序章10 借りものの狼煙
序章第十話 借りものの狼煙
▼1
工事現場の倉庫の鉄の扉が、背後で閉まった。
上着はまだ莉音の肩にかかっていた。肩の線がずり落ちていて、袖は手をすっぽり隠すほど長い。フィニックスは前を歩いていた。両手をポケットに突っ込んだまま、一度も振り返らず、何も言わなかった。港のあの火と警報は三キロ先に置いてきた。倉庫の中にあるのは、セメントの粉と、錆びた鉄筋の匂いだけだった。
「そこで寝ろ」フィニックスは英語で言い、隅に積まれた古い布団の山をあごで示した。「水はバケツ。マントウは袋の中。工具には触るな」
それだけ言うと、彼は出ていった。莉音はしばらくその場に突っ立っていて、ようやく我に返った。振り返って布団の山を見る。本当に自分が寝るためのものなのか確かめてから、ゆっくりと近づき、しゃがみ込んで、顔をうずめて息を吸った。埃の匂いと、日に干した匂いがした。もうひと月も、やわらかいものの上で眠っていなかった。
その夜、彼は死んだように眠った。
二日目も、三日目も、フィニックスは夕方に一度だけ戻ってきた。何ひとつ聞かず、ドラム缶の上にビニール袋をひとつ置いていくだけだった。マントウが二つと、水が一本。ときどき煮卵がひとつ増えている。たぶん、現場の昼飯の残りだろう。置いたらすぐに出ていく。莉音のほうを見ようともしなかった。
あとになって、莉音は気づいた。この男は毎晩一度、倉庫の扉の前まで戻ってきて、ヘッドホンを外し、しばらくしてからまたつけている。何を聞いているのか、最初は外の物音だと思っていた。あとで分かった。彼は中の音を聞いていたのだ。この見知らぬ人間が、まだ息をしているかどうかを。
(……ほんと、変な奴)
彼は布団にくるまったまま寝たふりをして、気づかないふりを続けた。
三日目の夜、莉音の体がおかしくなった。
まず胸だった。真っ赤に焼けた炭が肋骨の下に引っかかっているみたいで、息をするたびに肺が焼ける。次に喉。喉の中が鉄錆の味でいっぱいになり、ひとつ咳をすると、火の粉の混じった血が出た。その火の粉が布団に落ちて、布にいくつか小さな穴を開けた。起き上がろうとして手をついたとたん、腕全体が震えていることに気づいた。皮膚の下で何かが走り回っている。一本、また一本と、血管の中を火が暴れ回っているみたいだった。
(やめろ……今じゃない……)
ユダへの借りだ。契約は、ときどきこうして利息を取り立てにくる。それは分かっていた。
彼は体を丸めて、布団の端を噛みしめた。声を出したくなかった。でも、喉の中の火はもう押さえきれず、口が勝手に動いて、ひと節を口ずさんでしまった。
あの短いひと節。イリーナの、節回しだった。
鉄の扉が、一度だけ叩かれた。
ゴン。
大きな音ではなかった。でもがらんとした倉庫の中では、警告みたいに響いた。
「歌うな」
扉の外の声は低かった。
「……鼻歌だよ」莉音は息を切らしながら言った。「歌ってない」
「それでもダメだ」
「だったら入ってこいよ」彼は毒づいた。「外に突っ立って、なにうるさく言ってんだよ!」
扉の外が少し黙った。靴底が地面をこする音がした。相手が半歩前に出て、また止まったようだった。
「入らない」フィニックスが言った。
「なんでだよ」
「お前が歌うと、コンテナがまるごとオーブンになる」
莉音は目を閉じた。笑いたかった。でも、笑っても喉が焼けた。
その男は、ひと晩じゅう扉の前に立っていた。入ってもこないし、帰りもしなかった。夜が明けて、莉音の熱が少し下がったころ、ようやく外の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。戻ってきたとき、扉の前にはビニール袋がひとつ増えていた。袋の中には温かい豆乳がひとつ入っていて、ストローまで挿してあった。
(……ほんと、変な奴)
彼は心の中で、もう一度そう言った。今度は笑いながら。
★ ★ ★
▼2
