ラフィアは入ってきて、その束を盤の上にばさっと置いた。置いたついでに、夢人が取られた「士」をその下敷きにしていた。証拠品をひとつつぶしたことには、まったく気づいていない。「まずは当ててみて。なんでしょう?」
夢人は目を落とした。分厚い封筒の束だった。生成りの色で、縁には金の線が箔押しされている。持ち上げると少し重く、紙はふつうの封筒よりずっと硬かった。封のところに小さな図柄が押してあって、それを見たとたん、彼は固まった。
十字キーで切り分けられた、ひとつのリンゴ。
「任天道……?」封筒の左上の文字を、彼は読み上げた。
「そう!」ラフィアがぱんと手を叩いた。「任天道パーク、来月で開園二十周年なんだって。それで『社会への恩返し』のチャリティーデーをやるの。うちの病院の患者さんとご家族を、三日間、無料で招待してくれるのよ。宿泊も食事も交通も全部込み。車椅子専用の通路まで用意してくれるんだって」
彼女は束の中から一通を抜き取って裏返し、指でとんとんと叩いた。そこには小さな字で、一行だけ印刷されていた。特別招待——アンソニア様、ほかご友人一名様。
「病院から看護スタッフが付き添うことになってね、私が指名されたの」ラフィアは胸を張った。「私が引率ナースよ」
「引率?」
「旗を持って、点呼して、みんなちゃんと船に乗ったか確認する人」彼女は旗を掲げる仕草をしてみせた。「しかもね、どのグループも制服を着ることになってて、私はこれでいいんだって」
彼女はくるりと一回転した。スカートの裾がふわりと広がる。封筒をもらった患者よりも、よっぽど浮かれていた。
「だから、みんなで一緒に行けるの」目がきらきらしていた。「天使からのご褒美の休暇よ、使わなきゃ損損~! いえーい~!」
アンソニアは何も言わなかった。封筒を握ったまま、封のリンゴの図柄を、指で二回なぞった。
夢人はその手を見ていた。けれど頭の中には、別のことが浮かんでいた。四か月前。李さんの記憶の奥にも、この印があった。〈心霊同調〉で老人の肩に触れたときに見えたものだ。十字キーで切り分けられたリンゴが、脅されている場面の中でちらりと光った。あのときに初めて、「任天道」という会社があることを知ったのだ。スマホの中の、開けないゲームのアイコンというだけではない会社が。
「行かない」夢人は言った。
ラフィアがきょとんとした。「え?」
「この会社、何かおかしいと思う」できるだけ警告っぽく聞こえないように、彼は言った。「いきなり病院の患者をまるごと招待して、しかも全部タダでもてなすなんて、ふつうの会社はやらない」
「でも、院長はもう返事しちゃったのよ」ラフィアはぱちぱちとまばたきした。「それに考えてもみて。ゲーム会社なんだから、イベントくらいやるでしょ。毎年こういう社会貢献をする企業だって、たくさんあるし」
「でも——」
「君語さん」
アンソニアが口を開いた。とても小さな声で、三人にしか聞こえないほどだった。
「私、行きたいです」
夢人は彼女を見た。
「私、一度も病院の外に出たことがないんです」アンソニアはゆっくりと言った。「病院の壁は、全部触ったことがあります。外の風は、聞いたことしかありません」
指はまだ封筒の上に置かれたままで、指先がかすかに白くなっていた。
「一度だけ、行ってみたいんです」
(……)
夢人は口を開いたが、その先の言葉が喉に引っかかって、どうしても出てこなかった。彼女がうれしそうにしているところなら、見たことはある。シャンチーで勝ったとき。甘いものを食べたとき。ジュリエットがおかしな段落を読んだとき。でも、彼女がこんな口調で「〜したい」と言うのは、一度も聞いたことがなかった。ふだんの彼女が使うのは、いつも「〜できる」「〜のはず」「〜かもしれない」だった。
