Echoes of phantasm
某日、パラチウム学園にて――
パラチウム学園の朝は、数多の次元が交差する不協和音から始まる。龍神の国の重厚な石造りの尖塔が、月の国の冷徹な魔導ネオンに照らされ、空には巨大な転送門が幾何学模様を描いて口を開けている。高等部校舎の最上階、空間調律科が維持する絶対静止区域の一角に、その少女はいた。
ユラ・カリタス・フォルティア・アルバエレミア。
白銀の髪を紺色のリボンで緩く結び、陽光を弾くほど白い肌を持った彼女は、窓辺で一人、キャンバスに向かっている。其の瞳は蒼天の魔眼。対象の座標を固定し、概念を静止させるその眼が見つめる先には、只一脚のアンティークチェアが置かれていた。
「……お早う、ユラさん。今日も早いね」
背後から、温かな、それでいてどこか消え入りそうな声が響く。
ユラは筆を止めず、視線だけを僅かに動かした。そこには、長身を少しだけ丸め、菫色の瞳を細めて微笑む少年、ロトス・アルバサンクトが立っていた。
「お早う、ロト……クッキーの匂い。」
「あはは、バレちゃったかな。君の好きなアールグレイと、焼きたてのティラミス・サンドだよ」
ユラは僅かに鼻先を動かした。彼女の顔に劇的な変化はない。両親から受け継いだ強大すぎる神性は、彼女の精神から起伏という彩りを奪い去っていた。けれど、彼女の影が僅かに跳ねたのを、ロトスは見逃さなかった。
『おはよー、ロト!相変わらず気が利くじゃない。ユラ、ほら、口の端がピクってしたよ。素直に喜びなさいな』
ユラの表情が動かぬ儘、空ろな空間から快活な声が響く。虚空から現れたのはユラの魂に共生する双子の姉、キラの声だ。
「キラさんも、お早う……今日は一段と、世界の色が透き通って見えるね」
「そう? 私はユラが描くこの無に近い白の方が落ち着くけど。ねえ、ロト。今日の予報は?」
ロトスは窓の外、月の位相を演算する月華占術科の観測塔を見上げた。
「午後に龍脈の揺らぎがあるみたいだ。龍体力学科の連中が騒がしくなる……少し、騒がしい一日になりそうだね」
ユラは再び筆を動かし始めた。彼女がキャンバスに描いているのは、花でも風景でもない。只の音だ。ロトスの声、学園の喧騒、大地の拍動。其れらを色彩へと置換し、現実に定着させる。
「ロトス。放課後……美術館へ」
「ええ、喜んで。新しい企画展が始まったんだよね」
ユラの言葉は短く、熱を欠いている。然し、その指先が握る白仙の硝子筆は、ロトスの存在に呼応する様に、淡い、本当に淡い桃色の光を帯びていた。
昼下がりのメガ・ルナ・バザール。此処は龍神の国と月の国の特産品が混ざり合う、学園最大の商業区だ。異邦人達が持ち込んだ最新のガジェットと、龍神族が精錬した魔導触媒が同じ棚に並んでいる。
「ユラ、これ見て!この新作のリボン、君の髪色に絶対に似合うと思うんだ」
ロトスが手にしたのは、深い紺色に銀の刺繍が施された絹のリボンだった。ユラはそれをじっと見つめる。蒼天の魔眼が、リボンの持つ魔力波長を解析し、それが自分の白とどう混ざり合うかを計算する。
「……綺麗。でも、高い」
「良いんだよ。僕からの……其の、日頃の感謝っていうか。婚約者としての、特権かな」
ロトスは照れくさそうに笑う。彼はアルバサンクト家の嫡男として、生と死、夢と現実の境界を操作する絶大な権能を持つ。だが、其の本質は極めて控えめだ。彼は自分の力を振るう事よりも、ユラの隣で彼女の色彩を守る事に至上の喜びを感じていた。其処へ、騒がしい足音が近づいてくる。
「おーい!ユラ、ロトス!こんな所で油売ってんのかよ!」
声をかけてきたのは、外宇宙生態科の制服を着崩した銀龍神、ライカだった。その後ろには、大きなゴーレムの腕を背負ったアキヒ、冷静な表情で端末を叩くヒオン、そして植物の蔦を髪に絡ませたキリウが続いている。
「ライカ、声が大きいわよ。バザールの結界が共振してるじゃない」
ヒオンが呆れた様にツッコミを入れる。
「良いじゃんか!今日は神代考古学科が変なオーパーツ掘り起こしたせいで、午後からの演習が全部中止になったんだぜ?景気良く遊ぼうぜ!」
「……オーパーツ?」
ユラが反応する。
「ああ、なんでも色彩を喰らう核とかいう大層な名前の遺物らしい。今、学園法政科の連中が血相変えて回収に向かってるけどな」
其の瞬間ユラの胸の奥で、閉じ込められた衝動が疼いた。彼女の内側で、芸術家としての本能と、母譲りの破壊衝動を制御する闇喰が、警鐘を鳴らす。
「ねえ、ユラ……嫌な予感がする……空気の色が、急に灰色に濁り始めた」
キラの声が、ユラの意識を鋭く刺す。ロトスもまた、周囲に舞う目に見えない胡蝶達の乱れを感じ取っていた。
「……境界が、歪んでいる。」
突如、学園を揺るがす様な重低音が響いた。転送門の彼方、空間調律科が管理する座標軸が、目に見えて捻じ曲がっていく。
「緊急警報。パラチウム学園全域にレベル4の事象汚染を確認。全生徒は直ちに各学科の防護区画へ避難してください。繰り返します――」
スピーカーからの警告音がかき消される。空が、白黒のコントラストに塗り潰されていく。それはキラの無彩に似ていたが、より悪意的で、より空虚な無だった。
「あれは……魔性!?」
アキヒが叫ぶ。歪んだ空間の裂け目から、黒い靄のような存在が溢れ出してきた。それは形を持たず、周囲の音や光を吸収し乍ら、肥大化していく。考古学科が掘り出したという遺物が制御を失い、世界の意味を食い荒らしているのだ。
「皆、下がって!」
ロトスが一歩前に出る。彼の背中に、菫色の蝶の翅を思わせる紋様が浮かび上がる。
「胡蝶之夢――境界を定義する。此処から先は、夢の終わりだ」
ロトスの周囲を数千の菫色の蝶が舞い、侵食する黒い靄を押し戻そうとする。然し、今回の魔性は質が違った。悪性情報が飽和し、ロトスの境界線さえも無意味へと還元しようとしている。
「……私が、やる」
ユラが静かに、だが拒絶を許さないトーンで告げた。彼女の手には、全長160㎝に及ぶ白仙の硝子筆が握られている。
「ユラ、無理をしないで!まだ闇喰の同調が……」
「大丈夫、ロト。君が守ってくれる、世界だから」
ユラが筆を大きく振るう。
「――周囲を術館へと変貌させる」
一瞬にして、バザールの喧騒が消えた。周囲の壁は磨き上げられた白大理石に変わり、天井には名画を模した極彩色のステンドグラスが広がる。ユラの固有結界の展開だ。
「さぁ、行って。」
ユラが空中に描いたストロークが、瞬時に質量を持ち、白大理石の騎士達へと変貌する。十体を超える騎士達が盾を並べ、魔性の濁流を食い止める。
「奏でて」
水晶硝子で作られた少女の彫刻が、ユラの傍らに現れる。ユラは静かに目を閉じ、喉を震わせた。
「――♪」
それは感情というノイズを、極限まで削ぎ落とした、純粋な旋律。歌声は歌姫の身体を振動させ、増幅され、不可視の音響兵器となって魔性を撃ち抜く。黒い靄が、色彩の奔流に晒されて、キャンバスの汚れを拭い去る様に消滅していく。
「いいよぉ、ユラ!詰めが甘い所は私がフォローする!さぁ、光れ!」
キラの手から放たれた純白の閃光が、魔性の核を暴き出す。其処には、赤黒く拍動する古びた匣があった。戦闘は苛烈を極めた。次々と湧き出す魔性の群れに対し、ユラは彫刻達を指揮する。
キラは空間の奥行きを削り取って敵を圧殺していく。ロトスはユラの背後に立ち、彼女の魔力回路がオーバーヒートしないよう、白聖ノ蝶を送り続けていた。
「ロト、もういい。君の魔力が……」
「まだだ!君が描く世界を、僕は絶対に終わらせない!」
内気な筈の少年の瞳に、宿命的なまでの決意が宿る。ロトスにとって、ユラの無表情は冷たさではなく、無限の可能性を秘めた真っ白なキャンバスだった。彼女が自分を必要としてくれるなら、此の命が尽き果てるまで蝶を舞わせ続ける。ユラは背中に感じるロトスの温もりに、胸の奥が僅かに疼くのを感じた。
(これは……何?)
