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龍の神  作者: カズハ
-とある龍神達の幻想譚-

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Fortia

某日、何処かの空間にて――


多元世界の最奥。汎ゆる次元の泡が弾け、生まれる因果の源流点に其の場所はあった。

フォルティアの心象が其の儘形を成した領域。空には無数の銀河が万華鏡の様に巡り、足元には純白の結晶が無限の平原となって広がっている。そこは物理法則も時間軸も無意味な、完全なる静寂と白の聖域。其の中心に、場違いな程に優雅なティーテーブルが置かれていた。

「……ふむ……あやつの最期、実に見事であったな。愛する者を守る為に自らの存在概念を焼き尽くすか。人間という種は、時折こうした非論理的な輝きを見せるから飽きぬ」

白龍神の神祖フォルティアは、透き通った群青の瞳を細め乍ら、宙に浮かぶ窓を眺めていた。窓の向こうでは、一つの文明が終焉を迎え、一人の英雄が力尽きる所だった。

彼女は白を基調としたドレスを纏っている。20代前半の美女に見える其の姿は、138億年という悠久を生きる彼女にとっての、単なる現在の仮装に過ぎない。

「フォルティア、君の趣味は相変わらず、悪趣味の境界線の上を歩いているね。文明の滅亡を紅茶の肴にするなんて」

対面に座る黒龍族の神祖、サピエンティアが苦笑しながらエーテルを満たしたカップを口に運ぶ。彼女の周囲には常に微細な情報の奔流が渦巻いており、深淵の海の様な魔力が静かに空間を侵食していた。

「何を言う。終わりがあるからこそ、その過程に価値が宿るのだ……サピエンティア、お主だってあの英雄の最期の瞬間の情報を、余さず解析して保存したであろう?」

「……否定はしないよ。未知の感情データは、私にとっての御馳走だからね」

二人の会話は、世界の破滅を語っているとは思えない程穏やかだ。彼女達にとって、一つの宇宙の終焉は、巨大な図書館の一冊の本が閉じられる程度の出来事でしかない。

「さて、次はどの世界を観測しようか?退屈を埋めるには、もう少し骨のある悲劇か、突き抜けた喜劇が欲しいものだが――」

フォルティアが気紛れに指先で虚空をなぞろうとした、その時だった。

「――ジャスティティア、お前のその短絡的な火力が、どれ程因果の計算を狂わせているか理解しているのか?」

「あー、うっさいわね!規律だの計算だの、理屈を並べてる間に悪性が増殖してんでしょうが!焼き払えば解決、これ宇宙の真理!」

静寂な領域を切り裂く様に、喧しい怒号が響き渡る。純白の平原の向こうから、蒼い疾風と紅い劫火が絡み合い乍ら高速で接近してきた。


蒼龍族の神祖、テンパランティア。紅龍族の神祖、ジャスティティア。


二人は領域に着地するなり、互いの鼻先が触れんばかりの距離で睨み合っていた。

「お主ら、人の静かな茶会に土足で踏み込むとは、相変わらず無作法な奴らよ」

フォルティアが呆れたように溜息をつくが、その口元には楽しげな弧が刻まれている。彼女にとって此の賑やかな神祖達の諍いは、退屈な永劫を彩る最高のBGMだった。

「あ、フォルティア!聞いてよ!此の堅物男、折角アタシが魔性の巣窟を根こそぎ灰にしてやったのに、生態系のバランスがどうのって説教してくんのよ!」

「ジャスティティア、言葉を慎め!フォルティアの前だぞ……其れから、私の慈嵐による浄化計画を無視して暴走したのは貴様の方だ。余計な熱量を次元の隙間に放出するなと言っている!」

「はいはい、仲良く喧嘩してて結構な事だね」

サピエンティアがパチンと指を鳴らすと、二人の間に新たな椅子とカップが現れる。

「座りなよ。フォルティアも、君達のエネルギーのぶつかり合いを眺めるのが好きなんだから」

「……フン、サピエンティアに免じて今は引いてやるわ。後で覚えてなさいよ、この青二才!」

「それはこちらの台詞だ、猛火娘」

毒づき合い乍らも、二人はフォルティアを囲む席に着く。テンパランティアは居住まいを正し、ジャスティティアは行儀悪く椅子の背もたれに足をかけようとして、フォルティアの冷ややかな視線に気づき、舌を出して座り直した。

「其れで?お主らが揃って此処へ来るという事は、単なる痴話喧嘩の報告ではあるまい?」

フォルティアの問いに、テンパランティアの表情が引き締まった。

「……左様、実は境界領域である煉獄に、奇妙な澱みが発生している。私の浄化を撥ね除ける程に、粘り強く不快な悪性情報だ」

「アタシの火で焼いても、煙みたいに逃げんのよね。只の魔性とは、一寸手応えが違うっていうか……」

其の時、領域の光が一段と増した。

「フォルティア様!お召しのドレスに合わせた、至高の新作が完成いたしました!」

現れたのは黄龍族の神祖、フィデムだ。彼女の両手には、純白の結晶で彫り上げられた、フォルティアの等身大の像が抱えられている。其の像からは、実物と見紛う程の神性と、フィデムの狂気的な迄の信仰基愛着が溢れ出していた。

「おお、フィデムか。どれ……ふむ、妾の指先の角度、僅かに三度ほど鋭すぎる気がするが、概ね良しとしよう」

「も、申し訳ございません!直ぐに修正を……いえ、これに魂を込めて作り直します!」

フィデムは恍惚とした表情で像を抱きしめ、周囲の緊張感を完全に無視して自分だけの世界に没入している。

「……相変わらず、此処の連中は個性の煮凝りだなー。」

呆れ顔のジャスティティアの隣に、いつの間にか二人の男女が立っていた。


金龍族の神祖スペスと、銀龍族の神祖カリタス。


二人は常に互いの影を補い合う様に寄り添っており、其の瞳には多元世界の過去と起源を覗く深遠な光が宿っている。

「フォルティア、お戯れの最中に失礼。」

スペスが静かに頭を下げ、その隣でカリタスが淡々と告げた。

「……ノイズを確認した。それは一つの宇宙に留まらず、因果の系譜を遡り、『起源』へと侵食を開始している」

「起源への侵食だと?」

フォルティアの瞳から気紛れな色が消え、鋭い神性が宿る。世界を白へと還す権能を持つ彼女にとって、情報の汚れは看過できない。

「ええ、そして……其れが最も深刻な形で現れているのが、私達の足元なの。」

「足元?」

カリタスが視線を落とした先に、龍神達の澱みを喰らう闇喰が蹲り、不気味な黒い靄を噴き出させていた。フォルティアが椅子から立ち上がり、其の黒い靄をマジマジと調べる様に凝視する。

「……沈黙している。私の解析すら、其の深淵には届かない」

サピエンティアの声に、嘗てない警戒の色が混じる。フォルティアは手をかざすと、空間が白く明滅し汎ゆる事象をリセットする幻想の波動が放たれる。だが、黒い靄は消え去るどころか、フォルティアの光を喰らう様にして、その色をより濃く変貌させた。

「妾の理を拒絶するか。面白い……面白いが、一族に手を出す不届き者は妾が許さぬ」

フォルティアの背後に、無限の宇宙の縮図が浮上する。彼女の言葉と共に、純白の領域が激しく震えた。それは穏やかな茶会の終わりと、多元宇宙を揺るがす戦いの幕開けだった。

「サピエンティア、解析を続けよ。テンパランティア、ジャスティティア、戦の準備だ。フィデム、その像は匣の傍に置いておけ。守護の礎となるやもしれぬ」

フォルティアの命令に、神祖達が一斉に跪く。

「白きデウス・エクス・マキナの名に於いて定義する。これより始まる事象は、単なる災厄にあらず。妾が主宰する、全知全能の演武である」

彼女の群青と銀の瞳に、銀河の渦が激しく逆巻いた。白龍神の気紛れは、今、冷徹な神の裁断へと昇華されようとしていた。

「……痛い、か。いや、そうではないな」

フォルティアは自らの足元で蹲る闇喰、名は『ヌル』と仮に呼ばれている個体をじっと見下ろしていた。彼女達が生み出した闇喰は通常、感情を外部に漏らさない。彼らは只静かに、主の影として負を喰らい、其れを無害なエネルギーへと還元する装置に徹する。だが今のヌルが発しているのは、純粋な悪意の断片だった。

「フォルティア、近づくのは危険だ。」

スペスが制止の声をかける。

「彼の起源が書き換えられているんだ。まるで、初めから魔性として設計されたかの様に……」

「起源を書き換えるだと?スペス、お主の解源を以てしても防げなかったのか?」

「……私の先読みを上回る速度で、情報の崩落が起きている。これは外部からの攻撃というより、因果律の隙間に溜まった澱みが、一斉に意志を持ち始めたような感覚です」

フォルティアは鼻で笑った。

「ふん、妾の目の前で因果律を語るとは……サピエンティア、魔性(サヴァト)の周波数を特定しろ。煉獄に逃げ込んだのなら、其処ごと白に塗り潰してくれる」

「一寸待って、フォルティア。今はまだダメだ」

サピエンティアが展開した無数の虚空モニターには、複数の並行世界で起きている「消失」のデータが滝の様に流れていた。

「見て。魔性がただ破壊しているんじゃない。彼らは、世界の存在基盤――つまり幻影達が支えている信仰や記憶の土台を喰らっている。今、君がその領域を白紙に戻せば、其処に住む生命の魂の記録まで消えてしまうよ」

「……まどろっこしい事を。」

フォルティアは不満げに眉を潜めた。彼女の権能はあまりに強力すぎる。一振りで敵を消せば、その背景にある歴史まで消し飛ばしかねない。それが、彼女が自らに制限を課している理由でもあった。

