Arcanum weavers
某日、月の国にて――
月の国、その表側に位置する高潔なる空の都「カエルム・アルバス」。標高4200m、雲海を遥か眼下に見下ろす孤高の山頂に、その「眼」は鎮座していた。
彗星の天文台。宇宙の過去から未来迄を解析する世界最高峰の研究拠点。夜の帳が下りる頃、天文台の本館ドームは静かに開き、巨大なレンズが深淵なる虚空へと向けられる。
「誤差、0.0003秒、エーテルの流向、定常……ふむ、今夜の星は少しばかり饒舌だね。」
独り言ちたのは此の場所の主であり、星の魔女と謳われるサラ・フォルティア・アルバエレミアであった。
彼女の周囲には、精密な真鍮の歯車が噛み合うアナログ計算機『天文観測儀』が、意志を持つかの様にふわりと浮遊している。175㎝の長身を藍色のローブに包み、白銀の髪を夜風に遊ばせる彼女の姿は、それ自体が一幅の絵画の様に幻想的であった。
「サラ様、お茶が入ったよ。天王星が淹れた、最高級の冷たい日本茶だ」
中性的な少年の姿をした精霊、水銀の髪を持つ水星が、残像を伴う高速移動で彼女の傍らに現れた。其の後ろからは、氷の様に透き通った髪を持つ青年、天王星が、絶対零度の冷気を纏いながら静かに茶器を運んでくる。
「有難う、メル。ウラヌスも……おや、セレスまで?」
小さな真鍮の鎌を手に持った少女、小惑星精霊のセレスが、和菓子の皿を差し出した。
「サラ様、根を詰めすぎは良くありません。この羊羹、ロイン様が以前『これは絶品だ』と仰っていたお店のものです」
「父さんが?其れなら、頂かない訳にはいかないね。」
サラは飄々とした笑みを浮かべ、羊羹を一口運んだ。甘露な味わいが舌の上で解ける。彼女は先天的なサイコパスとしての合理性を持ち乍ら、家族……特に父ロインに対しては盲信的な迄の敬愛を抱いていた。
彼女が今、解析しているのは単なる天体の運行ではない。多元世界からこの月の国へと漂着する『異邦人』達の魂の軌跡。そして彼らが持ち込む「証明不可能な思い出」という名の、不確かな情報の揺らぎであった。
「客観的な事実だけでは、世界は摩耗してしまう。彼らの主観というスパイスがあってこそ、この記録は完成するんだ……おや?」
サラの右眼、黄金に輝く『満月の魔眼』が、運命の糸の縺れを捉えた。同時に、背後の空間が銀色の稲妻と共に爆ぜる。
「……相変わらず、星ばかり見ているのだな。少しは、隣に立つ男を見る努力をしたらどうだ、サラ」
低く磁力を含んだ声。現れたのは、銀の鱗を思わせる色の髪を靡かせた男、ステラ・カリタス・フォルティア・アルバエレミアだ。ステラは、サラより一回り高い195㎝の巨躯を誇る。無口で冷徹。周囲からは『魔眼蒐集局』の冷酷な局長として恐れられている彼だが、サラの前でだけは、その剥き出しの独占欲を隠そうともしない。
「ステラさん……相変わらず、転送の仕方が乱暴ですね~……星霊達が驚いてしまいますよ。」
サラが振り返ると、ステラの周囲に浮遊するカンテラ『雷晶の神灯』が、周囲の影を焼き切るような白光を放っていた。
「驚く暇があるなら、主の警護を厳重にしろと伝えておけ……今夜の因果は、酷く濁っている。」
ステラの瞳の奥、幾重にも重なる紋様が刻まれた『銀龍の魔眼』が不気味に明滅する。彼は現在、世界各地で暴走の兆しを見せる魔眼の回収と、それらを悪用する者達の排除を任務としていた。
其の彼がわざわざ天文台まで足を運んだという事は、事態が『魔眼蒐集局』の手に負える範囲を超えつつある事を意味していた。
「因果の濁り……私の観測でも、ノヴァ・ゲート・テラス付近のエーテル濃度が異常値を叩き出していますよ。まるで、世界が自ら記録を拒絶している様な、そんな拒絶反応です」
サラの言葉にステラは無言で歩み寄り、彼女の肩を強く抱き寄せた。サラは「おや、大胆ですね」と軽く受け流すが、ステラの指先が微かに震えている事に気づく。
「……サラ、彗星の魔眼を貸せ。私の銀龍の魔眼と同期させれば、その『濁り』の正体が見えるはずだ」
「いいですよ。君の独占欲を満足させる為なら、私の瞳くらい安いものです」
サラが左眼の『彗星の魔眼』を解放する。ステラは彼女の顔を両手で挟み、至近距離で視線を交わらせた。
幻想行使:魔眼装填――[銀龍] × [彗星]
二人の魔力が激しく共鳴し、天文台のドーム内に銀色の稲妻と藍色の星屑が渦巻く。視界が反転し、物理的な距離を超えた「深淵」が露わになる。
其処に見えたのは、月の裏側『ノクス・アビス』の境界に蠢く、巨大な「黒い靄」だった。只の闇ではない。それは、世界から排斥された悪意、破壊衝動、そして「忘れ去られた絶望」の集合体。
「……『魔性』だね。それも、個を確立した上級個体が含まれている」
サラの冷静な分析に、ステラの瞳に冷たい怒りが宿る。
「奴ら、世界の記録を書き換えようとしているな。過去を喰らい、未来を自らの色に染め上げるつもりか」
「放っておけば、月の国の均衡が崩れる……ステラ、デートの行き先が決まりましたね。」
サラ達の行き先は、不夜の迷宮――ノクス・アビスだ。
月の裏側、サイバーシティ『ノクス・アビス』。其処は、銀色のカエルム・アルバスとは対極の、ネオンとホログラムが煌めく混沌の都であった。
サラとステラは、其々の精鋭を率いてこの地に降り立った。サラの周囲には、太陽と火星が守護の陣を敷き、ステラの背後には和装を纏った『風雷乙女』達が、抜身の日本刀を手に控えている。
「ここだね。エーテルの腐敗が最も進んでいるポイントは」
サラが『天文観測儀』を操作すると、路地裏の空間が歪み、ドロリとした黒い液体の様なものが溢れ出してきた。それは瞬時に形を成し、聞き取れない独自の言葉――悪性情報のノイズを撒き散らす影の軍勢へと変貌する。
『■■……ア……ル……バ……エ……レ……ミ……ア……。』
「私の名を知っているのかい? 光栄だね。でも、生憎サインは受け付けていないんだ」
サラが右手を掲げる。
「火星、露払いをお願い」
褐色の巨漢、火星が咆哮と共に踏み出した。酸化鉄の色をした大剣が一振りされる度に、空間の重力が歪み、影の軍勢が圧殺されていく。然し影は無限に湧き出しており、其れ処か倒された影達が互いに融合し、より巨大で歪な「門」を形成し始めた。
「……来るぞ、サラ。私の後ろにいろ」
ステラが前に出る。彼の右腕に刻まれた『銀龍の王冠』の紋章が、蒼白い放電を開始した。
「神鳴――我が視界に収まる不浄を、根こそぎ焼き切れ」
ステラの魔眼が、影の核を捉える。天を突く銀色の稲妻が、地下都市のネオンさえも掻き消す光量で降り注いだ。爆音と共に影の軍勢が蒸発し、路地裏には焦げ付いたエーテルの臭いだけが残る。
だが、爆煙の向こう側から、一体の「個体」が静かに歩み寄ってきた。それは、黒いボロボロの法衣を纏い、顔を不気味な仮面で隠した魔性。その手には、不吉な輝きを放つ「壊れた時計」が握られていた。
「龍神の……記録者よ。お前達の『正史』は、此処で潰える」
魔性が発した言葉は、直接脳に響く精神汚染の響きを持っていた。
サラは眉を潜める。
「その時計……成程、君達が狙っているのは、この世界の『過去の収束点』か。父さん達が嘗て封じた筈の、古い因縁を掘り返そうとしているんだね」
「サラ、奴の背後を見ろ。」
ステラが鋭く指摘する。魔性の背後の空間が割れ、其処から「鏡合わせ」の様な光景が覗いていた。其れは、嘗てロインとセツラが対峙した『異界の戦場』の記憶。魔性は、現在と過去を無理やり連結させ、世界の因果律をショートさせようとしていたのだ。
「これは少し、手に余るかもしれないね……オフィウクス、手を貸してくれるかい?」
サラの左眼の縁に、星の塵の様な紋様が浮かび上がる。彼女の闇喰、オフィウクスが影の中から姿を現した。同様にステラの影からも、銀色の光を纏った闇喰バロールが顕現する。
闇喰達は主達の負の感情を吸収し、その力を極限まで安定させる触媒となる。サラのサイコパス的合理性と、ステラの苛烈な独占欲。相容れない二つの衝動が、闇喰を介して一つの破壊の旋律へと編み上げられていく。
「ステラ、準備は良いですか? 宇宙の理を、少しだけ書き換えさせて貰うよ」
「……ああ。お前の歌に合わせて、私はこの世界を裁く」
サラが深く息を吸い、喉を震わせる。彗星は深淵を往き、星々の記憶を刻む。彼女の歌声は、物理的な空気を震わせるのではなく、世界の「法則」そのものを震わせた。周囲の景色が塗り替えられていく。ネオンの街並みは消え、其処には無数の星々が瞬く『領域』が展開された。