色彩を失った筈の心に、淡い菫色の光が灯る。それは彼女がどれ程名画を模倣しても得られなかった、自分だけの色だった。
「……ロトス。私、少しだけ、分かった気がする」
ユラが硝子筆を天に掲げる。
「キラ、合わせて」
「了解! 最高の傑作を創り上げましょう!」
二人の少女が重なる。極彩と無彩。正反対の概念が混合し、混沌から真の創造が生まれる。ユラの左眼と、キラの右眼が同時に蒼天に輝く。
「合体絶唱――|世界を塗り替える真実の色彩」
バザール全域が、言葉では形容できない程美しい色彩に包まれた。其れは光であり、音であり祈りだった。悪性情報の塊であった匣は、その圧倒的な美に耐えきれず、サラサラと砂の様に崩壊していく。侵食されていた空間が、元の姿へと再構築されていく。
静寂が戻った。崩壊した石畳や折れた街灯、そして息を切らして座り込む友人達。ユラは、ゆっくりと筆を置いた。事態が収束し、学園法政科の事後処理部隊が到着する頃、夕陽がパラチウム学園を茜色に染めていた。
「……酷い顔だね、ロトス」
ユラが、手向けられたハンカチでロトスの頬を拭う。其処には、魔性の煤が薄く付いていた。
「ユラこそ、リボン……解けちゃってるよ」
ロトスは、先ほど買ったばかりの紺色のリボンを手に取った。彼は震える指先で、ユラの銀髪を丁寧に結び直す。その所作は、祈りにも似ていた。
「……有難う、似合ってる?」
ユラが、鏡を見る代わりに、ロトスの瞳を覗き込む。
「……世界で一番。僕が、保証するよ」
ユラは僅かに首を傾げた。そして彼女にしては珍しく、ロトスのシャツの裾をギュッと握りしめた。
「ロト、私には、まだ心が、よく分からない。でも……君と一緒にいる時、私のキャンバスには、知らない色が、落ちるの……それは、多分、嫌な色じゃない」
ロトスの瞳が大きく見開かれる。感情が希薄な彼女が、初めて自分の内面を言葉にした。それは、どんな強大な魔法よりも、ロトスの魂を震わせた。
「……僕もだよ。君が色を探し続けるなら、僕は其の為の光になろう……卒業したら、結納を交わすって約束……忘れてない?」
「忘れない……私の匣に、ちゃんと記録した。」
二人の間に、柔らかな沈黙が流れる。其れは、学園の喧騒や次元の不協和音さえも届かない、二人だけの境界線。
「あーあ、御馳走様。私の居場所がないじゃない」
キラの呆れた様な声が響くが、その響きはどこか優しく、祝福に満ちていた。然し、平和な時間は長くは続かない。崩壊した匣の破片から、微かな声が漏れていたのを、未だ誰も気づいていない。
「……龍の神よ。お前達の記録に、死の色彩を加えてやろう」
ユラとロトスは手を取り合い、夕闇に溶けていく学園の回廊を歩んでいく。彼女が描く明日の色彩を、彼が守り続けると信じて。
パラチウム学園の朝は、龍神の国の清冽な空気と、月の国の幻想的な光が混ざり合う、乳白色の霧から始まる。ユラは、学生寮シュタイン・レジデンスの自室で、鏡の前に立っていた。
白銀の髪を丁寧に梳かし、濃紅のリボンで結ぶ。鏡の中の少女は豊かな胸元を隠す様に、パリッとした白いブラウスの襟を正した。その背後からもう一人の少女が、悪戯っぽく顔を出す。
「ねえユラ、今日のご褒美は決まってる?昨日の演習、頑張ったんだから。僕、もう口の中がティラミス待ちなんだけど」
何処からともなく現れたのは、双子の姉であるキラだ。ユラは無表情の顔の儘答える。
「……カフェテリアの、特製ティラミス。それと、ロトスが持ってくる、クッキー……楽しみ」
「ふふ、相変わらず食欲とロトスへの信頼だけは揺るがないわね。さあ、行きましょう。今日は全体基礎科の合同講義よ。あの熱苦しい連中が待ってるわ」
ユラが部屋を出ると、廊下には既に彼が待っていた。ロトスだ。
「お早う、ユラさん。それから、キラも……今日も二人は、宝石の様に綺麗だ」
ロトスが微笑むと、周囲の空気がふわりと甘い花の香りに包まれる。彼の背後に刻印された闇喰の紋様が、ユラの微かな感情の揺らぎ――期待や安らぎを吸い上げ、彼自身の献身的な愛情へと変換していく。
「おはよう、ロト……今日のネクタイ、少し曲がってる。」
ユラが指先で彼の襟元に触れる。それだけで、ロトスの頬は微かに赤らんだ。
「有難う……行こうか。ミカゲ達が、また中庭で騒いでいるみたいだ」
学園の中庭は、既に全体基礎科の生徒達で賑わっていた。中心で声を張り上げているのは、黒龍神の少女、ミカゲだ。彼女は巨大なキャンバスを前に、筆を剣の様に振るっている。
「ユラ!遅い!今日こそ私の画現と、君の極彩、どっちが真の芸術か白黒つけようじゃないか!」
ミカゲが描いた炎の獅子が、キャンバスから飛び出し、咆哮を上げる。物理質量を伴った想像力の塊だ。ユラは静かに、主武装である全長160㎝の杖・白仙の硝子筆を手に取った。内部の星屑が激しく渦巻き、周囲の空間を美術館の一室へと塗り替えていく。固有結界の展開だ。
「……ミカゲ、芸術は、勝負じゃないの……でも、私のティラミスを邪魔するなら、容赦はしない」
ユラが空間に一本の線を引く。極彩式の絵具の青が、猛る炎の獅子の熱を奪い、瞬時に凍結させた。
「あはは!始まった始まった!ユラ、右から来てるよ!」
キラの声と同時に、ユラは無彩式の絵具の力を借りる。彼女の影が伸び、氷像となった獅子を深い影の中へと飲み込んだ。
「あーあ、またやってる」
呆れたような声を上げたのは、紅龍神のヒオンだ。彼女は端末を叩き、二人の魔力出力を解析している。
「ミカゲ、出力が安定してないわよ。ユラは……相変わらずね。感情の波形が凪いでる分、術式の構成が完璧すぎて可愛げがないわ」
「いいじゃないですか、二人とも楽しそうで」
そう言って、キリウが自身の幻想『栄芽』で、壊れかけた植栽を修復していく。アキヒはアキヒで、壊れた石畳を直す為に、小型のゴーレムを量産して走り回らせていた。
「ユラ!その硝子筆、僕の最新型ゴーレムの装甲材に使わせてくれないか!?」
アキヒのオタク特有の早口を、ロトスが優しく、しかし毅然と遮る。
「アキヒ、彼女の武装は研究材料じゃない……それより、講義が始まるよ。今日は学園法政科の立ち会いがある。あまり騒ぎすぎると、予算を削られるよ」
法政科という言葉に、一同に戦慄が走る。エリート集団の彼らに目をつけられれば、備品申請すら通らなくなるからだ。
季節は巡り、春。学園の行事として、ユラ達は彩色美術館を訪れていた。満開の桜が舞う庭園で、生徒達は思い思いに風景を描く。
ユラは一人、湖のほとりで筆を動かしていた。彼女が描くのは、只の風景ではない。
極彩色の胡蝶達が彼女の周囲を舞い、パレットの役割を果たす。赤い蝶が熱を、青い蝶が静寂を、そして虹色の蝶が幻想を現実へ固定する力を彼女の筆先に与える。
「ユラさん、今の緑は……少しだけ、寂しい音がするね」
背後から、ロトスが覗き込んだ。ユラの手が止まる。彼女はキャンバスに塗られた深緑の森を見つめた。
「……寂しい?……緑は、植物の色。……光を吸って、育つ色……それが、なぜ?」
「この場所は綺麗だけど、あまりに静か過ぎるからかな。君の心にある静寂が、其の儘色に乗っている気がするんだ」
ロトスは、彼女の隣に腰を下ろす。ユラは感情が希薄で、両親から受け継いだ強大な神性が、彼女の心を薄氷の様に冷たく、透明に保っている。
然しロトスと過ごす時、其の薄氷に小さな亀裂が入るのを彼女は感じていた。それは壊れる恐怖ではなく、外の世界の温かさが染み込んでくる様な不思議な感覚だった。
「……ロトス。君が、蝶になるなら。……何色がいい?」
唐突な問いに、ロトスは少し考え、彼女の髪にある濃紅のリボンを指差した。
「君が一番大切にしている色がいいな……僕が君を、何処へでも運んでいける様に。」
