ダークエンジェル02 ダークエンジェルたち
ダークエンジェル編第二話 ダークエンジェルたち
▼1
昼の工事現場には風がなかった。太陽がコンクリートの床スラブを真上から照りつけていて、影さえ動くのをやめていた。
フィニックスは三階のスラブの縁にしゃがんでいた。膝の上にはアルミホイルの弁当。箸はまだうまく使えなくて、煮卵が二回すべって、三回目でやっとつまめた。隣では二人のベトナム人労働者がしゃべっていた。早口で何を言っているのか分からなかったが、ひとつだけ聞き取れた単語があった。「チャリティーデー」。
彼は顔を上げた。
しゃべっていたほうが、スマホを仲間に見せていた。画面には広告が映っていた。ひと口かじられたリンゴ、その横に十字キー。
「タダだよ」その労働者は、彼が画面を見つめているのに気づいたのか、ぎこちない中国語で話しかけてきた。「行く? 金髪、あいつら、喜ぶよ」
「行かない」
「なんで? タダだよ」
「うるさいのは嫌いだ」
労働者は肩をすくめて、スマホをポケットにしまった。
フィニックスは弁当のふたを閉めて足元に置き、自分のスマホを取り出した。画面には三週間前に届いたメッセージがあった。ずっと消していない。
開園記念日、チャリティーデー。
メッセージの下には既読の印がついている。返信はしなかった。ずっと、しなかった。あの夜、彼は病院の廊下に立って、この一行を長いあいだ見つめていた。それからスマホをポケットにしまって、病室の中でラフィアが高校生を叱りつけている声を聞いていた。
手の中でスマホが一度震えた。同じ相手からだった。
今夜、倉庫に全員そろう。
その文字を見つめて、親指が画面の上で一瞬止まった。それから画面を消し、弁当の空き箱のふたを重ねてビニール袋に入れ、立ち上がって、午後最初のセメント袋を担ぎに行った。
現場監督が下から彼を呼んだ。相変わらず、彼には意味の分からないあだ名で。
「おい坊主、今日はやけに静かじゃねえか」
「なんでもない」
「なんでもないなら急げ! 四階のタイル、今日中に貼り終えるぞ!」
セメントを肩に担ぐ。五十キロ。もう主の加護に頼る必要はなかった。三か月のあいだに、この体はこの世界の重力に慣れてしまった。慣れすぎて、自分でも少し悔しいくらいに。肩甲骨の下の小さな一か所がむずがゆい。黒羽のある場所だ。力を入れすぎると、毎回そこがむずがゆくなる。
彼は、掻かなかった。
★ ★ ★
▼2
倉庫の鉄扉は半分開いていた。フィニックスはヘルメットを現場に置いてきて、古い帆布のバッグひとつだけを背負っていた。中では電球がついていて、壁にはあのチョークの文字がまだ残っていた。「天使諸君」。その下の小さなマイクの絵は、チョークが少しはげて色が薄れていた。
中には思っていたより多くの人がいた。鉄の棚の前の空き地に、十数人が座っている。ドラム缶に座る者、床に座る者、壁にもたれる者。誰もしゃべっていない。彼が入ってくると全員が一度だけ彼を見て、それからまたそれぞれ手元に目を戻した。誰も司会をやりたがらない保護者会みたいな空気だった。
莉音は一番前のドラム缶に座っていた。
今日は化粧をしていなかった。髪は適当に後ろで束ね、フィニックスが現場で拾ってきた灰色のパーカーを着て、袖を二回折り返している。マイクは膝の上に置いてあって、片手でそれを押さえていた。猫でも押さえているみたいに。
「来たか」莉音が言った。
「ああ」
「座れよ」
「立ってる」
莉音はそれ以上すすめなかった。手を叩くと、倉庫じゅうの視線が彼に集まった。
「よし、全員そろった。まずひとつ、はっきりさせておく。ここにリーダーはいない」彼は少し間を置いた。「ただ、ひとり名前を壁に書かれたやつがいる。だから隊長って呼んでもいい。返事はしないだろうけどな」
誰かが短く笑った。フィニックスは壁を見たまま、表情を変えなかった。
「左から順に」莉音が言った。「自己紹介。名前だけでいい。理由は言わなくていい」