ステラもまた、其の旋律に呼応し自身の絶唱を重ねる。銀の雷霆は因果を断ち、永劫の静寂を齎す。二人の歌声が重なった瞬間、月の裏側全域に、銀と藍の巨大な魔法陣が展開された。魔性が持つ『壊れた時計』が、過負荷により亀裂を走らせる。
「馬鹿な……!?二人の龍神の共鳴が、此れ程の『理』を上書きするなど……!」
「おや、分からないのかい?私達は観測者だ――記録される側の君達が、記録者に逆らうだなんて、100億光年早いよ」
サラが指を鳴らす。背後に浮かぶ『星月の王冠』から、銀河の渦の様な光環が放たれた。其れは魔性の悪性情報を、一文字残らず浄化し純粋なエーテルへと変換していく。ステラは、手に生成した『銀雷槍』を投擲した。プラズマの刃が空間ごと魔性を貫き、存在確率を零へと叩き込む。
「……消え失せろ。私のサラの視界に、お前の様な不浄は相応しくない」
火を見るより明らかな圧倒的な破壊。魔性は断末魔を上げる暇もなく、銀色の雷光の中に霧散した。
戦闘が終わり、ノクス・アビスには再びサイバーパンクな静寂が戻ってきた。サラはふう、と小さく吐息をつき、周囲に浮遊していた星霊達を還していく。
「お疲れ様、皆。セレス、戻ったらまた父様の好きな和菓子を一緒に食べよう」
「はい、サラ様!楽しみにしております!」
セレス達が消え、その場にはサラとステラだけが残された。ステラは、まだ熱を帯びた手でサラの手を握りしめた。
「……無茶をしたな。絶唱の負荷は、闇喰がいても完全には相殺できない筈だ」
「大丈夫ですよ。私には、君という最高の『安全装置』がついていますからね」
サラは微笑み、ステラの胸元に頭を預けた。彼女の圧倒的な知性は、既に此の事件が終わりではなく始まりである事を理解していた。
「ステラさん……魔性が狙っていたのは、単なる過去の改変ではありません……彼らは、『匣』を狙っています。」
ステラの手が、一瞬だけ止まる。『匣』。それは龍神族の魂の根幹が刻まれた再生の源。そして禁忌の知識が封印された、世界で最も危険なブラックボックスだ。
「……ロイン様やセツラ様が守ってきた、あの匣か」
「そう。今回の魔性の出現は、その封印を外側から叩くための、ほんの小手調べに過ぎない。……これから、もっと騒がしくなるよ。月の国も、龍神の国も」
サラは夜空を見上げた。其処には、自分たちの故郷である美しい月が輝いている。然し其の輝きの中に、微かな赤い光が混じっているのを、彼女の魔眼は見逃さなかった。
「戦いへの幕が上がった、というわけだね」
「……何が来ようと、私はお前を守る。其の為だけに、私はこの魔眼を持っているのだからな」
ステラはサラを強く抱きしめ、二人の影は長い夜の中に溶けていった。彗星の天文台では、今日もアストロラビウムが静かに時を刻んでいる。新たな異邦人の魂が、また一つ月の国へと漂着しようとしていた。それは未来へと続く「記録」の、ほんの一行に過ぎないのだ。
月の国の表側、クレセントシティの上層に位置する「アウラム・ソリス」。その浮遊宮殿のバルコニーに、サラ・フォルティア・アルバエレミアは立っていた。彼女の周囲には、精密な真鍮の歯車と光のルーンが明滅する『天文観測儀』が静かに滞空し、宇宙の微細な震えを記録し続けている。
「……観測データにノイズ。星の運行に、泥の様な悪性情報”が混じっているね」
サラが独りごちると、影の中から銀色の光が収束しステラが姿を現した。彼は無口に、親愛の情を込めてサラの肩に手を置く。彼の右眼、数十の魔眼を統合する『銀龍の魔眼』が、空間の歪みを冷徹に捉えていた。
「サラ、準備はいいか。敵は『世界の記憶』を喰らおうとしている」
ステラの短く重い言葉に、サラは不敵な笑みを浮かべる。
「勿論ですとも。私達の記録を汚す不届き者には、天体の裁定を下さないとね」
その時、二人の背後の空間が、薄紫色の霧と共に大きく揺らいだ。現世と幽世の境界が融解し、そこから威厳に満ちた、だが何処か懐かしい気配が溢れ出す。
「……遅くなったな、サラ、ステラ。」
霧の中から歩み出たのは、最高位の術者、ロイン・フォルティア・アルバエレミア。その隣には、瞳に飽くなき知的好奇心を宿した美しき錬金術師、セツラが並んでいる。
「と、父さん……!?」
サラは先程迄の「星の魔女」としての泰然自若とした態度を一変させ、目に見えて挙動不審になった。指先が泳いでしまい視線が定まらない。
「あ、あの、其の、和菓子を用意して……いえ、今は作戦の最中で、ええと……。」
「落ち着け、サラ。」
ロインが不器用な手つきでサラの頭を撫でる。背後には闇喰オオクニヌシの紋様が静かに脈動し、彼が操る幽界の膨大な負荷を肩代わりしていた。
「さて、話はこれ位にして、早速本題に戻りましょうか。」
セツラが伝令の杖を軽く振る。彼女の周囲には、小さな月の錬金小人達が忙しなく動き回り、戦場のエーテル濃度を測定し始めていた。
「あの子達が展開している悪性情報の結界、中々興味深い組成ですね。私の『錬成』で、原子レベルまで解体してあげましょう」
戦場は、月の裏側の境界線「ノヴァ・ゲート・テラス」へと移る。其処には、実体を持たない黒い靄――『魔性』の大群が押し寄せていた。彼らは周囲の特殊文字を撒き散らし、世界の法則をバグの様に書き換え、異邦人達の思い出や建物の歴史を無へと変換していく。
「これ以上の汚染は、監査官として見過ごせませんね。」
黄金の光と共に現れたのは、金龍神のハリーだ。彼は愛用のメモ帳に素早くペンを走らせる。
「非効率な破壊活動です。最短ルートで消去しましょう」
ハリーの横では、黄龍神のカイトが献身的に盾を構え、仲間達に強力な加護を付与していく。
「僕が皆の土台になる。だから、思い切りやってくれ」
「ふふ、可愛いもの達を傷つける悪い子には、お仕置きだよ!」
黄龍神のハルヒが、自慢のコレクションから取り出した魔導具の可愛いぬいぐるみを投げつけると、それが巨大な罠へと変貌し、魔性達を絡め取った。
「あ、あの……私の、人形達も……手伝います……!」
影の中から、黒龍神カゲツが消え入りそうな声で呟く。然し彼女が操る人形達は、カゲツの繊細な指の動きに合わせ、魔性の核を正確に貫く暗殺者の動きを見せた。
「ガハハ!重力が足りねえなぁ!」
海王星の精霊『ネプチューヌス』を伴ったサラが、戦場を蹂躙する。彼女の左眼、『彗星の魔眼』が輝く度、魔性たちの足元に「凶運」が具現化し、地面が崩れ、自身の放った攻撃が自らに当たるという不条理な連鎖が巻き起こる。
「ロインさん、左翼の空間密度が不安定です。調整をお願いしますね」
「承知した。セツラ」
二人の連携は、正に神業だった。ロインが『精霊杖』を地面に突き立てると、満開の『死垂れ桜』が戦場に咲き誇る。その花弁一枚一枚が、魔性達の生命力を吸い取り、幽界へと強制送還する門となる。
「去れ。此処は貴公らの居るべき場所ではない」
対するセツラは、『月のタロット』から「皇帝」と「技」のカードを抜いた。
「ふふふ……等価交換の法則を無視した存在には、相応の報いを与えましょう。」
彼女の錬金術が、魔性達が汚染した大気を純粋なエーテルへと再錬成し、味方の魔力を爆発的に回復させる。だが魔性の奥底から、一際巨大な影が立ち上がった。
『上級魔性』
其れは数万の悪意が融合した、知性を持つ混沌。その言葉は精神を蝕むノイズとなり、月の国のバリアさえも溶解させ始める。
「……記録其の物を消そうというのか。それは、私の父が守ってきた世界だ」
サラの声から、軽薄な色が消えた。彼女の瞳に、星の魔女としての苛烈な炎が宿る。
「ステラ、やりましょう。」
「ああ、全てを消し飛ばそう。」
二人の声が重なる。サラは月の竪琴を奏で、ステラは雷晶の神灯を掲げた。其れは、世界を再定義する為の儀式だ。サラの歌声が響き渡る。
『聖歌・絶唱――アストラル・レクイエム』
その歌は宇宙の運行其の物。聴く者の運勢を固定し、存在の是非を問う。次の瞬間、戦場に二体の巨大な影が降臨した。一体は、深藍と紅の鱗に銀河を纏う、体長85mの星々の龍神だ。サラの真の姿だ。翼を羽ばたかせる度、周囲の空間が強制的に宇宙空間へと塗り替えられていく。
もう一体は、純銀の鱗を蒼白い稲妻が覆う、体長90mの雷の支配者だ。ステラが龍神となった姿である。その無数の瞳から放たれる神鳴は、上級魔性の構成情報を分子レベルで焼き切っていく。
