Wardens of order
某日、龍神の国にて――
龍神の国の西方――天翔る風域の端に位置するその街は、常に清浄なエーテルと、どこからか流れてくる香炉の煙、そして異世界のスパイスが混ざり合った独特の香りに包まれている。その一角に、伝統的な石造りと洗練された硝子細工が融合した、一軒のジュエルショップが佇んでいた。
店名はドラコ・ジェマ。元皇帝レイラ・フォルティア・アルバエレミアが経営する、この国で最も由緒正しき宝石店である。店内に一歩足を踏み入れれば、中央に据えられた巨大なクリスタルのシャンデリアが、訪れる者の瞳を淡い虹色で染め上げる。ショーケースの中に並ぶのは、単なる貴石ではない。
店主であるレイラがその魔力を注ぎ込み、一つひとつ丹念に磨き上げた幻想の欠片達だ。現在、店は中休みの時間を迎えている。奥にある秘密の工房では、レイラが作業机に向かい、ピンセットで小さな紅玉を固定していた。
「……ふう」
白銀の髪を緩く纏め、集中していた彼女が小さく息を吐く。其の透き通る様な肌には、宝石の粉末が微かに光を湛えて付着していた。彼女が指先を動かす度に、空間に漂う青い光の粒子の浄化の輝きが、物理的な汚れを瞬時に払い除けていく。
「お疲れ様、レイ。少し休憩にしようか」
穏やかで、聞き手に深い安らぎを与える歌の様な声。レイラが顔を上げると、其処には最愛の夫、グレイ・フォルティア・アルバエレミアが立っていた。195㎝の長身に、優雅な仕立てのベストを纏った彼は、銀のトレイに淹れたての紅茶とカヌレを乗せている。
「有難う御座います、グレイ。丁度切りのいい所でしたの」
レイラは微笑み、作業用の眼鏡を外した。皇帝としての冷酷な王者の風格は、夫の前では影を潜める。そこに居るのは家族を愛し、平穏を慈しむ一人の女性であった。
グレイは慣れた手つきでティーカップを机に置く。紅茶から立ち上る湯気には、彼の持つ言霊の力が無意識に混ざり合い、其れだけで精神的な疲労を癒やす祝福の聖歌に似た効能を帯びていた。
「子供達から手紙が届いているよ。リオンもエイラも、其々の地で立派に務めを果たしている様だ」
「あら、其れは良かったです。」
「アルトは相変わらず、訓練の合間に宮殿を駆け回って騒ぎを起こしているみたいだけどね」
「ふふ、アルトらしいわ。リアラは?」
「彼女は、街の人々の悩みを聞いて回っているそうだよ。君の聡明さと、僕の……少しばかりお節介な性格が、いい具合に混ざったのかもしれないね」
グレイは照れくさそうに頬を掻く。46億年という、気の遠くなるような時間を共に歩んできた二人にとって、子供達の成長こそが最も輝かしい宝石に他ならなかった。二人が穏やかな午後の調べに浸っていた其の時、工房の扉が遠慮のない音を立てて開いた。
「……暑い……この街のエーテル濃度、今日に限って高すぎない?」
入ってきたのは、ダウナーな雰囲気を纏った美女、カミラ・フォルティア・アルバエレミアだ。最高位の司書である彼女は、脇に一冊の重厚な書物を抱え、不機嫌そうに銀髪をかき上げた。
「姉さん、いらっしゃい。そんなに急いで、何かあったの?」
レイラが尋ねる。カミラは妹の姿を見るなり、その冷淡な表情を劇的に和らげた。
「レイ……ああ、顔が見られて少し回復したわ……けれど仕事なのよね……。」
「仕事?」
「正確には観測者としての報告があるの……兄さんの店に移動するわ。彼の淹れるカフェモカを摂取しないと、私の魔力回路が効率を落とすもの」
中央広場の外れ、ひっそりと佇むアンティークな扉。カフェバー、ドラコ・リバルの店内は、昼下がり特有の静寂と、焙煎された珈琲の芳醇な香りに満ちていた。
「おや、勢揃いだね。いらっしゃい、僕の可愛い妹達」
カウンターの中で、純白の執事服を完璧に着こなしたセオン・フォルティア・アルバエレミアが、朗らかな笑顔で彼らを迎えた。彼は手際よく、カミラにはカフェモカを、レイラとグレイには追加のスコーンを用意する。
「それで、カミラ……言の葉図書館で見つけた世界の歪みというのは?」
セオンの言葉に、カミラの表情が引き締まった。彼女はカウンターの上に、抱えていた書物を広げる。其れは、通常の手段では閲覧不可能な、概念の記録を司る禁書の一つだった。
「……これを見て欲しいの」
カミラが指し示したページには、不気味な黒い靄の様な挿絵と、聞き慣れない特殊文字が蠢いていた。
「魔性……嘗て一族の仇敵と共に、此の世界から完全に抹消された筈の負の概念。その再編された兆候が、龍嶺山脈の深部で観測されたの」
その言葉が発せられた瞬間、店内の空気が凍りついた。レイラの脳裏に、遠い過去の惨劇がよぎる。祖母シュラによる襲撃、カミラが身代わりとなったあの日の光景。
「……御祖母様の、残り香かしら?」
レイラの声が、微かに震える。すかさず、グレイが彼女の手に自身の掌を重ねた。掌から伝わる温もりと、彼が放つ無意識の精神安定の波動が、レイラの心の傷を優しく包み込む。
「大丈夫だよ、レイ……今度は、私達がいるんだ。誰一人として、欠けさせはしないよ」
グレイの瞳に、深い銀の光が宿る。それは家族を守るという不退転の決意を秘めている。セオンもまた、何時もの飄々とした態度を捨て、鋭い眼差しでカミラを見つめた。
「浄化の要としての僕の出番だね。穢れが芽吹く前に、完全に無垢な状態へ還してあげよう……あぁ然し、リオン達……子供達には、まだ知らせなくていいのかい?」
「えぇ勿論。先ずは私達が、物語のプロローグを書き始めないとね」
カミラは万年筆を手に取り、空間に一文字のルーンを刻んだ。其れは追跡と封絶を意味する光の文字が浮かび上がる。彼女達の観測が着々と始まっていく。
夕暮れ時、龍神の国はオレンジ色から深い紫へとその装いを変えていく。天空に浮かぶ空中都市、白風から見下ろす地上は、無数の魔石の灯火で宝石箱をひっくり返した様な輝きを放っていた。
レイラは一人、ジュエルショップのベランダに立ち、遠く聳える龍嶺山脈を見つめていた。彼女の頭上には、金剛石製のケテルの王冠が、白銀の鎖に縛られた状態で静かに浮遊している。
「世界の均衡……私達は、あまりにも長くこの平穏に慣れすぎてしまったのかもしれないわね……。」
彼女が指を鳴らすと、背後に漆黒の結晶立方体――匣が出現する。46億年の記憶が刻まれたその場所から、彼女は一つの装備を呼び出した。龍珠剣。属性を自在に操るその刀身が、月の光を浴びて冷たく輝く。
「レイ、準備はいいかい?」
背後から、グレイが歩み寄る。彼は既に戦闘用の正装を纏い、その周囲には虹色の粒子が静かに舞っている。
「ええ……行きましょう、グレイ……私達の子供達が生きる、此の世界を、汚させる訳にはいかないわ。」
二人の影が、夜の闇に溶けていく。其れは、長い平和の終わりではなく、新たな未来へと続く最初の一歩であった。静寂が支配する龍神の国。其の地下深く――概念の狭間では、確実に「悪性情報」が脈動し始めていた。観測者達の、長い夜が始まる。
某日、龍神の国にて――