一番左に座っていたのは四十がらみの男だった。眼鏡のつるがテープで巻いてある。周という姓で、老周と呼んでくれればいいと言った。以前は任天道の台湾支社でバックエンドを担当していて、プログラムを管理していた。一昨年リストラされた。解雇通知に書かれていた理由は「組織再編」で、受け取った金は本来もらえるはずの三分の一だけだった。今は屋台で皿洗いをしているという。
その隣は若い女の子だった。黒い長袖を着て、袖口を手の甲まで引っぱっている。小夏という名前だった。タレント契約を結んだのに、この三年間やらされてきたのはHゲームの声の仕事ばかりで、契約はまだ十七年残っているという。そう言ったきり、ほかには何も話さなかった。
次は日焼けで肌の真っ黒な男で、阿勇といった。密航してきて、漁船で二年働いた。身分証は仲介業者に取り上げられたままだという。仲介業者は彼から四百万を取って、任天道の工事現場を紹介した。現場の人間は、試用期間だから給料は払わなくていいと言ったそうだ。
その次はひどく痩せた少年で、古阿黙、十七歳。特別な誰かではなく、ただの「使徒」だと、自分でそう言った。できることはひとつだけ。半径二メートルくらいの小さな範囲から、存在を消すこと。もって三十秒だという。
最後のひとりは、誰も知らない中年の女性だった。ずっとうつむいている。莉音が言った。「この人は言わなくていい」
女性はうなずいて、何も言わなかった。
フィニックスはひとりずつ見ていって、すべての顔を頭に刻みこんだ。十一人。それに莉音と、自分を足して、全部で十三人。三か月前、壁に四文字しかなかったころに比べれば、十一人増えたことになる。
どれだけ軍隊らしく見えなかったとしても。
★ ★ ★
▼3
鉄の棚に貼ってあったパークの平面図がはがされて床に広げられ、四隅をレンガで押さえられた。老周が赤いサインペンを持ってきた。
「これは辞める前に俺が描いたものだ。いくつか位置が変わってる場所もあるが、本館の構造は変わらない」彼はしゃがんで、地図の中央にある一番大きな建物をペン先で指した。「ここが本館だ。地下一階が配電室で、電源は外から海底ケーブルで来てる。こいつを切れば、パーク全体が十分くらい真っ暗になる。そのあと予備の発電機が動き出す」
「十分で足りるのか?」阿勇が聞いた。
「入るには足りる。出るには足りない」老周は言った。「だから全員が入るわけにはいかない」
莉音がペンを受け取って、ステージの位置に丸をつけた。
「俺はここを受け持つ」
全員が彼を見た。
「チャリティーデーにはオープニングのショーがある」彼は言った。「やつらは必ず誰かをステージに上げる。マスコミに撮らせるためにな。俺はそのタイミングで飛び込む。どんな立場でもいい」
「まだ歌うつもり?」小夏が聞いた。
「復讐の狼煙を上げるんだ」莉音はごく淡々と言った。「ステージのまわりには人がいる。範囲はコントロールする。燃やすのはステージとビルだけだ。客は燃やさない」
老周が眉をひそめた。「コントロールできるのか?」
「できなくても、する」
それ以上、誰も問いつめなかった。
フィニックスが壁際から歩いてきて、地図の前にしゃがみ、長いあいだ見つめた。指で港からなぞっていく。入園ゲートを過ぎ、広場を過ぎ、本館の裏手にある小さな四角の上で止まった。
「これは?」
「社長室だ。最上階」老周が言った。
「そいつはいるのか?」
「チャリティーデーなら必ずいる。サインをして、写真を撮って、スピーチをする。スピーチが終わったら上に戻る。たいてい四十分だ」
「ステージから最上階まで、どれくらいかかる?」
「階段で、誰にも止められなければ、十五分ってところだ」
「止められたら?」
老周は答えなかった。
フィニックスは手を引っこめた。「俺が上に行く」彼は言った。「あいつに口を開かせたいだけだ。あのとき、なぜアメリカに人を送ったのか。なぜアタリに手を出したのか。それをあいつの口から言わせる。言わせたあとどうするかは、そのとき考える」