「チッ、要はアレでしょ。精密外科手術みたいに、悪いとこだけ焼けばいいんでしょ?」

ジャスティティアが拳を打ち鳴らし、紅い炎を爆発させる。

「アタシの幻想なら、嘘と規律違反だけを物理的な熱に変えられる。魔性なんて存在自体が世界の嘘みたいなもんだし、一丁焼き尽くしてきてやるわよ!」

「待ちなさい、ジャスティティア。貴女の炎は広がりすぎる」

テンパランティアが冷ややかに遮る。

「先ずは私の幻想で悪性情報のみを分離し、隔離するのが先決だ。その後で、生存者を私の風で再生させる……お前の出番は、その後の残骸処理だ。」

「あぁん!?誰が掃除屋だって!?この蒼いツラ、一回沸騰させてやろうか!」

「やれるものならやってみるがいい。計算外の熱量は、私の風が全て凍りつかせてやる」

「……やれやれ……あやつらは放っておくと、魔性が攻めてくる前に宇宙を一つ二つ、喧嘩の余波で潰しそうだな。」

フォルティアは座り直し、フィデムが持ってきた新作の像の頭をぽんぽんと叩いた。

「フィデム、お主の顕魂で、この闇喰の魂を一時的に固定できぬか?魂の芯さえ繋ぎ止めておけば、妾が後でどうにでもしてやれる」

「は、はい!喜んで!フォルティア様の為なら、魂の百や千、喜んで結晶化してみせます!」

フィデムは目を輝かせ、ヌルの背後に回った。彼女が手を翳すと、黄金の魔力が糸の様に紡がれ、黒い靄の中に輝く芯を打ち込んでいく。

「……ぐ、ぅ……あ……。」

闇喰の口から、掠れた声が漏れる。其れは、既存の言語では説明できない、数多の怨嗟が混じり合った響きだった。

「……何と言った?」

フォルティアが耳を傾ける。

「……救……済……。」

其の言葉が発せられた瞬間、ヌルの身体から爆発的な衝撃波が放たれた。純白の平原が大きく波打ち、ティーテーブルが粉々に砕け散る。

「おっと。」

サピエンティアが瞬時に障壁を張り、飛散する破片を情報の霧に変える。だが、衝撃の中心にいたヌルの姿は、既に変貌していた。黒い衣はボロボロに裂け、其の隙間から見た事もない特殊文字が刻まれた皮膚が覗く。周囲には浮遊する黒い立方体が幾つも出現し、聞き取れない独自の言葉が絶え間なく呟かれ始めた。

「――魔性(サヴァト)。しかも、闇喰を苗床にした上位種か」

スペスが鋭い視線を送る。

「アハハハハ……ハ……。」

ヌルだったモノが、歪な笑い声を上げた。その瞳は濁った赤に染まり、理性の欠片も感じられない。

「救済、だって?笑わせるわね。世界を腐らせるのが救いだってんなら、アタシの火は慈悲の極みって事じゃない!」

ジャスティティアが激昂し、紅い大鎌を具現化させる。

「待て、ジャスティティア!そいつはまだ――」

テンパランティアが制止しようとするが、遅かった。紅龍の神祖が放った一閃。空間を焼き切るほどの熱量が、魔性化したヌルへと叩きつけられる。だが。

「……消えた?」

ジャスティティアが目を見開く。炎が着弾する直前、ヌルの周囲の空間が折り畳まれた。其れは龍神達が煉獄へ移動する際に行う次元同調に似ていたが、より不自然で、暴力的な手法だった。

「煉獄の周波数を利用した……?違う、此れは世界のバグを意図的に引き起こして移動しているんだ」

サピエンティアが眉を寄せ、高速で指を動かす。

「逃げたよ……座標は――多元世界・第666分岐……文明レベルは3、魔導と科学が混在する中規模宇宙だね。」

「追うぞ。」

フォルティアが静かに、だが逆らえない威厳を込めて告げた。

「余の茶会を台無しにし、余の庭を汚し、何より妾の同胞を害した罪。その代償がどれほど重いか、白い無の地平で教えてやらねばならぬ」

彼女が指先で円を描くと、其処から眩いばかりの純白の光が溢れ出し、次元の門が開かれた。門の向こう側には、まだ何も知らない、平和な黄昏に包まれた異世界の空が見える。

「……スペス、カリタス。お主らは『匣』の守護に回れ。此度の異変、ヌル一人で終わるとは思えぬ。裏で糸を引く『上級魔性』がいるはずだ」

「御意に。」

「……気をつけて……今のあの子は、龍神の力の一部を悪性として反転させている。」

フォルティアは純白のドレスを靡かせ、一歩を踏み出した。

「案ずるな。余が誰だと思っている?」

彼女が微笑む。それは、世界を救う英雄の笑顔ではなく、お気に入りの玩具を壊された子供の冷酷さと、新たな面白い展開を予感した演出家の高揚が混ざり合った、神特有の笑みだった。

「サピエンティア、お主も来い。解析の特等席を用意してやる」

「……やれやれ、私の親友は本当に人使い……いや、神使いが荒いね」

神祖達が次々と光の門へ吸い込まれていく。後に残されたのは、粉々になったティーセットと、フィデムが削りかけの儘放置した、頭部のない純白の像だけだった。次元の裂け目が閉じる間際、フォルティアの小さな呟きが白の世界に響いた。其れは大団円への、まだほんの序章に過ぎない。


第666分岐世界。

其処では、巨大な蒸気機関が街を駆け、魔法使いが星の動きを読んで運命を予言する、調和の取れた世界だった。だが、其の黄昏時。空から降ってきたのは、恵みの雨ではなく、不吉な黒い立方体と、全てを白く染め上げる圧倒的な神の気配だった。

「……此処が、次の遊び場か。」

高度数万m。雲海の上に降り立ったフォルティアは、地上を見下ろして不敵に笑う。其の傍らで、サピエンティアは既に世界の情報を浸食・解析し始めていた。

「フォルティア、注意して。この世界の幻影達が、怯えている……いいえ、何かに書き換えられ様としているよ。」

地上の各地で、古くから伝わる神話の獣達が、黒い靄を纏って実体化し始める。人々の信仰が、魔性というフィルターを通す事で、世界を滅ぼす悪夢へと変貌していく。

「面白い。幻影を固定するのが龍神の役目なら、狂った幻影を躾け直すのも余の役目というわけだ」

フォルティアが右手を掲げる。其の指先から、一筋の銀の閃光が放たれた。

「テンパランティア、ジャスティティア。まずは地上の掃除だ。余とサピエンティアは、この世界の起源に巣食う不届き者を釣り上げる」

「了解!今度は計算通りに丁寧に、完膚なき迄に焼き尽くしてやるわ!」

「……やれやれ、最初の一言だけで十分だ、ジャスティティア。」

紅と蒼の光が、彗星の如く地上へと降り注ぐ。其れは、或る文明にとっては終末の予兆であり、また或る者にとっては、救済の始まりでもあった。そしてフォルティアの視線は、遠く離れた時空の彼方を見据えていた。其処にはヌルを操り、龍神族の匣を狙う、真の闇が潜んでいる。

「待っておれ。余の白は、汎ゆる色を飲み込むぞ」

物語は、混迷を極める第ニ章――魔性の軍勢と神祖達の衝突へと加速していく。

「――解析終了。不愉快な答えが出たよ、フォルティア」

多元世界の深淵、サピエンティアの展開する情報宇宙の只中で、彼女は冷たく言い放った。周囲に浮かぶ無数のホログラフィック・ウィンドウには、ノイズに塗れた波形と、急速に黒く染まりゆく次元座標が映し出されている。

スペスの解源が事象の始まりを暴き、カリタスの幻想が点と点を結びつけた結果、導き出された真実。其れは、単なる魔性の暴走ではなかった。

「……複数の並行世界で同時多発的に発生している魔性(サヴァト)の異常活性。それも、只の融合じゃない。何者かが言語を与え、情報を高度に組織化している」

「言語だと?」

フォルティアは、結晶化した椅子の背にもたれかかり、群青と銀の瞳を細めた。

「魔性とは、名もなき悪意の集積。形を持たぬ蠢きこそが奴らの本質であろうに」

「ええ。本来なら、彼らに共通の目的など存在し得ない。けれど今は違う。何者かが彼らの内側に論理を書き込んだ。それは、特定の周波数で共鳴し合う巨大な軍勢へと変貌しつつある……まるで、一つの意志を持った巨大な生物の様にね」

サピエンティアが指先でウィンドウを弾くと、一つの映像が拡大された。其処には、嘗ては闇喰であったヌルの変わり果てた姿があった。彼の周囲を漂う黒い立方体からは、理解不能な文字列が絶え間なく溢れ出し、周囲の空間そのものを腐食させている。

「……起源を書き換え、言葉を与え、軍勢として束ねるか」

フォルティアの唇が、不敵な弧を描いた。

「面白い。神の専売特許である定義と創造を、悪性情報の塊が真似事しようというのか。此れは、実に興味深い余興ではないか」

「面白がってる場合じゃないわよ、フォルティア!」

ジャスティティアが紅蓮の鎌を肩に担ぎ、苛立った様に床を鳴らした。

「アタシの火が効かないなんて、あんな屈辱は二度とごめんだわ。さっさと現地に行って、その知性だか何だかごと、灰にしてやればいいんでしょ?」

「落ち着け、ジャスティティア。まずは煉獄を通る。表の次元からでは、奴らの組織的な動きの全容は掴めぬ」

テンパランティアが静かに制する。彼の周囲には、すでに高次元同調の為の蒼い風が吹き始めていた。

「皆の者、準備は良いな」

フォルティアが立ち上がる。彼女が神祖の王冠に触れると、全知全能の権能の一部が、効率化された戦術回路へと変換される。

「多元世界の裏側、鏡面の盾たる煉獄へ。龍神の歩みを世界に刻むぞ」

フォルティアの宣言と共に、彼女達の肉体が銀の粒子へと分解され、現実の物理法則から脱落していく。行き先は、因果の奔流が渦巻く高次元緩衝帯。通常の世界の住人には決して視認できぬ、神々の通り道であった。


煉獄。其処は、どの宇宙の法も及ばぬ無色の空間だ。上下左右の概念はなく、ただ情報の残滓がオーロラの様に揺らめいている。フォルティア達は、その不確かな空間を、あたかも慣れ親しんだ散歩道であるかの様に渡っていく。

「……いた。第666分岐、辺境宇宙・アイギス」

先頭を行くサピエンティアが、空間の綻びを指し示した。其の裂け目からは、どろりとした墨汁の様な悪意が漏れ出している。

「あー、クッサい……この鼻をつく悪臭、間違いなく奴らね。」

ジャスティティアが鼻を覆う。

「行こう。これ以上の汚染は、世界の記録を損なう」

フォルティアの一言で、一行は次元の境界を潜り抜けた。辿り着いたのは、黄昏に沈む惑星。嘗ては蒸気機関と魔導が美しく共存していたであろう文明の都は、今や黒い霧に包まれ、静止していた。

「……酷いな。」

テンパランティアが眉を潜める。街の広場には、この世界の守護聖獣であった筈の幻影達が、無残な姿で佇んでいた。美しい白鳥の姿をしていた筈の幻影は、首が幾重にも捩れ、翼からは粘着質な黒い液体が滴っている。その瞳には知性はなく、ただ通りかかる生存者を捕食する為だけのバグと化していた。

「人々の記憶、信仰、積み上げた歴史……それらが魔性というフィルターを通して、悪夢へと再定義されているんだ。」

サピエンティアの幻想が、残酷な現実を告げる。

「ギ、ギギ……ガ、救済……定義……抹消……。」

街の影から、融合した魔性達が這い出してきた。それは数万、数億という悪意の断片が、一つの言葉に導かれて組み合わさった異形の波。彼らの頭上には、共通の特殊文字が明滅し、聞き取り得ぬ独自の言語が合唱(コーラス)の様に響き渡る。

