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序章09 港のアンコール

序章第九話 港のアンコール

▼1

夜の工事現場の倉庫には、鉄の棚に吊るされた電球がひとつ灯っているだけだった。

火野莉音(ひの りおん)はひっくり返したドラム缶に腰かけていた。膝の上には古い布が広げてあり、その上に、くず鉄を叩いて作ったマイクが一本のっている。布の端で、そのグリップを何度も何度もこすっていた。とてもゆっくりと。長くこすっていれば、叩いたときにできたへこみが勝手に平らになるとでも思っているみたいに。

マイクの頭は短い空洞のパイプで、ステージにあるような丸い網のかたまりとは似ても似つかない。電球に向けてのぞき込むと、パイプの向こう側に、小さな丸い光が見えた。

(ダッサ)

心の中でそう言って、もう一度こすった。

倉庫の壁は塗装もされていないコンクリートで、そこにチョークで、ゆがんだ一行が書かれていた。「天使のみなさんへ」。その下に、誰かが小さなマイクの絵を描いていた。字よりずっと丁寧に描かれている。描いたのは、彼だった。

ポケットのスマホが一瞬光った。彼は取り出さなかった。この部屋にはカメラがない。監督もいない。歌っている途中で「ストップ」をかけて、「もう一回」と言う人もいない。あの島から逃げ出してきて初めて、こういう部屋がどれほど得がたいものなのかを知った。

壁の一行を見ているうちに、ふと、それを書いた人のことを思い出した。三か月前のことも思い出した。火の海みたいな夜に、その人がひと言もしゃべらずに、上着を彼の顔に投げつけてきたことを。

莉音はマイクを膝に戻して、冷たい壁にもたれかかった。

(三か月前、か)

★ ★ ★

▼2

最後は、三度目のアンコールだった。

島の実験室の照明は全部白くて、影ができないほど明るかった。莉音はあの金属の台の上に寝かされ、手首と足首を輪っかで留められていた。頭の上にはガラスが一枚あって、その向こうに白衣の人間がずらりと並んでいた。手にはボードを持っていて、そこには彼の名前が書かれている。莉音でも、アルチョムでもない。ただの数字の羅列だ。

「三度目のアンコール、準備」

スピーカーから流れる声は、ひどく平坦だった。弁当の数でも読み上げているみたいに。

その日までに、彼はもう二回歌っていた。一回目は新しく書かれた曲を渡され、三十秒以内に神炎(しんえん)を第二段階まで歌い上げろと言われた。彼は歌った。台の縁の金属が、ぐるりと一周溶けた。二回目は配線につながったマイクを渡され、第三段階まで歌えと言われた。今度は台がまるごとゆがみ、近くに立ちすぎていた白衣のひとりが熱風に吹き飛ばされて床に倒れた。助け起こす者はいなかった。誰かがひとつ、記録をつけただけだった。

彼らはそれを「炙唱(しゃくしょう)」と呼び、彼には読めない曲線をたくさん添えて、報告書に書き込んでいた。彼らが何をしたいのかは分かっていた。ユダが彼に遺したあの火を喉から取り外し、一本ずつ瓶に小分けにして、誰でも使える銃に詰めたいのだ。

(誰にも使わせるか)

彼は目を閉じた。

目を閉じると、いろんなものを思い出した。冬のこと。ストーブの上の鉄のやかん。隣に座って、床に届かない両足をぶらぶらさせていた妹のイリーナ。チェルノブイリのあとの病院で、隣り合ったベッドに寝かされていたこと。彼女が笑いながら「お兄ちゃん、私に歌って」と言ったこと。そして、彼女が彼より先にユダに「いいよ」と言ってしまった、あの夜のこと。彼には、口を開く暇さえなかった。

それから何年も、彼はスカートをはき、ウィッグをかぶって、街角で壊れかけのマイクを握って歌った。誰も見ていない通行人のために歌い、喉がかれても歌い続けた。いつかテレビの画面に立つために。それがイリーナの夢だった。彼のいちばん嫌いなもの——カメラのある場所の、夢だった。

