序章07.5 使徒の日常
序章 間章7.5話 使徒の日常
▼1
夜の寮の部屋には、いつも聞き慣れない寝言が響く。
「主よ……我らは……道を……誤ったのであろうか……」
フィニックスは、驚くほどなめらかな古風の日本語で、眠りながら低くつぶやいていた。その日本語は、彼が昼間に話す中国語よりずっと洗練されていた。もうひとつのベッドに寝ているラフィアは、とっくに慣れっこだった。寝返りを打ち、窓から差し込む街灯の明かりを頼りに、眠っていてもどこか野性味の残る横顔を眺める。口元が、勝手にゆるんだ。
(昼間の中国語は、セメント袋と格闘してるみたいなのに。夜になると、私の日本語の先生よりきれいな発音なんだから。この人、いったい何者なのよ)
彼女は聞かなかった。彼女自身も〈使徒〉のひとりだ。世の中には、尋ねることそのものが裏切りになる秘密がある。主を裏切った者は、心より先に翼が黒く染まる。その黒を、彼女はニュースで一度だけ見たことがあった。あの、謎の翼人だ。そしてその翼人は今、彼女が借りているシングルベッドの向かいで、彼女が買ってきた、どう見てもサイズの合っていないパジャマを着て眠っている。襟元から肩甲骨が少しのぞいていた。そこは夜になるとときどきむずがゆくなる。〈黒羽〉が、まだここにいるぞと彼に教えているのだ。
彼の夢の中で、金属の窓枠が小さく鳴っていた。その音は彼女には聞こえない。そしてそれが、彼がヘッドホンを決して外そうとしない理由でもあった。
眠るときでさえ、彼はヘッドホンを外さなかった。イヤーカップが枕に押しつけられて、くぼみができている。何度かそれを見たラフィアは、ある夜中とうとう起き出して、枕をもっとやわらかいものに替え、ヘッドホンの下にタオルを敷いてやった。翌朝、彼は怪訝そうな顔で聞いた。「枕、なぜ、変わった?」彼女が「あなた、寝てるとき歯ぎしりするから」と答えると、彼はそれを真に受けた。それから一週間、寝る前に必ず口元を手で確かめていた。
目覚ましは五時に鳴った。ラフィアは彼より先に起きて、小さな台所で卵を焼き、昨日の残りのご飯を温め、二人分のお弁当を色違いの袋に詰めた。彼は玄関にしゃがんで靴ひもを結んでいた。三回目でようやくちゃんと結べた。日本式の結び方をしようとするのに、ひもが短すぎるのだ。
「目玉焼き、できたわよ」彼女はお弁当を差し出した。
「ありがとう」
「その言葉、言いすぎると飽きられるわよ」
「飽きない」彼は真剣な顔で言った。「この言葉は、いちばん、言い間違えない」
★ ★ ★
▼2
翌朝五時半、フィニックスはラフィアに教えられた工事現場の入り口に立っていた。現場はまだ完全には目を覚ましていない。空気には、セメントと鉄錆と、ゆうべのタバコの匂いが混じっていた。鉄の音が、彼の耳には調律の狂ったピアノのように響く。それでも彼は耐えた。この「日雇い」の仕事を続けるために。
タバコをくわえた中年の親方が、目を細めて応募に来た新顔たちを値踏みしていた。ほとんどが外国人労働者だったが、その中に、金髪で色白で、やけに澄んだ目をしたアメリカ人がひとり混じっていて、ひどく目立った。工事現場で澄んだ目なんて何の役にも立たない。こういう新入りは、たいていまず袋運びに回される。
「おーい、そこの若いの」
「……はい?」
「はいじゃねえよ! このボケナス、お前を呼んでんだよ!」
彼は親方に腕をつかまれて引っぱり出された。頭の中で、すばやく作戦のシミュレーションが走る。CEOだったころに身についた癖だ。
(言葉が通じないのが最大の壁だ。だがここで最低限の信用を築ければ、少なくとも安定した収入と、身元を隠す隠れ蓑にはなる。ラフィアの言っていた一千元……あれがあれば、二人の二週間分の食費と交通費にはなるはずだ)
親方は片言の外国語に台湾語を交ぜて指示を出した。
「今からこのセメント袋、一階から四階まで担いで上がれ。三分以内だ。できたら残してやる。無理なら帰れ」