倉庫の中が、一瞬静まり返った。
「当日は何人くらい入るんだ?」阿勇が聞いた。
老周は少し考えた。「去年のチャリティーデーで二万人ちょっと。今年は患者の団体がいる。病院とか学校とか。もっと増えるだろう」
「患者」フィニックスはその言葉を繰り返した。
「十いくつの病院を招待したらしい」老周は言った。「船も無料で貸し切りだ」
フィニックスは動かなかった。手は地図の縁で止まっていて、指先に押された紙が、かすかにしわを寄せた。一瞬、何か言いかけた。けれど、別の考えがそれを覆い隠した。十いくつの病院。この街には病院なんていくらでもある。あの病院とは限らない。
その考えはとても筋が通っていた。筋が通りすぎていて、自分でもあまり信じられないくらいに。彼は手を引っこめた。
「警備は?」彼は聞いた。
「陰陽協会が人を出す」老周は言った。「任天道が金を払って、やつらは外周を受け持つ。あとは何組か広場を巡回してる。チャリティーデーは人が多いから、やつらは散らばる。だから本館の中は、逆に一番手薄になる」
「どのくらい手薄だ?」
「ふだんの半分だ」
「分かった」
フィニックスは立ち上がって、ズボンのほこりを払った。
「みんな、分かったな。これは誰にも強制しない。降りたいやつは今夜降りろ。誰も責めない」
彼はひどくゆっくりと言った。ひと言ひと言を、歯のすきまからひとつずつ押し出すように。
小夏が彼を見て、ふいに口を開いた。「もし私が降りたら、あなたたちはそれでも行くの?」
「行く」
「じゃあ、私も行く」
そう言って、彼女は袖をさらに少し引き下ろした。それきり、誰も何も言わなかった。
★ ★ ★
▼4
解散したのは、もうすぐ十一時というころだった。ひとり、またひとりと帰っていった。最終バスに乗る者もいれば、歩いて帰る者もいた。フィニックスは地図をたたんで、帆布のバッグに押しこんだ。莉音は最後まで残っていて、鉄扉を閉める前に、入り口に立ってタバコを一本吸った。
ふだんはあまり吸わない。タバコは老周が置いていったものだった。ライターでいちおう火をつけたが、本当はそんなもの必要なかった。指先が触れるだけで火がつくのだから。
「なあ」莉音は英語で言った。振り向かなかった。「お前、さっき一秒だけ、様子がおかしかったな」
「何が」
「老周が『患者』って言ったときだ」
フィニックスはバッグを肩に背負った。「なんでもない」
「病院に知り合いがいるんだろ」
「俺の住んでるところに、病院で働いてる人がいる」
莉音は煙を吐き出した。煙はすぐに夜風に散らされた。彼は振り返って戸口の枠にもたれ、両手をパーカーのポケットに突っこんだ。
「あの看護師だろ?」
「ああ」
「お前がやろうとしてること、彼女は知ってるのか?」
「知らない」
莉音はうなずいて、それ以上は聞かなかった。遠くの港を見ている。クレーンの明かりが、ひとつ、またひとつとともっていた。
「俺は前に言ったよな。火をつけに来たんであって、人を助けに来たんじゃないって」
「覚えてる」
「お前はあのとき、自分もそうだって言った」
「覚えてる」
「今は?」
フィニックスはすぐには答えなかった。倉庫の外の道はがらんとしていた。ゴミ収集車がゆっくりと通り過ぎていく。ヘッドライトが二人の顔をなでて、また去っていった。
「今も、そうだ」彼は言った。
莉音は少し笑った。「お前、嘘つくとき目が左に行くんだよ」
「嘘はついてない」
「じゃあ、なんで左を見たんだ」
フィニックスは視線を戻して、まっすぐ前を見た。
「彼女があの中にいるかどうか、分からない」彼は言った。「まだ聞いてないだけだ」
「聞けばいいだろ」
「聞いたら、なんでそんなこと聞くのかって聞かれる」
「それで?」
「それで、俺は話さなきゃならなくなる」
莉音はタバコを鉄扉の縁で押しつぶして、そばの空き缶に放りこんだ。
「俺たちは友達じゃない」彼は言った。「お前がそう言ったんだ」