「開始」

音楽が流れはじめた。彼らが彼のために書いたあの曲だ。ふわふわとしたメロディで、歌詞には「奇跡」があって、「天使」があって、「みんな君を愛してる」がある。この歌を歌うと、客席で泣く人がいる。スマホを掲げる人がいる。

彼は口を開いた。

一行目は、譜面どおりに歌った。

二行目も、譜面どおりに歌った。

三行目で、彼は止まった。

ガラスの向こうで、誰かが顔を上げた。スピーカーの声が言った。「譜面と違う。続けろ」

莉音は続けなかった。その歌詞は歌わなかった。彼が歌ったのは別の歌だった。歌詞のない、ただ鼻歌で口ずさむだけの節回し。とても短くて、ストーブのそばで何度も何度も口ずさんできた。どんなステージの曲よりも古くて、古すぎて音も少しずれていた。イリーナに教わった歌だった。彼女はいつも、口ずさみ終わるとひと言付け加えた。歌い終わったら、おうちに帰ろうね。

「歌い終わったら、おうちに帰ろう」

彼はそっと、それを歌った。

その瞬間、火が彼の喉から外へ噴き出した。彼らの計器では測れない火だった。彼が一生、一度も外に出したことのない種類の火だった。金属の台の輪っかがまず赤くなり、やわらかくなり、最後にはちぎれた。ガラスに白いひびが一本走り、すぐにクモの巣みたいに広がった。白衣の人間たちが走り出した。ボードが床に散らばる。誰かの白衣に火がつき、誰かの声が裏返った。

スピーカーで誰かが叫んでいた。「止めろ! 止めろ! 壁を焼き抜く気だ——」

彼は止めなかった。最後から二行目まで歌い、実験室の外壁も、天井も、あの白い照明も、まとめて焼き抜いて、大きな穴を開けた。最後の一行は喉に引っかかったまま、出てこなかった。その一行は、イリーナもまだ覚えていなかったのだ。夜風が穴から吹き込んできた。しょっぱかった。海だった。

(外って、海だったのか)

彼は台から這い起きた。肩の出たステージ衣装は燃えて半分しか残っておらず、破れた旗みたいに体に引っかかっていた。喉は血の味でいっぱいだった。それでも、彼は笑っていた。

ちぎれた輪っかを踏み越えて、穴の縁まで歩いていく。下は真っ暗で、波が岩にひとつ、またひとつと打ちつけていた。

廊下の両側から、白衣の人間たちが追いかけてきた。銃を構える者がいる。警報ボタンを押している者がいる。

「アンコールは結構だ」彼は後ろの連中に向かって言った。紙やすりみたいにかすれた声だった。「最後の一行は、取っておく。あんたらに聴かせるためのもんじゃない」

そして、飛び降りた。

落ちていく途中で、背中が急に熱くなった。

火だった。神炎が肩甲骨のあたりから炸裂した。皮膚をまるごと引きはがされたような痛み。二筋の炎が左右に長く伸び、広がって、ひと組の翼の形になった。

彼に翼なんてなかった。ほかの使徒の背中に生えるのは主が授けた翼だ。彼の背中にあるのは、チェルノブイリが残した火傷の跡だけだった。でもこの夜、彼が妹の節回しを歌ったことで、あの火はひとりでに出口を見つけ、彼の背中に炎の翼として生え出たのだ。この夜から、その炎の翼は彼の一部になった。

炎の翼が彼の体を持ち上げた。海面すれすれを飛ぶ。しぶきが熱で蒸発して、白い霧になった。振り返って、あの島を一度だけ見た。白く塗られた四角い箱。穴からはまだ火が噴き出していて、誰かにひと口かじられたみたいだった。

遠くまでは飛べなかった。この翼が燃やしているのは、彼自身の体だからだ。一キロも飛ばないうちに翼の先が火の粉になって砕けはじめ、一枚ずつ海に落ちていった。最後には、彼自身も一緒に落ちていった。