彼は五十キロのセメント袋を軽く持ち上げて重さを確かめ、少しだけ眉をひそめた。
(この世界の重力は、確かに故郷より重い。少しばかり恩恵を使わなければ、この肉体ではもたないだろう)
深く息を吸い、体の中にあるごくかすかな主の加護を、こっそりと働かせる。重さを、制御できる負荷に置き換えていく。加護といっても、飛ぶわけではない。飛べばニュースになる。ニュースになれば、また先輩に平手打ちを食らう。袋をほんの少し軽くするだけでいい。だから、汗はちゃんと全身にかいた。
三分のうちに、彼は二往復した。顔色ひとつ変えず、息も切らしていない。親方は目を丸くし、まわりの労働者たちは完全にあっけにとられていた。口笛を吹いた者までいた。
「……マジかよ。こんな女みてえな優男が、やるじゃねえか」
こうしてフィニックスは、正式に荷運び作業員になった。
朝七時から昼の十二時まで、彼は疲れを知らない機械のように、建材も砂利もセメントも、一袋ずつ上の階へ運び続けた。足場は日差しを浴びてぎらぎらと光っていた。交差する鉄のパイプは、見ているうちに鍵のようにも見えてきたが、深くは考えなかった。この一袋を運び終えたら、また次の一袋だ。
九時過ぎ、三階の足場から、ごく細い音が聞こえた。ドリルでもハンマーでもない。振動でボルトが少しずつ回ってゆるんでいく音だ。ほかの誰にも聞こえないほど細い音だった。彼は足を止めて見上げた。その下を、痩せたベトナム人の労働者がバケツを提げて、足場の角に向かって歩いていく。
「そこ!」中国語で叫んだ。叫んでから、短すぎると気づいた。日本語をひと言付け足し、さらに英語を付け足す。「ダメ、行く、ストップ!」
痩せた男がきょとんとして立ち止まった。バケツが宙で止まる。その一秒後、締め忘れの鉄パイプが三階の縁から滑り落ち、ガシャーンと音を立てて、男がまさに踏み出そうとしていた場所に叩きつけられた。セメントの床に、白い傷がついた。
現場全体が三秒、静まり返った。親方が飛んできて、まず「誰だ、締め忘れたのは!」と怒鳴り、怒鳴ってから、誰もけがをしていないことに気づいた。痩せた男の顔はセメントより白かった。彼はフィニックスの腕にしがみついて、何度も「ありがとう、兄貴」と繰り返した。
「運が、よかった」フィニックスは小さな声で言った。
「お前の耳、レーダーでもついてんのか?」隣のおじさんが笑いながら彼の背中を叩いた。その勢いで、朝飲んだ豆乳を危うく吐き出しそうになった。
彼は答えなかった。ああいう音は、一日じゅう聞こえている。ふだんはまわりの騒音に埋もれているだけだ。その日から、みんなは彼を「順風耳」と呼ぶようになった。ずいぶん呼びやすいあだ名らしかった。それが悪口ではないと彼が知ったのは、二週間たってからだった。
昼になると、年配の職人たちのためにお昼の買い出しに走らされた。ルーローハン、豚そぼろ飯、四神湯、それから冷えた冬瓜茶。何度も往復して、弁当を手渡すたびに、まず「ありがとう」と言った。「ありがとう」は、彼がこの数日でいちばん早く覚えた中国語だった。
助けられたベトナム人の労働者はグエンといった。昼休みになると、黙って彼の隣に腰を下ろし、ビニール袋からみかんをひとつ取り出して皮をむき、半分を差し出してきた。二人の言葉はまったく通じない。身振り手振りでやりとりするしかなかった。グエンは自分を指さして「グエン」と言い、それから彼を指さした。「あんたは?」
「フィニックス」
「フェ……ニー?」
「Phoenix」彼はもう一度、今度はゆっくりと発音した。「鳥。燃える、鳥」
グエンは彼を見つめてうなずき、それから彼には分からないベトナム語をひと言つぶやいて、笑った。あとでラフィアにその意味を尋ねると、彼女はさんざん調べたあげく、「たぶん、『燃え尽きない鳥』ってことだと思う」と言った。彼はそれ以上聞かなかった。ただ、みかんの皮をきれいに重ねてポケットにしまい、家に持ち帰った。