四日目の夕方、被曝の傷はさらに悪化した。
莉音は布団の上にうつ伏せになっていた。服はびっしょり濡れていて、額は目玉焼きが焼けそうなほど熱かった。目の前のものが全部揺れている。倉庫の電球の光が輪を描いて広がっていき、ステージのスポットライトみたいに見えた。夢を見た。またあの金属の台に寝かされていて、白衣の連中がボードを手に、ガラスの向こうで記録をつけている。妹の夢も見た。ずっと遠くに立って、こっちに手を振っていた。
そのとき、誰かの両腕が、彼の体をまるごとすくい上げた。
大きな手だった。腕はセメントの粉とすり傷だらけだった。彼は広い背中に担がれた。肩甲骨に頭をもたせかけると、皮膚の下で金属がかすかに震えているような音が聞こえた。うるさかった。文句を言いたかったが、そんな力は残っていなかった。
「少し我慢しろ」彼を背負った男が言った。
夜風。街灯。階段。さらにもう一階分の階段。
チャイムが鳴るのが聞こえた。鍵の音が聞こえた。誰かが中国語で何か言い、男が急いで答えた。どちらも、莉音には分からない言葉だった。それから、光。黄色い、温かい光が、開いた扉の向こうからあふれ出してきた。
「……え?」
女の声だった。
莉音はうっすらと目を開けた。フィニックスの肩越しに、ピンクのショートヘアの女が見えた。ナース服を着ていて、手には買ってきたばかりの食材の袋を提げている。彼女は戸口に立ったまま、目を丸くして、男の背中に担がれている「少女」を見つめていた。濃い化粧が半分はげ落ちて、マスカラが目尻ににじんでいる「少女」を。
彼女はぱちぱちとまばたきして、フィニックスのほうを向いた。
「女の子なんか拾ってきたの?」
フィニックスの顔がこわばった。
「……違う」
「男だ」莉音がかすれた声で言った。とても小さな声だったが、二人に聞こえるには十分だった。残った力を振り絞って、頭を少しだけ持ち上げる。「……俺は男だ、少女じゃねえ!!」
それだけ言うと、彼はまたぐったりと倒れ込んだ。
ラフィアはその顔を二秒ほど見つめていた。顔に浮かんでいた笑みが、少しずつ引いていった。
「入って」彼女は言った。
彼女はフィニックスに、その人を自分のベッドに寝かせるように言った。二つあるシングルベッドのうち、窓際のほうだ。食材の袋をテーブルに置き、手を洗う。何も聞かなかった。この人が誰なのかも、どこから来たのかも。言ったのは、ひと言だけだった。
「まずは横になって」
それから、ベッドの縁に腰を下ろして、彼の胸に手を置いた。
彼女の手のひらから、白い光がともった。
莉音は温もりを感じた。とても温かい。火とは違う。冬の日に干した布団みたいな温かさだった。その光は胸から下へと流れていき、肋骨の下のあの焼けた炭を包み、喉の血の味を包み、皮膚の下で暴れ回っていた火を包んで、少しずつなだめていった。
彼の呼吸が、落ち着いた。
けれど、一か所だけ、光がどうしても入っていけない場所があった。
ラフィアは眉を寄せて、長いあいだ彼の胸の上で手を止めていた。そこの皮膚を見つめる。襟元から、古い傷跡が一本のぞいていた。まわりより色が濃く、縁には放射状の筋が走っている。彼女がそっと押さえると、光は一度強まった。でも、見えない壁にぶつかったみたいに、はね返されてしまった。
「これは……」彼女は小さな声で言った。「私には、治せない」
「知ってる」莉音は目を閉じたまま言った。
「これ、傷じゃないのね」
「ああ、傷じゃない」彼は苦笑した。「代償だ」
ラフィアはそれ以上聞かなかった。手を引っ込める。指先にはまだ白い光が少し残っていた。彼女はしばらく、自分の手のひらを見つめていた。
「私に治せるのは、今痛んでるものだけなの」彼女は静かに言った。「ずっと昔からそこにあるものには、触れられない。ごめんなさい」
「もう十分だ」莉音は言った。目を開ける。熱で赤くなっていたが、意識ははっきりしていた。「ありがとう。少なくとも今夜は、もう咳き込まずにすむ」