★ ★ ★

▼3

海は思っていたより冷たかった。

背中の皮はごっそり焼け落ちていて、海水がしみると、力が抜けそうなほど痛かった。ひと晩じゅう漂って、コンテナ船の錨の鎖のそばまで流れ着いた。鎖にはフジツボがびっしりついていて、手のひらがあちこち切れた。構わずに一段ずつよじ登り、貨物室のいちばん奥の隙間に潜り込んで、二日間隠れていた。貨物室は鉄の匂いと、何かが腐ったような酸っぱい匂いでいっぱいだった。彼は吐き続けた。胃が空っぽになるまで吐いて、そのあとは水しか出てこなかった。

三日目に、船が港に着いた。

ここがどこなのか分からなかった。コンテナの隙間からのぞくと、とても大きな港だった。クレーンの明かりがひとつずつ灯っていて、看板は読めない四角い文字ばかり。コンテナの側面に印刷された小さな文字だけが読めた。Taiwan。

(逃げ出すことは、できたな)

焼け残ったステージ衣装を脱いでコンテナの隙間に押し込み、拾ってきた大きな上着で体をくるんだ。それからしゃがみ込んで、頭にかぶったまま絡まってひとかたまりになっていたツインテールのウィッグを引きはがした。引っぱったとき、本物の髪まで何本か抜けて、涙が出るほど痛かった。手の中のそのかたまりを、彼は長いあいだ黙って見つめていた。それから、海に投げ捨てた。

会社は彼の写真を持っている。見たことがある。あの島の廊下のいたるところに貼ってあったのだ。ステージの上の一枚だった。フルメイクで、腰まで届くツインテールを垂らして、カメラに向かって笑っている。あの子と、薄汚れた、短髪の、唇のひび割れた中年男を結びつける人間はいない。それは、彼自身がよく分かっていた。

コンテナヤードのいちばん奥にある隙間を選んだ。そこではコンテナが五段に積み上がっていて、いちばん下の二つがぴったり寄り添い、そのあいだに人ひとりが横向きでなんとか入れるくらいの隙間があった。そこに潜り込んで、鉄の壁に背中をあずけて座った。

ひと月のあいだ、彼はひと言もしゃべらなかった。

しゃべるのが怖かった。喉が毎日熱を持っていて、消えたばかりの炭をくわえているみたいだった。一度だけ試したことがある。隙間に隠れたまま、小声で「腹減った」とつぶやいてみた。次の瞬間、コンテナの鉄の壁がひとところ赤くなり、空気にあのなじみのある焦げた匂いが混じった。彼は慌てて手で口をふさぎ、鉄の壁に貼りついて、長いあいだ待った。その赤が、少しずつ暗くなっていくまで。

それから、彼は一度も声を出さなかった。

食べていたのは、港のゴミ箱に捨てられた食べ残しの弁当だった。冷めた鶏もも弁当が半分だけのこともあれば、手つかずの寿司がまるごとひと箱入っていることもあった。たぶん、誰かが頼みすぎたのだろう。毎回、深夜まで待って、見回りが遠ざかったのを確かめてから、身をかがめて抜け出し、ゴミ箱をあさった。

任天道(にんてんどう)の警備員は濃いグレーの制服を着ていて、腰にスタンガンを差し、三人ひと組で動いていた。もっと厄介なのがもう一組いた。黒い作務衣を着て、手に紙の札を持ち、二人ひと組でゆっくりと歩く。その目は、ずっとコンテナの隙間ばかり見ていた。莉音は島で、彼らの名前を聞いたことがあった。陰陽協会(おんみょうきょうかい)。会社が金で雇った連中で、言うことを聞かない「もの」を片づけるのが仕事だ。

(俺は「もの」か)

隙間に縮こまって、二足の草履の音が外をぱたぱたと通り過ぎ、またぱたぱたと遠ざかっていくのを聞いていた。心臓はひどく速く打っていた。でも、もう怖くはなかった。ちょっとおかしいとさえ思った。会社は彼を「実験体」と呼び、「炙天使(しゃくてんし)」と呼び、「莉音」と呼び、番号で呼んだ。あの島で、彼には百通りの名前があった。なのに、そのどれひとつとして、彼自身のものではなかった。