「これでおしまいよ。宇宙の塵に還りなさい」
龍神姿のサラの尾の先端に集まった黄道十二星座の光が、極大のエネルギー体となり上級魔性の核を直撃した。ステラの銀雷槍が空間ごと敵を串刺しにし、ロインの幽界の門が其の残滓さえも許さず深淵へと引きずり込んだ。戦いは終わり悪性情報は浄化され、月の国に再び穏やかな銀の光が戻る。
「……ふう、お疲れ様、サラ。相変わらずお父様の前だと借りてきた猫みたいね」
セツラが、元の姿に戻ったサラを誂う様に笑う。
「もう、母さん!茶化さないでください!」
サラは顔を真っ赤にし乍ら抗議するが、その表情には充実感が滲んでいた。ロインは、そんな娘の姿を眩しそうに見つめ乍ら、懐からそっと小さな包みを取り出した。
「サラ、戦いが終わったら一緒に食べようと……限定の、和菓子を買っておいた」
「父さん……!はい、是非!」
サラの目が輝く。其れを見て、ステラもまた僅かに口角を上げた。然しサラの『天文観測儀』が、一つの不穏なデータを弾き出していた。上級魔性が消え去る間際に残した、未知の座標。それは月の国でも龍神の国でもない、更なる多元世界の深淵を示している。
「……観測と記録は、まだ終わらないみたいだね」
サラは空を見上げた。其処には、まだ見ぬ世界への道標が、彗星の様に尾を引いて輝いていた。
月の国、クレセントシティの上層に位置する「彗星の天文台」。その最上階にあるテラスでは、夜空を切り取った様な深藍の衣を纏う女性、サラ・フォルティア・アルバエレミアが、浮遊する精密機器天文観測儀の数値を静かに追っていた。
「重力波の乱れ、エーテルの偏向……ステラさん、観測域に微かな『ノイズ』が混じっている。」
彼女の傍らに立つステラは無口に頷き、其の銀色の瞳に宿る銀龍の魔眼を細めて虚空を見つめた。
「……魔性の残滓だ。記録から漏れた負の情報が、境界を侵食しようとしている」
サラはふっと不敵な笑みを浮かべた。その右眼、|満月の魔眼が未来の吉凶を捉え、左の|彗星の魔眼が災厄の種を特定する。
「私の計算によれば、今夜の星位は『裁定』に最適よ。お父様たちが新作のスイーツを楽しんでいる間に、少し片付けてしまいましょうか」
月の国の裏側、ノクス・アビス。ネオンの光が霧に濡れるサイバーシティの一角に、上級魔性たちが集結していた。彼らは実体を持たぬ黒い靄であり、周囲には解読不能な特殊文字が蠢いている。
「……龍神の記録……消去……我ら……混沌……」
魔性達が発する精神を蝕む響きが、都市のシステムを汚染していく。守護を司る魔法局や魔眼蒐集局の防衛網が、予期せぬ悪性情報の過負荷により火花を散らした。だが、その時だった。逃げ惑う異邦人達の群れの中から、一人の老人が小さな古びた日記帳を抱えて立ち止まった。
「これは……亡き妻と此の街で過ごした、大切な只の思い出だ。お前たちのような化け物に、上書きさせてたまるか!」
龍神のシステムが客観的事実ではないとして除外していた、主観的な感情。その揺らぎが、魔性の論理回路を一時的に硬直させる。
「素晴らしいわ、その意志。それこそが、私たちが観測し続ける価値のある『光』よ」
空から舞い降りたのは、銀河の翼を広げたサラであった。彼女の周囲には、彗星銀河団の精霊たちが、それぞれの星の輝きを放ち乍ら整列している。
「太陽、道を照らして。火星、不純物を断て!」
サラの号令と共に、黄金の騎士と紅蓮の武人が魔性の群れへと突撃する。一方で、ステラは背後に銀龍の王冠を顕現させ、周囲を絶対的な電磁領域へと変貌させた。
「……逃がさない。神鳴、執行」
天から降り注ぐ銀色の巨大な稲妻が、魔性の影を焼き切る。しかし、上級魔性は次々と融合し、巨大な悪意の渦となって月の国の基幹システムへと手を伸ばした。
「サラ、例の術式を。お前と私の闇喰で、その境界を繋げる」
ステラの言葉に、サラは深く頷いた。二人の身体から、黒衣を纏った守護者――アストライオスとメデューサが姿を現す。彼らは龍神の暴走を抑える為の楔であり、同時に負のエネルギーを浄化する唯一の器だ。そしてサラが、徐ろに歌い始める。其れは宇宙の運行を支配する聖歌だ。ステラが其れに唱和する。それは感覚を麻痺させ、存在を消滅させる絶唱だ。
「「闇を喰らい、星を導け――!」」
二人の歌声が重なった瞬間、月の国全土に銀色と深藍の光波が広がった。魔性達の構成要素である悪性情報は、闇喰の力によって飲み込まれ、純粋なエーテルへと還元されていく。汚染されていた記録は、異邦人たちの「温かな記憶」を核として再構築され、より強固な世界の礎となった。
数日後。戦いの傷跡は、月の国の高度な建築技術と、セツラの錬金術による修復によって瞬く間に消えていた。カエルム・アルバスの白亜の宮殿では、賑やかなお茶会が開かれていた。
「御祖父様、この御菓子、凄く美味しい。」
曾孫のユラとキラに囲まれ、ロインは目尻を下げて新作のミルフィーユを口に運んでいる。嘗ての厳格な王の姿は何処へやら、孫たちの「あーん」に翻弄される不器用な祖父の姿が其処にはあった。
「ロインさん、あまり甘いものばかり与えてはいけませんよ。虫歯になったら、私が『哲学の短剣』で概念ごと削らなければいけませんから」
妻のセツラが呆れた様に笑い乍ら、母のライラと新種の薬草についての議論を再開する。傍らでは、ロインの両親であるアキラとシルトが、異世界のチェスに興じるアオトを眺めていた。
「シルト、私達の子供達も、随分と賑やかな家族を築いたものね」
「ああ……災厄を越える度、この絆は強くなる。龍神の寿命は長いが、この一瞬の輝きこそが永遠だ」
再び、彗星の天文台。サラはテラスの縁に座り、撮ったばかりの天体写真を眺めていた。其処には星々の輝きと共に、笑い合う家族の姿が、魔術的な現像技術によって鮮明に写し出されていた。ステラが静かに歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろす。
「サラ。記録は終わったか」
「はい、観測記録や思い出も、全て私の『匣』に収めました。いつか私達が星の塵になっても、此の時間は誰かの光になります」
ステラは嘗て彼女に譲った「彗星の魔眼」を宿すサラの左眼を、愛おしそうに見つめた。言葉を介さずとも、二人の間には銀龍神としての深い独占欲と、それを上回る献身的な愛が通い合っている。
「ステラさん、次の観測対象は決まっていますか?」
「……お前の淹れる、少し苦い日本茶の温度だ」
「ふふ、其れは観測ではなくて、只の我儘でありませんか?」
月の国の銀色の月は、今日も優しく彼らを照らしている。サラ達の見聞録。其れは世界の真実を記す冷徹な書物であると同時に、愛する家族と過ごす日々を綴った、世界で最も温かな記憶でもある。新たな星が生まれる度、新たな思い出が誰かの心に刻まれる度に物語は続くのだった。
激戦から数週間。月の国にて――
月の国「クレセントシティ」は、嘗ての喧騒を取り戻していた。上級魔性の侵食によって乱れた魔力系統は、魔法局の迅速な対応と、セツラの錬金術による空間補強によって、以前よりも強固な安定を見せている。
「ステラさんったら、またそんな所に隠して……整理する身にもなって欲しいですよ。」
魔眼蒐集局の最深部、数多の瞳が保存液の中で瞬く回廊で、サラは呆れた様に溜息をついた。ステラが個人的な研究という名の悪戯の為に、回収したばかりの追跡の魔眼が入った入れ物を、サラのティーカップの横にこっそり置いていたのだ。
「……お前の反応を観測したかっただけだ。其れに其の眼はお前に似て、好奇心が強い。」
ステラは無表情の儘、銀色の髪をさらりと揺らしてサラの隣に座った。彼は無口だがサラを誂う事に関しては、銀龍神の全演算能力を注ぎ込んでいる節がある。
「私の反応?驚いてお茶をこぼす姿が見たかったのでしょうか。残念ですが、私の天文観測儀が、三秒前に魔力変動を検知していましたよ?」
サラは飄々と笑い、空中に浮かぶ観測儀を指先で弾いた。ステラは僅かに悔しそうに目を細めると、不意にサラの肩を引き寄せた。
「……次は、機械でも予知できない不意打ちを考える」
「ふふふ、楽しみにしておきますね。独占欲の強い銀の支配者さん?」
一方、首都ウィンド・グローリーの隠れ家的なカフェでは、龍神族の重鎮達が顔を揃えていた。
「ロイン、それは……新作のハイカカオ・ケーキか?」