その時、ユラの描いた森から、一羽の純白の光鱗が飛び出した。それはロトスの肩に止まり、柔らかな光を振りまく。
「……ふふ。ユラ、今の白は、凄く温かい音がしたよ」
キラの声が、何時になく優しく響いた。穏やかな学園生活は、時として魔性の影に脅かされる。
初夏の夜、華香植物園の深部。実験中に暴走した上級魔性が、空間の亀裂から溢れ出した。黒い靄の様な姿。周囲に浮かぶ不気味な特殊文字。其れは学園の空間調律科が管理する境界を侵食し、幼馴染達の憩いの場を汚していく。
「此処は通さないよ!」
キリウが叫び、巨大な蔦の壁を作る。ヒオンが瞬時に魔力の構成を解析し、アキヒの重装ゴーレムが物理的な障壁を築く。然し魔性は悪性情報の塊だ。物理的な攻撃を透過し、生徒たちの精神に直接、腐敗した言葉を投げかける。
「無駄だ……全ては……虚無に還る……。」
仲間の悲鳴が聞こえた瞬間、ユラの瞳が蒼天の魔眼へと変わった。左眼が青く輝き、対象の空間座標を固定する。魔性の動きが、物理法則を無視して完全に静止した。
「……私の居場所を、汚さないで」
ユラの声は、冷徹な響きを帯びていた。彼女は白仙の硝子筆を高く掲げる。
「キラ……合わせるよ」
「了解、相棒。……最高にクールな無彩を混ぜてあげるわ」
ユラとキラの魂が、完全な共鳴を果たす。極彩の色彩と、無彩のモノクローム。相反する概念が一つに溶け合い、ユラの背後に、白銀の鱗に濃紅と紺色が踊る龍神の幻影が浮かび上がった。
「聖歌・絶唱——極彩式・終焉の美術館」
ユラが歌い始める。其れはノイズのない、純粋すぎる旋律。空間が色彩豊かな城へと変貌し、同時にキラの力が世界から余計な情報を削ぎ落としていく。
躍動する彫刻達の最上位種、終焉の騎兵が実体化し、魔性の核を熱量へと変換して溶断する。背後では、ロトスもまた絶唱を重ねていた。
「胡蝶之夢……君が見るべきは、暗闇じゃない……穏やかな、眠りだ。」
彼の歌声が、傷ついた仲間達の心を安らぎで包み込み、魔性の残滓を夢の中に封印していく。二人の歌声が重なる時、其処には絶対的な境界が生まれた。悪意を拒絶し、愛する者を守る為の、美しくも苛烈な神域だ。
騒動が収まり、植物園に静寂が戻った。朝露に濡れた花々の香りが、戦いの痕跡を消していく。ユラは、魔力を使い果たして膝をついたロトスの元へ歩み寄った。彼女の指先が、彼の頬に触れる。その時ユラの瞳から、一滴の透明な雫がこぼれ落ちた。
「……ロト、これは……何色?」
ロトスは驚きに目を見開き、そして愛おしそうに目を細めた。
「それは、色じゃないよ、ユラ。……心が動いた時に流れる、透明な、君だけの答えだ」
ユラは自らの目元を拭い、其の指先を見つめた。感情が希薄な少女の中に、確かに何かが芽生え始めていた。それは、家族への愛、姉への信頼、そしてロトスへの、名もなき献身。
「……次、カフェテリアに行く時……ティラミス、二つ……ロトと一緒に、食べたい」
「ああ、もちろん。約束だよ」
背後では、ミカゲ達が「また予算を削られる!」と法政科から逃げ回る声が聞こえる。パラチウム学園の日常は、そう簡単には壊れない。
然し空の彼方、龍神の国の境界線では、新たな影が動き始めていた。ユラ達の学び舎という平穏な季節は、間もなく大きな転換点を迎えようとしている。彼女の極彩が、世界を何色に塗り替えるのか。其れはまだ、誰にも分からない。
某日、パラチウム学園の午後は、龍神の国特有の高濃度エーテルが陽光に溶け込み、視界の端々で虹色の粒子が爆ぜる様な、幻想的な輝きに包まれていた。
「……ん。」
全体基礎科の講義室。窓際の席で、ユラは微かに瞼を震わせた。彼女の膝の上には、スケッチブックと一本の白仙の鉛筆。24色の魔力結晶が埋め込まれた其の筆記具は、主の微睡みに呼応する様に、淡い菫色の光を放っている。
彼女の左眼の瞳は、吸い込まれる様な蒼天の魔眼。然し其処には喜怒哀楽という熱量は宿っていない。両親から受け継いだ強大すぎる神性は、彼女から感情というノイズを削ぎ落とし、代わりに世界をありの儘に捉える透徹した感性を与えていた。
「ユラ、また寝てたでしょ……っていうか、魂の半分がこっちで退屈してるんだけど?」
不意に、ユラの影が揺れた。其処から音もなく這い出してきたのは、肉体を持たぬ双子の姉、キラである。彼女はユラと全く同じ容姿を持ち乍ら、其の雰囲気は対照的だ。キラは実体のない指でユラの頬を突き、悪戯っぽく笑う。
「……キラ、退屈、じゃない……色の、整理をしてただけ。」
「はいはい、そう言っておくね。でも、ロトスくんが来たら、そんな言い訳通じないよ?」
キラの言葉が終わるより早く、講義室の扉が静かに開いた。現れたのはロトスだ。彼の周囲には季節外れの胡蝶蘭の香りと、数羽の純白の蝶が舞っていた。
「ユラさん、キラさん……講義は終わったかな?中庭に、新しいティラミスが入荷したって聞いたんだ……良ければ、一緒に行かないかい?」
ロトスの内気な、けれど誠実さに満ちた声。ユラの無機質な瞳に、ほんの一瞬だけ、微かな光が差した。
「……ティラミス……行く。」
ユラが立ち上がる。その瞬間、彼女の背後にある空気の質が変わった。彼女が歩く軌跡には、目に見えない筆致が残り、埃さえもが宝石の砕片の様に煌めく。
其れは、平穏な日常の一コマ。然し此の時の三人はまだ気づいていなかった。学園の最深部、禁忌知識科の地下層で、世界の負の側面である魔性が、防壁を食い破り始めている事に。
「きゃああああ!」
悲鳴が上がったのは、巨大購買エリア『メガ・ルナ・バザール』の噴水広場だった。空が、割れた。雲一つない青空に、まるで黒いインクをぶちまけた様な罅が入り、そこから聞き取れないノイズの様な声が溢れ出す。
「……何、あれ。幻影の暴走?」
キラが瞬時にユラの背後に回り、戦闘態勢を取る。罅から滴り落ちたのは、実体を持たない影の塊――魔性。其れらは周囲に浮かぶ特殊文字を高速で回転させ乍ら、居合わせた生徒達の魔力ではなく、その根源にある存在意義を削り取り始めた。
「拙いね、あれは通常の物理干渉じゃない……学園法政科の防衛網が突破されてる!」
ロトスが手にした胡蝶の杖を振るう。
「おいで、白聖ノ蝶……境界を固定して!」
無数の白い蝶がロトスの袖口から溢れ出し、逃げ惑う生徒たちの周囲に防護結界を編み上げていく。だが、現れた魔性の一体――とりわけ巨大な、人の形を歪に模した影が、ユラを見据えた。
『…………無……価値……ナル……模倣…………』
魔性の声は、直接脳裏を掻き毟る様な不協和音となって響く。上級魔性は、ユラの眼前に降り立つと、その周囲の色を奪い去った。
「……私の、芸術を……模倣と、言ったの?」
ユラが静かに杖――白仙の硝子筆を構える。
全長160㎝の透明な杖の内部で、封印された星屑が激しく渦を巻く。
「幻想、行使……描け。」
ユラが空中に円を描くと、純白の雪花石膏が凝集し、三体の巨大な騎士が現れた。石造りの兵士たちは、魔性の黒い突進を重厚な盾で受け止める。だが、魔性は笑った。
『感情……欠落セシ……器……其処ニ……真ノ……創造ハ……ナイ』
魔性から放たれた黒い靄が、重装歩兵の表面を侵食する。滑らかな白石はみるみる内に煤け、崩落していく。ユラの心に宿る微かな欠落を、魔性は毒のように突き刺した。
戦いは激化の一途を辿っていた。学園の各所では、呪詛編纂科の生徒たちが術式をハッキングされ、龍体力学科の供給する魔力が黒く汚染されていく。
「ユラ、集中して! 影に飲み込まれちゃダメ!」
キラが叫び、無彩式の絵具の瓶を砕く。眩い光が周囲を純白の虚空へと変え、魔性の視覚を奪うが敵の数は減らない。ユラの心の中で、何かが音を立てて軋んでいた。
(感情が、ない……だから、私の作るものは、空虚?)