「私は招待されてないから、荷物ってことで」ジュリエットが横で手を挙げて、小声で言った。「本が一冊、車椅子に置いてあるってことにしておいて」
「お前が本?」夢人は彼女を見た。
「本よ」彼女は大真面目だった。「しかも軽いの」
アンソニアが枕の上で声を立てて笑った。ラフィアは振り向かなかった。うつむいて、封筒を一通ずつきれいにそろえていた。最初から最後まで、彼女の視線が本棚の横の低い腰かけに向くことは、一度もなかった。
★ ★ ★
▼3
ラフィアが出ていくと、病室は急に静かになった。盤の駒はさっきの騒ぎのまま、封筒の束に押されていくつも傾いていた。夢人はひとつずつ拾い上げて、元の位置に並べ直した。「帥」を置いたところで、アンソニアが口を開いた。
「君語さん」
「ん?」
「さっき行きたくないって言ったのは、どうしてですか?」
夢人の手が一瞬止まった。すぐには答えず、「帥」をきちんと置いてから、口を開いた。
「李さんの、あの夜。あの人には印があったんだ。この封筒のと、同じやつが」
「はい」
「俺が見た記憶だと、あの人は任天道の人間に脅されてた。そのあと、自分からぐるになってもいた。どっちもなんだ。この会社が何をやってるのかは分からない。分かるのは、ここに関わった人間は」少し言葉を選んでから、続けた。「なんか、あんまりきれいじゃないってことだけだ」
「だから、私のことが心配なんですね」
「お前らのことが心配なんだ」
アンソニアは小さく笑った。さっきほど明るい笑顔ではなかった。その下に、ごく浅い何かが沈んでいた。
「私も少し心配です」彼女は言った。「でもそれ以上に、知りたいんです。あの会社が、どうして私たちを招待するのか」
彼女は封筒を持ち上げて、窓のほうへかざした。本当に光が見えているみたいに。
次の瞬間、その指がぎゅっと縮こまった。
封筒が手のひらの中でくしゃりとつぶれた。彼女の顔がかすかにのけぞった。誰かにいきなり突き飛ばされたみたいだった。まつ毛がひどく震えている。夢人はすぐに立ち上がった。椅子が後ろに滑って、嫌な音を立てた。
「アンソニア?」
答えはなかった。唇が動いていたが、声は聞き取れないほど小さかった。夢人は顔を近づけて、やっとのことで三つの言葉を拾った。ひとつ、またひとつと、途切れ途切れに。
「……火」
「……冬」
「……杯」
ジュリエットはもう本を閉じていて、ひと跳びでベッドのそばに駆け寄り、両手で彼女の肩を支えた。
「しゃべらないで」ジュリエットの声が、珍しく低かった。「ゆっくり息をして」
アンソニアは目を閉じた。胸が上下している。十数秒たって目を開けると、雪のように白い瞳に焦点はなかったが、その顔は正確に夢人のほうを向いていた。
「大丈夫です」少し息を切らしながら、彼女は言った。「ちょっと、めまいがしただけです」
「今、何か言っただろ——」
「何か言いました?」彼女は笑った。「自分でも覚えてないんです」
それが、彼女が彼についた初めての嘘だった。夢人には分かった。くしゃくしゃになった封筒を広げ直すとき、彼女は四隅をひとつ残らず、力を込めて伸ばしていたからだ。いくらアイロンをかけても平らにならないシャツに、アイロンを当てているみたいに。
(火、冬、杯)
その三つの言葉を心の中でもう一度唱えてみたが、ひとつもつながらなかった。
「行きましょう」アンソニアが言った。
「でも、今——」
「確かめてみたいんです」広げた封筒を膝の上に置いて、彼女はさっきより少し落ち着いた声で言った。「あそこで、誰かが私たちを待っているのかどうか」
夢人は彼女を見つめて、初めて彼女に会った日のことを思い出していた。この少女には何もかもが見えている。なのに、目の前の道だけが見えない。いつも他人の明日の中で生きていて、自分の今日を安心して過ごせたことなんて、一度もないのだ。
(今ここで無理やり引き止めたら、こいつはどう思う?)