ロイン父シルトが、目の前に置かれた漆黒のケーキを見て眉を潜めた。ロインは真剣な面持ちで、フォークを握りしめている。
「父上、これは修行です。ユラとキラが最近、『大人の味』に興味を持ち始めたと言いまして。私が先に毒味……いえ、味の解析をしておかねば、孫達の繊細な舌に障ります」
「ロイン、それは単に君がホラー映画の刺激を味覚でも再現したいだけじゃないのかい?」
セツラの父アオトが、チェスボードを片手に苦笑する。ロインは無言で一切れを口に運んだ。直後、彼の背後に浮かぶ幽界の王冠が、苦悶のあまり激しく明滅した。
「……幽世の深淵を……感じます。これは、孫達にはまだ早い……全て私が、責任を持って完食しましょう。」
「ふふ、素直に『甘いだけじゃ物足りなくなった』って言えば宜しいのに。」
セツラが、母のライラと共に笑い乍ら現れた。彼女の手には、錬成されたばかりの「黄金の蜂蜜酒」が握られている。
「ライラ母様と相談して、味覚の増幅剤を作ってみたの。これ、ロインのケーキにかけると、更に『深淵』が見えるわよ?」
「セツラ、やめなさい。夫を廃人にする気か」
ライラのツッコミが入り、カフェには和やかな笑い声が響いた。龍神としての威厳は何処へやら、其処にあるのは、どこにでもあり乍らも少しだけ規格外な家族の風景だった。
天文台のテラスでは、サラの精霊たちが思い思いの時間を過ごしていた。天王星は、主のために最高級の冷たい日本茶を淹れ、冥王星は、サラの影に隠れている友人カゲツの人形と、内緒話に花を咲かせている。
「カゲツ、今日はサラ様に話しかけないの?」
冥王星が尋ねると、カゲツの操る精巧な少女の人形が、カチカチと口を動かした。
『サラは今、ステラと良い雰囲気だ。邪魔をすると、銀色の稲妻に焼かれる……』
その様子を遠くから眺めていたのは、黒龍神のキルトと蒼龍神のトゥウだ。二人は最新の機動兵器の設計図を広げながら、昨日の戦いのデータを反芻していた。
「トゥウ、昨日のサラの絶唱時の魔力出力、計算が合わない。理論値を15%上回っている」
「キルト、それは『絆』とかいう不確定要素のせいだろう。俺達の設計に、あいつらの感情を組み込むのは至難の業だ」
「それでも、組み込む価値はある。世界を救ったのは、俺たちの兵器じゃなく、あいつらの『非合理な愛』だったからな」
夜が更け、月の国に静寂が訪れる頃。サラは独り、匣を開いた。其処には戦いの公式記録の横に、今日食べたケーキの味や娘達の笑い声、ステラの不器用な贈り物の事が、緻密な星図と共に記されている。
「客観的真実なんて、只の骨組みに過ぎないさ。」
サラはペンを置き、窓の外に広がる銀色の夜景を見つめた。異邦人達が持ち込んだ主観的な思い出。それが龍神の冷徹な記録に血を通わせ、世界をより鮮やかに彩っていく。
「さて、明日はキラとユラを連れて、彗星の天文台で星空観測教室を開く約束だったね……あ、ステラさん、また私の影に魔眼を仕込んだでしょう?瞬きの回数でバレバレですよ」
背後の闇から、銀色の光がふわりと揺れた。
「……チッ……やはり、お前は観測し甲斐がある。」
二人の穏やかな笑い声が、星の瞬きの中に溶けていく。月の国は明日もまた、美しく騒がしい一日を迎えるだろう。
更に後日――
月の国「カエルム・アルバス」の最外郭。其処には、龍神族の居住区と異邦人の居住区が交差する、名もなき星降る丘がある。ある穏やかな午後の事。サラとステラ、そして愛娘のユラとキラは、珍しく家族水入らずのピクニックを楽しんでいた。
「母さん、見て、あのお花、星の形をしてる。」
幼いユラが指差したのは、セツラの錬金術が偶発的に生んだとされる月光草。キラもその隣で、小さな観測儀を器用に操りながら目を輝かせている。
「本当ね。今日はエーテルの流れが穏やかだから、幻想が形を成しやすいのかもしれないわ」
サラが特製の和菓子を広げようとした、その時だった。空間の密度が、一瞬だけ歪んだ。丘の上の大きな一本桜の影から、見慣れない服を着た少年がひょっこりと顔を出した。彼の周囲には月の国の技術とも、龍神の幻想とも異なる、淡い水色の粒子が漂っている。
「……おや、計算にない座標に出たな。此処は、銀の月が支配する座標系か?」
少年は手に持った奇妙な「本」を閉じると、サラたちを見て丁寧に一礼した。ステラは即座に銀龍の魔眼を装填したが、サラがその手制止する。
「待ってください、ステラさん。彼からは悪意も魔性の匂いもしません……只、酷く遠い場所から、海を渡ってきた様な懐かしい風を感じるんです」
サラは飄々と微笑み、少年に向かって手招きした。
「迷子の観測者さん、丁度お茶の時間なんだ。龍神の国の和菓子、食べていかない?」
少年は、サラのサイコパス的な合理性の裏にある、純粋な好奇心を見抜いたのか、毒気を感じさせない足取りでレジャーシートの端に座った。
「僕は、世界の記憶を渡り歩く旅人なんだ。君達が此の世界の『記録者』だね? 龍神族の事は、古い叙事詩で読んだ事がある」
「……旅人か。随分と不安定な存在だな」
ステラが、無愛想乍らも彼に冷たい日本茶を淹れて差し出す。天王星が淹れた、絶対零度の静寂を宿すお茶だ。少年は一口啜り、驚いた様に目を丸くした。
「……美味しい。冷たいのに、魂が温まるようだ。此れが此の世界の『愛』の味かい?」
「ふふ、其れは私の旦那様の『独占欲』という、スパイスが効いているからさ。」
サラの冗談に、ステラは僅かに顔を背けた。子供達は、この不思議な客人に興味津々だった。ユラは自身が描いたステラとサラと龍の姿の自分達の絵を差し出し、キラは小さな星屑の結晶――星月の欠片を彼の手の平に置いた。
「これ、あげる。迷子にならない為のお守り」
少年の瞳が、一瞬だけ銀色に潤んだ。
「……有難う……僕の住む場所では、感情はデータとして処理される事が多いけれど。君たちの贈り物は、僕の『本』には書き切れないほどの重みがある」
彼は立ち上がり、お礼にと小さな銀色の羽根をユラ達に手渡した。「此れは、僕の世界の『可能性』の欠片だ。君達が何時か、此の月を飛び越えて別の宇宙を見たいと願った時、道標になるだろう」
「サラ……君達が刻む記録は、この多元宇宙の中でも一際美しく輝いている。何時か、僕の匣と君の匣が共鳴する日が来るかもしれないね」
少年がそう言い残すと、桜の花弁が一陣の風と共に舞い上がった。次の瞬間、丘の上にはサラ達家族と、食べかけの和菓子だけが残されていた。
「……行っちゃった……。」
サラは、ユラが持つ銀色の羽根を優しく撫でた。天文観測儀が示す座標データは、既に消滅している。だが、彼女の心――領域の中にある「匣」には、今の出会いが鮮明な色彩を持って記録されていた。
「ステラさん。今の出会い、どう思いますか?」
「……非合理的だが、悪くない。あいつの淹れてくれた茶の感想も、後で記録しておけ……あのお茶、私が淹れたものよりも少しだけ評価が高かった気がする」
「おや、嫉妬ですか? 可愛い所がありますね、銀の王様」
その夜、サラが撮った家族写真の端には、薄っすらと青い光の粒子が写り込んでいた。龍神達が観測するのは、確定した事実だけではない。時折訪れる、こんな不思議な出会いという名の空白。それこそが、彼女達の永遠の生を彩る最高の調味料なのだ。
後日談【銀河を綴る、永遠のティータイム】
某日、月の国にて――
月の国・クレセントシティ。嘗て上級魔性・特異点事変という、世界の理其の物を塗り替えようとした大戦の傷跡は、今や銀色の建材と清浄なエーテルの霧によって覆い隠されていた。
標高4200m、宇宙に最も近い彗星の天文台。その最上階にあるテラスでは、白銀の髪を靡かせた一人の龍神が、手元の精密機器を弄んでいた。
「……ふむ、今日の因果律の揺らぎは1.02✕10{-12}。誤差の範囲内、つまりは退屈な程平和という事だね」
サラは、周囲に浮遊する天文観測儀を指先で弾いた。彼女の隣には、彫刻の様に整った顔立ちを崩さない銀髪の男、ステラが腰掛けている。彼は無言の儘、サラの側頭部に手を伸ばした。
「あ、また勝手につけましたね?」
サラが苦笑し乍ら触れたのは、ステラが自身の魔力を結晶化させて作った銀龍の魔眼の髪飾りだ。其れはサラが何処へ行こうともステラの視線を共有し、彼女を保護する為の独占欲の結晶だった。
「……お前が予測不能な動きをするのが悪い。」
ステラは一切の悪びれもなく、淡々と告げた。