空中都市『天翔風域』の朝は、雲海を割り差し込む黄金の陽光と、清冽なエーテルの風で始まる。白龍族が統治する首都『白風』のビル群は、宝石の様に磨き上げられた外壁が光を乱反射させ、空に浮かぶ巨大な水晶の庭園の様であった。レイラとグレイは件の魔性の調査をしている。
「……っ。」
不意に、レイラの記憶の片隅に追いやった、思い出したくない記憶が蘇る。身体が微かに震え視界の端で、白銀の髪がさらりと揺れる。脳裏を過ったのは、数千、数億年前の記憶ではない。其れは、魂に刻み込まれた音だ。愛する姉、カミラが自分の身代わりとなって砕け散った時の、あの悍ましい結晶の軋む音。
(お前さえ、生まれなければ)
処刑され、存在ごと抹消された筈の祖母シュラの呪詛が、今も耳底で澱の様に沈殿している。レイラは喉元を押さえた。声を出そうとしても、透明な壁に阻まれた様に言葉が形を成さない。失声症の再発。過去の傷跡が、時を超えて彼女の喉を締め上げる。その時、背後から温かな体温と甘い香りが漂ってきた。
「レイ、無理をしないで。私は此処にいるよ」
グレイの大きな手が、レイラの震える肩を優しく包み込む。夫であり戦友であり、46億年の時を共に歩んできた伴侶。グレイは彼女の前に回ると、膝をついてその銀色の瞳を覗き込んだ。彼の紺青の瞳には、無限の慈愛が宿っている。
「……あ……。」
レイラが苦しげに唇を戦わせると、グレイは静かに口を開いた。彼の喉元で、紺青の翅を持つ言霊蟲が微かに輝く。
「祝福の聖歌」
グレイの歌声は、空間に虹色の粒子を振りまき乍ら、レイラの心へと浸透していった。1/fゆらぎを伴うその旋律は、彼女の精神を縛り上げる影を、朝露が消える様に溶かしていく。
「……ふう……有難う御座います、グレイ。また、甘えてしまいましたね」
漸く取り戻した声は、鈴を転がす様な透明感を帯びていた。レイラは自嘲気味に微笑み、グレイの胸に顔を埋める。
「甘えていいんだ……君の痛みは、私の痛みでもある。其れに……」
グレイは彼女の耳元に飾られた半透明の結晶――闇喰ヴァリアントに触れた。
「君がこうして耐えているからこそ、世界の均衡は保たれている。誇っていいんだよ、私の愛する皇帝」
「もう、皇帝ではありませんわ。今は只の宝石商ですよ?」
二人が微笑み合ったその時、空間が不自然に歪んだ。
「失礼するよ、二人とも。睦まじい所悪いけれど、緊急事態だ」
空間の裂け目から現れたのは、レイラの兄であるセオンだ。妹愛が強すぎる事で有名な彼は、珍しく険しい表情を浮かべている。
「兄さん、何があったの?」
「星辰砂都の古代神殿周辺で、大規模な幻影の暴走が確認されたんだ。それも只の幻影じゃない……記録にない筈の……いや、抹消された筈の悪意が混ざっている」
セオンが提示したホログラム映像には、黄金の砂漠を侵食する漆黒の靄が映し出されていた。その靄は、周囲の物質を強制的に結晶化させ、歪な形へと変貌させている。
レイラの表情が凍りついた。その結晶の輝きに見覚えがあったからだ。其れは彼女の幻想、宝石に似て非なる、どす黒い殺意を宿した輝き。
「御祖母様……の残滓?」
「その可能性が高い……レイ、グレイ。二人で調査に向かってくれないか?カミラも図書館で古文書をあたっているのだけれど、現場の浄化には君達の力が必要なんだ」
「分かったわ。行きましょう、グレイ」
レイラが立ち上がると、その周囲に微細な青い光の粒子が舞い始めた。浄化の紋様である矢車菊が、彼女の項から背中にかけて静かに脈動し始める。
「ああ。我が妻の道を塞ぐものは、私の舞で塵に帰そう」
二人は風翔船を駆り、空中都市から一路、南方の砂漠地帯へと向かった。
砂漠の神殿、星辰砂都。嘗ては星の光を反射して美しく輝いていた水晶の神殿は、今や禍々しい黒い結晶に覆い尽くされていた。
「此れは酷い……大地の魔力が、無理やり書き換えられている。」
グレイが眉を潜める。彼の周囲には、特殊な音階を操る夢想曲の鍵盤が幻影として浮かび上がった。砂の中から、異形の怪物が這い出してくる。其れは人間の女性の形を模し乍ら、顔の部分が空白の黒い空洞になった魔性の軍勢だった。
『……レ……イ……ラ……。』
聞き取れない筈の独自の言葉が、呪詛となって空気を震わせる。
「その名を、其の汚れた口で呼ばないで!」
レイラの右手に、深紅の龍珠石を冠した直刀、龍珠剣が握られる。
「龍珠剣。燃え上がれ!」
レイラが鋭く一閃すると、刃から紅蓮の炎が奔り、黒い魔性を一掃した。然し倒しても倒しても、黒い結晶は砂の中から増殖し続ける。
「グレイ、此処は私が抑えます!君は奥の核を!」
「了解。魅惑の歌姫!」
グレイの背後に、巨大な歌姫の幻影が現れる。その歌声が響き渡ると、襲いかかろうとした魔性達が一斉に動きを止め、互いに剣を向け始めた。精神支配による同士討ち。その隙を突き、グレイは神殿の最深部へと踏み込む。
最深部の祭壇には、一際巨大な黒い結晶の塊が鎮座していた。其の中には、女性の形をした影が、嘲笑う様な歪な口元を浮かべて閉じ込められている。
「シュラ……貴女は死して尚、この世界を、レイを苦しめるというのか?」
グレイの瞳が紺碧から漆黒へと、静かな怒りに染まる。
『オ……ォ……愛シキ孫……ムゴタラシク……砕ケヨ……』
結晶が弾け、無数の漆黒の矢がグレイを襲う。
「元素剣!」
グレイが水晶の長剣を振るうと、瞬時に絶対零度の壁が構築され、漆黒の矢を氷漬けにして粉砕した。
「遅くなって御免なさい、グレイ!」
レイラが追いつく。彼女の全身には、七色に輝く結晶の防具が装着されていた。強化形態、神造宝石だ。
「二人で終わらせよう、レイ」
「ええ、勿論ですよ。私達の46億年の絆を、こんな『残滓』に汚させはしないもの」
レイラが頭上にケテルの王冠を顕現させる。白銀の鎖が一筋解け、周囲の空間が圧倒的な魔力密度で歪み始めた。
「ah――――――――♪」
レイラが歌い始める。其れは慈愛と破壊が同居した旋律。空間そのものが純粋な宝石へと再構成され、シュラの残滓を物理的に押し潰していく。
「死の聖歌!」
グレイの歌声が重なる。生存信号を停止信号へと書き換える死の振動波が、魔性の本質である悪性情報を根源から消去していく。光と音の奔流が神殿を包み込み、漆黒の靄は悲鳴を上げ乍ら霧散していった。
戦いが終わり、砂漠に柔らかな月光が戻ってきた。シュラの残滓は消え去り、神殿はレイラの放った青玉の輝きによって浄化されていた。レイラは膝をつき、激しい魔力の消耗に肩を揺らしている。
「レイ!」
グレイが駆け寄り、彼女を抱き寄せる。
「大丈夫……ただ、少し疲れただけですよ。でも、此れで終わりではない気がします」
「ああ、此れはまだ、序章に過ぎない気がする。」
グレイは彼女の髪を優しく撫で、その視線を遠くの空へと向けた。
「だが……どんな影が忍び寄ろうとも、私達の家族と此の国は守り抜く……そうだろう?」
「……そうですね、グレイ」
レイラは夫の胸の中で、静かに目を閉じた。彼女の記憶の匣には、今日という記録が刻まれる。悲劇を乗り越え、愛する者と共に歩む。その確かな足跡が、未来へと続く希望の道標となるのだ。其の頃――言の葉図書館では、カミラが一冊の古い書物を閉じていた。