ラフィアはうなずいて、水をくみに立ち上がった。彼に背を向けたまま、長いこと考えていたようだった。それから、口を開いた。
「あなたも、使徒なんでしょう」
莉音は答えなかった。
「見えたもの」彼女は言った。「あなたの火。私もなの」振り返って、自分の背中を指さした。翼は広げず、ただ場所を示しただけだった。「環天使、ラフィア。あなたは、自分が誰なのか言わなくていいから」
莉音は長いあいだ、彼女を見つめていた。
「……会社では」彼はかすれた声で言った。「俺たちは、使徒なんて呼ばれてなかった」
「じゃあ、なんて?」
「実験体」彼は言った。「それか、歌手。何年も閉じ込められて、あいつらの書いた台本どおりに歌わされてた」
水の入ったコップを持つラフィアの手が止まった。
どこの会社なのかも、どうやって出てきたのかも、彼女は聞かなかった。コップを枕元に置いて、ベッドの縁に座り、声をとてもやわらかくした。
「でも、使徒は誰かの駒じゃない。あなたも、商品なんかじゃない」
莉音は天井を見つめていた。
天井には細い水染みが一本あった。くねくねと曲がっていて、一本の川みたいだった。
「じゃあ、俺はなんなんだ」
ラフィアは長いあいだ考えていた。
「神さまに祝福された人よ。自由な人生を生きなさいって」
莉音は何も言わなかった。
布団の中に手を引っ込めて、暗闇の中で拳を握った。爪が手のひらに食い込んで、とても痛かった。それでも、離さなかった。目は乾いていた。涙は一滴も流れなかった。
(神さまに、祝福された人……)
自分のことを、そんな言葉で言ってくれた人は、生まれて初めてだと思った。
★ ★ ★
▼3
莉音が眠ったのを見届けると、ラフィアはコップの水を新しいものに替えて枕元に置き、小さな常夜灯をそっと消した。
ベランダに出ると、フィニックスがいた。部屋に背を向けて手すりに両手をつき、向かいの洗濯物が干された窓の列を眺めている。夜風が金髪をかき乱していたが、彼は直そうともしなかった。
「あの人、誰?」ラフィアは隣に並んで、小声で聞いた。
「俺も知らない」
「知り合いじゃないの」
「知り合いじゃない」
「じゃあ、どうして担いできたの?」
「……死にそうに見えた」
フィニックスの答えは短かった。自分とは関係のないことを話しているみたいだった。ラフィアは長いあいだ、彼の横顔を見ていた。
「なら、よかった」彼女は言った。
「何が?」
「知り合いじゃないなら、それでよかったって言ったの」彼女は手すりの上で腕を組み、手の甲にあごをのせた。「私は聞かない。あなたも言わなくていい」
彼女はそれ以上続けなかった。この寮の部屋には、ずっとそういう暗黙の了解があった。彼の寝言の古風な日本語を、彼女は一度も訳さなかった。彼女のスマホにひっきりなしに届くメッセージを、彼は一度ものぞかなかった。聞いてしまったら、それだけで裏切りになることがある。二人とも、そう思っていた。
夜は静かだった。向かいの窓の明かりがひとつ、またひとつと消えていき、遠くの工事現場の足場だけが、街灯の下で細かく光っていた。
「今日のあなた、うるさい」ラフィアがふいに言った。
「……うるさくない」
「うるさい」
「何もしゃべってない」
「あなたの肩が、うるさいのよ」
フィニックスは答えなかった。手を耳元に持っていって、ヘッドホンをもうひと目盛りぶん、強く押さえた。
ラフィアは小さく笑った。それ以上は聞かなかった。部屋に戻りながら、振り返って小声で言った。「おやすみ、フィニックス」
扉が閉まった。
ベランダには、彼ひとりが残った。
自分の手を見下ろす。その手には、今日港でついた火傷が、まだ赤い細い線になって何本も残っていた。あのスタンガンを思い出す。グリップの底の、すり減ったロゴを思い出す。父の執務室の壁にも、同じ図柄が掛かっていたことを思い出す。
(あれはうちのものだ。なんで、あいつらの手にあるんだ)
彼は心の中で、ゆっくりと自分に問いかけた。