逃げ出してからのひと月、誰も彼を、どんな名前でも呼ばなかった。それが意外なほど気楽だった。実験体とも、莉音とも、「お嬢ちゃん」とも呼ばれない。世界は、自分の呼吸の音が聞こえるくらい静かだった。隙間に寝転がって、ひと晩かけて星を全部数えた。カメラのない空がこんなに広いのだと、初めて知った。

彼が唯一怖かったのは、眠っているあいだに、夢の中であの節回しを口ずさんでしまうことだった。

★ ★ ★

▼4

同じ月、港の反対側の夜勤も、うるさかった。

フィニックスは最後の荷物の箱を台車でトラックの横まで運び、片手で持ち上げた。箱はぴたりと荷台に収まった。ひと息ついて手袋を外すと、手の甲は汗でびっしょりだった。

昼は工事現場でセメントを運び、夜は港の夜勤に入る。そう決めたのは彼自身だった。ラフィアは寮の敷金を立て替えてくれて、服を二着と、ワンサイズ大きい作業靴を買ってくれた。どれも返さなくていいと言われた。「お給料が入ってから考えればいいの」と。それでも彼は、そのすべてを持ち歩いているノートに書きつけていた。一件ずつ、とても丁寧な字で。

(借りは借りだ)

それが、CEOになって最初に学んだことだった。

ヘッドホンの中の雑音は、夕方からずっと止まらない。半分は、遠くでコンテナ同士が風にこすれ合う音。残りの半分は、別のものだった。死んだ人たち。壊れたラジオ。いつまでも読み終わらない報告書を延々と暗唱している、アタリの元社員たち。それらの声は彼自身の頭蓋骨の内側から生えてくるもので、ヘッドホンをつけているのは、それを少しでも小さくするためにすぎなかった。

鉄が、耳元でしゃべり続けている。クレーンのワイヤー、コンテナの扉のかんぬき、台車の車軸。どれもそれぞれの音程を持っていて、互いにぶつかり合い、調律の狂ったピアノを一斉に鳴らしたみたいだった。中国語でコンテナの番号を数え、数えながら書きとめていく。四十七個目まで数えたところで、鉄の音の中に、別の何かが混じった。

とてもかすかな音で、注意して聞かなければ分からない。それは金属ではなかった。熱だった。

空気の中に、ごく薄い、何かを炙ったような匂いがした。コンテナヤードのいちばん奥から漂ってくる。彼は台車を止めて、首を傾けた。ヤードの突き当たり、いちばん下に積まれた二つのコンテナのあいだで、細い光がひと筋、ちらりと光って、すぐに消えた。

(……火?)

コンテナ区画は危険物だらけだ。火花のひとつくらい、珍しくもない。でも、その光の色は違っていた。白っぽくて、少し金色がかっている。溶接の火でもなければ、タバコの火でもない。

彼はその場に三秒立ち止まった。近づきはしなかった。ポケットからノートを取り出し、鉛筆で新しいページにこう書いた。七月某日、二十三時十分、C区画最奥部、火あり。それからノートをポケットに戻して、台車を押して歩き出した。

(俺には関係ない)

自分に、一度だけそう言い聞かせた。

それからのひと月、C区画を通るたびに、彼はあの隙間をひと目だけ多く見るようになった。ゴミ箱の横で弁当の箱が開けられていることがあった。小さな円い焦げ跡が残っていることもあった。コンテナの鉄板には、指一本ぶんくらいの幅の焼き跡がついていた。彼は一度も近づかなかったし、誰にも話さなかった。