「始まったわね……救済か、終焉か……それはまだ、誰にも綴られていない物語が。」
龍神の国の中心部に鎮座する言の葉図書館。其の最奥、許可なき者が足を踏み入れれば精神を物語の濁流に呑まれるという閉架式図書館のさらに下層に、カミラはいた。彼女の瞳に宿る千里眼が、揺らめく未来を捉えていた。
青玉と紅玉の光を宿した空間には、重厚な静寂が満ちている。カミラは愛用の万年筆、想いを綴る万年筆を指先で弄び乍ら、宙に浮遊する巨大な魔道書と対峙していた。
「……記録が、虫食いみたいに消えてる。不愉快」
カミラが低く呟くと、傍らに控えていた黒龍神ヒルコが、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「カミラ、矢張りシュラの怨念が、世界の記録其の物を侵食している様だよ。此の儘では、龍神の国の歴史が虚無という名の結末に書き換えられてしまう」
「分かってる。あの悍ましい老婆は、自分が消された後も、レイラが愛する此の世界ごと無理心中するつもりでしょうね」
カミラは額の紋様――闇喰メティスを明滅させ、幻想を全開にする。彼女の背後に水晶板、白仙寓意画が円環を成して展開された。
「運命の輪、接続。女教皇、事象解析……ヒルコ、リンウ。私が見せる予言の断片を、即座に実体化して。一文字の誤差も許さないよ」
リンウが短く頷き、空間を切り裂く爪……断空を構える。
「承知したわ。図書館の秩序を乱すノイズは、一画たりとも残さないよ」
カミラの千里眼が、過去・現在・未来の境界を突き抜ける。視線の先で、漆黒の文字が蠢き、世界を定義する文章を黒く塗り潰していく光景が見えた。其れはシュラという悪性情報が、死して尚増殖を続ける呪いだった。
一方、龍神の国・西方の街角にあるカフェバー、ドラコ・リバル。普段は穏やかなジャズが流れる店内だが、今は張り詰めた緊張感と、それ以上に温かな祈りの気配に満ちていた。
「さあ、皆。休憩は終わりだよ」
カウンターの中でエプロンを外し、純白の長弓を手に取ったのはセオン・フォルティア・アルバエレミアだ。彼の前には、コカゲ、カンウ、ミツキといった各地の友人達が集結している。
「セオン、外の汚染が酷くなってます。街の噴水が黒く濁り始めました」
ミツキが、おっとりとした口調ながらも真剣な面持ちで報告する。セオンは窓の外、黒い靄の様な魔性が徘徊し始めた街並みを見つめた。嘗て病弱だった彼は、妹達に背負わせた重荷を、今度は自分が肩代わりすると決めている。
「大丈夫。僕がいる限り、この街に穢れは留まれないよ」
セオンが胸元に手を当てると、淡い緑色の光の渦――闇喰セオリツヒメが力強く脈動した。彼の脆弱性を補完し、無限の浄化を可能にする聖なる安全装置が、セオンの魔力を極限まで引き上げる。
「カンウには氷で汚染の進行を止めて貰って、コカゲは影に潜んで魔性の核を特定して。ミツキちゃんは、避難する人達の異能力を一時的に無効化して安全確保をお願いするよ……最後は僕が、全部綺麗にする」
セオンが店を一歩踏み出した瞬間、彼の周囲に清らかな水の粒子が舞い、ドロリとした黒い瘴気が悲鳴を上げて霧散していく。
「レイに……あんな、悲しそうな顔は二度とさせない……カミラだって、もう傷つかなくていい……僕が、アルバエレミアの長兄だっていう事を、あの老婆に教えてあげなきゃね」
朗らかな笑顔は消え、其処には清浄を司る神としての峻厳な意志が宿っていた。事態は急転する。カミラが図書館で捉えた虚無の物語が、物理的な魔性の奔流となって西方の街を襲ったのだ。
「強制終了なんて、させない。この物語の作者は、私だ」
カミラは言の葉図書館から、空間を越えて概念干渉を開始する。
「世界、展開。……絶唱、開始」
図書館の地下から、次元の壁を透過してカミラの歌声が響き渡る。それは、対象の存在記録を精査し、悪意のみを論理的に破綻させる滅びの旋律。同時に、西方の空の下。セオンが長弓の弦を引き絞る。
「僕も合わせるよ、カミラ……絶唱、清浄の波動」
二人の龍神による絶唱が、エーテルを通じて共鳴した。カミラが書き換えによってシュラの呪いを無力化し、セオンが浄化によって其の痕跡を完全に消滅させる。街を覆っていた黒い霧が、光の粒子となって弾け飛ぶ。
逃げ惑っていた異邦人達は、その輝きに触れて傷が癒えていくのを感じ空を見上げた。其処には、巨大な水晶の翼を持つカミラと、蓮の花弁の様な角を持つセオンの、神としての幻影が重なり合って見えた。戦いが一時的に収束し、夕闇が訪れる頃。カミラは図書館の机に突っ伏し、本来のダウナーな雰囲気を零していた。
「疲れた……甘いもの食べたい」
セオンはドラコ・リバルに戻り、震える手で淹れた珈琲を、駆けつけたレイラとグレイに振る舞っている。
「二人とも、有難う……私、兄さんと姉さんに、甘えすぎかしら?」
レイラが申し訳なさそうに、宝石の様な瞳を伏せる。
「何を言ってるんだい、レイ。君を守るのは、僕達の特権だよ」
セオンが優しく彼女の頭を撫でる。然しカミラが残した予言の最後の一節は、まだ不穏な影を落としていた。シュラの残滓は、単なる呪いではなく、更に深い世界の理のバグへと繋がっている。
「……次は、あの子たちが狙われるかもしれない」
カミラは、離れた場所で元気に過ごしているリオンやエイラ達、姪や甥たちの顔を思い浮かべる。龍神の国の均衡を揺るがす戦いは、まだ序章を終えたに過ぎない。
龍神の国の心臓部、神央龍脈の龍神宮。嘗て世界の調和を象徴した水晶の塔は今、どす黒い影に侵食されていた。空は罅割れた鏡の様に不気味な紫電を走らせ、大地からは聞き取れない呪詛の呟き――魔性の悪性情報が、ノイズとなって溢れ出している。其の中心に座すのは、形を持たぬ怨念の塊。嘗て存在を抹消された筈の祖母、シュラの残滓を核とした巨大魔性だった。
「……ああ、忌々しい。あの時、殺しておけば良かったものを」
空間を直接震わせる、吐き気がする程甘ったるい声。それはレイラの脳裏に直接、古傷を抉る様に響く。
「姉さ……姉さん……。」
レイラは、震える膝を突き、漆黒の結晶立方体を背後に浮かべた儘立ち尽くしていた。彼女の視界には、嘗て分を庇って血に染まった姉・カミラの姿が、幻影となって幾度も明滅する。
「私が……私がもっと強ければ、あの時、私が内気でさえなければ、姉さんが身代わりになる事はなかった。私の存在其の物が、家族を壊す呪いなのよ」
レイラの心象風景を反映し、周囲に広がる筈の白仙水晶宮が、内側から黒く染まっていく。癒やしの空間は、絶望の檻へ変貌し彼女の魔力回路は逆流。全身を宝石化させる筈の神造宝石が、彼女自身の肉体を内側から砕き始めていた。
「レイ、耳を貸してはいけない!其れは君の声ではない、過去という名の毒だ!」
絶望の淵に沈みゆくレイラの手を、力強く温かな掌が掴んだ。グレイが、銀の瞳に烈火を宿して立っていた。グレイは迷わず、自らの禁忌を解く。
「我が声よ、理を穿て……我が魂よ、最愛の盾となれ祝福の聖歌――絶唱!!」