「救済、救済と煩い奴らだ。」

フォルティアが冷ややかに見下ろす。

「妾の前で定義を語る無礼、万死に値する――ジャスティティア、テンパランティア、掃除を許可する……但し、大地其の物は壊すなよ。妾が後で塗り替える手間が増える。」

「了解!待ってましたッ!」

ジャスティティアが叫び、空中で紅い大鎌を旋回させる。

「規律を乱す不浄共! アタシの峻厳で、その存在理由ごと蒸発しなさい!」

彼女が振り下ろした一閃は、単なる炎ではない。それは嘘を吐く者に熱を与えるという概念の具現。魔性達の偽りの論理を燃料に、炎は爆発的に膨れ上がり、黒い波を次々と朱に染めていく。

「私も行こう。再生の風よ、邪悪な意志のみを剪定せよ」

テンパランティアが静かに手を広げる。彼から放たれた慈嵐は、味方の傷を癒し乍らも、魔性の本質だけをピンポイントで抉り取る、冷徹な迄の浄化の嵐。二人の神祖による圧倒的な蹂躙。数万の魔性が一瞬にして霧散し、街に光が戻るかに見えた。だが……。

「……おや?様子がおかしいね。」

サピエンティアが呟く。霧散した筈の黒が、消えていない。其れは空気中に微細な塵となって漂い、再び、まるで磁石に吸い寄せられる様にして一点に集まり始めた。

「何度焼いても無駄……私達は、情報の余剰なのだから。」

背後から、不気味なほど明瞭な人間の言葉が響いた。フォルティア達が振り返る。其処には、一体の上級魔性が立っていた。姿形は人間に似ているが、その輪郭は常にノイズの様に揺らめき、背後には数万の魔性の意志が接続された翼の様な構造体が見える。

「私達の知性は、貴方達の権能を学習した。ジャスティティア、貴方の熱量は予測の範囲内。テンパランティア、貴女の浄化周波数は既に相殺コードを作成済みだ」

上級魔性が手を翳すと、ジャスティティアの炎が氷の様に凍りつき、テンパランティアの風が重油の様な粘り気を持って墜落した。

「……アタシの炎を……相殺した?」

ジャスティティアの顔から色が消える。

「龍神よ。貴方達は、世界の記録者であり完成された調律者だ。だが、完成されているという事は、変化しないという事……私達は違う。私達は貴方達の力を喰らい、秒単位で進化する」

上級魔性の背後、煉獄の裂け目が更に大きく広がる。其処から現れたのは、龍神族の権能を模倣し、歪に反転させた神殺しの武装を纏った魔性の群れだった。

「面白い。」

フォルティアが、小さく笑った。その笑みは喜悦ではなく、極北の絶対零度にも似た静かな怒り。

「妾の力を学習した、と言ったか……良いだろう。ならば、学習しきれぬ程の絶望を、其の薄汚い器に注ぎ込んでやろう」

フォルティアの足元から、純白の波動が静かに広がっていく。物理法則が悲鳴を上げ、因果律が彼女の意志一つで書き換えられようとしていた。だが、上級魔性は怯まない。

「……無駄だ、白き神。私達が此処に現れたのは、貴女と戦うためではない……只、貴女の注意を此処に逸らせれば、それで良かったのだから」

「……何?」

サピエンティアが目を見開く。其の時、フォルティアたちの耳に、遠く離れた本拠地――彼女達の領域から、緊急の通信が届いた。送ってきたのは、留守を預かっていたスペスだ。

『フォルティア様! 領域が……匣が直接攻撃を受けています! 奴ら、最初から私達の裏を――!』

通信がノイズで途切れる。

「――謀ったな、小細工を」

フォルティアの瞳が、深淵の群青へと沈む。

「救済は、全知全能の根源から始まる……さあ、貴女の宝物が壊れる音が聞こえるか?」

上級魔性が嘲笑と共に霧散する。辺境の宇宙に響くのは、勝ち誇った魔性の合唱と、崩壊を待つ世界の悲鳴。フォルティアは一瞬の躊躇もなく、神祖の王冠を最大出力で解放した。

「サピエンティア、第666分岐を一時凍結しろ!妾は領域へ戻る!」

白き機械仕掛けの神が、初めてその制限を危うい迄に引き上げる。

「――遅かったか。」

多元世界の心臓部、フォルティアの領域へと帰還したサピエンティアが、苦々しく呟いた。嘗て純白の静寂を保っていた結晶の平原は、いまや底なしの泥濘の様な黒い靄に覆われている。空を巡っていた銀河の万華鏡は罅割れ、其処から漏れ出すのは星の輝きではなく、数億年分の負の情報――即ち、龍神族が闇喰を通じて処理しきれずに封印してきた、世界の澱みであった。

「スペス!カリタス!無事か!」

テンパランティアが叫び、慈嵐を纏って黒霧を強引に切り裂く。

「……申し訳、ない……。」

霧の奥から現れたスペスの姿は痛々しかった。金龍族の神祖たる彼の光は濁り、常に先を読むはずの瞳は、解析不能な悪性情報の過負荷によって血走っている。その傍らでカリタスが彼を支えていたが、彼女の周囲を漂う銀の闇もまた、侵食してくる魔性の濁流に押し流されそうになっていた。

「敵の狙いは、最初から物理的な破壊等ではなかった……彼らは闇喰の接続経路(パス)を逆流させ、この領域の中心……匣のセキュリティを内側から食い破ったのです。」

カリタスの声は震えていた。

「ヌルを媒介にして、私達が蓄積してきた負の因果を、現実に再定義(リブート)しようとしています。」

領域の中央。其処には本来、純粋な白の光を放つ無形の存在、匣が安置されている。龍神族の全知識と全能の根源たる其の場所が、今や巨大な黒い心臓の様に脈打っていた。

「アハハハハ!見なさい、此れが貴方達が捨て去った真実だ!」

匣の直上に、一体の魔性が浮かんでいた。ヌルの肉体を完全に作り変え、数多の上級魔性の核を融合させた異形。その手には、白く輝く筈の匣の鍵が、どろりとした黒い液体に浸された状態で握られている。

「龍神よ、貴方達は清浄である為に、闇を闇喰に押し付け、都合の悪い情報をこの匣に閉じ込めた……だが、情報は消えない。積み重なり、発酵し、意志を持つ。今此の匣を開放し、多元宇宙に真の平等な混沌を返還してあげよう!」

「黙れ、出来損ないが。」

フォルティアの冷徹な声が、領域全体を凍てつかせた。彼女は一歩、前に出る。白と群青のドレスが、押し寄せる黒霧を物理的な圧力で押し戻す。

「妾の庭で、妾の私物に手をかけ、其の上、妾の愛しき同胞を傷つけた……救済だの真実だの、耳障りな戯言を並べる前に、己の存在其の物が消去される恐怖を刻み込め」

フォルティアが右手を掲げる。神祖の王冠が眩い光を放ち、万物を白へと還す究極の権能が発動しようとした其の瞬間だった。

「――かかったな、白き機械仕掛けの神よ」

上級魔性が歪な笑みを浮かべ、黒い鍵を自らの胸へと突き刺した。刹那、領域内の黒霧が幾何学的な紋様を描き、フォルティアを全方位から包囲する。

「なっ……これは、結界か!?」

ジャスティティアが炎を放とうとするが、火が点かない。それどころか、彼女の周囲の熱量が急速に奪われ、極寒の静寂が支配し始める。

「フォルティア、逃げて!奴ら、君の権能を逆手に取っている!」サピエンティアの叫びが響く。解析の結果、恐るべき事実が判明した。此の結界は、フォルティアが自身に課している全能故の自律的制約――即ち、世界を壊さない為のリミッターを、外部から強制的に上書きし、増幅・固定化するものだった。

「神は、その強大さ故に、自らを縛る理を持たねばならぬ……ならば、その枷を永遠に解けぬよう、私たちが補強してあげよう。さあ絶対者よ。その狭い檻の中で、世界の崩壊を特等席で眺めるがいい!」

光が収束し、フォルティアの周囲に幾重もの白い鎖――彼女自身の魔力から生成された、皮肉な神の檻が顕現した。フォルティアの動きが止まる。その指先一つ、視線一つ動かす事さえ、自らの力が自らを縛る因果の連鎖によって封じられてしまった。

「……ぬ、ぐ……妾を……余自身の力で縛るとは、小癪な真似を……。」

フォルティアの銀と群青の瞳に、初めて焦燥と、其れ以上の猛烈な怒りが宿る。

「フォルティア様!」

フィデムが絶叫した。主が封じられ、領域の根源たる匣からは、黒い泥の様な負の因果が溢れ出し始めている。それが領域を越えて多元宇宙に流れ出せば、因果律は崩壊し、数多の世界は無かった事になって消滅する。サピエンティアは必死に結界の解除コードを探るが、敵はフォルティアの無限生成される魔力を燃料に結界を維持している。

「……ダメだ、論理が循環している。内部からの爆発的な出力がない限り、外側からの干渉は全て吸収される……!」

「待ってなさい、今すぐこんなモン、力尽くでぶち壊して――」

ジャスティティアが叫ぶが、彼女の足元からも黒い手が伸び、その身体を侵食し始めていた。テンパランティアもまた、味方を守る為の再生の風を維持するだけで手一杯だ。

絶望が、領域を支配する。上級魔性は匣を更にこじ開け、多元宇宙の滅亡を告げるカウントダウンを始めた其の時だった。

「……させない。……そんなこと、絶対に、私がさせない……!」

震える声で立ち上がったのは、フィデムだった。彼女の指先は、魂の削れる音を立てて黄金に輝いている。

「フィデム?何をするつもりだ、君の魔力じゃその侵食には耐えられない!」

サピエンティアが止めるが、フィデムは振り返らなかった。

「私は、美しいものが好きです……そして、この宇宙で最も美しいのは、気紛れで自由で、凛とした……あの御方です!」

フィデムが両手を広げる。彼女の幻想が、嘗てない密度で発動した。

「私の魂を、私の美学を、私の全てを触媒にする……フォルティア様の姿を、この汚濁の中に彫り上げる!」

彼女が紡ぎ出したのは、物理的な像ではなかった。其れは「フォルティアという存在の神々しさ其の物を、情報の美として具現化した光の奔流。魔性の吐き出す醜悪な悪性情報、泥の様な負の因果。それら全てを素材として取り込み、フィデムは無理やりフォルティアの美へと変換・再構成し始めた。