午後五時の定時に作業を終えたとき、十本の指はまだぴくぴくと引きつっていた。でもその体の痛みが、かえって彼を安心させた。親方の休憩所に給料を受け取りに行くと、親方はにこにこしながら青い紙幣を一枚差し出した。
「ほらよ、若いの。今日のお前の日当だ。一千元。よく働いたな」
彼の目が輝いた。
「ありがとうございます、親方!」
紙幣を大事に財布にしまい、わざわざポケットをぽんぽんと叩いて、ちゃんとあるか確かめる。内心、ちょっと興奮すらしていた。
(一千。故郷なら、上等のワインが何本も買える。この土地の人間は、ずいぶん気前がいいな)
その甘い夢は、夜、仕事から帰ってきたラフィアによって無残に打ち砕かれた。彼女はお弁当の袋をテーブルに置き、金額を聞くなり目を丸くした。
「一千元? そんなに少ないの?」
「……え?」
「台湾ドルとアメリカドルのレートって、だいたい三十対一とか四十対一なの、知らないの?」
「…………」
彼はその場で石になった。顔に、ゆっくりと「この世界に裏切られた気がする」という表情が浮かび上がっていく。その間抜けな顔を見て、ラフィアはお腹を抱えて笑い転げた。
「バカね。いいのよ、初日にしては上出来じゃない。ほら、ご飯にしよ。ビール買ってきたから」
缶ビールを開けると、泡がしゅわしゅわと立ちのぼった。復讐のことはひとまず脇に置いて、二人は缶を軽くぶつけ合った。この一千元は、今夜、二人分のおかず代になった。箸を持つ彼の手はまだ少し震えていた。疲れのせいなのか、為替レートのショックのせいなのかは分からなかった。
食事の途中で、彼はポケットからあの二枚のみかんの皮を取り出して、テーブルに並べた。
「なにこれ?」
「同僚がくれた。俺は……燃え尽きない鳥、だと言っていた」
ラフィアはみかんの皮を数秒見つめて、それからテーブルに突っ伏して笑い転げた。何がおかしいのか分からないまま、彼は黙ってご飯を食べ続けた。
★ ★ ★
▼3
日々は、セメントのように一層ずつ積み重なっていった。
毎朝、二人は一緒に家を出た。ひとりは工事現場へセメントを運びに、ひとりは病院のシフトへ。夜は一緒に帰ってきて、フィニックスが少しずつ腕を上げてきた家庭料理を食べ、ビールか赤ワインを少しだけ飲み、どうでもいいような日々のことを話した。休みの日にはときどき、近くにある蔦に覆われた石造りの教会に一緒に行った。中にはもう誰もいなかったが、それでも二人は腰を下ろして祈った。どちらも、自分が〈使徒〉であることを誰にも話していなかった。ただこの異国の地で、かすかなのに決して消えようとしない信仰を、黙って守り続けていた。
彼の家庭料理は、トマトと卵の炒め物から始まった。最初に作った卵は焦げた雲みたいなかたまりになり、トマトは全部フライパンの底にこびりついた。ラフィアはひと口食べて顔をしかめたのに、「まあまあね」と言って、一皿きっちり平らげた。二回目、彼は学習した。先に卵を半熟まで炒めて取り出し、それからトマトを炒め、塩はかなり控えめにした。彼女はご飯を二杯おかわりした。
「今回は、おいしい?」横で彼が緊張した顔で聞いた。
「うん、上達したね」彼女はひと口分を箸でつまんで彼に差し出した。「自分でも食べてみなよ」
彼は食べて、うなずいて、もう一度うなずいた。それから、とても小さな、照れたような笑みを浮かべた。彼女はその表情をしっかり覚えておくことにした。いつか彼が意地を張ったときに、持ち出してやるために。
週末には市場へ買い出しに行った。昔ながらの市場はとにかく騒がしい。売り子の呼び声、バイクのクラクション、氷が鉄のたらいに落ちる音。それが全部ごちゃまぜになっている。彼はヘッドホンをぎゅっと押さえて、散歩に連れ出された大型犬みたいにラフィアのあとをついて歩いた。ラフィアは野菜を選びながら、彼に中国語を教えた。
「これは、キャベツ。高麗菜」
「ガオ、リー、ツァイ」
「これは、ネギ。蔥」
「ツォン」
「で、これは……」彼女はグァバをひとつ手に取って、わざと黙った。
「Guava」彼は得意げだった。