グレイの喉から放たれたのは、音という概念を超越した虹色の粒子。それは1.5Hzの揺らぎを伴い、レイラの荒れ狂う精神を強引に包み込んだ。
「思い出して欲しい、レイ……君が皇帝として立ち上がった日を……子供達を抱き上げたあの温もりを……君は呪いなんかじゃない……僕達の、世界の、唯一無二の光なんだ!」
其の歌声は、シュラの呪詛を物理的に押し返した。グレイの背後に浮かぶ魅惑の歌姫が、漆黒の空を虹色に塗り替えていく。レイラの心に、冷たい氷を溶かす様な熱が戻ってきた。
「……そう、ですね……私はもう、あの日の泣き虫な子供じゃないわ。」
レイラの瞳に、白銀の輝きが戻る。彼女は指を鳴らした。頭上に浮かぶケテルの王冠を縛る白銀の鎖が、一本また一本と、凄まじい衝撃波と共に弾け飛ぶ。
「次元の理を、此処に再定義する。」
レイラの姿が膨れ上がり、高密度の神秘を宿した白銀の巨躯へと変貌した。体長80m。鱗の一枚一枚が、金剛石以上の硬度と輝きを放つ白銀の龍神。隣ではグレイもまた90mの紺青の巨躯を現していた。星降る翼を広げた二柱の龍神が並び立つ姿は、神話そのものの具現であった。
「子供達、準備はいいかい?」
グレイの呼びかけに、四人の影が躍り出る。リオンは漆黒の大鎌を振るい、魔性の防御膜を概念ごと断ち切る。エイラは隔壁を展開し、背後から迫る怨念の触手を完全に遮断する。アルトは純白の剣を掲げ、光の斬撃で魔性の核を露わにする。リアラは瞳に真実を映し出し、敵の脆弱な座標を叫ぶ。
「左上、3.5次元の歪み!其処が核よ!」
家族全員の想いが、一本の線に繋がった。
「逃がさないわ、シュラ。貴女の妄執も、此の世界の汚れも――全て私が、宝石の中に封じてあげる」
レイラが咆哮する。彼女の巨躯が七色の結晶へと変わり、周囲の空間其の物が巨大な宝石の迷宮へと書き換えられた。最早物理法則は意味をなさない。光は曲がり時間は静止し、質量は輝きへと変換される。
「さあ、お覚悟!!」
白銀の龍神の爪に、純粋な金剛石で成る巨大な槍が握られる。それは世界の始まりを司る権能の奔流。レイラは魔性の中心、シュラの顔を模した醜い核へと突撃した。グレイが空中で舞い言霊を放つ。
「死の聖歌。其の怨念に、永遠の安らぎを。」
グレイの停止信号と、レイラの創造の輝きが交差する。物理的な破壊ではない。其れはシュラの怨念という悪性情報を、一粒の美しく二度と開く事のない漆黒の宝石へと再編纂する儀式だ。眩い閃光が龍神宮を包み込み、次の瞬間、世界には静寂が訪れた。
嵐は去った。空には再び柔らかな月の光が差し込み、罅割れた大地はセオンの浄化の雨によって癒やされ始めている。レイラは人の姿に戻り、ふらりと倒れそうになる身体をグレイの胸に預けた。
「……終わったのですね?」
「ああ、終わったよ。君はまた一つ、過去に打ち勝ったんだ」
其の手には、先程まで世界を滅ぼさんとしていた怨念が閉じ込められた、小さな黒いルビーが握られていた。レイラは其れを、迷わず自らの領域の最奥、決して誰も触れられぬ匣の中へと放り込む。
「母様!父様!」
駆け寄ってくるリオン達の笑顔。カミラとセオンも、安堵の溜息をつき乍ら近づいてくる。然しレイラの胸騒ぎは消えていなかった。宝石の王冠が、微かに共鳴を続けている。この事件は、単なる一族の怨念の再燃ではない。もっと大きな、世界の理其の物を揺るがす何者かの介入を感じていた。
「……観測を続けましょう。記録はまだ、終わっていないのだから」
レイラは愛する家族の温もりを感じ乍ら、遠く月の国の方角を見つめた。其処には、新たなる変異の影が兆していた。
空は幾千万の宝石が砕け散った様な、残酷な迄に美しい輝きに満ちていた。龍神の国の西方、嘗てアルバエレミア家の栄華と悲劇を飲み込んだ古戦場は今、濃密な悪性情報の渦――魔性と化した祖母・シュラの怨念によって、どす黒い影に塗り潰されようとしていた。
「……聞き苦しいわね、その断末魔は。」
カミラは、ダウナーな声音の中に冷徹な刃を潜ませ、空中に浮かぶ巨大な魔導書、悠久世界の語り部の頁を捲った。彼女の額には、闇喰メティス/アテナの紋様が、警告を告げる様に真紅に脈動している。
「お祖母様……貴女が綴りたかったのは、私達を苗床にした自己愛の喜劇でしょう? 悪いけれど其の物語、私が此処で完結させてあげる。」
カミラが真鍮の万年筆、想いを綴る万年筆を虚空に走らせる。インクの代わりに流れるのは、事象を確定させる白銀の魔力。彼女が一文字を刻む度に、シュラが展開していた漆黒の霧が、物語の句読点を打たれた様に硬直していく。
「編纂を開始する……題名は……傲慢なる影の墜落。ハッピーエンドは、私達が貰うわ」
「カミラ、あまり無理をしないで。記録を書き換える負荷は、僕が肩代わりするから」
セオンが其の朗らかな微笑みを消していた。彼の周囲には、闇喰セオリツヒメ/ハラエドノオオカミの淡い緑の光が渦巻き、戦場に漂う瘴気を片端から霧散させていく。
嘗ては病弱で、妹のレイラに背負わせてしまった玉座。その悔恨を糧に鍛え上げた強靭な霊体が、今、龍神の国のエーテルと共鳴した。
「お祖母様、もう誰も貴女を恨まないわ……只、忘れ去られるだけ……さようなら、お祖母様……貴女の孤独も、宝石の中に閉じ込めてあげましょう。」
カミラの悠久世界の語り部によって、静かなエピローグへと書き換えられた。シュラの魔性は、数億の光る文字の渦に巻かれ、軈て一粒の、底知れぬ哀しみを湛えた深紅の宝石へ結実した。
静寂が訪れた戦場だった場所には、レイラの白仙水晶宮が展開され、傷ついた人々や大地を母胎の様な安らぎで包み込んでいた。
「終わったのね。」
カミラが万年筆を収め、ふらりと倒れそうになるのを、セオンが素早く支える。
「お疲れ様、カミラ……これで、アルバエレミアの呪いは、只の歴史になったよ」
レイラは、手の中に残った紅い宝石を見つめた。其処には、嘗て自分達を愛してくれたかもしれない、狂う前の祖母の面影が微かに閉じ込められている様な気がした。彼女はその宝石を、自身の領域にある匣へと納める決意をする。
「グレイ……この戦いも、私達の記録に残しましょう。異邦人達が語り継ぐ、遠い神話の一つとして」
「そうだね。悲しい物語だったけれど、最後はこんなに綺麗な光に包まれたんだから」
グレイがレイラの肩を抱き寄せ、二人は共に新しく生まれ変わった龍神の国の夜明けを見つめた。空には、銀龍族のツキトが操る月光が優しく降り注ぎ、全てを祝福するように輝いている。龍神達の見聞録。その一頁には、今日という日が愛と救済の記録として、永久に刻まれることだろう。
龍神の国、その西方に位置する天翔風域の一角。白銀の街並みが夕陽に染まる頃、ジュエルショップドラコ・ジェマの重厚な扉が開いた。
「お帰りなさい、レイ。今日の仕入れはどうだった?」
柔らかな声で迎えたのは、レイラの最愛の夫、グレイだった。彼は手にしたカヌレの包みをカウンターに置き、妻の腰にそっと手を添える。
「ええ、素晴らしい原石に出会えたわ、グレイ。宝石の導きかしらね」