魔性の放つ悪性情報が、彼女の深層心理にある静寂を、虚無へとすり替えていく。具現化した彫刻達が、主の不安を反映するように歪み、次々と崩壊していく。
「……っ、あああ!」
ユラの口から、声にならない悲鳴が漏れた。彼女の誇りであった蒼天の魔眼が、濁る。周囲の色彩が反転し、美しい学園の景色が、醜い臓物のような色彩へと塗り替えられていく。だが其の時、ユラの中で、もう一つの意志が覚醒した。
『――いい加減にしろよ、情報のゴミクズ共が。』
ユラの身体を支配したのは、内なる破壊衝動を司る姉、キラの激昂だった。いや、それはキラの意志であると同時に、ユラ自身の守りたいという本能の産声。
「……キラ、合わせるよ」
「……当たり前でしょ。最高の極彩色、見せてやろうじゃない」
二人の魂が、完全に一つに重なる。空間が震えた。ユラとキラが融合し、その姿は女王然としたものへと変貌する。白銀の鱗に濃紅と紺色が踊る、優雅なる龍神の因子が、少女の姿を借りて現現する。
「闇喰、解放……イーリス/ポルクス、カストロ……全てを喰らい、創造に変えなさい」
ユラの背中に、巨大なキャンバスの様な色彩の翼が広がる。彼女が歌い始めたのは、ノイズのない純粋な感性が紡ぐ、現実を塗り潰す旋律。
「――聖歌・絶唱、極彩式の城」
歌声と共に、崩壊しかけていた世界が再構築されていく。黒い靄は極彩色の奔流に飲み込まれ、魔性達はその存在確率を白紙に戻されていく。ユラが描くのは、もはや模倣ではない。
大切な人を守るという、言葉に出来ない祈り其の物だった。戦場となった広場は、瞬間に豪華絢爛な美術館へと変貌した。魔性達は、展示された名画の一部として封印され、世界の毒素は浄化されていく。
だが、勝利の余韻に浸る間もなく。ユラの蒼天の魔眼は、遥か遠く、禁忌知識科の更に奥底で、未だ蠢く真の悪意を捉えていた。
「……終わって、いない」
ユラが呟く。彼女の瞳には、以前の様な冷徹さだけでなく、微かな、けれど確かな決意という名の熱が宿っていた。流出した禁忌知識。沈黙を貫く学園理事会。そして、月の国から派遣された謎の特異点。
平穏な学園生活は、音を立てて崩れ去った。けれどユラはもう、人形ではない。彼女の手には、世界を塗り替える為の筆が、これまで以上に強く握られていた。
「……私の、本当の色を……見せなきゃ。」
パラチウム学園の空は、本来ならば龍神の国と月の国のエーテルが混ざり合う、美しい薄紫色の黄昏に包まれている筈だった。然し今、その境界線はノイズに侵食されていた。
「……色が、消えていく」
高等部校舎の屋上、ユラは、愛用の白仙の硝子筆を握りしめ、空を見上げた。彼女の蒼天の魔眼が捉えているのは、雲の隙間から溢れ出す黒い靄――悪性情報の集合体『魔性』の群れだった。
それは物理的な雲ではない。世界の記述を書き換え、存在そのものを虚無へと塗り潰す概念の毒だ。校庭では警備を担当する呪詛編纂科の生徒達が術式を高速展開しているが、墨をぶちまけた様な魔性の奔流に、防壁が次々と剥がれていく。
「ユラ、ぼーっとしてる暇ないよ! 右から来てる!」
脳内にキラの鋭い声が響く。ユラは無言で頷き、硝子筆を振るった。
「――描け。」
ユラの足元の影から、純白の雪花石膏で形作られた騎士たちが競り上がる様に実体化した。五体の彫刻騎士が盾を並べ、屋上へ飛び込もうとした黒い影を弾き飛ばす。
「無口なのは相変わらずだけど、筆の走りが硬いよ、ユラ。ロトが心配しすぎて、君の感性にプレッシャーかけてるんじゃない?」
「……そんな事は、ない。私は、只、描くだけ」
ユラの声は抑揚に欠け、冷たくすら聞こえる。然し其の指先は微かに震えていた。彼女の内に眠る破壊衝動が、周囲の混乱に呼応して、制御不能な熱として暴れ出そうとしていたからだ。
「きゃあぁぁ!」
悲鳴が上がったのは、中庭の『華香植物園』の方角だった。そこには、幼馴染のキリウ達が避難誘導に当たっているはずだ。
「キリウ達が危ない!ロトもあっちで防衛線を張ってるはずだよ、急ごう!」
キラの言葉に、ユラは屋上から飛び降りた。空中で白仙の絵筆を一閃させると、虹色の光の軌跡が空中に固定され、即席の滑り台となって彼女を中庭へと運ぶ。
植物園は地獄絵図だった。緑豊かな木々は黒い靄に触れた瞬間、炭のように崩れ落ち、色を失った幻影達が苦悶の声を上げている。
「ミカゲ!それ以上は魔力を使いすぎだ!」
「煩いヒオン!芸術は爆発なのよ、この程度の黒塗り、私が全部描き変えてやるわ!」
紅龍神のヒオンが解析データを叫ぶ中、黒龍神のミカゲが巨大なキャンバスを空間に展開し、魔性の群れに爆発的な色彩を叩きつけていた。然し魔性の数は無限に近い。倒しても倒しても、次元の裂け目から文字化けした様な醜悪な言葉が溢れ出し、空間を侵食していく。其の中心で、一人の青年が必死に蝶を操っていた。
「……皆を、傷つけさせない……白聖ノ蝶、癒しを!」
ロトスだ。彼の周囲を舞う純白の蝶達が、傷ついた生徒たちの魔力回路に止まり、必死に修復を試みている。然し彼の顔色は青白い。生と死の境界を司る彼の幻想は、此の圧倒的な悪意の物量に対して、あまりにも繊細すぎた。
「ロト……!」
ユラが着地すると同時に、巨大な上級魔性がロトスの背後に出現した。それは人の形を歪めた様な影で、数千の恨み言を多重音声で撒き散らしている。
「――壊せ、描け!」
ユラの叫びに呼応し、漆黒の鋳鉄で作られた首無しの騎兵が、ロトスと魔性の間に割り込んだ。騎兵はユラの破壊衝動を熱量に変え、赤黒く輝く大剣で魔性を一刀両断にする。
「ユラさん……!」
ロトスが安堵の表情を浮かべた瞬間、事態は最悪の転換を迎えた。
倒したはずの魔性が霧散せず、ロトスの影に潜り込んだのだ。
「あぐっ……!?」
ロトスの身体が硬直する。彼の背中の闇喰トコヨノカミが、許容量を超える悪意を吸収し、菫色の輝きがどす黒く濁り始めた。
「ロト!いけない、闇喰が飽和する!」
キラが叫ぶが、実体を持たない彼女には干渉できない。
「……離れ、ろ。」
ユラが手を伸ばすが、ロトスから溢れ出した黒い雷が彼女を弾き飛ばした。ロトスの意識が、魔性の悪意に飲み込まれようとしていた。
「嫌……ロトが、消えるのは、嫌」
ユラの瞳から感情が溢れ出した。無口な仮面が剥がれ落ち、年相応の少女としての恐怖が顔を出す。その心の揺らぎが、彼女の極彩を暴走させた。
周囲の空間が、グロテスクにねじ曲がった、色彩の渦に飲み込まれる。筆を使わずとも、彼女の意志一つで世界が塗り替えられていくが、其れは創造ではなく崩壊の色彩だった。
「ユラ、落ち着いて!此の儘じゃ、君自身が魔性になっちゃう!」
キラの声も届かない。ユラの左眼、蒼天の魔眼が血の様に赤く染まり始める。其の時、どす黒い靄の中から、震える手がユラの頬に触れた。
「……泣かないで、ユラ。君の色は……こんなに、温かいんだから」
ロトスだった。彼は自身の闇喰が崩壊する寸前で、その全ての魔力をユラへの献身一点に注ぎ込み、意識を繋ぎ止めていた。
「ロト……? どうして……」
「君を一人にはしない。僕の命も、魂も……全部君のキャンバスの一部だ。だから……本当の歌を、聴かせて」
ロトスの闇喰トコヨノカミが、ユラの破壊衝動を逆流させる様に吸い込み始めた。それは自己犠牲的な浄化。彼の誠実さが、ユラの内の闇を創造の熱へと変換していく。
「――ったく、お熱いねえ!でも、此れならいける!」
キラの魂が、ユラの深層意識で光り輝いた。
「ユラ、私の無彩を合わせるよ。光と影、極彩と無彩。二つで一つの世界を描き直すんだ!」
ユラは涙を拭い、ロトスの手を握り返した。
「……うん、キラ、ロト……一緒に行こう。」
三人の魔力が、パラチウム学園の全域を震わせる共鳴音を奏で始めた。ユラの極彩式が虹の奔流となり、キラの無彩式が世界の輪郭を確定させ、ロトスの胡蝶の鱗粉が人々の魂を安らぎの海へと誘う。