「なっ……バカな!負の情報を浄化せずに、無理やり形を上書きしているのか!?そんな事をすれば、術者の魂は――」

魔性の叫びを、フィデムの神々しい歌声が遮る。

「私の命が尽きるのが先か、魔性が美に屈するのが先か……試してみましょう……フォルティア様、見ていてください。此れが、私の最高傑作です!」

黒い泥が、フィデムの指先を通る度に黄金の結晶へと変わっていく。一時的にではあるが、匣から溢れ出す混沌が、彼女の執念によって静止した不変の美へと固定されていく。

「ぐ、あああああッ!離せ、この……狂った芸術家め!」

上級魔性がフィデムを排除しようと黒い触手を叩きつけるが、彼女の周囲に展開された信仰の障壁は揺るがない。だが、フィデムの肌はみるみる内に陶器の様に白くなり、罅割れていく。自らの魂を削り、存在其の物を素材にして、彼女は主を守る為の盾となっていた。

「……フィデム……お主……。」

檻の中から、フォルティアの声が漏れる。其の声には、神としての超然さはなく、同胞を想う一人の女性としての、深い悲しみと震える様な怒りが込められていた。

「おのれ……おのれ、魔性……妾の同胞に、何という真似を……!」

フォルティアの瞳の中で、銀河が逆流を始める。檻となっている白い鎖が、彼女の怒りに呼応して軋みを上げた。フィデムの決死の行動によって、結界の論理に僅かな歪みが生じた。魔性達が利用していた自律的制約の隙間に、フィデムが流し込んだ純粋な愛の力が楔となって打ち込まれたのだ。

「サピエンティア!テンパランティア!ジャスティティア!スペス、カリタス!」

フォルティアが、魂の底から咆哮した。

「妾の……妾の神祖達よ!余に力を!一瞬で良い、この偽りの理を食い破る為の起点を作れ!」

其の呼びかけに、満身創痍の神祖達が顔を上げた。例え身体が砕け様とも、同胞の願いに応えない理由はなかった。

「……了解だ。親友の我儘、最後の一秒迄付き合ってあげるよ!」

サピエンティアが、自身の情報を限界までオーバークロックさせる。極限の窮地から、白き神の再定義へと向かって加速していく。

「全知全能の起点、接続開始!」

サピエンティアの声が、領域全体に響き渡った。彼女は自身の幻想を限界まで拡張し、魔性が構築した偽りの論理結界、其の膨大な演算の余剰を敢えて自らの精神に引き受けた。脳を灼く様な情報の濁流に耐え乍ら、彼女は結界を構成する数式の、たった一点の脆弱性を指し示す。

「其処だ!ジャスティティア、テンパランティア!」

「言われなくたって分かってるわよ!アタシの命、全部乗せだ!」ジャスティティアが吼える。彼女の紅い大鎌が、自らの血を吸って黒紅に染まる。規律をあえて自ら粉砕し、世界を焼き尽くしかねない峻厳の真実の熱を、一点の針へと凝縮した。

「剪定の時は来た……幻想よ、因果の綻びを抉り抜け!」

テンパランティアの蒼い旋風が、ジャスティティアの炎を螺旋状に包み込む。相反する熱と冷徹が、フォルティアの檻の一点へと叩きつけられた。

「……無駄だ!其の程度の干渉では、この結界は――」

上級魔性が叫ぼうとした時、銀と金の光がそれを遮った。

「――無駄ではありません。」

スペスが、カリタスの手を強く握りしめる。

「私達の幻想は、今起きている出来事の起源を露見させ、真理へと接続する」

二人の神祖が、フィデムが命がけで作り出した光の楔に手を触れた。解源が結界の成り立ちを分解し、全智がフォルティアの本来の力を結界の内側から呼び戻す回路を繋ぐ。

「今です、フォルティア様!」

五人の神祖、そして魂を賭したフィデム。神祖の全ての想いが、フォルティアを縛る鎖を激しく揺さぶった。

「…………ああ。」

フォルティアが、静かに目を開いた。其の瞬間、領域から音が消えた。色も、闇も、重力すらも。

「……余の愛しき者達よ、よくぞ……よくぞ、余を繋ぎ止めてくれた。」

フォルティアの背後に、無限の宇宙の縮図が浮上する。だが其れは先程迄の制限下のそれではない。背負っているのは、多元宇宙すべての全情報。過去・現在・未来の汎ゆる可能性を掌握する、絶対者の威容。


パキィィィィィンッ!


乾いた音と共に、神の檻が粉々に砕け散った。反射した破片の一片一片に、魔性が支配しようとした因果が、フォルティアの意志によって白へと上書きされ、消滅していく。

「バ、バカな……!自身の魔力で構築された結界を、力尽くで内側から……!?そんな事をすれば、貴女の神経回路は無事では――」

「案ずるな……妾は機械仕掛けの神《デウス・エクス・マキナ》……壊れれば、直後に無かった事にして再構成する迄よ。」

フォルティアが、一歩、踏み出した。其の瞬間、彼女の姿が変貌を遂げる。人間の外見を維持する為の制約を捨て去った、龍神の真の姿。純白を基調とし、銀の光沢と群青の影を宿す、数値では測りきれない無限のスケールの存在。鱗の一つ一つに星々が映り込み、彼女が動く度に、領域内の黒い靄が恐怖に震える様に霧散していく。

「ヌルよ……そして其の影に潜む烏合の衆よ。」

巨大な白龍が、其の万象を見抜く群青の瞳で、縮み上がる魔性を見下ろした。尾の先端に集うのは、純粋な光の筆。

「お主らが求めた混沌の救済等、我の書庫には必要ない……お主らの存在を定義し直してやろう。」

フォルティアの喉元が、白金に輝く。宇宙の理を再定義する、超越的な旋律が、今まさに放たれようとしていた。

「フィデムを、そして余の庭を傷つけた報い……純白の無の彼方で、永劫に悔いるが良い。」

其れは滅びではなく再定義。世界を一度白紙に戻し、愛しき者達が笑い合える明日を、自らの手で描き出す為の神の絶唱。

フォルティアの咆哮が、領域を満たした。フォルティアの絶唱によって、領域は一度、完全な無へと回帰した。黒い靄も魔性も、そして崩壊しかけた匣も、全てが一度白紙になる。フォルティアの意志という筆によって、新たな理が書き込まれていく。

「……う、ん……。」

フィデムが目を覚ます。彼女の肌の罅割れは消え、魂の欠損も、フォルティアの全能の権能によって欠損等最初からなかった事に上書きされていた。だが。

「……あれ?フォルティア様……?」

再構築された領域の中心。其処には、満足げに微笑み乍ら、深く、深い眠りにつく白龍の姿があった。あまりに無理な権能の行使と、自身の制約を破壊した反動。神祖達は救われたが、多元宇宙の主権者たるフォルティアは、その代償として一時的にその意識を喪失していた。銀の髪が微かな風に揺れ、フォルティアの眼が徐ろに開き、群青と銀の瞳が満足げに細められている。

「フィデム……お主、よくぞ耐えた。余の美しさを守ろうとしたその執念、見事であったぞ」

フォルティアが優しく手を差し伸べると、フィデムはその手に縋る様にして涙を流した。

「……恐れ多くも、最高傑作を……傷つけさせはいたしません……あ、有難う御座います、フォルティア様……。」

「よしよし……お主の魂の欠損は、余が直々に無かった事にしておいた……以前よりも少しだけ頑丈にしておいたから、心置きなく次の創作に励むが良い。」

フォルティアは笑い、傍らで横たわっていた闇喰――ヌルと呼ばれた青年へと視線を向けた。彼は深い眠りについていた。魔性に取り込まれていた際の苦悶の表情は消え、今は只、穏やかな寝息を立てている。

「サピエンティア。奴の処置は?」

「問題ないよ!精神汚染は完全にパージ済み……寧ろ、フォルティアの絶唱を至近距離で浴びたおかげで、彼の中の負の許容量が跳ね上がってる……此れからはもっと効率よく、君達の澱みを食べてくれるだろうね」

サピエンティアは、手元のホログラフィック・ウィンドウをパチンと消した。彼女の幻想が示すデータによれば、此の領域だけでなく連動して汚染されていた、全ての並行世界において魔性の反応は完全に消失している。

「……ふむ……では、後片付けも終わりかの?」

フォルティアは、再び元の場所に戻った匣を見上げた。純白の光を放つそれは、再び闇喰達の献身的な管理下に入り、龍神族の秩序を守る柱として鎮座している。

「さて!疲れた身体には、美味い茶と菓子が必要であろう!皆の者、妾の宮殿へ戻るぞ!」

フォルティアは、高らかに宣言した。つい数分前まで宇宙の存亡を賭けて戦っていたとは思えない、あまりに日常的で、あまりに気紛れな号令であった。

「だから!アタシが右翼の魔性を焼き払わなきゃ、アンタの風だって通らなかったって言ってるのよ!」

「やれやれ。私の慈嵐が結界の周波数を乱していたからこそ、君の短絡的な炎でもダメージが通ったんだ。理論的に考えれば、手柄の7割は私にある」

「7割!?ざっけんじゃないわよ、この堅物!規律だの論理だの、戦いの最中にブツブツうるさいのよ!」

龍神の領域、フォルティアの宮殿にある広大なテラス。ジャスティティアとテンパランティアは、豪華な刺繍が施されたソファに座りながら、何時もの様に何方の連携が優れていたかで激しい論理衝突を繰り広げていた。

「……あのお二人も、元気ですね。」

フィデムが、スケッチブックに筆を走らせながら、ふふ、と微笑む。彼女の目はテラスの中央で優雅に茶を啜る、フォルティアの姿に釘付けだった。今回の戦いで見た神としての厳格さと、圧倒的な龍の威容。其れをどう表現するか。フィデムの脳内では、既に新たな彫像の構想が、銀河のようなスケールで膨らみ続けていた。

(……今度は、単なる白ではなく、星屑を練り込んだエーテル結晶を使いましょう。フォルティア様のあの絶唱の瞬間の、魂が震えるような輝きを再現する為に……)

「フィデムも、すっかり筆が乗っているね」

スペスが、隣で分厚い哲学書を閉じながら声をかけた。

「カリタスも言っていたよ。今回の件で、僕たちの絆はより深い真理へと接続されたって……まあ、フォルティアの気紛れに振り回された結果ではあるけれど」

「いいじゃない、スペス。それが私達の日常なんだから」

カリタスが、何処からともなく現れてスペスの肩に顎を乗せる。銀龍族の神祖たる彼女は、今回の騒動で得た負の情報の残滓を解析し、其れを自身の闇の糧へと変えていた。

「ねえ、フォルティア。次はどうするんだい?」

サピエンティアが、フォルティアの隣の席にどっかと腰を下ろした。彼女の手には、何処かの世界から掠めてきたと思われる、琥珀色の液体が入ったグラスが握られている。フォルティアは、茶碗を置いて群青の瞳を空へと向けた。其処には、彼女が再構築した、以前よりも少しだけ面白そうな、可能性を秘めた多元世界の海が広がっている。