「観測対象は、固定するに限る。それが私の安寧だ」
「相変わらずの重たさですね。でも、君のそういう所、嫌いではありませんよ」
サラは特製のおはぎを口に運び、その甘さに目を細めた。テラスの下では、二人の娘であるユラとキラが、小さな翼を羽ばたかせて追いかけっこをしている。彼女達が笑う度、空気中のエーテルが星屑の様に、煌めいた平和を具現化していた。其処へ、重厚な足音と共にロインが現れた。高級スイーツ店の紙袋を抱え、少しだけ挙動不審な様子で立っていた。
「サラ、その……新作の銀河羊羹が手に入ったのだが、共にどうだ?」
「父さん!」
サラの表情が一変する。其れ迄の飄々とした空気が霧散し、盲信的な尊敬の念が瞳に宿る。
「有難う御座います。丁度お茶を淹れようと思っていた所です」
「……義父上、孫への献上が先ではないのか?」
ステラが皮肉めいた視線を向けると、ロインは僅かに視線を泳がせた。
「……ユラとキラには、既に個別に用意してある。これは、娘との観測記録の為の時間だ」
ロインは不器用な口実を作りながら、サラの隣に座った。嘗て、母セツラの失踪を巡って生じた溝は、今や甘いものと家族への執着という共通項によって埋められつつある。
「ねえ、父さん。母さんはまた研究室に籠もっているのですか?」
「ああ。今は星屑から人工生命を錬成するとかで、黄金十字秘局の連中と議論を戦わせている……止めても無駄なのは、君も知っているだろう?」
「ふふ、血は争えないですね。」
サラは空を見上げた。嘗て戦火に焼かれた空には、今や美しい銀河が流れている。
宴も酣――ユラとキラがロインの膝の上で眠りに落ちた頃、サラはふと自身の内側にある匣に意識を向けた。其処には大戦の記録と共に、たった一つだけ未解決の事象が記されていた。其れは、大戦の果てに、消滅した筈の特異点の残滓。物理法則では説明のつかない、純粋な悪意の欠片だ。
「ステラさん、君も感じているでしょう?あの時、私達が切り捨てた可能性の響きを」
ステラはサラの肩を抱き寄せ、彼女の右眼――満月の魔眼に自身の銀色の雷光を同期させた。
「……残滓に過ぎない。だが――もしそれが再び形を成そうとするなら、私の魔眼が其の因果ごと焼き切るだけだ」
「そうですね……でも、私はそれを裁定するのではなくて……いつか記録したいです。彼らがなぜ、あそこ迄して世界を否定したかったのかを……。」
サラの言葉に、ステラは小さく溜息をついた。
「……お前は、どこまでいっても観測者だな。だが、その隣に座る権利は私だけのものだ、忘れるな」
「わかっていますよ。君は私の銀河の重力なんですから」
夜が深まる。月の裏側・ノクス・アビスのネオンが遠くで瞬き、異邦人達が奏でる音楽が微かに風に乗って届く。サラは立ち上がり、テラスの端に立った。天文観測儀が高速で回転し、未来の座標を演算し始める。
「父さん、ステラさん……私は決めました。この平和をただ享受するのではなく、次の世代へ繋ぐ為の楔を打ち込みにいきます」
彼女の背後で、深藍と紅の鱗が月光を反射して輝く。龍神の姿を、一瞬だけ幻視させたサラは不敵に笑った。
「さあ、観測を続けようか。次はどんな不合理な愛が、此の宇宙を揺らしてくれるのかな?」
其の瞳には――彗星の如き先見の光と、家族への執着、未知への飽くなき知的好奇心が混ざり合い、新たな運命の糸を紡ぎ出していた。
月の国の首都、ウィンド・グローリー。白く輝く高層ビル群が雲を突き抜け、風の力を受けた浮遊建築物が優雅に空を舞うこの都市の片隅に、知る人ぞ知る和菓子店はある。
その奥まった一室で、ロインが彫像のように動かず、深刻な面持ちで湯呑みを見つめていた。嘗て幽世の理を束ね、白龍族の王として君臨した男である。その威厳に満ちた佇まいは、今なお周囲を威圧するに十分だったが、今の彼の悩みは国家の存亡でも世界の均衡でもなかった。
「……セツラ。単刀直入に聞こう。私は、ユラとキラに怖がられているだろうか」
低く、心地よく響くバリトン。だが其の声は微かに震えている。向かいに座り、色鮮やかな果物タルトを口に運んでいた妻、セツラは、夫の唐突な問いに目を丸くした。
「あら、急にどうしたのです? ロインさん。あの子達は君のことが大好きですよ?」
「然し、先日の事だ。私が二人の背後に立った際、ユラは持っていた玩具を落とし、キラは私の顔を見て三分間も硬直していた……やはり、私の幽界から漏れ出る気配が、幼い彼女達には禍々しすぎるのではないだろうか」
ロインは真剣だった。彼は、自身の不器用さが招いた、過去の過ちを今も深く悔いている。だからこそ、孫娘達には優しい御祖父様でありたいと切望していた。
「それは単に、君が無言で背後に立つから、あの娘達が驚いただけだと思いますが……。」
セツラは苦笑し、夫を何気なく一瞥した。ロインの不安に同期する様に、目が心細げに明滅している様に見える。
「分かりました。其処迄言うなら、何か怖くないイメージを定着させるイベントでも企画しましょうか?」
ロインの瞳に、幽世の霧を晴らす様な光が宿った。
「イベントか……ならば、私の幻想を応用したアトラクションはどうだろう。怖くないホラーハウスだ。恐怖を、甘美な驚きへと変換する……此れなら、私の本質が守護にあると理解してもらえる筈だ」
此れが、後にウィンド・グローリーを未曾有の混乱に陥れる大錬成大会の号砲であった。
数日後、ロインはノヴァ・ゲート・テラスにある自身の領域を、特設のホラーハウスへと作り替えていた。
「今回の任務は、ユラとキラを楽しませる事……決して泣かせてはならん……威圧感は排除し、親しみ易さを最優先しなければ」
ロインは精神を研ぎ澄ませる。だが此処で彼の甘党という強力な個性が、術式に予期せぬ干渉を引き起こした。彼が愛してやまないスイーツへの情熱が、闇喰オオクニヌシの浄化作用と混ざり合い、召喚された幽界の住人達の組成を物理的に書き換えてしまったのだ。
「……此れは?」
現れたのは、恐ろしい亡霊ではなかった。全身が艶やかな本練り羊羹で構成されたマスコット。頭部が巨大なマカロンで、歩くたびにパウダーシュガーを撒き散らす淑女。そして、透き通った寒天の身体の中に金魚の代わりに魔力回路が泳ぐスライム。
「ギ、ギギ……オカシ……タベル?」
羊羹のマスコットが、ロインの声色を其の儘に、低音の美声で語りかける。その姿はシュールの極致だった。
「ロインさん、此れ……ホラーというより、単なる『食べ歩き会場』になっていませんか?」
視察に訪れたセツラが、伝令の杖を突き乍ら呆れた様に呟く。
「いや、まだだ……此処に私の幻想で記憶操作を加え、楽しかった思い出だけを強化すれば……。」
「父さん、止めてください。教育に悪すぎますよ?」
背後から、冷ややで呆れ果てた声が響く。サラがステラを伴って立っていた。サラの周囲には、天文観測儀が忙しなく浮遊し、目の前の羊羹マスコットの糖度を解析している。
「サラか……見ての通り、孫達の為の安全な遊戯施設を構築中だ。」
「うーん……安全かもしれませんが、審美眼が死んでます。ステラさん、君も何か言ってやってください」
銀の支配者、ステラは、無口なまま銀色の瞳を細めた。彼は『銀龍の魔眼』を発動し、羊羹マスコットの因果律を読み取る。
「……構成は完璧だが、甘すぎる……サラ、手伝う。これは、放置すれば糖分の暴走で領域がベタベタになる」
ステラの独占欲に近い完璧主義に火がついた。
「義母上、錬成の補助を……ただのホラーハウスでは芸がない。月の国の技術と、我ら龍神の幻想を融合させた究極の遊園地に書き換える」
事態は此処から急速に巨大化していく。
「おや、面白そうな事象を観測したね。」
ひょっこりと姿を現したのは、サラの友人であり、魔法局の監査官も務めるハリーだ。彼は手にしたメモ帳に、羊羹怪人の魔力組成を猛スピードで記録していく。
「ロイン、この御菓子怪人の自律行動パターンは、魔法局の保護対象である幻影の定義を書き換える可能性がある。公式な実験としてですが協力しよう」
更にセツラの所属する黄金十字秘局からも、腕利きの錬成師達が万物黄金化ならぬ万物お菓子化の技術的興味から続々と集結。
トゥウは設計図にコンマ1㎜の狂いも許さないと言わんばかりに、お菓子でできた重機を魔術で組み上げ始めた。キルトは効率的に糖分を摂取しつつ遊ぶなら、此の導線しかないと緻密な計算に基づいたパークレイアウトを描き出す。