店主であるレイラは其の超越的な美貌に、慈母の様な微笑みを湛え夫の胸に顔を寄せた。彼女の背後には時折、漆黒の結晶立方体が静かに浮遊している。其れは彼女が司る世界の均衡、王冠の具現。嘗て皇帝として君臨した冷酷な覇気は、今では家族への深い愛というヴェールに包まれていた。
「リオン達も、もうすぐドラコ・リバルに集まる時間だよ。セオンが、新作のパンケーキを焼いて待っているそうだ」
「まあ、兄さんったら相変わらずね。」
レイラは小さく笑った。失声症を患っていた過去の傷跡は、グレイの言霊と献身的な愛によって癒えつつある。然し其の項に刻まれた蒼い矢車菊の紋様は、今も清浄な光を放ち、彼女を汎ゆる穢れから守り続けていた。
場所を変えて、中央広場の外れにあるカフェバー・ドラコ・リバル。店内にはセオン自慢の珈琲の香りと、ジャズの音色が心地よく流れている。
「こらこら、アルト!其処で踊り出すんじゃない。グラスが割れたら君の小遣いから引くよ?」
オーナーのセオンは、朗らかな笑顔を浮かべながらも、次男のアルトを嗜めた。彼は嘗て病弱だった面影を感じさせない程、今や強靭な浄化の権能を宿している。
「良いじゃないか、セオン伯父さん!今日はカミラ叔母さんの新刊出版祝いだろう?」
元気いっぱいのアルトの隣で、エイラが呆れた様に溜息をつき、リアラはポヤポヤとした様子でセオンの袖を引いている。
「ねえ、セオン伯父様。カミラ様は、また難しい顔をして本を読んでるの?」
リアラの問いに答える様に、店の隅にある特等席で、一人の女性が顔を上げた。最高位の司書、カミラである。彼女はダウナーな雰囲気を纏いながら、手元の万年筆を走らせていた。
「……リアラ、彼女が難しい顔をしてるのは、この物語の結末をどう綴るか悩んでいるだけ……あ、レイ、やっと来てくれたね」
カミラは妹の姿を見つけると、其れ迄の冷淡な表情を一変させ、過保護な姉の顔でレイラを手招きした。
「ほら、こっちに来なさい。今日はレモンケーキも用意してあるわ。貴女を甘やかすのが、私の今の日課なんだから」
夜が深まるにつれ、店内にはドラコ・リバルの店員であるコカゲや、カンウ、ミツキ達も加わり、賑やかな宴が始まった。
嘗て祖母シュラが齎した悲劇は、アルバエレミア家に深い爪痕を残した。カミラが身代わりとなり、レイラが心を閉ざしたあの日の記憶。然し彼らは絶望を乗り越えた。アイラとイクトという両親の愛、そして何よりもグレイという魂の伴侶の存在が、レイラを光の射す場所へと連れ戻したのだ。
「皆、聞いてほしい。」
グレイが立ち上がり、優雅な動作でグラスを掲げた。彼の背後には、一瞬だが虹色の粒子を伴う舞踊の王冠が揺らめく。レイラ達が歩んできた46億年という歳月は、決して平坦な道ではなかった。失ったものも傷ついた記憶もあると述べる。
「然し、こうして家族が揃い、笑い合える……これ以上の宝石が、この世にあるだろうか?」
「グレイ……私の皇帝としての力も、宝石の幻想も……全ては此の瞬間の為にあったのだと確信できますわ。」
レイラがグレイの手を取る。彼女の胸に輝く賢者の石が、グレイの体温に呼応し黄金色の輝きを放った。
数ヶ月後。レイラとグレイは、二人だけで静かな村エリス・シエルを旅行で訪れていた。其処は喧騒から離れた、ただ風と光が踊っている。夕陽が地平線に沈みかけ、世界が黄金と紫の混ざり合う境界線に包まれている。
「グレイ……此れからも私の隣で、この世界を観測し続けてくれますか?」
レイラが問いかける。その項の矢車菊は、まるで呼吸する様に穏やかに脈動していた。
「勿論だよ、レイ……君が望むなら、46億年先のその先迄。私達の物語は、一冊の本には収まりきらないからね。」
グレイは彼女の額に優しく口づけを落とし、レイラは嬉しそうにグレイを抱きしめ彼の胸に顔を埋める。レイラ達の物語は優しい光に包まれ乍ら、一先ず幕を閉じるのだった。
後日談【宝石の記憶、言霊の春】
某日、龍神の国にて――
龍神の国、西方。其処は、世界中の富と色彩が結晶化したかの様な美しき街、首都・白風の一角にある。
宝石店、ドラコ・ジェマ。店内に一歩足を踏み入れれば、其処には物理法則さえも静謐に従順さを誓った様な、清浄な空気が満ちていた。ショーケースの中でレイラが作り上げた宝石達が、まるで星々を閉じ込めたかの様に瞬いている。
「……ふう。此れで、よし」
作業机に向かっていたレイラが、彫金用のルーペを外した。彼女の指先に握られていたのは、一粒の稀少なパパラチアサファイア。蓮の花の色を宿した其の輝きは、レイラの魔力によって研磨され、もはや物質としての価値を超え、一種の神秘を帯びていた。
「お疲れ様、レイ。丁度良いタイミングだ」
背後から、心地よい低音が響く。振り返れば其処には最愛の夫、グレイが立っていた。彼は堂々たる体躯を優雅に揺らし、手慣れた動作でティーセットを運んでくる。
「有難う御座います、グレイ。君の淹れる紅茶は、何時も私の心を一番落ち着かせてくれます」
レイラの唇から、自然と柔らかな微笑が溢れる。グレイは彼女の隣に腰を下ろし、琥珀色の液体をカップに注ぐ。
「今日のカヌレは、リオンが送ってくれたレシピを少しアレンジしてみたんだ。子供達も、其々の場所で頑張っている様だね」
「ええ。リオンは弟妹の面倒を見すぎて、自分の時間が削られていないか心配でしたけれど……エイラからは昨日、新しい詩集が届いていましたわ。」
「アルトは相変わらず、黄砂の遺跡を駆け回っているらしい。リアラも、相談役に引っ張りだこだと便りがあったよ。あの子の幻想は、人の心を解きほぐす為にあるんだね」
二人は、独立した四人の子供たちの近況を慈しむ様に語り合う。嘗て皇帝として世界の均衡を双肩に担っていた二人にとって、此の何気ない日常の対話こそが、何物にも代えがたい宝石だった。だが其の平穏を裂く様に、店内の空間が微かに歪んだ。
「お邪魔するよ、二人とも……おや、丁度お茶の時間だったかな?」
現れたのはレイラの兄であるセオンだ。朗らかな笑顔を浮かべているが、其の周囲の空気は、不自然な程に清浄へと書き換えられている。彼の幻想が、無意識の内に周囲の微細な塵や負の想念を無に帰しているのだ。
「兄さん?珍しいわね、連絡もなく……。」
レイラが立ち上がる。
「カミラに頼まれてね……言の葉図書館の記録に、少しばかり妙なノイズが混じり始めているらしいんだ。異邦人達の持ち込む思い出の中に、本来ある筈のない影が紛れ込んでいる、と」
グレイの眉が、僅かに動いた。
「カミラがそう言うのなら、只の観測ミスではないね。幻影の基盤が揺らいでいるのかい?」
「いや、彼女が言うには、かの魔性の襲撃事件の残滓と言っているんだ。」
セオンは、手にしたカフェモカを一口啜り、ふっと表情を引き締めた。
「一応だけれど……レイ、君の王冠の権能が、必要になる時が来るかもしれない。」
レイラは無意識に、自らの胸元に浮かぶ漆黒の結晶立方体――幻想の中枢へと意識を向けた。その内部には、46億年分の価値が燃料として蓄積されている。
「そう……御祖母様と魔性達の残滓が……残っているのなら、万が一の事があってはいけないもの。」
レイラの声が、静かで絶対的な王者の威圧を帯びる。嘗て皇帝として君臨した彼女の矯正された人格が、瞬時に表層へと浮かび上がった。