「――聖歌、起動」
ユラの唇が戦慄き、透き通った歌声が放たれた。それはノイズを排した、魂の原型。
「♪ 閉ざされた箱庭に 降り注ぐ千の色彩 影は光を呼び 光は闇を抱く――」
キラの茶目っ気のある歌声が重なり、さらにロトスの誠実な低音が重厚な和音を作る。三人の『絶唱』が重なった瞬間、ユラの姿が変貌した。背中から、キャンバスを広げた様な巨大な光の翼と、影絵のように精緻な黒い翼が交互に現れる。頭上には極彩と無彩が交互に瞬く王冠が戴かれ、彼女の存在其の物が、世界を司る幻想へと昇華した。
「――固有結界・極彩式の城」
一瞬にして、戦場は豪華絢爛な美術館へと塗り替えられた。魔性達は、展示された名画の額縁の中へと強制的に「記録」として封印され、その悪意は芸術的な秩序によって無害化されていく。
「凄い……魔性が、只の絵画になっていく……。」
キリウが呆然と呟く。
「これが、アルバエレミアの真の力なのね。」
ミカゲは悔しそうに、然し誇らしげに、空に浮かぶ友を見上げた。空中を舞う無数の極彩式の胡蝶が、学園を侵食していた黒い靄を食らい尽くし、代わりに世界を美しい色彩で再構築していく。ロトスの菫色の光が、傷ついた生徒達の肉体を瞬時に再生させ、絶望に沈んでいた人々の心に希望の火を灯した。
魔性の奔流は去った。次元の裂け目は、ユラが硝子筆で描いた青空の絵によって物理的に塞がれ、学園には再び穏やかな夕暮れが戻ってきた。
極彩式の城がゆっくりと霧散し、ユラ達は校庭へと降り立つ。女王の威厳は消え、其処には少し疲れた顔の少女と、彼女を支える青年、そして透明な空気感の中に微笑む姉だけが残っていた。
「……終わったの?」
ユラが小さく尋ねる。
「ああ……君が世界を救ったんだ、ユラさん。」
ロトスが優しく微笑み、彼女の頭を撫でた。
「ふふん、私のサポートのおかげでもあるけどね!」
キラの声が風に乗って跳ねる。然し其の平穏を破る様に、ユラの蒼天の魔眼が微かな違和感を捉えた。
塞いだはずの空の向こう側――そこには、今回の魔性を送り込んだ意志の残滓が、冷たく此方を見下ろしている様な感覚。
「……まだ、始まりに過ぎない」
ユラはロトスの手をぎゅっと握りしめた。今回の事件で、自分達の力は覚醒した。然し其れは同時に、より巨大な運命の歯車が動き出したことを意味していた。一族の敵、世界の歪み。そして、自分達の闇喰に刻まれた真の宿命。
「行こう、ユラ。どんな未来が来ても、僕達は三人で一つだ」
ロトスの言葉に、ユラは初めて確かな微笑みを浮かべた。
「……うん、次は、もっと綺麗な色で、世界を描くから。」
西の空には、龍神の国と月の国の境界を祝福する様に、見た事もない程鮮やかな、極彩色の虹がかかっていた。
後日――
パラチウム学園の朝は、常に多層的な音色と共に始まる。
龍神の国から吹き込む清冽な魔力の風が、水晶で作られた校舎の尖塔を鳴らし、月の国由来の浮遊演算機が微かな駆動音を奏でる。
学生寮・シュタイン・レジデンスの最上階、朝日が差し込む一室で、ユラは鏡の前に立っていた。彼女の背後には、キラが揺らめく影の様に寄り添っている。
「ねえユラ、今日で最後なんて信じられる?あの偏屈な全体基礎科の教授に絞られた日々も、予算争奪戦で鉱石錬金科の金持ち連中を彫刻で追い回した事も、全部思い出になっちゃうなんて」
キラの声は快活で、どこか寂しげだ。ユラは無言のまま、濃紅のリボンを丁寧に結び直した。感情が希薄だと言われる彼女だが、指先に伝わるリボンの感触は、今日という日が特別である事を静かに告げていた。
「……寂しい?」
ユラが短く問う。キラは、妹と瓜二つの顔で悪戯っぽく笑った。
「まさか!僕は君の影だもの。君がロトと幸せになるなら、僕は特等席で其れを眺めるだけ……でも、あのアキヒのゴーレムが卒業式で暴走しないかだけが心配かな」
ユラは僅かに口角を上げた。それは、数年前の彼女には不可能だった微細な感情の表出。魔性との過酷な戦いを経て、彼女の匣に封じられていた純粋な心は、少しずつ色彩を取り戻していた。
「ロトが……待ってる」
ユラは愛用の白仙の硝子筆を手に取った。今日は武器としてではなく、卒業証書を受け取る為の杖として。
学園の中心地に位置する巨大購買エリア、メガ・ルナ・バザールは卒業式を控えた生徒達の熱気で溢れかえっていた。
「アキヒ!其の巨大ゴーレムを、式典会場に持ち込むのは禁止だって言ったでしょう!」
紅龍神のヒオンが、演算機を片手に叫んでいる。彼女の解析能力によれば、そのゴーレムが転倒する確率は現在82%。
「酷いなヒオン、此れは僕の魂の集大成なんだよ!ほら見てよ、この関節の滑らかな動き。此れなら卒業証書を授与される時にバク宙だって出来る!」
黄色い作業着を煤で汚したアキヒが、粘土細工の巨人を撫で回している。その横では蒼龍神のキリウが、自身の幻想で育てた色とりどりの花束を、異邦人の下級生達に配っていた。
「皆、おめでとう。此の花には空間調律科の加護をかけてあるから、暫くは枯れないよ」
「キリウは相変わらずお人好しだねぇ」
銀龍神のライカが、空中に浮遊するゲームウィンドウを操作しながら現れた。
「卒業式の最中に、校長の話をBGMにしてRPGのボスを倒そうぜ。制域を張ればバレないからさ」
「ライカ、君ってやつは……」
幼馴染達が繰り広げるいつもの光景。ユラは其の輪の中に静かに入っていった。皆の視線が集まる。白銀の髪に濃紅の瞳、静謐な美しさを湛えた彼女の登場に、騒がしかった広場が一瞬だけ静まり返った。
「ユラ!」
輪の後ろから、ロトスが駆け寄ってきた。此の数年間、彼女の不器用な心を誰よりも近くで支えてきた青年だ。
「……ロト。」
ユラがその名を呼ぶだけで、周囲の空気が甘く、菫色の輝きを帯びる。ロトスの背中には、彼自身の闇喰トコヨノカミの影響か、微かな鱗粉が舞っていた。
「準備はいいかい?式典が終わったら……例の場所で」
ロトスの耳朶が僅かに赤い。ユラは黙って頷き、彼の手をそっと握った。その手は少し震えていたが、温かかった。
パラチウム学園の大講堂。学園法政科の厳格な進行の下、式典は進んでいく。壇上に立ったのは、理事長代理を務めるミセラだった。
「卒業生の皆さん。皆さんはこの数年、多くの境界を超えてきました。龍神と異邦、現実と幻想、そして……己の中にある孤独と愛。どうか忘れないで。君達が描いた軌跡こそが、この世界の真実となる事を」
ミセラは優雅に微笑み、密かに息子ロトスとユラに向けてウィンクを送った。その瞬間、アキヒのゴーレムが感動のあまり「おめでとう!」と叫び乍ら虹色の花火を噴射した。式典は一転して、パラチウム学園らしいカオスな祝祭へと変わる。
龍体力学科の生徒達が魔力を暴発させて空を飛び、月華占術科の面々がこの混乱は予見済みだと澄ました顔でバリアを張る。其の喧騒の中で、ユラとロトスは静かに席を立った。二人の向かう先は決まっていた。
学園の最果て、龍神の国と月の国が最も美しく交差する場所にある彩色美術館。夜になると此処は庭園全体が、星屑の鱗粉で満たされる幻想的な空間となる。中央に聳える胡蝶樹の麓。ロトスは立ち止まり、深く息を吸った。
「ユラさん……君と出会った時、君の世界には色がなかった。強すぎる神性のせいで、君は自分自身を壊さない様に、心を透明な檻に閉じ込めていたね」
ユラは静かに彼を見つめる。彼女の隣ではキラも佇み、二人を見守っていた。
「……でも、君は自分の絵筆で、自分の意志で、世界を塗り替えた……僕の臆病な心も、君の強さが救ってくれたんだ。」
ロトスは懐から小さな菫色の箱を取り出した。中には純白の輝きと、ロトスの魂の色である菫色が混ざり合った、一対の指輪が収められていた。
「ユラさん……僕と結婚してください。君の描く未来の隣に、僕も居させてほしい」