なぜなのかは、自分でもうまく言えなかった。たぶん、あの隙間に隠れている誰かが、自分と同じで、うるさいのが苦手なように思えたからだ。

★ ★ ★

▼5

ひと月たったある夜、C区画の音が急に変わった。

最初は笑い声だった。三、四人の若い男たち。仕事帰りに港まで来て飲んでいる地元の作業員らしい。肩を組んで、コンテナヤードのあたりをふらふらと歩き回っている。そのうちのひとりがスマホを構えて、歩きながら撮影していた。撮っているうちに、カメラがコンテナのあいだの隙間を横切った。男は足を止め、「お?」と声を上げた。

「あの中、誰かいるぞ」

彼らは寄っていった。スマホのフラッシュが光り、隙間の中を照らし出す。地面にうずくまっている人影が浮かび上がった。髪は草むらみたいにぼさぼさで、顔は真っ白で、目を大きく見開き、カメラをじっとにらみつけていた。

「うわ、ホームレスか?」

「見ろよ、あの目。気味わりい」

「ほら撮れ撮れ、友達に送ろうぜ」

フラッシュが、もう一度光った。

隙間の中の人は、やけどでもしたように、体をびくりと縮めた。唇が動いた。何か言いかけて、それを必死にこらえて口を閉じた。スマホを持った若い男が笑い出した。酔いすぎていたのか何なのか、声を張り上げて、カメラに向かって、ライブ会場でやるみたいに大声で叫んだ。

「アンコール! アンコール!」

フィニックスは遠くでその言葉を聞いた。

半分くらいは意味が分かった。あの言葉が、隙間の中の人間にとって何を意味するのかまでは分からない。ただ、その言葉が隙間の中に落ちていくのが見えた。油の樽に、火の粉がひとつ落ちたみたいに。

コンテナが、まるごと赤くなった。

隙間から始まって、鉄板が内側から外側へ、一寸ずつ橙色に変わり、さらに白っぽい青に変わっていく。空気が一瞬でゆがんだ。そこに溶鉱炉でも開いたみたいだった。三人の若い男たちは何歩もあとずさり、スマホが手から落ちて地面に叩きつけられ、画面がクモの巣みたいに割れた。彼らは悲鳴を上げて逃げていった。振り返りもしなかった。

けたたましい警報が鳴り響き、港じゅうの照明がいっせいについた。

「C区画で火災! C区画で火災!」

鉄の音が一気に爆発した。クレーンも、コンテナも、台車も、かんぬきも、全部が彼の耳の中で悲鳴を上げる。フィニックスは眉をひそめ、ヘッドホンを手で押さえた。それでも目は、真っ赤に焼けたあのコンテナに釘づけになっていた。中の人間は出てこない。ただ、炎の中からひとつの声だけが聞こえてきた。とても低くて、ひどくかすれていて、泣き声まじりで、節にもなっていない。ひと言だけだった。

「……いやだ……」

その直後、追っ手が見えた。

まず、濃いグレーの制服の連中。八人。三人ひと組で、ヤードの両側から突っ込んでくる。腰のスタンガンはもう抜かれていて、青白い光が暗闇でバチバチと鳴っていた。彼らは何も叫ばなかった。通行人がいようがいまいがお構いなしに、真っ赤に焼けたコンテナへまっすぐ走っていく。

(会社の連中か?)

フィニックスは、本当はそのまま背を向けて立ち去るつもりだった。こういうことは、自分の復讐からはあまりにも遠い。自分の暮らしからは、もっと遠い。このシフトを終えて、金を受け取って、明日の朝は工事現場でセメントを担ぐ。それだけでよかった。

ところが、警備員のひとりが彼のすぐ横を走り抜けていった。その男が手にしたスタンガンが、警報灯の下で一瞬光った。グリップの底に、小さなロゴが刻印されていた。へこんだ形で、もうだいぶすり減ってかすれている。

彼は立ち止まった。

そのロゴに見覚えがあった。アタリの、古いロゴだった。その横に、新しく押されたスタンプがある。任天道のゲーム機の形をしていた。

(あれは、うちの……)