「兄さん、手伝う事があるのなら、私達も行くわ。」
「分かった、カミラにも伝えておくよ。」
セオンが去った後、店には再び夫婦二人の時間が戻った。だが窓の外に広がる空は、何時の間にか燃える様な朱色に染まっている。グレイはそっとレイラの肩に手を置いた。
「レイ……何があっても、私が君の隣にいる……私の言霊も舞踊も、全ては君と家族を守る為に……。」
「ふふ、分かっていますわ、グレイ。」
レイラは、指先に魔力を通した。パパラチアサファイアが、彼女の意志に応えて淡く発光する。
「さあ、行きましょうか。明日の朝、リオン達が帰ってきても良い様に、最高のお菓子を準備しておかないと」
「そうだね。今度は私の母も呼んで賑やかにしよう」
二人は微笑み合い、夕闇が迫る街へと視線を向けた。その先には、激動と慈愛の運命が待ち受けている。
龍神の国、その中心に位置する首都・龍神宮の片隅。喧騒から少し離れた路地裏に其の店はある。カフェバー、ドラコ・リバル。磨き抜かれた木製の扉を開ければ、焙煎された珈琲の芳醇な香りと、どこか懐かしいスパイスの匂いが鼻腔を擽る。
「いらっしゃい、レイ、カミラ。今日も一段と綺麗だ……僕の自慢の妹達は」
カウンターの奥で、純白のエプロンを揺らしながらセオンが朗らかな笑みを浮かべた。その背後では、店員のコカゲが際よくカップを温めている。
「……兄さん、相変わらずね……その挨拶、46億年経っても飽きないのかしら」
カミラが呆れた様に息をつき、お気に入りの隅の席に腰を下ろした。手には既に何処から取り出したのか、古めかしい装丁の本が握られている。
「ふふ、兄さん有難う。姉さんも、そう言いながら口元が緩んでいるわ」
レイラは白銀の髪を揺らし、カミラの隣に座った。彼女が動く度、耳元の耳飾りが微かに光を反射し、彼女の強大な魔力を穏やかに鎮めている。
「さて、今日は再誕の日の打ち合わせだったね……そういえば、グレイはどうしたんだい?」
「食材の調達に寄ってから来るそうよ。アルトがどうしても父様の特製カヌレが食べたいと騒いだらしくて」
レイラが困った様に微笑むと、店の扉が勢いよく開いた。
「皆、お待たせ。」
大きな紙袋を抱えたグレイが、場を明るくする様な笑顔で現れる。その後ろにはアイラとイクトも、穏やかな表情で続いていた。
「あら、主役達がもう揃ってるじゃない。セオン、私には何時もの激辛カレーをお願い」
「母さん、今日は打ち合わせですよ……はい、アイラ母さんには特製のを。父さんにはカフェモカでいいかい?」
セオンが手際よく注文を捌いていく。いつの間にか、店には他の龍神達も集まり始めていた。エイカはレイラの隣を確保しようと、音もなく忍び寄り、シグレは時間厳守だと呟き乍ら懐中時計を確認している。アサヒは女装の麗人らしい凛とした佇まいで、リアラにマジックを見せていた。狭いカフェバーの中は、瞬く間に家族と友人の、世界で最も強大な神々で埋め尽くされていく。
「――というわけで、今回の再誕の日は、龍神宮の中央広場を全面開放して行います。形式は立食パーティーですが、義姉の提案で歴史回廊の展示も併設する事になりました」
グレイが資料を広げ、テノールボイスで説明を進める。その声には言霊の力が宿り、聞く者の心を自然と高揚させた。
「歴史回廊……私達の歩んできた、あの忌まわしくも愛おしい記録を、異邦人達にも公開するのね」
カミラが本から目を上げ、銀色の瞳に深い思索を宿した。彼女達が経験した、祖母シュラによる襲撃。レイラが声を失い、カミラが消滅の淵を彷徨ったあの日。それは此の一族にとって消えない傷跡であり、同時に今ある絆を証明する楔でもあった。
「ええ、隠す必要はないわ、姉さん。私達が何を失い、何を得たのか……其れを記録し、伝えるのが私達の役割だもの」
レイラの言葉に、場が静まり返る。46億年という想像を絶する時間を生きる彼らにとって、出来事は単なる点ではなく、永遠に続く織物の一部だ。
「……レイラ、無理はしない様にな?」
父イクトが、大きな手でレイラの肩を包み込む。嘗て娘達を守りきれなかった悔恨を抱え乍らも、彼は今、目の前で微笑む娘を誇りとして見ていた。
「大丈夫です、お父様。私にはグレイが、子供達が、そして皆がいますから」
レイラは隣に座るグレイの手を握りしめた。グレイは照れたように頬を染め乍らも、その手を力強く握り返す。その時、店の外から賑やかな声が響いてきた。リオン、エイラ、アルト、リアラの4人が、従姉妹達を連れて駆け込んできたのだ。
「母様ー!父様! 準備、手伝いに来たよ!」
「アルト、走らないの……叔父様、お騒がせします。」
冷静な長男リオンが、暴走気味の弟を嗜める。嘗て世界の法則が崩れ、血と涙が宝石となって散った時代があったとは信じ難い程の、穏やかな日常で平和な光景だ。
だが、龍神達の鋭敏な感覚は捉えていた。其の平和の裏側で、常に闇喰達が負の感情を貪り、浄化し続けている事を。そして彼ら自身が世界の楔として存在し続けなければ、この楽園は瞬時に崩壊する危うい均衡の上にある事を。
打ち合わせが一段落し、宴が始まった。異邦人の店員達が、領域の清掃を終えて合流し、種族の垣根を超えた笑い声がドラコ・リバルを満たしていく。
レイラは少しだけ席を立ち、店のテラスへ出た。空には太陽の代わりに、柔らかな光を放つエーテルの雲が流れ、遠くには金龍族の象徴である水晶の塔が、夕闇の中で七色に輝いている。
「レイ、此処にいたのかい?」
背後から、グレイが上着を持って現れた。
「ええ……少しだけ、此の景色を記録しておきたくて。」
レイラが指先を鳴らすと、周囲に微細な宝石の粒子が舞い、空中の一点を固定した。其れは彼女の匣へと送られる、今この瞬間の幸せという名のデータ。
「46億年……長い様で、君と出会ってからは一瞬の様だった。」
グレイが彼女の隣に並び、遠い地平線を見つめる。
「此れからも、そうですよ。私達は観測し、記録し続ける……此の美しい世界と、愛する家族の足跡を」
レイラがそっとグレイの肩に頭を預ける。彼女の背中には、目に見えない程微かな蒼い幾何学模様――矢車菊の紋様が、守護の光を宿して脈動していた。
「……ねえ、グレイ……私達の物語は、どんな風に始まるのかしら?」
「そうだね……きっと、今日よりももっと賑やかで、少しだけ騒がしい……けれど、最高に温かい物語になる筈だよ。」
二人の視線の先に、龍神の国の夜が更けていく。星辰砂都の砂が星の光を反射し、叡智暗嶺の霧が知識を隠し、神央龍脈の鼓動が世界にリズムを刻む。平和とは勝ち取るものではなく、守り続けるものだ。
銀色の月の光が、レイラとグレイの銀髪を等しく照らす。中にいたカミラが、窓越しに二人を見て「早く戻りなさい、冷めるわよ」とぶっきらぼうに告げる。
セオンの笑い声が、子供達の歓声に混じって響く。其の全てが、至高の宝石よりも価値のある真実として、龍の神の記録に刻まれていった。
後日――
アルバエレミア家の屋敷にある広大な図書館――固有結界・書架迷宮の一角では、カミラが膨大な書物の山に埋もれていた。