「芭樂」
「バー——ラー」彼はとてもきれいに発音した。そのあとで、ふと何かを思い出したようだった。「その言葉、現場でも、誰か言っていた。『芭樂票』。どういう意味?」
「えっと……つまり……現金にできない小切手、ってこと」
「じゃあ、あの一千元は……」
「不渡りじゃないってば!」
彼女は笑いながら彼の腕を叩いた。彼はよけなかった。ただ、叩かれたところを見下ろして、数秒たってから顔を上げた。
最近、彼は中国語で「ただいま」と言えるようになった。先に家に着いたときには、誰もいない部屋に向かってひとりで練習していることもある。抑揚がおかしくて、自分でも笑いそうになるくらいだった。でも、そのたったひと言が、この寮の部屋を、客船のキャビンよりもずっと「家」らしくしていた。家の中は相変わらずうるさい。水道管の音、向かいの物干し竿、そして肩甲骨の中でまだ落ち着かない一対の翼。彼はその翼をしまったままにしていた。最後に広げたのは、暗い路地でのことだ。李という名の男が倒れて、二度と起き上がらなかった。今の彼は、ただのセメント運びだった。
休みの日に教会へ行くと、二人はいちばん後ろの列に座った。石の壁の蔦が、ステンドグラスの欠けたところから中へ入り込み、風が吹くたびに揺れて、床に細かな影を落としていた。フィニックスは目を閉じて、彼女には分からない祈りの言葉を低く唱えていた。寝言と同じ、古風な日本語だった。彼女は片目だけそっと開けて、彼を盗み見た。膝の上で、彼の親指がとん、とん、と規則正しく動いている。何かを数えているみたいだった。
彼女は邪魔をしなかった。彼が唱え終わったときに、小さく「アーメン」と言っただけだった。彼は目を開けて彼女を少し見つめ、それから自分も「アーメン」と言った。発音はちょっと変だった。でも、前よりはうまくなっていた。
帰り道、たい焼きの屋台の前を通りかかった。ラフィアはあんことカスタードをひとつずつ買った。彼は両方とも食べたそうだったが、言い出せずにいた。すると彼女は、両方をひと口ずつかじってから彼に渡した。「これで半分こね」彼はそれを受け取って、ゆっくりと食べた。最後のひと口のところで、彼がふいに口を開いた。
「ラフィア」
「ん?」
「これ、忘れない」
「なにを?」
「全部」
彼女は一瞬ぽかんとして、それから口元をほころばせた。何も言い返さなかった。ただ、マフラーを少し上に引っぱって、ちょっと熱くなった顔を隠した。
★ ★ ★
▼4
病院の夜勤の廊下は、照明が薄暗くて、怪談を語るにはうってつけだった。
夜勤が始まったばかりのナースステーションには、二人しかいなかった。ラフィアはカルテを確認しながら、ジュリエットが本のページをめくる音を聞いていた。その古い本はとんでもなく分厚くて、ページをめくるたびに、遠くで誰かがため息をついたような小さな音がする。ジュリエットはナースステーションの背の高い椅子に座り、宙に浮いた両足をぶらぶらさせていた。目の前には小さなプリンがひとつ。ナースステーションの冷蔵庫からくすねてきたもので、ふたはもう開いている。
「それ、三〇二号室の子のよ」ラフィアは顔も上げずに言った。
「知ってるわ」ジュリエットは言った。「アンソニア、今日はちょっと血糖値が低めなの。甘いものはダメ。だから私が代わりに食べてあげてるの」
「ただの私怨じゃない」
「だってあの子、昨日、私のボストンクリームパイ全部食べちゃったんだもの」
ラフィアはため息をついて、それ以上は構わなかった。一回目の見回りを終えて戻ってくると、ジュリエットの手の本はどこかのページで開かれていて、彼女はペンで余白に何かを書き込んでいた。ずいぶん真剣な顔だった。右目の単眼鏡が、蛍光灯の光を跳ね返している。
「何書いてるの?」
「夢遊病の人のこと」ジュリエットは本を半分だけ閉じた。「夜は日本語、昼は中国語。工事現場でセメントを運んでて、セメントに負けそうになってる人」