静寂が流れる。風が胡蝶樹の葉を揺らし、無数の蝶が二人を祝福するように舞い上がった。ユラの瞳に、一筋の光が走る。彼女はゆっくりと手を伸ばし、ロトスの指輪を受け取った。
「……私には、まだ分からない色がある。愛が、どんな絵具で描かれるのか。喜びが、どんな彫刻の形をしているのか」
ユラは一歩、ロトスに歩み寄った。
「でも、君が隣に、いてくれるなら……君と一緒に、キャンバスを埋めていけるなら……私は、その全ての色彩を知りたいと思う……ロト、私も君と一緒に、居たい。」
初めて。ユラの唇が、完璧な芸術作品よりも美しい微笑みを象った。その瞬間、彼女の背後に白銀の龍神の幻影が浮かび上がり、ロトスの菫色の光と溶け合った。
「やったね、ユラ!これからは三人……いえ、家族皆で、もっと賑やかになるよ!」
キラが二人の周りをはしゃぐように舞う。
数年後。華香植物園の一角に、新しいアトリエが完成した。其処には、世界的に名を知られる様になった芸術家、ユラの姿があった。彼女の描く絵画は、もはや無機質な再現ではない。見る者の魂を揺さぶり、生きる活力を与える命其の物だ。
「ユラ、お茶が入ったよ。今日のティラミスは自信作だ」
エプロン姿のロトスが、庭園で育てたハーブティーを運んでくる。彼の周りには、相変わらず無数の蝶が戯れ、植物たちは彼の声に応えるように生き生きと葉を広げている。ユラは筆を置き、夫となった青年の元へ歩み寄った。
「……有難う、ロト。丁度、此の絵に足りない色が見つかった所」
「へえ、何色だい?」
ユラは彼の胸にそっと頭を預け、穏やかに目を細めた。
「君が私にくれた……幸福という名前の色。」
アトリエの窓の外には、パラチウム学園で共に過ごした仲間たちの笑い声が、風に乗って聞こえてくる。嘗て感情を失っていた龍神の少女は、今、世界で最も豊かな色彩の中にいた。
欠落を抱えた二人が見つけたのは、どんな魔術よりも強く、どんな幻想よりも確かな愛という名の真実。極彩の物語は、此処で一度筆を置く。然し、彼らが描く新しい日常という名のキャンバスは、これからも永遠に輝き続けるのだ。
後日談【極彩と胡蝶が綴る、明日の境界】
某日、月の国にて――
月の国の西の首都、ウィンド・グローリー。白く輝く高層ビル群の間を、リニア式の交通網が銀の帯の様に走り抜けていく。その一角、自然とアートが調和する彩色美術館の中庭は今、一人の少女が放つ魔力の奔流に包まれていた。ユラは白仙の硝子筆を、指揮棒の様にしなやかに振るった。
「…………」
彼女の唇から言葉は漏れない。蒼天の魔眼が空間の座標を青く固定し、虚空に描かれた虹色の軌跡が、音を立てて結晶化していく。其れは、卒業制作として彼女が心血を注いできた巨大な氷晶の彫刻群だった。
「ねえユラ、ちょっと右側の龍神像、光が強すぎない?私の幻想で影を落としたら、もっと奥行きが出ると思わない?」
ユラの傍で肉体を持たぬ双子の姉、キラが楽しげに弾んだ声を出す。二人は思考を完全に共有し、一つの肉体に二つの魂を宿した共生体だ。
「……お願い、キラ。」
ユラが応じると、キラの彫刻の足元から、墨を流した様な深い影が立ち上がった。世界から色を奪い、白と黒のコントラストへと還元するその力は、ユラの鮮やかな幻想をより一層際立たせる。極彩の光と無彩の影。二つの相反する幻想が混ざり合い、中庭には命を持つかの様な龍神の群像劇が完成に近づいていた。
「お疲れ様、ユラさん、キラさん。」
不意に、穏やかで深みのある声が響いた。
振り返れば、そこには長身を少し丸め、内気な微笑みを浮かべたロトスが立っていた。
「……ロト」
ユラの淡い感情が、ほんの少しだけ揺れる。ロトスは手に、彼女の好物であるティラミスと、湯気の立つカフェラテを携えていた。
「華香植物園での研究が一段落したから……ユラさの頑張っている姿、遠くからでも見えたよ。」
ロトスが近づくと、彼の背中に刻まれた闇喰トコヨノカミの紋様が、誠実な愛情に呼応して菫色に柔らかく明滅した。
「わあ、ロト!相変わらず気が利くよね。ユラ、早く食べよ!」
キラの声が脳内で弾ける。ユラはロトスから受け取ったカフェラテの温かさを掌に感じ乍ら、小さく頷いた。三人は、完成したばかりの彫刻を見上げ乍ら、束の間の休息をとった。
「ユラさん、卒業式の後……。」
ロトスが、意を決した様に言葉を紡ぐ。
「改めて僕の両親、父さんと母さんに話をしようと思っているんだ。」
其の言葉に、ユラの心臓がトクンと跳ねた。学園生活の終わり。それは、子供としての守られる時間の終わりであり、龍神族としての責任と、愛する人と歩む新たな契約の始まりを意味していた。
(そうだ……卒業したら、私は……。)
「ユラさんは、此れからも描き続けるんだよね。」
ロトスの問いに、ユラは白仙の硝子筆をギュッと握りしめた。
「……描く。この世界を、君と、キラと一緒に」
「勿論!僕もずっと一緒よ。ユラが描いて、僕が影をつけて、ロトが其れを守る。最高のユニットじゃない?』
キラの明るい声が、卒業を前にした微かな寂しさを吹き飛ばしていく。然し其の穏やかな時間は、唐突に訪れた視線によって遮られた。美術館の最上階。其処には、二人の影があった。一人は白色の髪を揺らし、飄々とし乍らも鋭い知性を瞳に宿した星の魔女であるサラ。もう一人は、無口に銀色の魔眼を光らせる、冷徹な支配者たるステラだ。
「あらあら、若い二人は熱いね……ねえステラさん、私達の娘があんなに立派な彫刻を創っている事、父さんが見たら、また泣いて喜んでしまいますよ」
「……義父上は、溺愛が過ぎる。だが、あの彫刻には核が足りない」
ステラの言葉は厳格だが、その言葉の奥には娘為の成長を誇る父としての情が滲んでいる。
「ふふ、そうね。でも、それは彼女達が自分達で見つけるものよ。ねえ、ステラ、そろそろ準備を始めましょうか。月の国の境界を越えて、新しい運命の風が吹き始めているわ」
サラが手に持つ天文観測儀が、希望に満ちた数値を弾き出す。中庭では、ユラが再び筆を執っていた。ロトスの決意を受け、キラの悪戯心に応え、彼女は彫刻の最後の仕上げを施す。彫刻の龍神が一瞬、本当に羽ばたいたかの様に光り輝いた。
「……行こう、ロト。」
「……!ああ。」
ユラが初めて自ら手を差し出す。ロトスはその手を、壊れ物を扱うように優しく、然し離さないという強い意志を込めて握り返した。
其の後――
サイバーシティ、ノクス・アビス。数日前まで生の闇が溢れ、泥の巨像がネオンの街を蹂躙していたノヴァ・ゲート・テラスは、今や嘘の様な静寂に包まれていた。復興作業が進む街角のカフェテラス。ユラは、お気に入りの紺色のリボンを鞄に結び、目の前に置かれたティラミスを銀のスプーンで見つめていた。
「ねえユラ、あの時の私のアトラ・アンブラ、完璧だったと思わない? 街中のノイズを全部影に沈めて、あの不細工な巨像を墨絵みたいに固定しちゃったんだから!」
ユラの隣で、キラの弾んだ声が響く。ユラは無表情の儘、心の中で短く答えた。
「……ええ、キラ……でも、少し広範囲に影を広げすぎ。後でロトス君が精神の浄化をする時、足元が暗くて困っていたよ」
「あはは、それは失礼!でも、結果オーライでしょう?」
ユラは小さく溜息をつき、ティラミスを一口運ぶ。濃厚なマスカルポーネの甘みとエスプレッソの苦みが、激戦で昂ぶっていた神経を穏やかに溶かしていく。彼女にとって、この一口こそが芸術を制御するための最も重要な儀式だった。
「お待たせしました、ユラ。キラさんも、お疲れ様」
穏やかな声と共に、白色の髪を揺らしたロトスが戻ってきた。彼の背後には、役目を終えた数羽の純白の蝶が、淡い光の粒子を振りまき乍ら消えていく。
「ロト……異邦人達の様子は?」
ユラが問いかけると、ロトスは誠実な笑みを浮かべて席に着いた。