(一緒に行けば……少なくとも、俺がそばにいられる)
「分かった」夢人は言った。
言い終えてから気づいた。今の声は、夢人の声だった。君語の声でも、マフラーを巻いて「恐れよ」と叫ぶヒーローの声でもない。何年も前、特撮イベントで女の子と並んで座って、スクリーンを見ながら笑っていた、あの人間の声だった。
彼は椅子を引き戻して、腰を下ろした。
「でも、道中はずっとお前についてるからな」
「はい」
「こっそり予知を使うのも、こっそりうろうろするのもナシだ」
「はい」
「それから」少し考えてから言った。「あの会社の資料、全部調べる」
「もう調べてるじゃない」ジュリエットが横から小声で言った。「さっき、あなたのスマホが光ってたわよ」
うつむくと、本当にスマホの画面が光っていた。ホーム画面の、ずっと開けなかった灰色のゲームのアイコンが、小さく揺れていた。図柄は、十字キーだった。
タップしてみた。反応はない。もう一度タップすると、アイコンはまた少し揺れて、すっと沈んだ。
(……変だな)
彼はスマホを裏返して盤の上に伏せ、今のことは何もなかったふりをした。
★ ★ ★
▼4
夜、家に帰ると、警部はまだ帰っていなかった。テーブルには弁当がひとつ置いてあって、その下に走り書きのメモが挟んであった。今夜は残業。レンジで温めて食べろ。待たなくていい。
ふたを開けると、鶏もも肉で、付け合わせはチンゲン菜と小さな煮卵だった。電子レンジに入れて、横で待つ。待っているあいだに、スマホが一度震えた。
警部からの電話だった。
「父さん」
「君語か。飯は食ったか?」電話の向こうはひどく騒がしかった。誰かがしゃべっている声、紙をめくる音、それから咳払い。警部の声はひどく疲れていた。一日分の力を、全部使いきったみたいな声だった。
「今温めてる。まだ署にいるの?」
「南山の件でな、肝心の証人がつかまらないんだ」警部は声を落とした。「今日もまた上から呼び出されて、これ以上追うなと言われた」
「それでも追うの?」
「警察だからな」
夢人は何も言わなかった。電子レンジがチンと鳴ったが、手を伸ばさなかった。
「そういえば」警部の口調が変わった。「学校から聞いたぞ。病院のイベントで、どこかの遊園地に三日間行くとか」
「うん。同級生の友達に誘われて」嘘とも言いきれない嘘をついた。
「行ってこい。たまには外で遊ぶのもいい」警部は少し間を置いた。「ただな、君語。ああいう場所は人が多い。気をつけろよ。面倒は起こすな」
「分かってる」
「お前、最近夜中によく寝返りを打ってるだろう」警部の声が、急にとても静かになった。「また、あのことを考えてるのか?」
「……あのことって?」
「ニュースでやってる、李という爺さんの事件だ」
夢人の指が、電子レンジの取っ手の上で固まった。
「犯人はまだ見つかってない。うちの署でも担当してる奴がいる」警部は続けた。「亡くなった人のお孫さんは、今もあまりしゃべらないそうだ。お前がニュースを見て眠れなくなるのは分かる。だがな、ひとつだけ父さんと約束してくれ」
「なに?」
「ひとりで抱え込むな。何かあったら、父さんに話せ」
電話の向こうで誰かが「警部!」と呼ぶ声がして、警部は慌ただしく「またあとでな」と言い、電話が切れた。
夢人はスマホを握ったまま、台所に長いあいだ立ち尽くしていた。
(俺は、この人の娘じゃない)
(でもこの人は今日、俺に向かって話してたんだ)
電子レンジの中の弁当はとっくに冷めていた。それを取り出すことを思い出すまでに、ずいぶん時間がかかった。
★ ★ ★
▼5
出発の前の夜、彼は風呂場の鏡の前に長いあいだ立っていた。