「なんで知ってるのよ!?」ラフィアは目を丸くした。「私、一回しか話してないのに!」
「三回よ」ジュリエットはにこにこと笑った。「一回目は先週の火曜日、二回目は木曜日、今日で三回目」
「……そんなに話してた?」
「話すたびに、耳が赤くなってるわよ」
ラフィアは両手で耳をふさいだ。ジュリエットは椅子から転げ落ちそうなほど笑った。
「ジュリエット!」
「きゃあ——っ!」
二人はあっという間に取っ組み合いになって、誰もいない夜の廊下できゃあきゃあと騒いだ。メリハリのある体つきに、よく似たショートヘア——片方はやわらかいピンク、もう片方は少し冷たい感じのするブラウン——それにジュリエットの右目の金縁の単眼鏡が加わって、その光景には、言葉にしにくい美しさがあった。記録音であるジュリエットにとって、この無邪気さは偽装だった。環天使であるラフィアにとっては、ただの遊び仲間とのじゃれ合いだった。
騒いでいる最中に、廊下の突き当たりの病室からナースコールが鳴った。ラフィアはすぐに笑顔を引っ込め、白衣を整えて、早足で向かった。ジュリエットはついていかなかった。その場に立ったまま、白い背中がドアの向こうに消えるのを見送った。
病室のおじいさんは階段から転げ落ちて、肘の皮を大きくすりむいていた。包帯に血がにじんでいる。ラフィアはベッドの横にしゃがんで手袋をはめ、傷口の一センチ上に手のひらをかざした。何もしない。ただ、そっと、そっと、そこに手を止めているだけだ。一、二分たつと、傷のまわりの赤い腫れがゆっくりと引いていき、血も止まった。おじいさんは自分の肘を見て、不思議そうに「あれ?」と声を漏らした。
「おじいちゃん、さっきお薬を塗ったとき、効き目が早かったのね」ラフィアはにこにこしながらガーゼを貼り直した。「明日の朝、もう一回替えれば大丈夫よ」
こういうことは何度もしてきた。そのたびに、同じ台詞でごまかしてきた。〈使徒〉の力なら、三十分以内の傷は跡も残さずに治せる。でも、どうやって治ったのかを人に見られてはいけない。彼女は手袋をゴミ箱に捨て、手を二回洗ってから、ナースステーションに戻った。
見回りを終えた二人は、並んで廊下の壁にもたれて休んでいた。ジュリエットがふいに声をひそめた。
「はあ。昔、教会でほかの遊び仲間と過ごしてたのも、こんな感じだったなあ」
「ん? 今なにか言った?」
「なんでもない」
ラフィアは何かを思い出したように、少し身を寄せた。
「そういえばさ。ジュリエットって、夜勤のときしか会わないわよね」
「うん、そうよ。私、ずっと夜勤だから。どうして?」
「ねえ。病院に伝わってる、あの噂、聞いたことある?」
彼女は声を落として、あの話を聞かせた。「ものすごく古い本を抱えて、重い病気の患者さんの枕元にだけ現れる、ショートヘアの女の子」の話だ。その子にお話を聞かせてもらった人は、ほとんどみんな、奇跡みたいに良くなるのだという。
「しかもね、噂だと……その子、胸もすごく大きくて、あなたと同じ名前なんだって」
ジュリエットは顔を半分うつむけて、口元に意味ありげな笑みを浮かべた。床にはラフィアの影がはっきりと落ちている。それなのに、ジュリエット自身の影は薄暗い照明の下で、ほとんど見えないほど淡かった。
(ほんとはもう会ってるのよ、ラフィア。その女の子は、私。私はただ、主がかつて私たちに語ってくださった言葉を、物語に編み直して、門へ向かっていく魂たちに贈ってるだけ)
「うわぁ、なんだか怖いわね」ジュリエットは首をすくめ、それから意図的に、ラフィアの手を握った。
(ほんとはね、あなたももう何度も、私からお話を聞かされてるのよ。あなた自身も知らないところで)
ラフィアはそっと手を握り返した。いちばん無害なおとぎ話を語るような、やさしい声だった。
「そんなに難しく考えなくていいのよ。もし本当に会っちゃっても……案外、悪いことじゃないかもしれないし」