「そうさな……サピエンティア、お主、先程言っておったな。今回の黒幕は、魔性を組織化した外側の意志であると」

「……おや、覚えていたのか。てっきり、絶唱で全て忘れたのかと思ったよ」

「失礼な……妾を誰だと思っておる?妾は観測者であり、演出家なのだぞ?舞台に招かれざる客が紛れ込んでいるのなら、それを舞台上に引きずり出し、最高の悲劇か喜劇を演じさせるのが余の仕事よ」

フォルティアが不敵に笑う。その瞳の奥には、神としての冷徹な探究心と、自由奔放な遊び心が共存していた。

「――解析によれば、奴らは多元宇宙の外、因果律が届かない虚無の領域に潜んでいる可能性がある……追いかけるのは、骨が折れるよ?」

「面白いではないか!永劫の時を生きる我らにとって、骨が折れる程の退屈凌ぎ等、そうそうあるものではない」

フォルティアは立ち上がり、テラスの縁まで歩いていった。風が彼女の銀髪を靡かせ、背後では同胞達が、各々の時間を楽しんでいる。喧嘩する者、創作に耽る者、愛を語る者。彼女が守り抜き、再定義した、愛おしき日常の風景。

「皆の者! 茶の時間は終わりだ!」

フォルティアの声に、神祖達が一斉に視線を向けた。ジャスティティアは鎌を消し、テンパランティアは姿勢を正す。フィデムは筆を置き、スペスとカリタスは寄り添い乍ら立ち上がった。

「準備は良いか? 次なる未知、まだ聞かぬ物語、そして余の不機嫌を誘った不届き者が、何処かの次元で待っておる!」

「……はぁ、やっぱりこうなるんだね。」

サピエンティアが肩を竦めるが、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいる。

「何処迄も付いていくわよ、フォルティア!今度こそ、アタシの火で完全に焼き尽くしてやるんだから!」

「ふむ、私の慈嵐も、次なる戦場ではより効率的な剪定コードを試したいと思っていた所だ」

「フォルティア様が行く所なら、世界の果て迄……!」

神祖達の想いが、一つに重なる。フォルティアは満足げに頷くと、右手を空へと掲げた。

「理を書き換えるのは妾の気紛れ!龍神の歩みを、新たなる見聞録に刻もうぞ!」

フォルティアの高笑いが、領域全体に響き渡る。彼女が指先で空間をなぞると、其処には煉獄へと繋がる虹色の扉が開いた。

神達が旅立った後の、とある辺境宇宙。嘗て魔性に汚染され、フォルティアの絶唱によって救われた惑星。其処では、人々が空を見上げていた。嘗て自分達を襲った悪夢は、今では美しい白い光の記憶として語り継がれ始めている。

失われた筈の街は、以前よりも少しだけ住み易く、少しだけ不思議な魔法に満ちた姿で再生されていた。街の広場には、誰が作ったのかも分からない、一人の美しい女性の石像が立っている。

群青の瞳を模した宝石を嵌め込み、慈悲深くも奔放な笑みを浮かべた其の像は、其の星の新たな守り神として、永遠に愛される事になるだろう。

「ねえ、パパ。空に銀色の線が見えたよ!」

「本当だ、綺麗な流れ星だ。」

子供が指差した先には、流れ星よりも速く、オーロラよりも輝かしい、龍の尾の残像が揺らめていた。彼女達の気紛れが、次にどの世界に奇跡を齎すのかは誰にも分からない。只一つ確かなのは、フォルティアがいる限り、事宇宙は決して退屈に沈む事はないという事だ。

「さあ!次は何処の祭りだ、サピエンティア!」

「だから、先ずは座標の安定を待てって言ってるでしょ!」

フォルティアの楽しげな響き渡る高笑いと、サピエンティアの呆れた様な溜息。龍神達の賑やかな旅路は、何処迄も、何処迄も続いていくのだった。






後日談【白き機械仕掛けの神の退屈と再誕】

某日とある亜空間にて――


其処は、万華鏡の内側に宇宙を詰め込んだ様な場所だった。多元世界の全情報が収束し、あらゆる可能性が光の粒となって漂う根源の地。物理法則も次元の壁も、此処では意味をなさない。只一つの意思が、世界の在り方を決定づける。其の中心に、彼女はいた。

「……飽きた。実に、飽きたぞ」

不敬な迄に優雅な欠伸を漏らし、フォルティアは純白の玉座に深く背を預けた。

「救済も飽きた。構築も飽きた。昨日救った世界は、今日にはもう予定調和の繁栄を繰り返しておる。余が手を下す迄もなく、因果律のレールの上をカタカタと走っておるだけよ……つまらぬ……これでは、出来の悪い自動人形を眺めているのと変わらぬではないか」

彼女の別名は、|白き機械仕掛けの神《白きデウス・エクス・マキナ》。汎ゆる事象を白紙に戻し、望むままの理で塗り替える絶対者。彼女にとって多元宇宙は遊び場であり、物語の書庫に過ぎない。然し其の書庫が整理されすぎている事が、今の彼女には苦痛だった。

「フォルティア、また独り言?年寄りのボヤきにしては、声が若すぎるんじゃないかな」

背後から、皮肉げな、だが親愛の情を隠しきれない声が響いた。空間の歪みから音もなく現れたのは、サピエンティアだった。

「サピエンティアか……お主、人の庭に勝手に入るなと何度言えば分かるのだ」

「私の幻想が、君の退屈を検知しちゃったんだから仕方ないじゃない。其れに、君の領域は私の庭みたいなものでしょ?ニコイチなんだから」

サピエンティアはフォルティアの隣に並び、宙に浮かぶ光の断片を指先で弄んだ。彼女はフォルティアの数少ない友人であり、全知全能ゆえの暴走を止める唯一のブレーキ……を自任しているが、実際はフォルティアが巻き起こす嵐を一番近くで楽しんでいる共犯者でもある。

「お主が来るという事は、何か面白い毒でも持ってきたのであろうな?期待外れなら、お主の黒いドレスを強制的に純白のフリルに書き換えてくれるぞ」

「うわ、悪趣味……でも安心しなよ。君の欠伸を止めるのにぴったりのバグを見つけてきたから」

サピエンティアが指先を弾くと、虚空に一つの座標が投影された。

「……此れは?」

フォルティアの群青と銀の瞳が、僅かに細められた。投影されたのは世界の裂け目、多元宇宙の緩衝帯である煉獄。通常、其処は純粋な魔力が流動するだけの不可視の鏡面世界だ。だが、映し出された映像には、ドロリとした重油の様な黒い澱が、因果の糸に絡みついている様子が記録されていた。

「情報の澱だよ。本来、煉獄を通過する筈の古い記憶や負の感情が、何者かの意志によって固定されている……誰かが、世界の塵箱から兵隊を作ってるみたいだね」

「ほう……魔性(サヴァト)か。」

フォルティアの口端が、吊り上がった。魔性。それは世界の負の側面が具現化した、悪性情報の集積体。龍神族が最も嫌う、理を乱すノイズだ。

「これ、放っておくと隣接する世界に溢れ出すよ。そうなれば、君が綺麗に整えた因果律がメチャクチャになる……どうする?上から白で塗り潰しちゃう?」

「いや、其れでは何時もと同じではないか。それでは演出が足りぬ」

フォルティアは玉座から立ち上がった。彼女の全身から、凄まじい密度のエーテルが溢れ出す。だが、其れは破壊の衝動ではない。

「サピエンティア、他の神祖達を呼べ。テンパランティア、ジャスティティア、フィデム……それと、哲学コンビのスペスとカリタスもだ」

「へぇ、神祖を総動員する気?あの子達を集めたら、煉獄が物理的に壊れちゃうよ」

「案ずるな。妾も、あやつらも、力を制限して向かう……これは戦いではない……妾が主催する、煉獄の掃除を兼ねた余興よ。観測者として、あやつらがどう動き、どう嘆き、どう輝くか……特等席で眺めるとしよう」

フォルティアは自らの魔力回路を操作し、その絶大すぎる権能に何重もの制限をかけた。138億年の神としての威圧感を消し、一人の好奇心旺盛な美女へと自分を定義し直す。

「さあ、再誕の準備は整った……久しぶりの遠足よ。サピエンティア、お主もアクセル全開で付き合え……余を楽しませてくれるのであろう?煉獄のバグどもめ」

「煉獄の調査だと?しかもフォルティア直々の召集……。やれやれ、また面倒な事に巻き込んでくれたものだ」

蒼い風を纏い、眉間に皺を寄せながら現れたのは、テンパランティアだった。彼は品行方正を絵に描いた様な生真面目さで、フォルティアの自由奔放さにいつも頭を悩ませている。

「何よテンパランティア、不満なら来なきゃいいじゃない!アタシは楽しみで仕方ないわよ。あの澱みを全部、一滴残らず焼き尽くしてやるんだから!」

その後ろから、真っ赤な炎の揺らめきと共に飛び出してきたのは、ジャスティティアだ。彼女は相変わらず気が強く、言葉も荒い。

「ジャスティティア、君の暴力的な思考は相変わらずですね。美しくない……浄化はもっと、芸術的であるべきですよ」

静かな声と共に現れたのは、フィデム。彼女はフォルティアを一心に崇拝しており、其の瞳には常に狂気的な迄の敬愛が宿っている。

「フィデム、君の言う芸術は主観に寄りすぎている……世界の起源からすれば、美も醜も単なる情報の極性に過ぎない。」

「そうね、スペス。でも、その極性をどう解釈するかが、私達の存在意義よ」

最後に現れたのはスペスと、彼に寄り添うカリタスだ。哲学的な問答を繰り返す彼らは、常に自分たちだけの世界に浸っている。

「……揃ったようだな」

フォルティアが皆の前に進み出た。今の彼女は、一族の者達と然程変わらぬ神祖の器に出力を落としている。だが其の背後に浮かぶ気配は、隠しきれない王の風格を漂わせていた。

「皆、よく集まった、今回は少々趣向を変える……余は、今回一切の手出しをせぬ。ただの観測者として、お主らの戦いぶりを眺め、評価を下す……最も余を楽しませた者には、望む理を一つ、この手で叶えてやろうではないか」