「そうだ」
「だから、これはお前が自分で決めろ。俺に報告する必要はないし、俺を言い訳にする必要もない」
そう言うと、パーカーのフードをかぶって、夜の中へ歩いていった。
フィニックスはひとり、倉庫の入り口に立っていた。ポケットからイヤホンを取り出して、耳につける。とたんに雑音が耳になだれこんできた。水道管、遠くのサイレン、鉄扉の蝶番。彼は、それを消さなかった。
★ ★ ★
▼5
石造りの教会は、寮の裏手、通りを二本隔てたところにあった。蔦に覆われていて、鉄の門の鍵はずっと前から壊れたまま、誰も直していない。彼はときどき深夜にここへ来る。祈るわけではない。ただ座っているだけだ。長椅子は硬く、窓の外には街灯があって、ステンドグラスの影を床に落としていた。赤や青が、ひとかけらずつ石畳の上に落ちている。
彼は三列目に腰を下ろし、膝に肘をついて、両手を組み、そこに額を押し当てた。
(主よ)
心の中で、日本語でその言葉を言った。そして、その先が続かなかった。続けたい言葉ならいくらでもあった。どの言葉も一度ずつ試してみた。けれど、どれも主に向かって話しているようには聞こえなかった。自分の帳簿に向かって話しているみたいだった。
どれくらい座っていたのか分からない。それから、隣に誰かがいることに気づいた。
長椅子の反対の端に、ひとりの老人が座っていた。洗いざらしで白っぽくなった灰色の上着を着て、髪は真っ白、背中は少し曲がっている。両手を膝の上に置き、やはり前の十字架を見ていた。いつ入ってきたのか、フィニックスにはまったく聞こえなかった。この教会の扉は軋むし、床も鳴る。来るたびに必ず聞こえていた。今回だけ、聞こえなかった。
フィニックスの手が、音もなく握りしめられた。振り向きはしなかった。肩甲骨の下のあの場所が、もう熱を帯びはじめていた。
「こんな遅くに」老人は台湾なまりの中国語で、声を張らずに言った。「まだ帰って寝ないのかね?」
「眠れない」
「眠れない人のほうが、眠れる人より多いもんだ」
老人は彼を見ず、前だけを見ていた。
「あんた、今、主と話していただろう」
「話してない」
「じゃあ、何を考えていた?」
フィニックスはしばらく黙っていた。窓の外を、バイクが一台ゆっくりと通り過ぎていく。エンジンの音が遠ざかった。
「やらなきゃいけないことがある」ようやく彼は言った。「正しいことだ」
「そうかね」
「俺は権利を授かった」彼の中国語はひどくゆっくりで、ひと文字ずつ組み立てるようだった。「これは主が俺に授けた、法の外での裁きの権利だ」
老人が顔をこちらに向けた。
フィニックスは初めて、その顔を見た。老人の目はとても淡かった。一枚の水を隔てたみたいに淡い。笑ってもいないし、眉をひそめてもいない。ただ、ひどく静かに彼を見ていた。
「それは、誰に授かったものだね?」
フィニックスは口を開いた。
「主に」
「どの主だね?」
答えられなかった。
クルーズ船から海に沈んでいったとき、ひとすじの光があって、ひとつの声があった。目を覚ましたとき、肩には一対の翼があり、手のひらでは金属が動いていた。彼はずっと、あの光を答えだと思ってきた。あれが誰なのか、一度も問わなかった。なぜ自分なのかも問わなかった。あの存在が「殺せ」という言葉を口にしたかどうかも、問わなかった。
ただ、受け取っただけだった。
老人は彼を見つめた。長いあいだ見つめていた。それから視線を十字架に戻して、口調を変えずに言った。
「正義というのは、翼に引っかけておくものじゃない」
フィニックスの息が、一瞬止まった。
「背負って歩けば、重さが出る。長く歩けば、重いのが正しいことだと思いこむようになる」老人は言った。「だが重いのは、ただ重いだけだ。正義は、人それぞれにある」
「あんたは誰だ?」
老人は答えなかった。ゆっくりと立ち上がり、長椅子の背につかまりながら、一歩ずつ通路のほうへ歩いていく。