「……やれやれ……歴史の修正箇所が多すぎるわ。此れじゃあ、レイラを甘やかす時間が削られてしまうじゃない」
ダウナーな口調で独りごちる彼女は、真鍮製の万年筆・想いを綴る万年筆を走らせ、空間に直接事象を書き込んでいく。彼女の額に刻まれた本の紋様――闇喰メティスが膨大な知識を整理し、彼女の現実改変能力が暴走しないよう、厳格な倫理の歯止めをかけていた。
カミラにとって、レイラは守るべき全てだった。嘗て自らの存在を賭して妹を守った誇りと、その代償としての消滅の危機。今、こうして司書として世界の理を編纂しているのも、全ては家族の平穏を確定事項とする為だ。
「カミラ、またそんな暗い顔をして。少しは休憩したらどうだい?」
朗らかな笑い声と共に、現れたのはセオンだった。彼は妹達を溺愛する重度のシスコンを自称しているが、その実、一族の穢れを一手に引き受ける癒やしの要である。
「セオン兄様……別に、暗い顔なんてしてない。これがデフォルト」
「ははは、相変わらずだね。ほら、浄化の波動を少し分けてあげよう」
セオンが手をかざすと、彼の胸元の淡い緑色の渦――闇喰・セオリツヒメが脈動した。セオン自身の致命的な弱点である穢れへの脆弱性を補完し、彼を常に無垢な状態へと還す聖なる安全装置。
彼の周囲に広がる不可侵の聖域が、カミラの疲弊した精神を優しく包み込み、蓄積した魔力的負荷を洗い流していく。
「……ふん、少しだけ、楽になった気がするわ……ありがと」
「どういたしまして!さあ、今夜は家族全員で食事だ。リオン達も、もうすぐ集まる筈だよ」
宮殿の広場では、レイラとグレイの子供達が其々の幻想を研鑽していた。リオンは、父譲りの冷静さで漆黒の大鎌を操り、エイラは母の聡明さを宿した瞳で隔壁の強度を確認している。アルトはムードメーカーらしく宮殿を駆け回り、リアラはポヤポヤとし乍らも、家族の健康状態をさりげなくチェックしていた。
彼ら若き龍神たちは、親たちが背負ってきた46億年の歴史を知り乍らも、新しい時代の風をその翼に受けていた。其の様子を、物陰から見守る者達がいる。
龍神の国に多元世界から漂着した異邦人達だ。彼らは客観的真実のみを記録する龍神族とは異なり、主観的な思い出や感情を世界に繋ぎ止める役割を担っている。
「……素晴らしいな。龍神族の絆は、まるで完成された宝石の様だ」
一人の異邦人が、手記にそう書き留める。彼ら異邦人は、死の間際に自らの人生を一冊の本に纏め、龍神族へ託す定めにある。其れは公式な記録には残らないが、レイラ達の個人領域に贈り物として、大切に保管される魂の対話だった。
黄昏時、龍神の国が琥珀色の光に染まる頃。レイラ、グレイ、カミラ、セオンの四人は、水晶宮のテラスに集まっていた。
「今回の観測記録も、概ね良好ね」
レイラが手元の水晶板を確認し乍ら呟く。
「ああ……だが境界の向こう側で、微かな不協和音が聞こえる。」
グレイが視線を遠く、龍神の国の外縁へと向けた。彼の瞳が、時空の歪みに潜む何かを捉えている。
「……まだ終わらないという事かしら?或いは新しい物語の始まりか……。」
カミラが万年筆を閉じ、その表紙を撫でた。
「どんな困難が来ても、僕達が浄化して導いてみせるさ。この家族がいる限りね」
セオンが力強く宣言し、三人の妹弟達の顔を見渡した。レイラは、自らの胸に手を当てた。其処には矢車菊の紋様が、淡い蒼色の光を放ち乍ら静かに脈動している。
「ええ……私達は記録し、戦う……此の悠久の果てまで、共に生きていくわ。」
彼女がそう決意した瞬間、頭上に浮かぶケテルの王冠を縛る白銀の鎖が、一筋だけ微かな音を立てて解けた。それは、更なる深淵へと足を踏み入れる為の、静かなる覚悟の証明。龍神の国に、夜が訪れる。無数の宝石が瞬く様な、光り輝く観測の続きであった。
龍神の国、其の心臓部に位置する首都・龍神宮。天を衝く水晶の塔が月光を吸い込み、街全体が淡い白銀の熱に浮かされていた。今夜、此の街の象徴であるヴェルヴァ劇場は、嘗てない熱狂に包まれている。
「……レイ、準備はいいかい?」
舞台袖の薄暗がりの中、低く春の陽溜まりの様な声が響いた。レイラは、自身の胸元に浮かぶ漆黒の結晶立方体を静かに見つめ、それから愛する夫へと視線を巡らせた。
「ええ、勿論ですよグレイ。」
レイラの姿は、今や宝石業を営む淑女の其れではない。
全身を包むのは、魔力を物理的な輝きへと変換する特殊なドレス。彼女の項から四肢に掛けては、蒼き聖典・矢車菊の幾何学模様が淡く脈動し、周囲の塵ひとつ寄せ付けない清浄なベールを形成している。対するグレイは、紺青の礼装に身を包み、其の頭上には舞踊の王冠が天使の輪の如く光り輝いていた。
「46億年という時間は、私達にとって瞬きの様なものだったけれど……今夜のこの景色だけは、永遠に記録しておきたいです。」
グレイが微笑むと、彼の喉元に寄り添う紺青の翅を持つ言霊蟲が、チリリと美しく鳴いた。客席には、ありとあらゆる種族が詰めかけていた。最前列の貴賓席には、レイラの姉カミラと兄セオン、そして両親であるアイラとイクトが座っている。
「ふふ、レイラもグレイ君も、相変わらずお熱い事……。」
カミラがダウナーな口調で呟きながら、劇場の因果を最高の結末へと固定し続けていた。
「いいじゃないか、カミラ。僕達の妹と義弟が、世界で一番輝く瞬間なんだから」
セオンが朗らかに笑う。彼の胸元にある渦が、観客達が発する興奮という名の熱量を、清らかなエーテルへと変換し、劇場全体の空気を浄化していく。
「あ、始まるよ!」
アルトが身を乗り出し、リオンがそれを宥める。エイラと次女リアラは、期待に目を輝かせて舞台を見つめていた。
さらにその背後には、エイカとシグレ、アカネとアサヒ……各一族の代表たる友人達が、龍神としての威厳を保ちつつも、何処か誇らしげな表情で控えている。そして、客席の大部分を占めるのは異邦人達だ。
彼らは龍神族の様に、客観的な記録を残す事はできない。けれど、その主観的な感動や喜びこそが、此の世界に彩りを与える不確定要素である事を、レイラ達は誰よりも理解していた。ベルの音が三度鳴り、劇場の照明が落とされる。完全な静寂。その中心で、グレイが一歩、踏み出した。
「――歌おう。全ての孤独と、全ての祝福の為に」
グレイの口から漏れたのは、歌という名の魔法だった。祝福の聖歌――1/fゆらぎを孕んだその歌声は、虹色の粒子を伴って空間を伝播する。観客達は、自分の魂が優しく抱きしめられる様な錯覚に陥った。嘗ては敵を支配するために振るわれた言霊の力が、今はただ、人々の心にある幸福な記憶を呼び起こす為だけに紡がれる。
「私の番ね。」
レイラが指先を鳴らす。その瞬間、彼女の背後に七色の翼が広がり、身体の一部が神造宝石へと変質を始めた。
「神造宝石・全解放――」
彼女の身体から放たれたのは、無数の宝石の粒子。ルビー、サファイア、エメラルド。其れらは単なる結晶ではない。レイラの魔力が具現化した光の欠片だ。グレイの歌声という旋律に、レイラの宝石という色彩が重なる。