その言葉に、神祖達の空気が変わった。フォルティアによる理の書き換え。それはこの宇宙における最高にして絶対の褒賞だ。

「……面白い。その条件、乗ったわ!」

ジャスティティアが炎の鎌を顕現させる。

「秩序の維持は私の本分……お見せしましょう、完璧な剪定を」

テンパランティアが静かに眼光を鋭くした。

「ふふ……では、参ろうか……煉獄のゴミ溜めを、余の最高の舞台に変えて見せよ!」

フォルティアの宣言と共に、一行は領域から煉獄へと転移した。


煉獄は、薄暗い霧に包まれていた。通常なら美しい情報の輝きが流れる筈の回廊が、今は粘り気のある黒い靄に汚染され、腐敗した卵の様な嫌な臭いが立ち込めている。

「……酷いものだ……これでは、魂の浄化システムが正常に機能しない。」

テンパランティアが嫌悪感を露わにする。

「あら、アタシにとっては最高の燃料よ……さあ、出てきなさいよ、バグ共!」

ジャスティティアが炎を放つと、霧の奥から無数の影が蠢き出した。其れは形を持たない黒い塊だったり、継ぎ接ぎだらけの人形の様な姿をしていたりした。周囲には見た事もない呪術的な特殊文字が浮かび、聞き取れない不気味な囁きが空気を震わせる。

『――ア、アァ……龍……神……食ベ……ル……情報……足リ……ナイ……。』

「気味が悪いですね……しかも数が多い。」

「そうだね、フィデム……一つ一つを相手にしてもキリがないよ。」

サピエンティアがフォルティアの隣で、解説者の様に呟く。フォルティアは、その光景を其の場で創造した贅沢な革張りの椅子に腰掛け、優雅に茶を啜り乍ら眺めていた。

「さあ、開演よ……先ずはジャスティティア、お主の熱量を見せてみよ」

「言われなくても!焼き尽くせ!」

ジャスティティアが叫ぶと、煉獄の空間其の物が真っ赤に染まった。規律を破る者に物理的な熱を与える彼女の幻想――嘘や偽りを許さない苛烈な炎が、魔性の群れを飲み込んでいく。だが魔性達は、悲鳴すら上げない。炎に焼かれ、霧散した傍から、また別の澱みと融合し、より巨大な、より歪な姿へと変貌していく。

「……ふむ、融合して個を失う事で、属性の相性を無視しようとしているのか……悪賢いな、あやつら。」

フォルティアが愉快そうに笑う。

「フォルティア、笑ってる場合?ほら、テンパランティアも苦戦してるよ」

テンパランティアの幻想が、味方を癒やし乍ら魔性の結合を解こうとする。だが、魔性の数は無限と言っていい程に湧き出してくる。

「起源が深い……これは単なる情報の漏れじゃない……誰かが意図的に、此の世界の過去を掘り返している」

スペスが冷静に解析する。

「……フォルティア様……お下がりください……穢れが、最高傑作に触れてしまいます。」

フィデムが、狂気的な迄の献身でフォルティアの前に立ち、光の障壁を築く。

「……いや良い、フィデム……妾は、此れが見たかったのだ。」

フォルティアは立ち上がり、手に持っていた茶碗を空中に放り出した。茶碗は地面に落ちる前に消滅し、代わりに彼女の周囲には純白の粒子が渦を巻く。

「お主ら……少々、舞台装置が地味ではないか?敵が其れ程の数を用意しているのなら、此方も相応の賑やかしが必要であろう」「……フォルティア、まさか力を解放するのか!?」

テンパランティアが慌てて声を上げる。

「案ずるな、世界は壊さぬ……ただ、少しだけ舞台を広げるだけよ。」

フォルティアが指先を空に向けると、彼女の背後に無限の宇宙の縮図――神祖の王冠《フォルティア・クラウン》の断片が浮上した。

「白に染まれ。」

其の一言と共に、煉獄の黒い霧が一瞬で真っ白な光に塗り替えられた。魔性たちが構築していた絶望の領域が、フォルティアの意志によって、可能性に満ちた白紙のキャンバスへと強制的に書き換えられたのだ。

「……あ、あぁ……。」

魔性達の動きが止まる。彼らの根源である悪意が、フォルティアの白によって剥ぎ取られ、ただの未定義のデータへと戻されていく。

「さあ、此処からが本番よ……お主らの真骨頂、見せてみよ……余を退屈させた罰は、高くつくぞ?」

フォルティアは、不敵な笑みを浮かべた儘、真っ白な世界に座し続けた。彼女の眼下には、驚きと興奮に染まった神祖達の顔。そして、姿を現し始めた上級魔性の巨大な影。演出家は、満足げに指を鳴らした。

「……ああ、楽しい……やはり、世界はこうでなくてはな。」

退屈は、完全に消えていた。白き神の遊びは、今、始まったばかりなのだ。


白に塗り替えられた煉獄のキャンバスは、皮肉にも地獄よりも鮮やかな戦場へと変貌していた。フォルティアが気紛れに展開した純白の領域内では、魔性達の悪意が剥ぎ取られ、剥き出しのデータと化している。然し其れは消滅を意味しない。意味を失った影達は、逆に生存本能を肥大化させ、より歪な生理的嫌悪を催す、異形の集団へと再構成されていた。

「あーあ、フォルティアが余計な事するから、真っ白な部屋に黒いインクをぶちまけたみたいで、余計に目立つじゃない。」

サピエンティアが呆れたように肩を竦める。彼女の足元からは深淵の影が広がり、侵入してくる魔性の断片を次々と解析し、情報の海へと沈めていた。

「何を言う。キャンバスは白い方が、演者の色が映えるというものよ」

フォルティアは、空中に固定された豪奢な椅子に深く腰掛け、優雅に脚を組んでいた。手元には何処かの並行世界から、取り寄せたであろう最高級の茶葉の香りが漂っている。彼女の群青の瞳は、眼下で繰り広げられる神祖の共演を、慈愛と愉悦の入り混じった眼差しで追いかけていた。

「さあ、見せてみよ。お主らの幻想が、此の白の世界でいかに輝くかをな」

「……ふん、理屈を並べる前に体が動くのは、相変わらずね!」

最前線で炎の旋風を巻き起こしているのは、ジャスティティアだ。彼女の振るう巨大な大鎌が空を切り裂く度、紅蓮の劫火が魔性の群れを焼き払う。

「――嘘を吐く者に、等しき熱を!」

ジャスティティアの幻想は、規律に背く不純物を物理的な熱量へと変換し、根源から蒸発させる。彼女にとって、世界のバグである魔性は存在そのものが嘘であり、最も焼き甲斐のある獲物だ。

「ジャスティティア!左翼の機動が疎かだ。熱量に任せて大振りをしすぎるなと、何度言えば理解するんだ!」

蒼い風と共に、テンパランティアが魔性の群れを精緻に切り刻む影があった。彼の幻想は、荒れ狂う嵐であり乍ら、味方には柔らかな癒やしを、敵には邪悪な意志のみを分子レベルで分解する淘汰の刃を与える。

「煩いわね堅物!アタシが焼いた傍から、アンタが風で煽るから余計に燃え広がるんでしょうが!」

「……其れを延焼による効率化と呼ぶんだ。君の低すぎる語彙力には辟易するが、その火の出力だけは認めざるを得ないな」

「褒めてんじゃないわよ、殺すわよ!」

口喧嘩を絶やさない二人だったが、その連携は神業に近い。テンパランティアが風の檻で魔性を一箇所に追い込み、そこへジャスティティアが太陽の如き一撃を叩き込む。熱膨張と急激な減圧の繰り返しにより、魔性たちは再生の隙すら与えられず、ただの炭化情報へと変わっていく。

「ふむ……喧嘩する程仲が良いとは、正にあやつらの事よな……サピエンティア、あれに龍神式・熱核対流爆砕と名付けようと思うのだが、どうだ?」

「ネーミングセンスが古臭いよ、フォルティア。でも、あの二人の熱量は、確かに並の並行世界なら一つ丸ごと溶かしかねないね」

二人の爆発的な戦闘から少し離れた位置で、フィデムがまるで舞踏会でも踊るかの様に優雅に動く。彼女の周囲に近づく魔性達は、一様に奇妙な変容を遂げていた。黒い靄だった筈の体躯が、みるみる内に硬質化し、純白の大理石や黄金の装飾を施された芸術品へと作り替えられていく。

「♪〜♪」

フィデムが虚空をなぞると、襲いかかろうとした異形の魔性が、瞬時に苦悶の表情を浮かべた美しい少年の石像へと固定された。

「……醜いわ、存在の在り方が、構造が、フォルティアの庭を汚している……せめて、動かぬ美の中に閉じ込めてあげましょう。」

彼女の幻想は、対象の魂が抱く最も美しい可能性を強制的に引き出し、物質として固定する。魔性にとって、これ以上の屈辱はない。悪意を誇りとする彼らが、清浄な美しさに塗り固められ、永遠の静止を強要されるのだから。

「フォルティア……見ていてください……君の目に映る世界を、少しでも美しく、完璧なものに……。」

フィデムは戦いの中、時折フォルティアの方を振り返り、恍惚とした微笑を浮かべる。彼女の手には既にノミと金槌が握られており、倒した魔性の残骸を土台にして、フォルティアの新たな彫像を其の場で彫り始めていた。

「フィデムの執着も、いよいよ極まっておるな……妾の像がまた増えるのは吝かではないが、あやつ、余のまつ毛の本数まで数えておるのではないか?」

「数えてるだろうね……というか、今彫ってる像、心臓の鼓動まで再現しようとしてない?怖いよ、彼女の愛は」

サピエンティアが引き気味に指摘するが、フォルティアは「面白いではないか」と笑い飛ばすだけだった。然し、戦況は何時迄も龍神族のワンサイドゲームではなかった。

『――愚カナ……神……停滞シタ、完成サレタ、ゴミ共……我ラハ、流動スル……我ラハ、増殖スル。』

煉獄の深淵から、そ其れ迄とは比較にならないほど巨大な、人の形を模した黒い靄――上級魔性が姿を現した。それは複数の言語を同時に発声しているかの様な不協和音を響かせ、周囲の空間を侵食し始める。

「……ちっ!弾かれた!?煉獄の周波数を変えやがったわね!」

ジャスティティアの炎が、上級魔性の周囲で霧散する。魔性は煉獄という境界の性質を悪用し、自身の存在確率を複数の並行世界へと分散させたのだ。

「無秩序な転移……!ジャスティティア、手を出すな!周囲の世界に無辜の住人が弾き出されている!」

テンパランティアの言葉通り、上級魔性が動く度に、空間にパリンと乾いた音が響き、関係のない異世界の人間達が煉獄へと吸い込まれ、また別の世界へと飛ばされそうになる。所謂、異世界転移の無差別多発だ。

「やれやれ……論理の通じない相手は、此れだから困る」

それまで静観していたスペスが、一歩前に出た。

「解源。――その多重存在確率、起点を見つけた」

金龍族の神祖たる彼の瞳が、黄金の光を放つ。汎ゆる能力の起源を先読みし、発動前に解体する権能。スペスが空中に不可視の数式を描くと、上級魔性の体がガクガクと震え、分散していた存在が無理やり一つの座標へと固定された。