今度は、フィニックスにも足音が聞こえた。靴底が石畳を踏む音が、一回、二回と、がらんとした教会の中で遠くまで響いた。入り口にたどり着く手前で、老人は一歩だけ立ち止まった。振り返りはしなかった。
「ぐっすり眠りなさい」
そして、出ていった。
ずいぶんたってから、フィニックスはやっと立ち上がって、長椅子の反対の端を見に行った。座面にはうっすらとほこりが積もっていた。磨かれて光っているのは、自分が座っていた半分だけだった。もう半分には、何の跡もなかった。
手を伸ばして、触れてみた。冷たかった。
彼はその場に長いあいだ立ち尽くしていた。それから教会を出た。あの十字架を、振り返りはしなかった。
★ ★ ★
▼6
寮に戻ったのは、夜が明けかけたころだった。鍵を一回まわしてドアを開けると、炊いた米の匂いが正面から押し寄せてきた。
「おかえり」
ラフィアが台所のガスコンロの前に立っていた。ナース服のままで、その上に彼の古い青いエプロンをつけ、髪はヘアクリップで適当に後ろに留めている。夜勤明けで、目の下にはうっすらと青いくまがあったが、口元は笑っていた。
「なんでまだ寝てないんだ」
「お粥作ってるの」彼女はおたまで鍋をかき混ぜた。「ここ何日か、夜いないでしょ。だから、朝帰ってきたら絶対おなかすいてるだろうなって」
フィニックスは帆布のバッグを置き、靴を脱いで、手を洗った。何と返せばいいのか分からなかったので、何も返さなかった。
お粥は白粥だった。横の小皿には肉でんぶと瓜の醤油漬け、それに半分に切った塩漬け卵がひとつ。黄身がつやつやと赤く光っている。ラフィアは茶碗を彼の前に置くと、自分は向かいに座って、頬杖をついて彼が食べるのを眺めた。
「おいしい?」
「うまい」
「いつもそのひと言だけね」
「本当にうまいからだ」
彼女はぷっと噴き出して、肩を揺らした。
彼はお粥をひとさじすくって、吹いて冷まし、口に運んだ。熱がずっと下へ降りていって、胃に届いてやっと止まった。この味にはもうすっかりなじんでいた。最初に作り方を覚えたころは、彼が彼女に作っていた。それがいつのまにか、彼女が彼に作るようになっていた。いつから入れ替わったのか、彼には分からなかった。
「ねえ、聞いて」ラフィアがふいに背筋を伸ばした。目がきらきらしている。「すっごく楽しいことがあるの」
「なんだ」
「うちの病院の患者さんたちがね、任天道の遊園地に遊びに行くの!」
彼の手が止まった。れんげが茶碗の上で宙に浮いている。縁からお粥がひとしずく垂れて、茶碗の中に落ちた。音はしなかった。
「院長が言うには、向こうから招待してくれたんだって。三日間タダで、全部込み」ラフィアは彼の表情にまったく気づかないまま、今年一番のニュースを発表するような口ぶりで、どんどん話を続けた。「病院から看護スタッフも一緒に行くことになったんだけど、みんな押しつけ合ってて、手を挙げたのは私だけ。一番早かったの。で、私が引率ってわけ。その日にね!」
「どの日だ」
「チャリティーデーよ、開園記念日。ポスター見てない? どこにでも貼ってあるじゃない」
彼はれんげを茶碗に戻した。
「行くな」
ラフィアがきょとんとした。「へ?」
「行くな」彼はもう一度言った。声はひどく平らだった。「誰か別の人に行かせろ」
「どうして?」
彼は茶碗の中のお粥を見ていた。塩漬け卵の黄身を見ていた。言いたいことはいくらでもあった。でも、どのひと言も、その後ろにある全部を引きずり出してしまう。だから、ひと言も言えなかった。
「あそこはきれいな場所じゃない。看護師や患者が行くところじゃない」彼は言った。
「何がきれいじゃないの?」
「あの会社だ」
ラフィアはぱちぱちとまばたきをして、それから笑った。ごまかしの笑いではなかった。病室で、薬を飲みたがらない子供をなだめるときの、あの笑い方だった。
「私のこと、心配してくれてるの?」
「……そうだ」