客船のことを思い出した。客室で、母が最後に彼のネクタイを直してくれたこと。黒い服の男たちが、甲板の向こうから歩いてきたこと。爆発の前の、みんなの顔。
今夜は何もしたくなかった。知りたいことが、ひとつだけあった。
(任天道)
心の中で、その三文字を一度だけなぞった。
明日、調べに行く。
★ ★ ★
▼4
五日目には、莉音はもう自分の足で歩けるようになっていた。
夕方、フィニックスは莉音を寮から倉庫へ連れて戻った。道中、ひと言もしゃべらなかった。莉音も何も聞かなかった。あの古い上着をはおってあとをついていく足取りは、いつもより少しだけ軽かった。
倉庫の電球がついていた。フィニックスは鉄の棚からくず鉄の山を下ろした。工事現場で余った鉄筋の切れ端、パイプ、ナット、いろいろだ。それを床に積み上げてあぐらをかき、何かを始めるみたいに両手を広げた。
莉音はそばのドラム缶に腰を下ろした。その鉄の山を長いあいだ眺めてから、口を開いた。
「あんたにやれるものがある」
フィニックスは顔を上げなかった。
「任天道の中がどうなってるか、俺は知ってる」莉音は言った。声は落ち着いていた。「あの島に、何年もいたんだ。どの階の警備がいつ交代するかも、どこにエレベーターがあって、どこが実験室かも知ってる。ステージがどこにあるかもな」
フィニックスの指が、一瞬止まった。
「それから」莉音は続けた。「あいつらには遊園地がある。毎年の開園記念日が、いちばん人が多い日だ。チャリティーデーで、入場は無料。病院の人間も、学校の人間も、いろんなメディアも呼ぶ。その日がいちばん警備が手薄になる。外に向けて芝居を見せなきゃいけないからな」
言い終えて、彼はフィニックスの背中を見つめた。
倉庫は静かだった。電球の中の電流の、かすかな音だけがしていた。
フィニックスは長いあいだ黙っていた。
それから、手を動かしはじめた。
ハンマーも、どんな工具も使わなかった。両手をくず鉄の山の上にかざして、目を閉じる。手のひらの下で金属が小さく震え、鉄筋の切れ端が一本ずつ浮かび上がって、宙でゆっくりと回りはじめた。目を覚ました鳥の群れみたいだった。
鉄が磁力でこね直されていく。叩く音も、火花も、こすれる音ひとつしない。いちばん遅くて、いちばん骨の折れるやり方を、彼はわざわざ選んでいた。彼自身が鉄の悲鳴に耐えられないから。そして、熱が下がったばかりのこの人間を、うるさがらせたくなかったから。
そばで見ていた莉音は、ふいに分かった。この男が口にする「うるさい」は、本当に痛い種類のものなのだ。
夜が明けかけたころ、その鉄の山は一本のマイクになっていた。
ステージのマイクみたいな丸い網はついていない。太くて短い金属のパイプがあるだけで、グリップには細い線が何重かに巻きつけてある。パイプの口は空洞で、外に向かって開いていて、縁はつるつるに磨かれていた。全体的に不格好で、ゆがんでいた。マイクなんて一度も作ったことのない人間が、記憶だけを頼りに、少しずつこね上げたものだった。
フィニックスはそれを手に取って、くるりと回し、差し出した。
「グリップの底の線で、お前の火を外に逃がせる」中国語に英語を混ぜた、たどたどしい言葉で言った。「パイプの口が出口だ。お前の火は、もう喉の中に向かって燃えない」
莉音はそれを受け取った。
マイクは重くて、冷たかった。グリップの溝が、彼の手のひらにぴたりとはまった。それを見下ろしていると、目がひりひりと乾いた。
「会社がお前に渡したのは、マイクだ」フィニックスは言った。「俺が渡すのは、復讐の出口だ」
彼がそれを言ったのは、その一度きりだった。
莉音は答えなかった。ゆっくりと立ち上がり、その鉄のパイプを口元に持っていった。歌いはしなかった。パイプの口に向かって、とても、とても小さな声で、ひとつの名前を呼んだだけだった。
「イリーナ」
パイプの口から、火が出た。