「今だ、カリタス!」

「ええ、スペス――接続するわ。」

スペスの影から這い出したカリタスが微笑む。彼女は上級魔性の過去へと意識を接続し、その存在が嘗て何であったか、どの並行世界のどの様な絶望から生まれたかを瞬時に特定した。

「この子は、とある機械文明が滅びる直前に放った遺言の成れの果てね……弱点は、自己矛盾――論理の穴、見つけたわ。」

カリタスが指先を向けると、上級魔性の巨体に亀裂が走る。スペスとカリタスによる、起源の解体と真理の接続。其れは神の領域ですら回避不能な、確定した滅びの宣告だ。

「……見事よ。」

フォルティアが椅子から立ち上がり、小さく拍手を送る。

「各々の幻想が、余の期待通りに噛み合っておる……さて、此の儘幕引きといこうではないか。」

勝利を確信した神祖達が、最後の一撃を加えようとした、その時だった。上級魔性が、歪な笑みの形を浮かべた。

『――神……白ノ……終焉……我ラハ、糧トナル。』

上級魔性の巨体が、膨大な黒い光を放ち乍ら膨れ上がる。

「自爆!?莫大な悪性情報を、此の空間ごと道連れにする気か!」

テンパランティアが叫び、慈嵐を防御壁へと回す。だが、それは単なる自爆ではなかった。魔性は、フォルティアが作り出した純白の領域其の物を汚染する為の、超高密度の絶対的な黒の情報へと自身を変換したのだ。

「……っ!?フォルティアの白が、塗りつぶされていく……!」

サピエンティアが目を見開く。煉獄を覆っていた清浄な白が、ドロリとした闇に侵食されていく。それはフォルティアの幻想の対極に位置する、救い様のない虚無。情報の澱みが爆発的に蔓延し、煉獄と各並行世界を繋ぐ境界線が、どす黒いノイズで埋め尽くされていった。

「あやつ……自らを犠牲にして、舞台其の物を壊しに来たか。」

フォルティアの群青の瞳が、初めて不機嫌そうに細められた。周囲では、溢れ出した闇の触手に捕らえられ、神祖達が自身の幻想を維持するのに精一杯の状態に陥っている。

「……面白い……余の演出に、此れ程の泥を塗るとはな。」

フォルティアの周囲に浮かぶ銀の髪が、怒りに触れたかの様に逆立つ。彼女は神祖の王冠をそっと押し戴き、手にした杖を白の世界へと叩きつけた。

「サピエンティア、皆を下げろ……此処からは、遊びではない。」

煉獄の底から、聞いた事もない様な不気味な鼓動が響き始める。魔性が蔓延させた黒を、更に上書きする様な、圧倒的な虚無の予感。

匣が、震えていた。龍神族が最も恐れ、そして最も愛する、|白き機械仕掛けの神《白きデウス・エクス・マキナ》の真の力が、その片鱗を見せようとしていた。事態は、もはや一つの戦域の騒動では収まらない。

「さあ……誰がこの物語の終わりを決めるのか、教えてやろうではないか。」

フォルティアの冷徹な声が、闇に染まりゆく煉獄に響き渡った。


煉獄を覆い尽くした絶対的な黒は、単なる視覚的な闇ではなかった。其れは、多元宇宙の汎ゆる負を煮詰めた様な、粘着質で重苦しい情報。フォルティアが気紛れに展開していた白の領域は、一瞬にしてその闇に飲み込まれ、境界線は音を立てて崩壊していった。

「……ッ、何これ!?解析が追いつかない……!嘘でしょ、これ全部、私たちが今迄浄化してきた残骸じゃない!」

サピエンティアの悲鳴に近い声が響く。彼女の幻想が捉えたのは、絶望的な真実だった。上級魔性は自爆をトリガーに、龍神族の中枢へと直接ハッキングを仕掛けたのだ。

「奴らの狙いは、最初から此れだったというのか……不覚!」

テンパランティアが蒼い障壁を築き、溢れ出す闇を押し止めようとする。だが其の障壁は、負の情報に触れたそばから腐食し、ボロボロと崩れ落ちていく。龍神族が世界の秩序を守る為に吸い込み、封じ込めてきた数億年分の負の因果。それが今、魔性の術式によって匣の内側から逆流しようとしていた。


フォルティアは、椅子の肘掛けを指先で叩き、沈黙していた。彼女の群青と銀の瞳には、嘗てない程の鋭利な光が宿っている。彼女は既に、自身の権能を最大出力で解放し、この泥沼を瞬時に白紙へ戻そうと試みていた。だが、現象は起きなかった。

「……ほう、余の制限を逆手に取ったか。」

フォルティアの周囲に、無数の純白の鎖が浮かび上がる。それは彼女が世界を破壊しない為に自らに課した安全装置が、魔性の介入によって暴走し、外部からの結界として固定されたものだった。

「……!? 嘘、白き鎖が、フォルティアを縛っている……!?」

フィデムが絶望に染まった声を上げる。全知全能の権能は、あまりに強大すぎるが故に、自らを律する法が最大の敵となった時、それを内側から食い破る事ができない。フォルティアの魔力が無限に生成されればされる程、其れを抑え込む鎖の強度もまた無限に跳ね上がるという、完璧で残酷な自己矛盾の檻。

「あはは……!皮肉だね、フォルティア。君の優しさが、其の儘君を閉じ込める監獄になるなんて」

サピエンティアは解析を進め乍らも、その瞳に深い怒りを宿していた。彼女は知っている。フォルティアが此の制限を設けているのは、彼女が此の世界と、其処に住む一族を、文字通り壊したくない程愛しているからだ。

「……近寄らせない。」

闇の中から、無数の魔性の腕がフォルティアへと伸びる。それを阻んだのは、半身を闇に侵食されながらも彫刻刀を振るうフィデムだった。

「顕魂――魂の……最果てを刻め……ッ!」

フィデムは自身の魂の根源、神祖としての本質を削り取り、其れを美という名の質量に変えて闇を上書きしていく。彼女の幻想は本来、対象を美しい彫像に変えるものだが、今は自分自身の生命を触媒に、フォルティアを守る為の絶対不変の防壁を其の場で造形し続けていた。

「フィデム、よして!それ以上は、君の回路が焼き切れる!」

ジャスティティアが叫び、炎を放つ。だが、彼女の紅蓮の炎も、今や匣から漏れ出した負の因果に飲み込まれ、弱々しい種火の様に揺れている。

「ジャスティティア、黙って!フォルティアは、私達の誇りなの……醜いノイズなんかに、触れさせてたまるものか……!」

フィデムの目から、血の涙が流れる。彼女の造形物に触れた魔性達は、嘗ての美しい記憶を強制的に突きつけられ、矛盾の末に砕け散る。だが、魔性の数は無限であり、フィデムの消耗は限界を超えようとしていた。


煉獄の空が、罅割れる様な音を立てた。匣のセキュリティが完全に突破される迄、あと数分。もし匣に収められた全ての負の因果が多元宇宙に解放されれば、既存の物理法則は全て、絶望という名の新たな理によって上書きされる。それは、大団円のハッピーエンドから最も遠い、永遠のバッドエンド。

「……スペス、カリタス。何か策はないのか!?」

テンパランティアが必死に問う。スペスとカリタスは、互いの手を握りしめ、冷徹な迄に解源と全智を回し続けていた。

「……起源は、フォルティア自身にある。この鎖を解くには、フォルティア様が世界を壊しても構わないと心から願うしかない……でも、それは彼女のアイデンティティを殺す事と同じだ」

スペスの声は苦渋に満ちていた。

「……カリタスが観測した未来の分岐点は、あと数秒で収束する……全ての可能性が、黒に染まっていく。」

カリタスは、絶望の真理を接続し続け、其の精神を摩耗させていた。

「……共にいられなくなるかもしれないわね、スペス……でも、私はフォルティアが笑っていない未来なんて、観たくないの」

阿鼻叫喚の煉獄。傷つき、魂を削る神祖。そして、無敵の白き鎖に縛られた儘、玉座に座すフォルティア。フォルティアは、自分の為にボロボロになって戦う神祖達の姿を、静かに見つめていた。彼女の胸に去来するのは、神としての冷徹な計算ではない。

嘗て共に祭りを楽しんだ記憶。ジャスティティアとテンパランティアの絶えない喧嘩。フィデムが贈ってくれた、少し恥ずかしくなるほど美しい彫像。サピエンティアと交わした、毒気のある、けれど温かな言葉。

「……あやつら。」

フォルティアが、小さく呟いた。其の瞬間、彼女を縛る鎖が、激しく火花を散らした。彼女の内側で、何かが変わろうとしていた。遊びとして設けた制限。秩序として設けた制約。其れら全てを、彼女の感情が凌駕しようとしていた。

「サピエンティア……皆に伝えよ。」

フォルティアの声が、ノイズだらけの煉獄に、澄み切った鐘の音の様に響き渡った。

「――舞台の主役は、妾だ。脇役が勝手に幕を下ろす等、万死に値する」

彼女の瞳から、感情が消えた。いや、それは汎ゆる感情を内包した、絶対的な虚無の顕現。白き鎖が、耐えきれずに軋み砕け始める。彼女自身の魔力が、自らの法を――秩序を守る為の自分を、力ずくで破壊し始めたのだ。

「……来るよ……私達の、フォルティアが。」

サピエンティアが震える声で呟く。煉獄全体が、未知の周波数で共鳴し始めた。因果の崩壊を目前にして、多元宇宙の絶対者が、其の真の姿を現そうとしていた。


煉獄を埋め尽くした黒が、勝利を確信したかの様に蠢く。龍神族の浄化システム闇喰を逆流させ、世界を絶望で塗り替えようとする魔性たちの狂気。だが、其の濁流に飲まれようとしていた中心で、一つの笑いが響いた。

「――くっくっく……面白い、実に見事な幕引きではないか。」

純白の鎖に縛られた儘、フォルティアは深く、愉悦に満ちた声を上げた。其の瞳は最早、気紛れな美女の其れではない。深淵の底、星々の記憶を凝縮した、絶対者の輝きを取り戻していた。

「フォルティア様……!?」

血の涙を流し乍ら盾となり続けていたフィデムが、驚愕に目を見開く。

「フィデム、よぅ耐えたな。サピエンティア、お主の解析も間に合った……皆、よくぞ此の窮地を演じ切った、余の書庫に加えるに相応しい、最高のクライマックスよ」

フォルティアが静かに立ち上がる。其の瞬間、彼女を縛り付けていた無敵の鎖――自らが課した自律的制約が、悲鳴を上げて軋んだ。無限に生成される彼女の魔力が、枷の強度を遥かに上回る密度で圧縮され、内部から理其の物を破壊し始めたのだ。