「うん、暴走した研究グループの面々も、深い眠りから覚めて、今は落ち着いているよ。彼らが抱えていた龍神への憧憬と劣等感……それ自体は、僕達も否定しきれるものではありませんから。今はヒオンが、彼らの精神ログを冷静に解析して、再発防止のプログラムを組んでいますよ」
ヒオンらしいと、キラがユラの口を借りて可笑しそうに言った。
「あの子、熱い性格のくせに、仕事になると氷みたいに冷徹な演算を始めるんだから……。」
「アキヒも、壊れた街の基盤を直す為に、テラコッタ製の小型ゴーレムを数十体も動員していたよ……今は、皆が自分なりのやり方で、この事件を作品として完結させようとしてる」
ロトスはそう言って、カフェラテに口をつけた。彼の手首に刻まれた闇喰プシュケの紋様が、微かに菫色に脈動している。人々の負の感情を肩代わりし、浄化した代償は決して小さくない筈だが、彼は決してそれを表には出さない。
其の時、ユラの蒼天の魔眼が、空中に揺らぐ微かな銀色の魔力を捉えた。空間が裂け、そこから現れたのは、藍色の外套を翻すサラと、銀の雷光を纏ったステラだった。
「やっほー、愛娘達!其れに未来の息子君。事件解決のご褒美に、父さんと母さんが特製の星屑の金平糖を持ってきたよ!」
サラは相変わらずの軽薄な調子で、空中に銀河の渦を巻かせ乍ら菓子折りを取り出す。背後ではステラが無言の儘、だが何処か誇らしげに、娘達の無事を確認する様に目を細めていた。
「母さん、父さん……有難う。」
ユラが深々と頭を下げると、キラがひょっこりと出てくる。
「父さん!今回の件で分かったんだけど、異邦人の技術と、僕の幻想を掛け合わせれば、もっと面白い影の遊園地が作れる気がするの。研究予算、御祖父様に内緒で回してくれない?」
「おっと、それは御祖父様にバレたら、母さんがまたお説教されちゃうな……でも、面白いね。検討しておこう」
サラは茶目っ気たっぷりにウィンクし、夫であるステラの肩を叩く。ステラは溜息をつき乍らも、娘たtの健やかな成長に満足したのか、自身の魔眼バロールの輝きを静かに収めた。
夕刻。クレセントシティへと戻るリニアの中で、ユラは窓の外に広がる銀色の地平線を眺めていた。
「ユラさん、学園の卒業課題、何を描くか決めた?」
隣に座るロトスが、そっと尋ねる。ユラはロトスの手を、愛おしそうに撫で乍ら小さく頷いた。
「ええ。今回の事件で見た影の中に灯るネオンの光……そして、其れを守ろうとした皆の色彩を、一つの巨大な連作に、しようと思ってる」
「僕も手伝うよ!白と黒だけの、究極のコントラストを添えてあげる!」
キラの元気な声に、ユラは微笑む。感情が希薄だと言われ続けた少女の胸の中には、今、確かに鮮やかな色彩が、消えない絵具となって積み重なっていた。
「楽しみですね。僕も、その絵に合う蝶の庭を整えておきます」
ロトスがユラの手の上に、自身の手を重ねる。
月の光が二人を等しく照らし、物語は静かに、だが確実に、さらなる混沌と美しさが、其の筆を進めていくのだった。
後日――
月の国の中心、クレセントシティの片隅に佇む彩色美術館。その最上階にある私設サロンでは、春の柔らかな光が差し込み、銀色の建材に反射して虹色の粒子を散らしていた。
「……美味しい。」
ユラは小皿に載った、ティラミスを一口運び、小さな声で満足げに呟いた。彼女の傍らには、キラが浮遊し楽しげに身を乗り出している。
「ユラだけ狡いなー!僕にも其の甘い幸福感、分けてよ。思考共有の感度、最大にして?」
ユラは無言で目を閉じ、脳裏に広がる極彩のキャンバスを、キラへと開放した。マスカルポーネの濃厚なコクとエスプレッソの苦味が、二人の魂の間で色彩の奔流となって溶け合う。
「あはは、最高!流石は母さん特製だね……でも、ユラ。外の空気、少しずつ澱みが混じり始めてるよ」
キラの言葉に、ユラの眼が微かに細められた。美術館の窓の外、平和を謳歌するウィンド・グローリーの空に、常人には見えない黒いノイズが走っている。それは、親達が水面下で処理している魔性の残滓だった。
「やあ、二人とも。準備はいいかい?」
サロンの扉が開き、ロトスが入ってきた。彼の周囲には、数羽の
氷蝶と紅き蝶が守護するように舞っていた。
「ロトス……早いね」
「うん、父さんと母さんが、階下でロイン様達と最終調整に入ったんだ。僕達は、学園の卒業式を狙う『影の残党』を、裏側のゲートで食い止める役割を任されたんだ」
ロトスは誠実に、瞳にはユラを守るという、苛烈な決意を宿して告げた。ユラは立ち上がり、主武装である白仙の硝子筆を空間から引き出す。
「御祖父様と、父さんたちが……道を創ってくれた。なら、私たちは、それを完成させるだけ」
一方其の頃――サイコパンクなネオンが煌めくノクス・アビスの深部では、一方的な掃除が行われていた。
「あらあら、逃げ足だけは彗星級。でも、私の視界からは逃げられないよ?」
サラが軽薄に笑い、左目の彗星の魔眼を輝かせる。彼女が指を鳴らすと、星月の剣が空間を断絶し、逃走しようとした実験施設の武装兵ごと次元を切り裂いた。其の隣ではステラが、無言で銀色のリボルバーを構えていた。
「……邪魔だ」
引き金が引かれる。放たれた雷石は空間の因果を書き換え、敵の防衛システムを最初から存在しなかった事象へと還元していく。
「ステラさん、あんまり壊しすぎないで下さい。父さんに怒られてしまいます」
「……善処する。」
更に深部。ロインとセツラが、巨大な術式陣の中心に立っていた。
ロインの精霊杖から溢れる薄紫の霧が、幽界の住人達を呼び出し、物理攻撃の通じない亡霊兵を次々と捕縛していく。
「セツラ、変換効率はどうだ?」
「完璧ですよ、ロインさん。賢者の石の出力は安定しています。この汚染された施設ごと、美しい桜の苗木へと書き換えてあげます」
セツラの闇喰トリスメギストスが金色の光を放ち、負の力を純粋なエーテルへと反転させていく。
親達の圧倒的な力は、敵にとって絶望其の物だった。ユラ達は混乱する学園の最深部、旧校舎の時計塔に立っていた。目の前には、親たちの追撃を逃れた元凶の端末が、最後の悪あがきとして異界の門を開こうとしている。
「キラ、行くよ」
「了解、相棒! 世界を塗り替えちゃおう!」
ユラの極彩と、キラの無彩が空中で混ざり合う。白仙の硝子筆が空を描くと、虹色の軌跡とモノクロの影が重なり、絶対的な境界を創り出した。
「極彩式の城――展開」
領域内では、ユラの描いた絵画が地を固め、キラの彫刻が敵の存在確率を削り取る。ロトスの夢が、敵の意識を永遠の停滞へと誘った。
「此れで……終わり。」
ユラの歌声――絶唱が響き渡る。それは破壊ではなく、再構築の旋律。時計塔を蝕んでいた闇は、一瞬にして数千の極彩式の胡蝶へと姿を変え、春の空へと散っていった。
事態が収束し、夕闇が迫る月の国。ユラは手帳を取り出し、白仙の鉛筆でさらさらと今日の出来事を記していく。
「卒業式は、少し騒がしかったけれど。ティラミスは、変わらず美味しかった」
背後ではロトスが蝶と戯れ、通信機からはサラの「お疲れ様ー!」という能天気な声が響いている。
「ユラ、次はどこへ行く?異邦人達の住む下層階?それとも、もっと遠い銀河?」
キラの問いに、ユラは微かに微笑んだ。
「何処へでも。私達のキャンバスは、まだ……真っ白だから」
手帳に描かれたのは、家族全員が並んでスイーツを囲む、温かな極彩の未来予想図だ。
虚無の残滓が虹色の鱗粉となって月の国の夜空に溶けてから、数日が過ぎた。激戦の舞台となった施設の最奥は、今やユラとキラ、ロトスの絶唱によって塗り替えられ、名もなき芸術家が描いた一点の風景画の様に静まり返っている。クレセントシティの上層に位置する彩色美術館。その一角にある私設サロンで、ユラは静かにティーカップを傾けていた。
「……ふぅ……やっぱり、此処のティラミスが一番落ち着く。」
普段は感情の起伏が乏しく、周囲から静寂の芸術家と畏怖される彼女だが、フォークを動かす手つきには年相応の少女らしい弾みが混じっている。その隣でキラが、楽しげにはしゃいでいた。