「皆、話が大きくなりすぎていないか……?」
発案者のロインが置いてけぼりにされる中、建設作業は神速で進んだ。セツラの神智の箱庭が展開され、一帯の物理法則がお菓子に特化して書き換えられる。
サラの星月の欠片が足場となり、空中にキャンディの階段が架けられた。ステラの神鳴が、銀色の稲妻となってお菓子の生地を瞬時に焼き上げる。そして遂に、其の中心に其れが完成した。全長100mを超える、巨大なお菓子龍の遊具だ。
身体はカリカリのクロッカンで作られ、鱗の一枚一枚が薄いチョコレート。背中には、金平糖の星屑が散りばめられた星空の滑り台が設置されている。其れは龍神族の威厳と、お菓子の甘美さが、狂気的なまでの知性によって統合された芸術作品だった。
「御祖父様、凄い……此れ、全部食べられるの?」
ウィンド・グローリーの空に、ユラとキラの愛らしい声が響いた。二人は目を輝かせ、お菓子龍の足元まで駆け寄った。ロインは緊張のあまり、背筋をこれ以上ないほどピンと伸ばし、闇喰オオクニヌシが震えるのを必死に抑え乍ら二人を出迎えた。
「あ、ああ……ユラ、キラ……これは、私が……いや、我々が用意した、君達の為の場所だ。怖くはない……だろう?」
ユラは、ロインの大きな手を見上げると、その指先をぎゅっと握りしめた。
「全然怖くない……御祖父様、魔法使いみたい……大好き。」
その瞬間、ロインの胸の中にあった、長年の罪悪感と不安が、春の雪が溶ける様に消え去った。彼は威厳ある王でも、苛烈な龍神でもない、ただの一人の祖父として、優しく目尻を下げた。
「そうか……ならば、今日は存分に遊びなさい。甘いものは、私がいくらでも用意しよう」
傍らでは、サラがその様子を天体望遠鏡……ではなく、高性能なカメラで撮影していた。
「ふふ、いい写真が撮れた。ステラさん、此の写真、後で父さんに額縁に入れてプレゼントしましょ?」
「……ああ。義父上のあんなに緩んだ顔は、百年ぶりに見た」
宴は夜まで続いた。月の国の銀色の光の下で、羊羹マスコット達が子供達とダンスを踊り、空からは金平糖の雪が降る。魔法局も黄金十字秘局も、この日ばかりは世界の理を維持する事より、一時の甘い奇跡を楽しむ事に決めたようだ。ロインは、セツラと寄り添い乍ら、月光花が咲き乱れる庭園で日本茶を啜る。
「セツラ……私は、この光景を……ずっと守っていきたい。」
「そうですね……此の平和も、此の不器用な愛も、全部記録していきましょう。」
二人の背後では、闇喰達が静かに影を揺らし、浄化された温かな魔力が、月の国の夜を優しく包み込んでいた。
数日後――
月の国、アウラム・ソリスの最上層。クレセントシティを眼下に見下ろす浮遊庭園には、今日、穏やかだが密度の濃い魔力の薫りが満ちていた。
「主様、温度はこれでよろしいでしょうか?」
透き通るような氷の髪を持つ青年、天王星が、音もなくサラの傍らに立ち、冷たい日本茶を差し出した。彼の周囲には絶対零度の静寂が漂っているが、サラに向ける眼差しだけは、陽だまりの様に柔らかい。
「有難う、ウラヌス、完璧だよ。」
サラは白銀の髪を指で払い乍ら、藍色の瞳を細めて微笑んだ。彼女の周囲には、常に浮遊する精密機器天文観測儀が緩やかに回転し、天体の運行と庭園内の魔力均衡を刻一刻と算出している。
「サラ様!私も、私もお菓子をお持ちしました!」
小惑星精霊のセレスが、金剛石の混じる髪を揺らし乍ら、和菓子の載った盆を掲げて駆けてくる。当のベスタは、湯たんぽ代わりと言わんばかりに丸くなって寝息を立て始めた。
「ふふ、賑やかだね。皆、そんなに張り切らなくても、私は何処へも行かないよ」
サラが呟くと、庭園の空間が黄金色に爆ぜた。
「それは困ります、サラ様!貴女の行く道は、此の太陽が常に照らし、露払いを行わねばならぬのですから!」
黄金の長髪を靡かせた威風堂々たる青年、太陽が陽光の鎧を輝かせて現れる。その隣には、酸化鉄の色をした重厚な甲冑を纏う火星が、殺気にも似た守護の意思を漲らせて控えていた。
「グラディウス、あまり殺気を出さないで。今日は戦いじゃないよ……それで、報告は?」
サラが尋ねると、グラディウスは短く深く頷いた。
「……月の外郭、第三防衛ラインの再構築。ヘリオスと共に、概念障壁の補強を完了した。蟻這い出す隙間もない」
「良し。私の家族、そしてこの国を脅かす『魔性』や不届きな『異邦人』には、星の鉄槌が必要だからね」
サラの言葉に太陽が、「仰せの儘に!」と膝を突く。その光景は、一国の女王とその騎士団の様でもあり、過保護な兄達に囲まれた末娘の様でもあった。
庭園の片隅、深い木陰――そこは冥王星の領域だった。身体の半分を影に溶け込ませたミステリアスな少女、プルートは、サラの友人であるカゲツの影の中に、ちょこんと座っていた。
「……いらっしゃい。」
カゲツが、人見知り故の消え入りそうな声で、影の中から人形を差し出す。その人形はカゲツと瓜二つだが、本人よりも雄弁に口を動かした。
「あら、プルートちゃん。今日もサラ様の影は居心地が良さそうね!さあ、私達の淹れた特製の御茶をどうぞ!」
プルートは、無言でカゲツの服の裾をギュッと掴み、小さな鎌を傍らに置いて、出された茶を啜る。
「……あったかい。」
「うふふ、それはそうよ!」
そこへ、カゲツの友人であるキルト・S・ニグルムが、効率重視の歩調でやってきた。
「カゲツ、またそんな非生産的な茶会を。だが、プルートの持つ次元の境界を切り裂く能力のデータ計測には、この静寂は好都合か」
キルトは手元の端末を操作し、プルートの魔力波形を記録していく。
「……効率は大事……でも、今は御茶。キルトも座る?」
プルートが珍しく言葉を発すると、キルトは眼鏡のブリッジを押し上げ、「……5分だけだ」と隣に腰を下ろした。影の中では、死や境界を司る精霊と、人見知りの龍神と合理主義の錬金術師が、奇妙に穏やかな時間を共有していた。彼女達は知っている。サラという核があるからこそ、この異質な存在達が一つの絆として結ばれていることを。一方、庭園の中央にある円卓では、別の意味で熱い戦いが繰り広げられていた。
「チェック……だね、アオト御祖父様。」
ユラとキラが、身を乗り出してチェス盤を見つめている。対局しているのは、アオトと彼の孫娘であるサラだ。
「ほう、そう来るか。サラの合理性と、ユラたちの瑞々しい感性が混ざると、私の叡智をもってしても予測が難しくなるな」
先生と呼ばれるアオトは、楽しげに目を細めた。彼の幻想が脳を加速させているが、それでも彼は、家族との此の知恵比べを心から楽しんでいた。その傍らではロインの父であるシルトが、厳格な面持ちで彼らの背後を見守っている。
「アオトよ、あまり孫達を甘やかすな。一手一手に魂を込めねば、真の守護は務まらんぞ」
「まあまあ、シルトさん。そんなに怖い顔をしていたら、キラちゃん達が怖がってしまいますよ」
アキラが、大らかな笑みを浮かべシルトの肩を叩く。シルトは「むぅ……。」と唸り乍らも、キラに「御祖父様、これあげる!」と手渡された、不格好だが心のこもった折り紙を、宝物の様に懐にしまい込んだ。
更に庭園の工房エリアでは、セツラと木星が、火花を散らして議論を交わしていた。
「ユピテルさん、此の第五元素の流動計算、ガリレオ衛星の軌道補正を取り入れた方が、錬成効率が30%は向上しますよ。」
「成程……ならばセツラ殿、我ら一族の至宝たるサラ嬢の演算結果も同期させよう。これは次世代の賢者の石の定義を書き換える偉業となるぞ」
木星とセツラの知的好奇心は、既に月の国の科学技術を数十年先へと押し進めようとしていた。
「……騒がしいな」
銀色の雷光を纏い、庭園の入り口に現れたのはステラだ。彼は銀龍の魔眼で庭園全体をスキャンする。
「父さん。」
ユラとキラが駆け寄り、彼の足にしがみつく。ステラは一瞬、戸惑った様に視線を泳がせたが、大きな手で娘達の頭を優しく撫でた。
「……怪我はないか」
「ううん、ないよ。母さんと、御祖父様達と、一緒に遊んでたの」
ステラは、遠くでアオトと笑い合っているサラを見つめた。嘗て堕ち神になりかけ、世界の全てを拒絶しようとした自分。その手を引き、この騒がしい日常へと連れ戻したのは、あの飄々とした、誰よりも苛烈な愛を持つ魔女だった。
「ステラさん、君もこっちへ来たらどうですか?ウラヌスが淹れたお茶、冷えてて美味しいですよ。」
サラが手招きする。ステラはふん、と鼻を鳴らす。