とても細い、金色のひと筋だった。電球の光の下でとぐろを巻いて、小さな蛇みたいだった。喉を焼くこともなく、鉄の壁を焼き抜くこともなく、宙で二秒ほど止まってから、ふわりとほどけた。小さな火の粉になって床に落ち、何にも火をつけなかった。
倉庫は静かだった。莉音はマイクを握ったまま、長いあいだ動かなかった。
この港に来てひと月あまり。喉が焼けるのを感じなかったのは、これが初めてだった。
★ ★ ★
▼5
夜が明けると、二人は倉庫の入り口の段差に並んで座り、それぞれマントウをひとつずつ抱えていた。
フィニックスは口の中のマントウを飲み込んでから、口を開いた。
「条件が三つある」
「言えよ」
「ひとつ目」彼は指を一本立てた。「俺たちがやることを、ラフィアに知られるな」
莉音は片方の眉を上げた。
「あいつは俺の友人だ」フィニックスは言った。「あいつの仕事は、人を救うことだ。巻き込むわけにはいかない」
「了解」
「二つ目。理由もなく、俺の前で歌うな」
「理由があったら?」
「理由があるなら、先に言え」
「分かった」
「三つ目」フィニックスは三本目の指を立てた。「狙うのは社長だ。通りすがりの人間じゃない」
莉音は少し黙った。手の中の、半分かじったマントウを見下ろす。
「あのさ」彼はゆっくりと言った。「島にいたころ、俺に『通りすがりの人間』なんて言葉を使った奴は、ひとりもいなかったよ」
「だから、今言ってる」
「……分かった」
フィニックスはうなずいて手を下ろし、またマントウを食べはじめた。莉音はしばらく待っていたが、続きがないので、小さく咳払いをした。
「俺からもひとつある」
「言え」
「四つ目」莉音は言った。「俺を『女の子』扱いすんな」
フィニックスの手が止まった。
「じゃあ、なんて呼べばいい」
莉音は少し考えた。ひどく気まずそうな顔だった。古い引き出しをひっくり返して、何年もしまい込んでいたものを探しているみたいな顔だった。
「莉音」彼は言った。「莉音でいい」
彼が口にしたのは英語ふうの発音で、Rの音が強く巻き舌になっていて、知らない名前みたいに聞こえた。フィニックスは一度言ってみたが、ひどい発音で、舌がもつれた。
「リ……オン?」
「違う、りおん、だ」
「Ree-on」
「まあ、そんなとこだ」
二人は一度だけ目を合わせて、同時にそらした。
どちらも笑わなかった。それでも、倉庫の入り口の空気は、少しだけゆるんだ気がした。
「もうひとつ」莉音が言った。マイクを膝の上に置いて、親指でグリップをなでる。「あんたらの業界の人間って、みんな名前を持ってんのか?」
「名前?」
「称号だよ」莉音は言った。「環天使。ダークエンジェル。会社にいたころは、俺も炙天使って呼ばれてた」
「誰がつけた」
「会社だ」
フィニックスは眉をひそめた。
「炙天使は、会社がつけた名前だ」莉音は言った。「ポスターに刷られた字で、番組表に載ってた字だ。もう、使いたくない」
フィニックスはすぐには答えなかった。残りの半分のマントウをビニール袋にしまうと、立ち上がって倉庫に入り、床からチョークを一本拾い上げた。
彼はあのコンクリートの壁の前まで歩いていき、手を上げて、一画ずつ、一行を書いた。
天使のみなさんへ。
ひどい字だった。一画一画が、セメント袋と格闘しているみたいだった。書き終えると、二歩下がってそれを眺めた。
「ダッサ」莉音が言った。彼は歩み寄って、フィニックスの手からチョークを取り上げ、その一行の下に、とても小さなマイクの絵を描いた。一本ずつ、字よりずっと丁寧に。
「これ、組織の名前か?」描き終えて、一歩下がりながら聞いた。
「点呼だ」フィニックスは言った。「称号に『天使』の二文字が入ってる奴は、みんな数に入る」
莉音はその壁を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「じゃあ、俺の称号は?」
「炙天使のままだ」
「嫌だって言ったろ」