「制限解除……演出家の時間は終わりよ。此処からは、神の独壇場である」

パリン、と。次元の壁が砕ける様な乾いた音と共に、純白の鎖が塵となって霧散した。彼女の頭上に、眩い銀光を放つ神祖の王冠《フォルティア・クラウン》が顕現する。膨大な思考と全知全能の情報を処理する増幅器が起動し、煉獄全体の周波数がフォルティアの鼓動に同調を始めた。

「……来るよ……目を逸らさないで。此れこそが、世界の真実」

サピエンティアが衣服を翻し、畏怖を込めてその姿を仰ぎ見る。フォルティアの体が、白き光に包まれ膨張していく。人型の輪郭は消失し、そこに出現したのは、数値では測りきれない無限のスケールを持つ龍の姿だ。

純白を基調とした鱗には銀の光沢が走り、群青の影が時空の歪みを際立たせる。鱗の一枚一枚に、銀河の渦と星々の誕生が映り込み、彼女が動く度に周囲の空間は物理法則を忘れて波打った。白金で構成された角は天を突き、その瞳は万象を見抜く深遠な銀の深淵と化している。

『――万象は妾の手の内にあり。理を書き換えるのは、妾の気紛れよ』

龍の姿となったフォルティアの声は、もはや鼓膜を震わせる音ではなく、世界そのものに直接刻まれる概念の波動だ。彼女が巨大な尾を一振りする。其れだけで、煉獄を侵食していた黒い闇は一瞬で白紙へと戻され、魔性が構築した偽りの因果律は、文字通りなかった事にされた

『神祖達よ、余の調べに合わせよ……これは祝祭である。』

フォルティアが口を開く。其処から漏れ出したのは、宇宙の始まりと終わりを同時に物語るような、荘厳で悠久の旋律――聖歌だった。聴く者の魂の根源に触れ、眠る無限の可能性を強制的に呼び覚ます救済の響き。其の旋律に呼応し、神祖達が共鳴を始める。

「幻想――蒼!」テンパランティアが蒼き風を捧げる。

「幻想――紅!」ジャスティティアが紅蓮の焔を捧げる。

「幻想――黄!」フィデムが結晶の美を捧げる。

サピエンティア、スペス、カリタスの権能が一つに溶け合い、フォルティアを中心とした超大規模な多重円環法陣を煉獄全域に描き出した。龍神族全神祖による、宇宙規模の曼荼羅。

『絶唱――理を再定義せん』

フォルティアの歌声が、全知全能の力を込めた決定事項へと昇華する。次の瞬間、煉獄という空間其の物が、純白の光によって飲み込まれた。過去、現在、未来。魔性が生み出した負の因果、異世界転移の乱発、世界の綻び。

其れら全てのバグは、フォルティアという巨大なシステムによって検知・消去され、本来あるべき正しい形、或いは彼女が望む面白い形へと強制的に再構築されていく。黒い靄だった魔性達は、悲鳴を上げる暇さえなかった。白の無限の可能性の中に溶け、ある者は星の塵に、ある者は清浄なエーテルの雫へと還元され、その存在の痕跡すら残さず無へと還された。


光が収束していく。あれ程荒れ狂っていた煉獄の闇は何処にもない。其処には只、新雪の様に清らかな白の地平が広がっていた。龍の姿は静かに解け、其処には再び、美女の姿に戻ったフォルティアが立っていた。神祖の王冠《フォルティア・クラウン》は静かに光を失い、彼女の神経回路へと溶けていく。

「……はぁ……やっぱり、フォルティアが本気出すと掃除が早すぎて、解析のし甲斐がないよ」

サピエンティアが、どさりと其の場に座り込み、不貞腐れた様に笑う。

「フォルティア様……!ああ、なんという……なんという至高の美……!」

フィデムは、浄化された空間に立ち尽くし、今の光景をどう彫像に刻むか、狂おしい程の情熱に身を震わせていた。テンパランティアとジャスティティアは、呆然と空を見上げていた。自分達が命懸けで戦っていた絶望が、主の一声で存在しなかった事にされた。その圧倒的な力の差に、改めて此の主の規格外さを思い知らされたのだ。

「……さて。片付けは終わったな」

フォルティアは、乱れた銀髪を指で整えると、満足げに微笑んだ。

その背後では、安定を取り戻した多元世界の因果が、再び正しい歯車を回し始めている。

「サピエンティア、茶の用意をせよ……今の絶唱で、少々喉が渇いたわ。……あやつらも、最期は中々良い響きを立てておった。余の退屈を紛らわすには、十分な余興であったな」

彼女の言葉は何処迄も傲慢で、何処迄も気紛れだ。だが、その群青の瞳には、傷ついた一族を労わるような、深くて甘い情愛が滲んでいた。

「さあ、帰るぞ……物語の結末は、やはり大団円でなくてはな」

|白き機械仕掛けの神《白きデウス・エクス・マキナ》は、軽やかな足取りで領域への帰路につく。だが、彼女はまだ気づいていない。この騒動の果てに、多元世界の各地で新たな面白そうな芽が吹き始めている事に。


絶唱の余韻が、波紋の様に多元世界の隅々まで広がり、軈て静寂が訪れた。魔性が撒き散らしたドロリとした黒い汚泥も、煉獄を切り裂いた絶望のノイズも、フォルティアの放った圧倒的な白によって跡形もなく浄化された。負の因果は清められ、純粋な魔力へと還元され、崩壊しかけた世界線を繋ぎ止める為の礎へと書き換えられたのだ。眩い光が収束した後、其処には以前よりも透き通った、真新しい煉獄の景色が広がっていた。

「……ふぅ……出し切った、って感じ。フォルティアの歌声、相変わらず鼓膜じゃなくて魂に直接響くから、解析データが全部真っ白になっちゃったじゃない」

サピエンティアが、ふらつく足取りでフォルティアの元へ歩み寄る。その顔には呆れ半分、安堵半分といった柔らかな笑みが浮かんでいた。

「ふん、余の歌をデータに収めようなどと、100億年早いわ……サピエンティア、お主もよぅ動いた。お主の幻想がなければ、この理の再定義も少々歪なものになっておったやもしれぬ」

光の粒子を纏い乍ら、巨大な龍の姿から20代前半の美女へと戻ったフォルティアが、不敵に慈しむ様に微笑んだ。彼女の周囲には、ボロボロになりながらも奇跡の生還を果たした神祖達が集まってくる。


事態が完全に収束してから数日後。フォルティアの心象風景が具現化した領域の中央には、再構築されたばかりの美しい庭園が広がっていた。其処には、多元世界の汎ゆる名花が咲き乱れ、クリスタルの様な澄んだ水が流れている。

「……いいや!あの瞬間、私の峻厳が魔性の核を焼き切ったからこそ、フォルティアの絶唱が完璧に通ったのよ!私の功績の方が大きいに決まってるじゃない!」

庭園の一角で、ジャスティティアが顔を真っ赤にして叫んでいる。

「相変わらずの短絡思考だな。私の慈嵐が周囲の負債情報を剪定し、空間のインピーダンスを調整したからこそ、君の粗雑な炎が届いたんだ……論理的に考えて、私の援護こそが決定打だった事は明白だ」

テンパランティアが、眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせて応戦する。

二人は何時もの様に、どちらがよりフォルティアの役に立ったかという、平和で騒がしい口喧嘩に興じていた。

「ふふ……あやつら、命を懸けた戦いの直後だというのに、元気なものよな。」

特等席の長椅子に腰掛け、サピエンティアが淹れたばかりの茶を啜りながら、フォルティアは目を細めた。

「良いじゃない。あれが彼らの平時なんだから。……それより、あっちの芸術家さんは、もっと凄い事になってるよ?」

サピエンティアが指差す先では、フィデムが猛烈な勢いで巨大な岩塊と格闘していた。

「……ああ……あの御姿……宇宙を背負い、理を歌う白き龍神の咆哮……刻まねば……私の魂の全てを削ってでも、あの神々しさを形にしなければ……!」

フィデムは恍惚とした表情で、もはや物理法則を無視した速度でノミを振るっている。作り出されているのは、フォルティアが龍神の姿で絶唱した瞬間をモチーフにした、全高数10mに及ぶ新造彫像だ。その像からは、既に本物の神性が漏れ出し、周囲の空間が微かに白く染まり始めていた。

「……あれが完成したら、また領域が狭くなるのう。まあ、面白いから良しとするか」

フォルティアは愉快そうに笑い、隣で哲学的な議論を戦わせているスペスとカリタスの頭を、子供をあやす様に軽く撫でた。

「……で、フォルティア。次はどうする? 匣のセキュリティもカリタスたちが二重三重に掛け直したし、暫くはのんびりする?」

サピエンティアが、悪戯っぽく尋ねる。フォルティアは茶碗を置き、ゆっくりと立ち上がった。彼女の視線は、庭園の向こう側に無限に広がる、多元世界の海へと向けられる。其処には、自分達が守り、再構築した無数の世界線が、星々の様に瞬いていた。

「のんびり、か……それも悪くないが、妾の質性は停滞を許さぬのでな。此の広い書庫には、まだ妾の知らぬ物語、妾の演出を待っておる舞台が、星の数程眠っておる」

フォルティアの群青の瞳が、好奇心に満ちた輝きを宿す。

「次はそうさな……もう少しお祭り騒ぎが似合う、賑やかな世界が良いのう。龍の神がふらりと現れて、奇跡の一つも置いていく……そんな気紛れな旅も、一族全員で行けば退屈せぬであろう?」

「……結局、私達全員連れて行く気なんだね。まあ、私も君の特等席を譲るつもりはないけど」

サピエンティアが肩を竦めると、喧嘩をしていた二人も、彫像を彫っていた者も、静かに主の元へ集まってきた。

「フォルティアが行かれる場所ならば、果て迄もお供いたします。」

フィデムが恭しく頭を下げる。

「次は、私の炎が世界を照らす番ね!」

「……やれやれ、私の胃が休まる暇はなさそうだ。」

神祖達の声を聞き乍ら、フォルティアは満足げに頷いた。龍神達は、煉獄の波間へと足を踏み入れる。彼らが歩む場所には、常に新たな奇跡が起き、少しばかりの騒動が巻き起こり、そして最後には救済の白が残される。永劫の時の中で、今回の事件もまた、彼らにとっての細やかで愛おしい日常の一幕に過ぎない。だが其の一幕一幕が積み重なり、龍神達の絆はより強固に、より美しく編み上げられていく。

「さあ、行くぞ!新たなる世界の産声が聞こえる。妾が、最高の物語にしてやろうではないか!」

白き機械仕掛けの神、フォルティアの高笑いが、新しく生まれた宇宙の空に、何処迄も高く、晴れやかに響き渡った。

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