「……お前が淹れたものでなければ、毒味の価値もない」
ステラはそう毒づき乍らも、その足取りは迷いなく彼女の隣へと向かっていた。その様子を、物陰から見守る一団がいた。ステラの父、ナオトと、母のサクラである。
「ステラも、随分と丸くなったわね。サラちゃんの御陰かしら?」サクラが扇子で口元を隠して微笑む。
「ああ……娘に甘く、妻に翻弄される。龍神としては少々格好がつかないが、父親としては合格点だな」
ナオトも、穏やかな笑みを浮かべる。宴も酣、陽が月の水平線に沈み、人工的な星空が輝き始める頃。サラは一人、庭園の先端に立ち、宇宙の深淵を見つめていた。彼女の左眼の淵には、闇喰・アストライオスの紋様が淡く発光し、彼女の内に潜むサイコパス的な破壊衝動を、静かな観測者の視点へと昇華させていた。
「ふぅ……。」
サラは、周囲を浮遊する彗星銀河団の精霊達を振り返った。サラが孤独な観測者として歩んできた長い年月の中で、其の魂から零れ落ちた願いが形を成したものだ。
「私たちは、記録者だ。この世界の美しさも、醜さも、全てを等価に刻み込む龍神の末裔……けれど。」
サラは、駆け寄ってきたユラとキラの手を取り、ステラの腕を抱き寄せた。
「此の幸福だけは、客観的な記録になんてさせない。私の匣の中に、魂の根幹として刻み込む……誰にも奪わせはしないよ」
背後で、ロインが、そしてセツラが頷く。彼らの絆は、今や月の国を支える巨大なネットワークとなっていた。魔性達が蠢き、異邦人たちが新たな風を運び、幻影たちが時代の波に揺れるとしても。この星々の守護者達がいる限り、月の輝きが潰える事はない。
「さて、記録を続けようか。運命が私達を何処へ導くのか、その最前線へ――」
サラの瞳の中で、満月と彗星の魔眼が、未来の吉兆を捉えて鮮やかに輝いた。彼女の足元から、銀河の渦を纏った龍神の影が、宇宙の深淵へと向かって力強く伸びていった。
某日――
月の国・クレセントシティの上層、天を突く様に聳え立つ彗星の天文台。その最上階にある観測デッキには、冷涼な宇宙の気配と、甘い和菓子の香りが同居していた。
「……計算通りだ。全天整列迄、あと六時間。星々の歯車が、1㎜の狂いもなく噛み合おうとしてる」
白銀の髪を夜風に遊ばせ、サラは傍らの中空に浮かぶ天文観測儀の真鍮製歯車を指先で弾いた。カチリ、と硬質な音が響き、ホログラムの星図が複雑な軌道を描き直す。
彼女の右眼、白銀に輝く満月の魔眼は、数刻先に訪れるであろう至福の未来を既に捉えていた。然し同時に左眼の彗星の魔眼は、次元の継ぎ目に澱む、実体なき悪意――魔性の蠢きをも冷徹に映し出している。
「サラ、あまり根を詰めすぎるな。お茶が入ったぞ」
背後から低く、だが慈愛に満ちた声が響く。振り返れば、そこには薄紫の着流しを優雅に纏った父、ロインが立っていた。手元のお盆には、湯気を立てる日本茶と、宝石の様に美しい季節の練り切りが並んでいる。
「父さん……ふふ、有難う御座います。丁度糖分が欲しかった所です」
サラの口元が綻ぶ。先天的なサイコパスとしての冷徹さを、家族への執着という名の愛情で塗り固めた彼女にとって、この穏やかな時間は何よりも尊い観測対象だ。
「ステラはどうした?」
「彼は……義父様達のところで、魔眼の最終調整だそうです。ユラちゃんとキラちゃんも、義御祖父様達に甘えたくて付いて行きましたから」
ロインは少しだけ眉を下げ、寂しげに呟いた。
「……そうか……孫達は、ナオト殿の所か……私の所へは、明日来るだろうか?」
「父さん、そんなに落ち込まないで下さい。明日はお父様とホラー映画鑑賞会をする約束、あの子達は忘れていませんよ」
不器用な王の、孫への溺愛。其れを見守るサラの視線は、嘗ての確執を溶かし去った、温かな銀河の光を宿していた。
一方其の頃――
月の裏側の境界、ノヴァ・ゲート・テラスの最深部では、ステラが、巨大な魔力炉の前に立っていた。彼の周囲には、蒼白い雷光が神経の如く走り、背後には風雷乙女達が静かに控えている。
「……来るな。」
ステラが短く応じると、影の中から一人の少女が滲み出た。冥王星の精霊、プルートだ。彼女はステラの黒いコートの裾をぎゅっと掴み、無言で上空の亀裂を指差す。
「分かっている。全天整列の光が強まれば強まる程、其の影である魔性は濃くなる……だが、今日という日を汚させるわけにはいかない」
ステラの右腕に刻まれた闇喰・バロールの紋様が、脈動する様に銀色に輝く。それは彼の中に渦巻く破壊衝動とサラへの狂おしい程の独占欲を、世界を守る為の静かなる裁定へと変換する触媒だ。
「父さん、準備できたよ。」
「僕も、お花いっぱい咲かせたの」
聞き慣れた愛らしい声。振り返れば、其処には幼い乍らも龍の鱗を首元に輝かせた二人の娘、ユラとキラがいた。その後ろには、ステラのサクラとナオト、そしてセツラが並んでいる。
「ステラさん、貴方の魔眼の回路、少しズレていますね。私が再錬成しましょうか?」
セツラが瞳を輝かせて賢者の石を取り出そうとするのを、ナオトが苦笑いしながら制す。
「セツラ、今日は実験ではない。家族で協力して、この美しい夜を守る日だ」
ステラは無口な儘、娘達の頭を大きな手で撫でた。嘗て堕ち神になりかけた孤独な銀龍は、今や多くの絆という重力に繋ぎ止められ、この星の守護者として立っていた。
ついに、その瞬間が訪れた。月の国の全域から見上げる夜空。とある銀河の太陽、水星、金星……そして遥か彼方の外惑星迄もが、一本の光の糸で結ばれる様に直列する。
瞬間、次元の壁が薄らぎ、天を覆うほどの巨大な黒い靄が溢れ出した。魔性だ。それは人々の負の感情、失われた記憶、世界の不条理を栄養とする、実体なき悪意の集合体。
「……観測終了。此処からは、実証実験の時間だ」
サラが虚空を掴む。現れたのは、星々の深淵を凝縮した月の竪琴だ。同時に、ステラが地を蹴り、サラの隣へと着地した。その手には、高出力プラズマを放つ双頭の槍・銀雷槍が握られている。
「……行くぞ。」
「――全天の星々、私に唱和しなさい!」
サラが竪琴の弦を爪弾く。響き渡るのは、宇宙の運行其の物を支配する聖歌だ。其れは、聴く者の霊性を目覚めさせ、絶望を希望へと書き換える旋律。
「白羊宮、金牛宮……黄道十二星座、その理を此処に!」
サラの周囲を浮遊する精霊達が一斉に輝きを増す。放たれる光の奔流が、魔性の黒い靄を次々と貫いていく。
「次は私の番だ……沈め。」
ステラが槍を掲げると、空が銀色に染まった。
「絶唱――神鳴!」
それは堕ち神の過去を超えた、覚悟の歌。複数の魔眼効果を歌声に乗せ、因果律ごと魔性を消滅させるのではなく、其の存在理由を浄化していく。魔性の残滓が、尚も抗う様にサラ達へ襲いかかる。だが其れを防いだのは一族の長達だ。
「幽界の門よ、開け。此処から先は、死者の領域だ」
ロインが精霊杖を突き立てると、巨大な桜の結界が展開される。舞い散る死垂れ桜の花弁が、魔性の力を吸い取り、無害な霊子へと分解していく。
「父さん、助かります!」
「礼には及ばん……サラ、後ろは任せろ。」
更にアキラ、シルト、ライラ、アオトが、其々の幻想を展開する。「曾孫達の未来を邪魔する者は、私が許さない!」
「魔弾の重力に潰されるがいい!」
嘗ての世代が今の世代を、そして未来の世代を守る為に。其の中心で、ユラとキラが手を繋ぎ、小さな声を張り上げた。
「父さんと母さんを、虐めないで!」
二人の幼い龍神の意志に応える様に、月の国中の闇喰達が一斉に黒衣を翻した。彼らが魔性の毒を瞬時に喰らい、清浄な魔力へと変換して龍神族へと還元する。
サラの歌声が最高潮に達する。星月の王冠が彼女の頭上で三層の光環を放ち、龍神の姿へと変貌を遂げる。深藍と紅の鱗に銀河を纏った、体長85mの星々の龍。隣には、純銀の鱗と蒼白い雷光を纏った、90mの雷の支配者。二柱の龍神が虚空を見つめ、最後の一節を奏でた。
「――未来への絶唱!」
闇喰達が浄化した光の粒子が、サラの重力制御によって銀河の渦となり、月の国を包み込む。魔性達は、最早悪意を保つ事ができず、美しい星屑となって、全天整列した惑星達の道標へと還っていった。夜空には見た事もない程透明な、輝く星海が広がっていた。
数時間後。騒ぎが収まったクレセントシティのテラスで、細やかな茶会が開かれていた。
「結局、全部食べちゃったね、ベスタ」
サラは、自分の膝の上ですやすやと眠る小惑星精霊ベスタの頭を撫でながら、空になった和菓子の皿を見て微笑んだ。