鏡は湯気で曇っていた。手のひらで一部分をぬぐうと、そこに少女の顔が現れた。丸い目に、ぱっつんの前髪。髪はまだ濡れていて、頬に貼りついている。君語の顔だ。何か月も見てきたのに、いまだに見慣れない。
マフラーを巻いて一歩下がり、深呼吸をして、右手を前に突き出し、左手を腰に当てた。
「恐れよ、悪をなす者よ!」
鏡の中の人も、同じポーズを取った。とても正確で、とてもかっこいい。君語が毎晩毎晩練習して身につけたポーズだ。指を何度反らせるかまで、こだわりがあった。彼は彼女のやり方どおりに、もう一度やってみた。右足を前に、左手を後ろに、目を見開いて、声を張り上げる。
「裁きを受けよ! 我こそは輪廻ヒーロ——」
途中で、彼は止まった。
鏡の中の人はまだ口を開けている。でも目つきが変わっていた。君語の目ではなかった。君語が鏡を見るときの目は、きらきらしていた。自分が本物のヒーローだと信じている子供の目だった。でも今、鏡の中にあるこの目は、少し赤くて、少し疲れていた。
屋上の黒い羽を思い出した。老人の胸に開いた大きな穴を思い出した。子供の目を思い出した。あの子が彼を見たとき、その目に映っていたのは銃を提げた少女だった。そしてその少女は、君語の顔をしていた。
(俺は、あいつの顔で、子供にあんなものを見せたんだ)
ゆっくりと手を下ろす。鏡の中の人も、同じように手を下ろした。
風呂場は静かだった。蛇口から水が滴る音だけがしていた。その顔を長いあいだ見つめて、彼は鏡に向かって小さく言った。
「……ごめん」
答える人はいなかった。
それが君語に向けた言葉なのか、あの子に向けた言葉なのか、彼自身にも分からなかった。
★ ★ ★
▼6
フェリー乗り場。
空はどんよりと曇っていた。潮の匂いのする海風が旗をバタバタと鳴らし、乗り場は人でごった返していた。病衣を着た人、車椅子に乗った人、家族に押されている人、酸素ボンベを抱えた人、点滴スタンドを引いている人。みんなそれぞれの家族と一緒に、入り口に長い列を作っていた。列の横には大きな看板が立っていて、あのリンゴが印刷され、その横に金色の文字が一行並んでいた。
任天道パーク・開園二十周年チャリティーデー
おかえりなさい。
「おかえりなさい」の六文字を、夢人は二度読んだ。
(なんで「いらっしゃいませ」じゃなくて、「おかえりなさい」なんだ?)
口には出さなかった。
ラフィアは列の先頭に立っていた。きれいなナース服を着て、右手には黄色い小旗を掲げている。旗には「三〇一〜三〇五号室」と書いてあった。胸には名札、左手にはクリップボード。ボードには分厚い名簿が挟まれていた。点呼を取りながら名前の横にチェックを入れていくその手つきは、本物のツアーガイドみたいに手慣れていた。
「陳さん、はい! 王さん、はい! 子供たちは手をしっかりつないでね、勝手に走っちゃだめよ!」彼女はこちらを振り返った。「君語ちゃん! アンソニア! こっちこっち!」
夢人は車椅子を押してそちらへ向かった。車椅子の上のアンソニアは白い帽子をかぶっていて、つばを深く下げていた。帽子の下から、銀色の毛先が少しだけのぞいている。顔は海のほうを向いていて、鼻をかすかにひくつかせていた。空気の匂いを嗅いでいるのだ。
「海ですね」彼女は小さな声で言った。
「ああ、海だ」
「匂いがすごく強いです」彼女は言った。「本に書いてあったのと違います。本には青いって書いてあったのに、この匂いは、鉄と塩の匂いです」
夢人は何も言わず、車椅子をもう少しだけしっかりと押した。