彼は拳を握りしめた。

あれは父が自ら承認したデザインだった。あのロットのスタンガンは十年前の型で、警備会社向けの専用品として、世界中に売られた。うちの会社が飲み込まれたあと、その古い在庫を誰が持ち出して判を押し替え、誰がこのグレーの制服の連中に配ったのか。彼には何ひとつ分からなかった。

分かっているのは、あそこに、自分の欲しいものがあるということだけだった。

ヘッドホンの中が、急にとても静かになった。雑音が止んだわけではない。彼自身が、あらゆる音を押さえつけたのだ。

「おい」彼はぎこちない中国語で、通りがかった警備員に声をかけた。「あそこ、なに?」

警備員は彼をちらりと見て、台湾語で何か罵った。たぶん「どけ」とでも言ったのだろう。そのまま走っていった。

フィニックスはそれ以上聞かなかった。

彼は身をひるがえして、コンテナヤードの暗がりへ歩いていった。肩甲骨のあたりが、むずがゆくなりはじめた。

(任天道の連中があいつを追ってる。なのに、追ってる連中が手にしてるのは、うちのものだ)

その二つがどうつながるのか、分からなかった。歌っていたのが会社の差し金なら、ひと月も隙間に隠れていたりはしないだろうし、写真を撮られただけであんなに怯えたりもしないはずだ。でも、確信は持てなかった。分かっているのはひとつだけだ。確かめるには、まずその人間に会うしかない。

彼はあの炎を追って、コンテナのあいだのいちばん狭い隙間に入っていった。鉄の壁が熱すぎて、空気まで震えていた。

★ ★ ★

▼6

そのコンテナは、もう半分溶けていた。

フィニックスが隙間に体をねじ込むと、目の前に人影があった。地面にうずくまり、片手で喉を押さえ、もう片方の手で鉄の壁を支えにしている。髪は短くてぼさぼさで、顔は灰で汚れ、口の端から血が垂れていた。なのに目だけは、ぞっとするほど光っていた。二人は一秒、見つめ合った。

「お前は誰だ」フィニックスは英語で聞いた。

その人は口を開いたが、答えなかった。喉の奥で、消えかけのランプのように、火の光がちらついていた。

フィニックスは、それ以上待たなかった。

彼の背中で、黒い翼が一瞬で広がった。金属の質感を持った羽が一枚ずつ開き、コンテナの鉄板をこすって、耳をつんざくような甲高い音を立てた。その音を聞いたとたん、地面にうずくまっていた人の顔色が変わった。

「うるっせえ!」その人が、いきなり叫んだ。

男の声だった。

かすれていて、低くて、強い訛りがある。ステージで聞くような甘ったるさは、どこにもなかった。彼は耳を押さえていた。その音が、炎よりも熱いとでもいうように。

(金属の音……うるさい……)

彼は振り向かなかった。相手の顔をちゃんと見てもいなかったし、相手が誰なのかも知らなかった。ただ、その音が、実験室で鉄の輪っかがこじ開けられるときの音にそっくりで、忘れたいすべてのことにそっくりだということだけは分かっていた。

彼は口を開いて、歌った。

「よく聴け——」

炎が喉から噴き出し、隙間をまっすぐなめていった。歌のフレーズというより、メロディをまとった咆哮だった。「神炎——炙唱!」

続いて、彼の背中で二筋の光が炸裂した。

炎でできた翼だった。肩甲骨から炎が噴き上がり、左右に広がっていく。羽の一枚一枚の輪郭が揺らめく炎の舌で、縁は金色、芯は白っぽい青。翼の先はコンテナの天井まで届いていた。主は彼に翼を授けなかった。これは、彼自身の皮膚が燃えているのだ。一度はばたくたびに、背中にあらためて焼き印を押されるような痛みが走る。

それを見て、フィニックスの眉間のしわがさらに深くなった。

(翼のない使徒が、炎で翼を生やしやがった)