舞台上には白仙水晶宮が展開され、観客達はいつの間にか、宇宙の星々を見上げる水晶の宮殿へと招かれていた。
「此れは……夢かしら?」
一人の異邦人の少女が、目の前を舞う青い光の粒子に手を伸ばす。それは彼女の頬に触れると、心地よい温もりだけを残して、小さな花の形に弾けた。祭典は佳境に入る。グレイの舞踊は激しさを増し、その一挙手一投足が空間に刻み文字を刻んでいく。
「【光】、 【愛】、 【永劫】――」
刻まれた文字が黄金色に発火し、劇場の天井を突き抜けて夜空へと昇っていく。それは空に咲く大輪の火花となり、龍神の国全土を照らし出した。
レイラは歌う。嘗て失声症に苦しみ、声を失っていた彼女が今、夫の奏でる調べに合わせて絶唱を放つ。王冠の権能を全開放した其の魔力は世界を浄化し、再構成する為の創世の輝きへと昇華されていた。
「君が私を救ってくれた様に……今度は私達が、此の世界を愛で満たしましょう。」
レイラの歌声がグレイの歌声と重なり、二人の魔力が完全に同期する。二人の龍神としての真の姿――白銀の巨躯と紺青の巨躯の幻影が舞台上に重なり合い、巨大な光の柱となって天を衝いた。
その光は遠く、叡智暗嶺の深い霧を払い、剛藍防壁の城塞を黄金に染め、炎熱豊穣地の作物に生命を吹き込み、星辰砂都の砂漠に銀の雨を降らせた。
祭典が終わった後、劇場には長い、長い沈黙が流れた。軈て誰からともなく拍手が起こり、それは地鳴りの様な歓声へと変わった。舞台袖に戻ったレイラとグレイは、互いの肩を預け合い、静かに呼吸を整えていた。レイラの胸元で、『賢者の石』が穏やかな熱を放っている。
「……大成功ですね、グレイ。」
「ああ……君の宝石、今迄で一番綺麗だったよ。」
グレイが彼女の手を取り、その甲に優しくキスを落とす。レイラは少しだけ頬を染め、慈母の様で一人の恋人の様な微笑みを浮かべた。
「お疲れ様、二人とも」
カミラとセオンが歩み寄ってくる。
「素晴らしい記録になったわ。私の図書館の特等席に、今夜の物語を並べておかなきゃ」
「異邦人達の感情エネルギーも最高潮だ。これで暫く、此の国は安泰だね」
カミラは満足げに頷き、セオンは誇らしげに胸を張る。夜空を見上げれば、そこにはまだ、レイラが放った宝石の残光が星の様に瞬いていた。
龍神の国の中心、首都・龍神宮に聳え立つ水晶の塔。その最上階にあるバルコニーからは、宝石を散りばめた様な夜景が一望できた。天空を渡る風翔船の灯火が、ゆっくりと光の河をなぞっていく。
「ふふ、今夜は一段と賑やかですね、グレイ」
レイラは、手にした紅茶のカップから立ち上る湯気越しに、愛する夫を見つめた。彼女の白銀の髪が月光を浴びて淡い桃色に透け、その項には矢車菊の紋様が静かに、清らかな蒼い光を放っている。
「そうだね、レイラ。リオン達が持ち寄った異界のお菓子も好評だったし、何より皆の笑顔が見られたのが一番の収穫だ」
グレイは、柔和な笑みを浮かべて隣に並んだ。彼が動く度に、胸元の闇喰・ナタラージャ/アメノウズメの紋様が、夜の深淵を映したような紺青の光を微かに明滅させる。今日は、フォルティア一族と友人達が集う大団円の祝宴だった。46億年という、気の遠くなる様な時間を歩んできた彼らにとって、こうした何気ない平和な一日こそが、神造宝石よりも価値のある宝物だ。
「おやおや、主役がこんな所で油を売っていていいのかい?」
背後から呆れた様な、けれど慈愛に満ちた声が響く。振り返れば、其処にはセオンとカミラが立っていた。
「兄さん、カミラ姉様」
レイラが微笑むと、カミラはダウナーな口調で続けた。
「記録、終わったわ。今日の祝宴も、子供たちの成長も……全部、言の葉図書館の最深部に刻み込んできたから。誰にも、消させない」
カミラの額に刻まれた闇喰・メティス/アテナが、彼女の膨大な知識を整理する様に明滅する。
「有難う、カミラ。僕も此の世界の隅々まで清めておいたよ……皆の疲れや心の澱みも、全部流してきたし、明日の朝は最高に目覚めがいい筈さ」
セオンはシスコン全開の笑顔でレイラの頭を撫でようとし、隣のグレイの視線に気づいて「おっと」と手を引っ込めた。
「父様!母様!叔父さん達もここにいたんだ!」
バルコニーに飛び込んできたのはアルトだ。その後ろから、リオン、エイラ、そして末娘のリアラが続く。
「リアラ、危ないですよ」
「大丈夫よ、エイラ姉様。父様と母様の匂いがするから、迷わないもの」
ポヤポヤとしたリアラの言葉に、場が和やかな空気に包まれる。リアラの幻想は、今この場の幸福指数が計測不能である事を示していた。
宴の余韻に惹かれる様に、友人達も次々と姿を現した。
「レイラ、相変わらず甘い雰囲気ね。少しは自重しなさいよ」
アカネが、ツンとした態度で言い放つ。だが、その手にはレイラの為に用意したであろう、宝石細工の様な見事な焼き菓子が握られていた。
「アカネ、顔が赤いよ? 照れてるの?」
アサヒが女装の麗人らしい、凛々しさと茶目っ気を混ぜて冷やかす。その横ではツキトが夜行性の本領を発揮し、設計図通りの完璧な姿勢で夜空を観測していた。エイカは、レイラの影に寄り添う様に立ち、その独占欲を闇喰の制御下に置き乍ら、静かに守護の誓いを新たにする。シグレは生真面目な顔で、宴の片付けの段取りについてセオンと協議を始めていた。レイラはそっと、耳元の耳飾りに触れた。
『……レイラ、素晴らしい夜ですね。貴女の心は今、最高純度の金剛石よりも美しく輝いています』
脳内に直接響く闇喰の声。彼らは龍神達の負の感情を喰らい、精神を安定させる絶対的な守護者。レイラが嘗て失声症に苦しんだ時も、グレイが愛ゆえの焦燥に駆られた時も、彼らがその闇を肩代わりしてくれた。
「ええ……私達がこうして笑っていられるのは、君達がいてくれるから」
グレイもまた、自分の影に潜む闇喰に感謝を捧げる。神としての強大な力――其らを振るう必要のない此の夜こそ、自分達の戦いの終着点だと確信する。
夜が更け、招待客である異邦人達が其々の休息へと戻っていく。バルコニーには再び、レイラとグレイの二人だけが残された。
「グレイ、覚えていますか?私達が初めて出会った、あの遠い日の事を……。」
「忘れるはずがないよ。内気だった君が、必死に皇帝として立とうとしていた姿を。あの時から、私の歌は君を癒やす為にあるんだ」
グレイはレイラの腰を引き寄せ、その額に優しく口づけた。
「46億年……長い様で、君と一緒なら瞬きの様な時間だった。そして、これからも……」
レイラはグレイの胸に顔を埋め、彼の心音を聞く。レイラにとって其れは、龍神の国の鼓動其の物な気がした。
「はい……此れからも、私達の記録を紡いでいきましょう……嬉しい事も、少しの悲しみも、全てを愛おしい宝石に変えて……。」
レイラが徐ろに指先を鳴らすと、虚空から七色に輝く宝石の粉末が舞い上がり、二人の周囲に幻想的な帳を作った。グレイの口から漏れ出た柔らかな鼻歌が、1/fゆらぎを伴い夜風に溶けていく。
水晶の塔の彼方、夜空には数多の星が瞬いている。その一つ一つが、彼らが守り抜いてきた命の灯火だ。二人の影が月光の下で一つに重なり、龍神の国に安らかな夜が訪れるのだった。