「サラ……お疲れ様、良くやったな。」
ステラが少しだけ、照れくさそうにサラの隣に座る。
「ステラさん……私、君がいてくれて、本当に良かったです。私が、こんなに幸せだと感じられるのは、観測ミスじゃないですよね?」
「ああ。確率論でも、運命論でもない……只の事実だ。」
ステラは無愛想に、だが力強くサラを抱き寄せた。
「御祖父様、お菓子のおかわり、ください。」
「ユラ、キラ、好きなだけ食べなさい。ナオト殿、予備の羊羹を出しておくれ」
「ロインさん、甘やかしすぎですよ……まあ、今日位は良いか。
サラは夜空を見上げた。其処には、全天整列を終えた星々が、其々の軌道へと戻っていく姿があった。周期は巡り、またいつか困難が訪れるかもしれない。けれど、この月の国を統治する龍神達には、絶望という文字は必要なかった。
「さて、明日の天体観測の予報は……。」
サラが天文観測儀を回す。
「――最高に美しい、家族の休日だ。」
銀色の光が静かに、そして永久に、月の国を照らし続けていた。
翌朝――
月の国の首都、ウィンド・グローリーの夜は、地上の様な完全な闇に支配される事はない。反重力宮殿の窓から差し込むのは、帝国のバリアを透過して和らげられた、純白に近い銀色の月光だ。サラは天蓋付きの、大きなベッドの中でゆっくりと瞳を開いた。目覚めた彼女が真っ先に感じたのは、肌を撫でるシルクの質感と、隣に眠る愛する者の体温だ。
「……ふふふ、まだ夢の続きみたい。」
サラは隣で静かに、寝息を立てているステラを見やった。銀色の髪が枕に散り、無口で冷徹な銀の支配者としての鋭さは、眠りの中では影を潜めている。サラは悪戯っぽく指を伸ばし、彼の頬を軽くつついた。
「ん……サラ、か……?」
ステラが薄く目を開ける。その瞳の中には、数多の魔眼を制御する複雑な紋様が浮かんでいるが、彼がサラに向ける視線には、独占欲を含んだ深い慈愛だけが宿っていた。
「お早う御座います、ステラさん。まだ寝ていても良いのですよ? 今日は公務も、非公式の蒐集もないのでしょう?」
「いいや……君が起きているなら、私も起きる。君を一人にするのは、一秒でも惜しい」
ステラはそう言って、サラの腰を引き寄せ、自身の胸元に閉じ込めた。嘗て堕ち神になりかけた彼を救ったのはサラだった。その時から、彼の宇宙は彼女を中心に回っている。
「もう、相変わらず独占欲が強いんですから……でも、嫌いじゃないですわ。」
サラはステラの胸に顔を埋め、クスクスと笑った。かつて彼女の内にあった、サイコパス的とも称される合理性や、苛烈な破壊衝動。それらは今、左眼の縁に刻まれた闇喰の紋様によって穏やかに制御されている。孤独な観測者だった彼女は、今や愛を知る一人の女性として、この温かな日常を享受していた。
アルバエレミア家の朝食は、常に賑やかだ。白く輝くダイニングルームには、既に家族が集まっていた。
「サラさん、ステラさん、お早う御座います。今日の朝ごはんは、私が作った特製フルーツタルトもありますよ」
セツラが、鳥の子色のエプロンを翻し乍ら楽しげに声をかける。彼女の周囲では、小さな月の錬金小人達が忙しなくティーカップを運んでいた。
「母さん、朝から甘いものは父さんが喜ぶだけですよ?」
サラが苦笑し乍ら席に着くと案の定、ロインは既に手元の皿に乗った和菓子と、セツラのタルトを交互に見つめて、至福の表情を浮かべていた。
「……セツラ、このタルトは……素晴らしい。幽世の果実とはまた違う、命の輝きを感じる」
ロインは寡黙に、確実にフォークを動かしている。嘗て妻の失踪で娘に罪悪感を抱いていた王は、今では家族の和に溶け込み、孫煩悩な好々爺としての顔を隠さなくなっていた。
「御祖父様、御祖母様、お早う。」
「お早う!」
そこへ、淡白な声と元気な声と共に、二人の少女が駆け込んできた。サラとステラの娘、ユラとキラだ。
「ユラちゃん、キラちゃん。走ったら危ないよ」
サラが聖母の様な微笑みで二人を抱き止める。
「だって、今日は……ナオト御祖父様と、サクラ御祖母様が、格闘技の稽古を……つけてくれるって、約束したんだもの。」
「淑女の嗜み……だよね、母さん。」
娘達の言葉に、ステラが僅かに眉を寄せた。
「……格闘技か。ナオト閣下とサクラ殿の指導は苛烈だと聞く。怪我をしないように」
「大丈夫だよ、父さん!私達、父さんの銀雷槍みたいに強くなるんだから!」
キラに無邪気に言われ、ステラは言葉に詰まった。娘たちの成長は嬉しいが、それ以上に、自分から離れていく様な寂しさが、彼の胸をよぎる。それを見逃さないサラは、テーブルの下でそっとステラの手を握った。
午後、サラは一人で彗星の天文台へと足を運んだ。今日の目的は研究ではない。ある用事で赴いたのだ。
「サラ、遅かったね……待ち草臥れて、私の影がもう一つ増えちゃう所だったの。」
天文台のテラスで待っていたのは、黒龍神のカゲツだった。彼女は相変わらずサラの影に隠れる様に立っているが、その手には精巧な人形が握られている。
『全く、サラは家族サービスが忙しすぎるのよ!』
カゲツが腹話術のように人形を操り、人形が代わりに毒づく。
「ごめんね、カゲツ。でも……君も昨日はキルトと遅く迄、新作の魔導具を作っていたんでしょ?」
「……効率、重視。キルトが、そう言ってた」
そこへ、ふんわりとした花の香りと共に、ヒサメが現れた。
「あらあら、皆さんお揃いで。丁度、精神安定の魔術を付与したお茶を淹れた所ですよ」
ヒサメの淹れる茶は、一口飲むだけで魂の澱みが消えていく様な錯覚を覚える。
「ヒサメ、何時も助かるよ。君がいると、この騒がしい面々も少しは落ち着くもの」
テラスには、続々と友人が集まってくる。猫に避けられて落ち込んでいるニオンを、ハルヒが「これ、可愛いから元気出して!」と珍妙なぬいぐるみで励ましている。その後ろでは、魔法局の監査官であるハリーが「公務の合間だ」と言い乍ら、手元のメモ帳に熱心に何かを書き込んでいた。
異邦人の居住区からは、彼らが持ち込んだ珍しい楽器の音色が風に乗って聞こえてくる。龍神の国とは異なる、不完全で愛おしい主観的な音楽。サラは浮遊する天文観測儀を操作し、今のこの風景を記録した。嘗ての彼女なら、此れを特定の座標における、個体群の安定的相互作用と記録しただろう。然し今の彼女が選んだ言葉は違った。
夜、家族も友人も眠りにつき、静寂が宮殿を包む。サラは独り、自身の精神の核である領域へと意識を沈めた。其処は無数の星々が瞬き、銀河の渦が広がる美しい宇宙。その中心に、漆黒の隕石――匣が安置されている。
サラは匣の表面にそっと手を触れた。嘗てこの匣に刻まれていたのは、冷徹な観測記録だった。星の死、文明の滅亡、因果の破綻。サイコパスとしての彼女が、感情を排除して収集した客観的な事実の集積体。
然し今の匣は藍色と紅の、柔らかな白銀の光を放っている。サラが意識を集中させると、其処から音が溢れ出した。
朝食の席でロインがタルトを頬張るフォークの音。ステラが不器用に娘達を抱きしめる時の、衣擦れの音。セツラが実験に失敗して上げた、愉快な叫び声。友人達がテラスで交わした、他愛もない笑い声。
其れは宇宙の運行から見れば、あまりに小さく、一瞬で消えてしまう様な無意味な事象かもしれない。だが今のサラにとって、どの超新星爆発よりも輝かしく、どの銀河よりも重みのある真実だ。
「客観的な事実は、もう必要ないかな……?」
サラは呟き、そっと瞳を閉じる。左眼の闇喰が、彼女の内に残る僅かな寂寥感を優しく吸い込み、温かな充足感へと変換していく。
彼女は匣の最後の一ページに、指先で光の文字を刻んだ。
翌朝――ウィンド・グローリーの空は、雲一つない快晴だ。人工的な気象制御ではない。世界其の物が、彼らの幸福を祝福しているかの様な、どこまでも透き通った青だ。
サラは窓の外に広がる月の国を見渡す。銀色の建築物が陽光を反射し、人々や異邦人、そして龍神達が其々の日常を歩み始めている。ステラが背後から彼女を抱き寄せ、その肩に顎を乗せた。
「サラ、何を考えている?」
「いいえ、只……この宇宙が、思っていたよりもずっと愛に満ちているって、再確認していただけですよ。」
サラは愛しい夫の腕の中で、幸せそうに目を細めた。本日の天候、快晴。宇宙は、愛に満ちている。その文字は、銀色の月光を浴びて、何時も、何時迄も美しく輝き続けていた。