黒い羽が迎え撃った。

炎の中で鉄が溶けていく。羽が一枚、炎に触れたとたんにぐにゃりとやわらかくなり、ぽたぽたと滴る鉄の雫になった。フィニックスは眉をひそめて半歩下がり、両腕をひと振りした。四方八方から磁力が押し寄せ、まわりのコンテナの鉄の壁が震えはじめる。鉄板が引きはがされて何枚もの破片になり、相手めがけて飛んでいった。

炎がまた前へ押し出された。鉄片は宙で溶けて雫になり、あたり一面に飛び散った。

二組の翼が、コンテナのあいだでぶつかり合った。炎の翼が振り下ろされ、黒い羽がそれを横から受け止める。金属の羽は真っ赤に焼けるが、磁力で無理やり元の形に引き戻される。炎の翼は鉄片に切り裂かれ、裂け目から火の粉を噴き出すが、すぐにまた生え戻る。翼が巻き起こす風と熱で、コンテナの鉄の壁が一枚、また一枚と削り取られていく。どちらも、相手を押し切れなかった。

二人は近づいては離れ、そのたびに金属と炎が空気の中で悲鳴を上げた。熱風でフィニックスのヘッドホンが片側にずれ、雑音がなだれ込んでくる。彼は毒づいた。「うるさい」

「うるせえのはお前だろ!」向こうも怒鳴り返してきた。声がかすれすぎて裏返っていた。「こっちはひと月もしゃべってねえんだぞ!」

「俺の知ったことか! 俺は荷物の見回りに来ただけだ」

「だったら俺に構うな!」

「ここは俺の縄張りだ!」

「ここはコンテナだ! お前んちじゃねえ!!」

言い合いの合間に、炎と鉄がぶつかって白い光が弾けた。莉音は熱風に跳ね返されてコンテナの壁に叩きつけられ、血を吐いた。フィニックスは腕に鉄の雫を浴びて、皮膚に赤い焼け跡がついた。歯を食いしばって、半歩下がる。

二人は息を切らしながら、真っ赤に焼けた鉄の隙間をはさんでにらみ合った。

そのとき、外から銃声がした。

バン。

弾丸がコンテナに当たって、火花が跳ねた。

「あそこだ! 二人いる!」

警備員の声だった。

二人とも、隙間の入り口に目を向けた。そこには灰色の制服が八人ひしめいていた。スタンガンは銃に持ち替えられていて、銃口が中に向けられている。その後ろには、黒い作務衣を着た二人。指のあいだに紙の札を挟み、捕まえたばかりの獲物を見るような目で、二人を見ていた。

「目標を確認」作務衣のひとりが低い声で言った。「男性、短髪、炙天使の疑いあり。もう一名は、不明」

莉音の顔色が変わった。

「……俺が目当てか」彼は言った。

「分かってる」フィニックスの声は冷たかった。「だが、俺も見られた」

二人は目を見交わした。

その視線に、相談はなかった。和解というほどのものでもなかった。ただ、同じ銃口を向けられた二人が、示し合わせることもなく、同じことを決めただけだった。

莉音が右へ一歩、フィニックスが左へ一歩。二人の背中が、ぴたりと合わさった。

銃声が響いた。

莉音は歌った。今度は叫ばなかった。とても短いひと節だけを、低い音で歌った。鉄の壁に向かってため息をつくような歌だった。背中の炎の翼が前へ閉じて、炎の盾になる。弾丸がひとつずつその中に飛び込み、炎の中で赤く光る小さな鉄の玉に溶けて、チンチンと音を立てて床に転がった。

同時に、フィニックスが手を上げた。

磁力が空気を伝って滑り出す。すべての銃が見えない力に引っぱられて向きを変え、銃身が一本ずつ、隣にいる仲間のほうへねじ曲げられていく。警備員のひとりの銃口が、仲間の顔を向いた。男が悲鳴を上げ、指が震えて、引き金が引かれた。

絶叫。

それから二つ目、三つ目。

灰色の制服の半分が倒れ、残りはパニックになった。作務衣の二人がすかさず札を投げた。札は宙で青い炎になって二人に襲いかかったが、莉音の炎にひと払いされて、灰になった。