「ねえユラ、今の見た? ロトってば、さっきからユラの唇の端についたクリームが気になって、顔を真っ赤にしてるよ。誂っちゃおうか?」
キラが面白そうな事を、思いついたと言わんばかりに話す。ユラは内心で苦笑しつつ、視線を正面に座る青年に向けた。
「ロト、どうかした?」
「えっ!?あ、いや……その、ユラ……あのアトリエでの戦いの後、体調はもう大丈夫なのかなって。無理をしていたから、魔力の逆流が心配で……」
ロトスは、大きな身体を縮める様にして、誠実で過保護な程心配そうに身を乗り出した。彼の背中にある菫色の翅の紋様――闇喰プシュケが、主人の献身的な愛情に呼応する様に淡く明滅している。
「大丈夫、闇喰がノイズを食べてくれたから……今は、とても澄んだ気分。」
ユラがそう答えると、彼女の眼が微かに潤んだ。戦いの中では敵を固定する凍てついた瞳も、今はロトスという境界を映して優しく和らいでいる。
「あらあら、若いお三方で熱心な事。お母さんも混ぜてくれないかしら?」
不意にサロンの入り口から、おっとりとした、しかし抗いがたいオーラを纏った声が響いた。ロトスの母であるミセラが、扇子を片手に優雅に歩み寄ってくる。
「母さん!急に来るなんて……」
「あら、ロトス。可愛い息子と、未来の娘さんの顔を見に来るのがそんなに不思議?派手にお祝いしてもいいのよ?」
ミセラの背後に、パチンと弾けるような小さな泡が浮かぶ。彼女はコミュニケーションモンスターの異名通り、一瞬で場の空気を自らのペースに塗り替えてしまった。更に其の後ろからはステラが、無口な儘、だが隠しきれない親バカな視線を娘達に注いでいる。
「……ユラ、キラ。無事で、良かった」
ステラの隣には、対照的に賑やかなオーラを放つサラがいた。彼女は手に持った、天文観測儀をくるくると回し乍ら娘達に抱きつく。
「もう!私の幻想で、一気にケリをつけてあげようと思ったのに、ロトスくんが、僕達に任せて下さいなんて格好いい事言うから、パパと二人でハラハラし乍ら見てたんだからね?」
「母さん、それは嘘でしょう?実際にはあの子達の絶唱、録音して御祖父様に送らなきゃ!って、撮影の準備に夢中だったじゃない」
キラの突っ込みに、サラは「てへぺろ」とでも言い出しそうな表情で誤魔化す。其処へ、美術館の奥から重厚な足音が響いた。龍神族の現当主、ロインだ。彼は威厳ある表情を崩さないよう努めていたが、孫娘達の姿を見た瞬間、目元がわずかに緩んだ。
「ユラ、キラ……よくやった。幽世の理を乱す虚無を、お前たちの芸術が上書きした。誇りに思う」
「御祖父様、有難う、でも……まだ、終わってない。」
ユラが静かに立ち上がると、彼女の周囲に極彩式の胡蝶達が舞い始めた。其々の色が、次の運命を示唆する様に激しく明動する。
「虚無の核を砕いた時、視えた……あの中にあったのは、誰かの悪意ではなく、この世界の忘れ去られたくないという悲鳴……異邦人達の記憶も、私達の記録も、全てを飲み込もうとする大きな渦が、月の裏側の更に奥、深部で動き出している」
ユラの言葉に、場が静まり返る。学園生活という日常の裏側で、龍神の国と月の国を繋ぐ理が、嘗てない規模で歪み始めていた。
『次は、私達が会いに行かなきゃね。その渦の正体に』
キラの声には、恐怖ではなく、新しいキャンバスを前にした芸術家のような高揚感が混じっている。
「僕も、何処迄も共に行くよ……ユラ、キラ、僕の境界は、君達の翼を守る為にあるから。」
ロトスがユラの手をそっと握る。其の時、美術館の外、月の夜空に巨大な亀裂が走った。それは物理的な破壊ではなく、空が墨絵のように白黒に反転し、再び極彩色に爆発する概念的な変異。
「ふふ、実験材料には事欠かないわ」
セツラが錬金術の触媒を輝かせ、楽しげに笑う。ユラは卓上の白仙の硝子筆を手に取った。
「行きましょう。私達の、新しい物語を描きに」
白銀の龍神たちが空へと舞い上がる。虹色の鱗粉と菫色の鱗、そして銀色の雷光が交錯し、月の国は嘗てない輝きに包まれた。
パラチウム学園の卒業式から数日が過ぎた。月の国の首都を包む風は、春の訪れを告げる柔らかな花の香りを運ぶ。嘗ては感情の起伏が乏しく、周囲から静寂の芸術家と畏怖交じりに呼ばれていたユラは今、中庭の華香植物園のベンチに座り、穏やかに目を細めていた。隣には、彼女の手を優しく握るロトスの姿がある。
「ユラさん、少し疲れたかい?卒業後の諸手続きや、両家への挨拶回りが続いていたから。」
ロトスが心配そうに覗き込むと、ユラは小さく首を振った。その純白の髪が陽光を反射し、真珠の様な輝きを放つ。
「ううん、只……世界が、今迄より、ずっと鮮やかに見えるのが、不思議で」
彼女の眼には今や情報の羅列ではなく、ロトスへの深い愛着と未来への希望が色として映し出されていた。
「ちょっとユラ、惚気けるのは勝手だけど、僕の存在も忘れないでよね?」
ユラの意識の内から、キラの弾む様な声が響く。彼女はユラの影から、ひょっこりと姿を現してユラの隣に並んだ。
「忘れてないよ、キラ。君がいないと、私の絵は完成しないもの」
「分かってるじゃない。此れからは学園っていう枠も外れるんだし、もっと自由に無彩と極彩を混ぜ合わせて、世界を驚かせてあげようよ!」
キラが楽しげに笑うのと同時に、背後の植え込みがガサリと揺れた。其処には、明らかに隠密に失敗している大人達の姿があった。
「……御祖父様、母さん、それに父さん。其処で何をしているの?」
ユラがジト目で問いかけると、白銀の髪を揺らしたロインが、居たたまれなさそうに姿を現した。手には何処かの有名店の最高級ティラミスが入った箱が握られている。
「いや、その……卒業祝いのデザートが、まだ足りないかと思ってな……ユラ、キラ、此れを食べないか?」
「父さんったら……ただ孫娘達のウエディングドレス姿を想像して、感極まって様子を見に来ただけでしょうに。」
サラがロインの様子を見てケラケラと笑う。その隣ではステラが無言の儘、ロトスに対し娘を泣かせたら銀雷を落とすという無言の圧力を、魔眼の微光とともに放っていた。
「……皆さん、相変わらずですね」
ロトスは苦笑し乍らも、その誠実な瞳でステラを真っ向から見返した。その背中には、覚悟を決めた者だけが持つ菫色の紋様が、静かに鼓動している。夕暮れ時、空は藍色と濃紅が混ざり合う、美しいグラデーションに染まっていった。
「ねえロト……私、此れからの生活で、新しい連作を、描きたいと思っているの」
「連作、ですか?」
「ええ、そうなの……タイトルは、境界線の日常……龍神も、異邦人も、闇喰も……皆が笑って、ティラミスを食べられる様な、そんな世界の、断片を描くの」
ユラが空中に円を描くと、其処から極彩色の胡蝶達が一斉に舞い上がり、夕闇の中に光の軌跡を描き出した。キラもまた、それに合わせる様に無彩の蝶を放ち、光と影の幻想的なコントラストを作り出す。その光景は、月の国の高度な科学技術でさえ解析しきれない、純粋な心の具現化だ。
「……ふふふ、素敵なテーマだ……ねえユラさん、僕も其の絵の中に胡蝶樹を植えさせて欲しいな。君が疲れた時、何時でも休める木陰を作る為に」
ロトスがユラの額に優しく口づけを落とすと、二人の周囲に極彩式の城と胡蝶庵が重なり合い、一瞬だけ、この世のものとは思えないほど美しい聖域が出現した。
嘗て感情を持たぬ人形の様だと囁かれた少女は今、愛する者の手を取り、自らの意志で未来を塗り替えていく。龍神達が統治するこの広大な世界において、彼女達の物語はまだ始まったばかりだ。
「さあ、行きましょう。新しい色が、私達を待っているから」
ユラの言葉に応える様に、遠くで龍神達の咆哮が、祝福の聖歌となって響き渡った。空に昇った月は、銀色の光で彼らの歩む道を、何処迄も明るく照らし続けていた。