「名前ってのは、呼んだ奴のものだ」フィニックスは言った。「会社が呼べば、会社のものだ。俺が呼べば、俺のものになる」
莉音は彼を見つめた。
フィニックスはチョークを床に戻して、手についた粉を払った。
「俺たちは友達じゃない」フィニックスは言った。
「知ってる」
「同じ仇がいるだけだ」
「ああ」
「それで十分だ」
莉音はうつむいて、小さく笑った。
「さっき、狙いは社長だって言ったな」彼は言った。「社長なんてただのひとりだ。本当に火をつけるべきなのは、あの遊園地のほうだ」
「ああ」フィニックスは言った。「お前の火を借りたい」
「火を借りて、どうすんだ」
フィニックスは倉庫の外に目をやった。遠くの港で、クレーンの明かりがひとつずつ灯っていく。とても遠い、ひと連なりの星みたいだった。
「狼煙を上げる」彼は言った。「あの遊園地に、見せてやるためにな」
莉音は手の中のマイクを握りしめた。
鉄のパイプの縁に、少しだけ温もりがあった。彼の手のひらから移った温もりだった。
彼は「いいぜ」とも「断る」とも言わなかった。ただうつむいて、マイクを胸に押し当て、目を閉じた。とても遠いところで、誰かがそっと歌っているのが聞こえた。
歌い終わったら、おうちに帰ろうね。
★ ★ ★
▼6
三か月がたった。
倉庫の電球は今もついている。壁の字は誰も消さず、チョークは少し色が落ちていた。莉音はドラム缶に腰かけて、膝の上にマイクをのせていた。そばの鉄の棚には、手描きの園内見取り図が一枚、釘で留めてある。三か月かけて少しずつ描き足してきたものだ。見覚えのある筆跡もあれば、あとから加わった誰かの筆跡もあった。
拭き終えたマイクを布袋にしまい、ポケットに手を入れて、スマホを取り出した。
画面がまだ光っている。さっき届いた通知だった。
開いてみると、広告だった。ポップアップに、よく知っている図柄が出ていた。ひと口かじられたリンゴと、その横に十字キー。
任天道パーク、開園記念日。チャリティーデー。
入場無料。各病院・各学校の団体予約、歓迎。
その下に、写真が一枚。とても大きなメインの建物があって、その前にステージがある。ステージの上には大きな垂れ幕が掛かっていて、垂れ幕には、ひとつの顔が印刷されていた。メイクをして、ツインテールで、カメラに向かって笑っている。
彼だった。
莉音はその顔を、長いあいだ見つめていた。
それから、笑った。とても静かに。長いあいだ会っていなかった古い友人を見るみたいに。
「まだ、そこにいたのか」彼は画面に向かって言った。
画面に指をのせて、そのステージをそっとなぞる。
「あそこが、俺がいちばん燃やしたい場所だ」
スマホを持ち直して、一行だけ打ち込んだ。
開園記念日、チャリティーデー。
送信。
画面に、「送信済み」の小さな文字が出た。しばらく待っていると、「既読」の二文字が浮かんだ。返信は来なかった。
(返さなくても、いい)
あの男は今ごろ、どこかの廊下に立っているんだろう、と彼は思った。両手をポケットに突っ込んで、ヘッドホンをもうひと目盛りぶん押さえて。その廊下はとても長くて、とても静かだ。返事をしないのは、たぶん考えごとをしているからだ。あの男はいつもそうだった。うるさいときは「黙れ」と言って、うるさくないときは何も言わない。
莉音はスマホをポケットにしまった。
壁の前まで歩いていく。そこにはまだ、三か月前にフィニックスが書いたあの一行があった。天使のみなさんへ。その下に、彼が描いた小さなマイク。
しばらく眺めてから、彼はチョークを元の場所に戻した。
倉庫の外は、ありふれた夜だった。警報もない。カメラもない。アンコールを叫ぶ人もいない。遠くの港では、クレーンの明かりがひとつ、またひとつと灯っていた。何かを、待っているみたいに。
——序章 完
本作は、中国語の原案をAI翻訳によって日本語化したものです。
翻訳に不自然な点や、内容について気になることがありましたら、お気軽に教えてくださいね〜!