二時を過ぎると、病棟は静まり返った。二人はナースステーションの明かりを半分消し、隅っこで身を寄せ合って、一枚の毛布を分け合った。ラフィアが小さくあくびをして、目を細める。
「ジュリエット」
「ん?」
「考えたこと……ある? 私たちみたいなのも、いつかは……」
「いつかは、なに?」
ラフィアはその先を言わず、ただ首を横に振った。ジュリエットも聞き返さなかった。彼女は古い本を胸に抱き、顎を表紙に押し当てたまま、長いあいだ黙っていた。それから、ようやく口を開いた。とても小さな声だった。
「私は記録するだけ。推測はしないの。でも、もし誰かに聞かれたら、こう答えるわ。ええ、いつかはね。でも、その日が来るまでには、まだたくさんの夜があるわ、って」
「それ、慰めになってる?」
「なってるわよ。私、本当のことしか言わないもの」
ラフィアはぷっと吹き出して、彼女の肩に頭をあずけた。ジュリエットは一瞬体をこわばらせて、それからゆっくりと力を抜いた。
話しているうちに、空がだんだん白んできた。記録音には、まだ口にしていないことがひとつあった。二〇一号室のあの百合も、あの紫のポニーテールも、感情を弾丸に変えるあの銃も、全部もう、同じ一冊の古い本に書き込まれているということ。本はいったん閉じられた。環天使が、先に着替えに行けるように。
★ ★ ★
▼5
ラフィアがロッカールームで着替えて出てくると、ジュリエットはもうどこにもいなかった。最初からいなかったみたいに。廊下には、薬品カートの車輪の跡だけが残っていた。
「もうっ。ジュリエットっていつもこうなんだから、待っててくれないんだもん!」
彼女はぷりぷりしながら足を踏み鳴らした。自分の手首に、いつの間にかごく薄い跡がついていることには気づかなかった。本のページで軽くなでられたような跡だった。傷ではない。傷なら、彼女は三十分以内に治せる。それは「物語の中に語り込まれた」ことで残った印で、癒えることはないのだ。
家に帰ると、寮の部屋にはまだ明かりがついていた。あの金髪の男は明日使う軍手をもう洗い終えて、ベランダに干していた。ベランダの鉄の柵が、小さくひとつ鳴った。今度は、彼は「黙れ」と叫ばなかった。彼女はドアの前でしばらく立っていて、それから足音を忍ばせて部屋に入った。
彼はベッドの端に座ったまま、もう眠っていた。ヘッドホンはつけたままで、背中を壁にあずけ、両手を行儀よく膝の上にそろえている。まだ誰かを待っているみたいだった。テーブルの上には小さなお椀がひとつ、お皿でふたをして置いてあった。ふたを取ると、彼が自分で作ったトマトのかきたまスープで、まだほんのり温かかった。横には一枚のメモが挟んであって、ふにゃふにゃの字でこう書かれていた。
「ラフィア、おつかれ。スープ、飲んで」
彼女はテーブルのそばで、長いあいだ立ち尽くしていた。それからお椀を手に取って、ゆっくりとひと口飲んだ。少ししょっぱくて、卵も細かくなりすぎていた。でも飲み終えると、お腹の底まで温かくなった。
飲み終えたお椀を洗い、水気を拭いて、棚に戻す。振り返ると、彼の頭は横に傾いていて、唇がかすかに動いた。また寝言だった。
「主よ……」
彼女はそばに歩み寄り、毛布を彼の肩まで引き上げてやった。ついでに、鼻のほうまでずり落ちていたヘッドホンを、そっと直してやる。彼は目を覚まさなかった。でも、眉間のしわが少しだけほどけた。
彼女はベッドに横になって、手首を目の前にかざした。そのうっすらとした跡は、薄暗い街灯の明かりの下で、ものすごく細いペンで書かれた一行の文字のように見えた。でも、何が書いてあるのかは読み取れない。彼女は寝返りを打って、その手を布団の中に隠した。
窓の外を始発のバスが通り過ぎていき、街角から鉄の音がかすかに届いた。彼は眠ったまま一瞬眉をひそめ、それからまた、深い眠りに落ちていった。
——間章7.5話 完
本作は、中国語の原案をAI翻訳によって日本語化したものです。
翻訳に不自然な点や、内容について気になることがありましたら、お気軽に教えてくださいね〜!