「後ろ!」莉音が叫んだ。

「見えてる!」

背中で黒い翼が広がった。今度は、防ぐためだった。反対側では炎の翼も広がっていた。黒と金。二組の翼が背中合わせに重なり、二人を内側に包み込む。金属の鳴く音と、炎の爆ぜる音が混ざり合って、ゆがんだ一曲の歌みたいだった。莉音はその音を聞いて、一瞬眉をひそめた。でも、もう文句は言わなかった。

一分くらいだったかもしれない。もっと短かったかもしれない。

最後の作務衣の男が磁力でコンテナに叩きつけられた。気を失う直前、男は目を上げて、二人をひと目だけ見た。

隙間の外が、静かになった。

警報はまだ鳴っていた。遠くのクレーンは止まり、溶けたコンテナから火の粉がぽつぽつと落ちていた。

背中の炎の翼が少しずつ暗くなっていき、最後にはひとつかみの火の粉になって散って、彼の肩に降りかかった。莉音の膝から力が抜け、彼は地面にひざまずいた。血を吐いた。血には金色の火の粉が混じっていて、鉄板の上に落ちるとジュッと音を立てた。手の甲で口元を拭う。肩がひどく震えていた。それでも泣かなかった。かわりに、笑い出した。

「は……はは……ははは……」

息ができなくなるほど笑っていた。

フィニックスは翼をしまった。羽が一枚ずつたたまれていき、肩甲骨のあたりが一度むずがゆくなった。彼は歩み寄って、その人を見下ろした。

警報灯の明かりで、ようやくその顔がはっきり見えた。ひどく痩せていて、ひどく汚れている。あごから首にかけて古い傷跡が一本走っていて、半分は襟に隠れていた。なのに、目だけは驚くほど光っていた。会社の差し金の人間は、こういう目をしない。これは長いあいだ閉じ込められていた人間が、初めて顔を上げて空を見たときの目だった。

「お前は、会社の人間か」フィニックスは英語で聞いた。

莉音は彼を見上げた。すぐには答えなかった。喉にはまだ火が残っていて、しゃべると砂利を飲み込んでいるような声になった。

「違う」彼は言った。「俺は、会社から逃げてきた歌手だ」

「歌手?」

「ああ」

フィニックスは少し黙った。あの「アンコール」を思い出した。真っ赤に焼けたコンテナを思い出した。この男がひと月も隙間に隠れて、何ひとつ口にできずにいたことを思い出した。

「じゃあ、なぜ逃げてきた」

莉音の視線が、自分の手に落ちた。指先には、まだ火の粉がほんの少し残っていて、ちかちかと瞬いていた。

彼は長いあいだ考えていた。

「あれは、俺と妹の、本当の夢じゃなかったからだ」

とても小さな声だった。警報の音にかき消されそうなほど小さかった。

フィニックスは、それ以上聞かなかった。「妹」が誰なのかも、「夢」が何なのかも聞かなかった。ただ、着ていた埃まみれの上着を脱いで、相手の頭めがけて放り投げた。ちょうど、あのぼさぼさの頭がすっぽりと隠れた。

「着ろ」彼は言った。「俺の前で、歌うな」

莉音は上着の下から顔を出して、一度まばたきをした。言い返しはしなかった。

フィニックスは背を向けて、コンテナの隙間の出口へ歩いていった。足音はとても静かだった。金属の音ひとつしないほどに。

莉音はその上着をはおって、遠ざかっていく背中を見送った。上着はセメントと汗の匂いがした。ごわごわしていて、古くて、それから、ほんの少しだけ石鹸の香りがした。彼は上着の襟をあごまで引き上げて、鉄の壁のそばに縮こまり、自分の心臓の音がひとつずつゆっくりになっていくのを聞いていた。

ひと月のあいだ、うるさくてたまらなかった世界が、ふいに、少しだけ静かになった。

——第九話 完


本作は、中国語の原案をAI翻訳によって日本語化したものです。

翻訳に不自然な点や、内容について気になることがありましたら、お気軽に教えてくださいね〜!

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