ジュリエットは車椅子の肘掛けに腰かけて、両足をぶらぶらさせていた。あの本を抱えていて、その上には小さなブランケットまでかけてある。本当に荷物のひとつみたいだった。通りかかる人は誰ひとり、彼女に目を留めなかった。ラフィアが点呼を取るときも、ペン先は車椅子の肘掛けの横の何もないところを素通りして、君語とアンソニアの二人の名前にだけチェックを入れた。ただひとり、列の横にいた小さな女の子だけが、彼女を指さして大きな声で言った。「ママ、あのお姉ちゃん、椅子の上に座ってる!」
母親は不思議そうな顔をした。「どのお姉ちゃん?」
ジュリエットはその女の子に向かって、しーっと人差し指を立てた。女の子は手で口をふさいで、目をまん丸にした。
「点呼終わり!」ラフィアが旗をさらに高く掲げた。「みなさん、私たちについて船に乗ってくださーい! 船には温かいお茶とクッキーがありますよ。押さないで、ゆっくり歩いてね!」
列が動きはじめた。夢人は車椅子を押してタラップを上がっていった。ラフィアの横を通り過ぎるとき、彼女の手のクリップボードがちらりと目に入った。名簿には名前がずらりと並んでいて、それぞれの名前の横に「病名」という欄があった。
見るつもりはなかった。でもその欄の文字があまりにもばらばらだったので、目が勝手に追ってしまった。
「原因不明の高熱」
「多臓器の異常、原因特定できず」
「反復性の幻聴」
「完治後に再発、検査上は異常なし」
「夜間の自然発光(皮膚病変の疑い)」
「カルテ注記:説明不能」
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。下へ下へと読んでいくと、どの名前の横にも、似たような記録があった。ふつうの病気ではない。よくある慢性の病気でもない。病院でさえ分からない……そういう病気だった。
彼は足を止めた。
「どうしたの?」ラフィアが振り返った。
「なんでもない」彼はすぐに目をそらした。「ただ、この船の人たち、なんていうか……ちょっと、変わってるなって」
「みんな患者さんだもの」ラフィアは笑った。「ほら、早く上がって。後ろの人が待ってるわよ」
彼はうなずいて、車椅子を押して進んだ。けれど頭の中は、止まってくれなかった。
(なんでこの人たちには、みんな「説明不能」なんて記録があるんだ?)
(任天道は、どうやってこの人たちを招待すればいいって知ったんだ?)
(任天道はゲーム会社だろ? なんで病院のカルテなんか手に入るんだ?)
疑問がひとつ、またひとつと浮かんでは、ひとつ、またひとつと沈んでいく。答えはなかった。分かったのは、車椅子の上の人の指が、彼の手の甲をそっと押さえたことだけだった。
「怖がらないで」アンソニアが小さな声で言った。「私がいますから」
(……それ、俺がお前に言うべき台詞だろ)
夢人は何も言わず、車椅子を船室へと押し入れた。
汽笛が鳴った。
フェリーがゆっくりと岸を離れていく。乗り場の人影がどんどん小さくなり、海風に旗がいっそう激しく鳴った。夢人は甲板の手すりのそばに立って、あの街が少しずつ縮んで一本の灰色の線になり、最後には霧の中に消えていくのを見ていた。手は、まだ車椅子のハンドルに置いたままだった。
ふいに、頭上でブーンという音がした。
見上げると、白い小型のドローンが一機、雲の中から降りてくるところだった。機体には、あの十字キーで切り分けられたリンゴが印刷されている。ドローンはフェリーのまわりを一周して、甲板の上でぴたりと止まった。カメラが彼の顔をとらえて、動かない。
赤い小さなランプが、一度だけ点滅した。
それからドローンは高度を上げて、雲の中に消えていった。
——第一話 完
本作は、中国語の原案をAI翻訳によって日本語化したものです。
翻訳に不自然な点や、内容について気になることがありましたら、お気軽に教えてくださいね〜!