「ありがと」彼女はテーブルの向こうから手を伸ばして、テーブルを半分またぐようにして、彼の手の甲をぽんぽんと叩いた。「でもね、これはお仕事なの。それに、みんなすごく楽しみにしてるのよ。病院の塀の外に一度も出たことのない患者さんだっているんだから。行けるって聞いたときのあの子たちの喜びよう、知ってる?」
彼は何も言わなかった。
「気をつけるから」彼女は言った。「一緒に行く人もたくさんいるし、警備の人もいるし。何かあったら、いざとなったら大声出せばいいんだし。それに、私の翼のほうがあなたのよりきれいだって言ってたじゃない?」
「そんなこと言ってない」
「言ったわよ、酔っぱらったとき」
「酔ったことなんてない」
「ビール二缶で言ったじゃない」
彼は口を引き結んで、視線を横にそらした。耳の先が少し赤くなっているのを見て、ラフィアはますます笑った。ひとしきり笑ってから手を引っこめ、自分の茶碗を持ち上げて、お粥を二口食べた。
「それにさ~」彼女は言った。「あなた、うるさいの大嫌いでしょ? その日は家で寝てればいいじゃない。せっかくのお休みなんだし、お昼まで寝てたっていいんだから」
彼は彼女を見た。彼女はうつむいてお粥をすすっている。茶碗から立つ湯気の中で、まつ毛がちらちらと揺れていた。何を言えばいいのか分からなくて、彼もうつむいて食べ続けるしかなかった。お粥はもうそれほど熱くなかった。味は、変わらなかった。
しばらくして、ラフィアがまた口を開いた。隣の家の噂話でもするような、気軽な口調だった。
「そうそう、引率の名簿にね、あの二人の高校生もいるのよ」
「どの二人だ」
「君語ちゃんと、アンソニアよ。ほら、あなたが抱えて連れて帰ってきた子」彼女は目を上げて、意地悪く笑った。「あの子ね、今日私に言ってたの。『あのエセ紳士』に、いつかちゃんとお礼がしたいって」
彼は笑わなかった。
れんげを握った手が茶碗の縁で止まり、指の関節が一瞬白くなって、またゆるんだ。紫のポニーテール、リボルバーが一挺、マフラーが一本。屋上に縫いとめられていた彼女の姿を思い出した。あの子供の目を思い出した。
それから、もうひとり。知らない人間がいた。白い目をした誰かが。
「そうか」彼は言った。
「どうかした?」
「なんでもない」
残りのお粥を食べ終えて、茶碗を洗いに行った。蛇口を大きくひねると、水がざあざあと茶碗に叩きつけられた。彼は流しの前に立って、彼女に背を向けていた。窓の外の空が、少しずつ明るくなっていく。
だんだん白んでいくその空の中で、彼は頭の中で、すべてをもう一度並べ直した。時間、場所、人数。それから、ステージの脇に立つひとりひとり。計画には、変えなければならないところなどひとつもない。計画は、正しい。
茶碗を水切りかごに置き、蛇口を閉めて、自分にひと言だけ言い聞かせた。ごく小さな声で。
(分かってる)
★ ★ ★
▼7
寮の屋上に上がったとき、太陽はまだ出ていなかった。
給水塔の横にコンクリートの平らな場所があって、縁の鉄の手すりには物干しハンガーが掛かっている。彼は手すりのそばに腰を下ろし、給水塔に背中をあずけて、遠くの街が灰色から少しずつオレンジ色に変わっていくのを見ていた。
イヤホンをつけた。
雑音がひどくうるさかった。下で誰かが鉄のシャッターを引き上げている。誰かがバイクのエンジンをかけている。給水塔の中を水が流れ、屋上の手すりが風に吹かれてかすかに鳴る。あらゆる音が重なり合って、ぶうんと唸っていた。誰かが耳元で、ひどく太い弦を一本はじいているみたいに。
前なら、すぐに「黙れ」と言っていた。
今回は、言わなかった。そこに座ったまま、聞いていた。太陽がビルとビルのあいだから顔を出すまで。下でラフィアが洗い物を終えて、台所の明かりを消すまで。
——第二話 完
本作は、中国語の原案をAI翻訳によって日本語化したものです。
翻訳に不自然な点や、内容について気になることがありましたら、お気軽に教えてくださいね〜!




