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龍の神  作者: カズハ
-とある龍神達の事件簿-

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29/40

宝石の龍神の事件簿

某日、龍神の国にて――


 46億年という果てしない歳月を生きる龍神族にとって、平穏な日常とは何よりも尊く、同時に脆い結晶の様なものだ。嘗て龍神の国・西方を統治した元皇帝レイラは今、その超越的な力を全く別の形で行使していた。由緒あるジュエルショップ『ドラコ・ジェマ』のプライベートサロン。

 柔らかな光が差し込むその場所で、レイラは内気だった過去を自ら矯正した気品ある微笑みを浮かべ、原石に彫刻を施している。美しい仕上がりの装飾品達を愛おしそうに見つめるのは、46億年の時を共に歩んできた最愛の夫、グレイだ。

「今日も素晴らしい出来栄えだね、レイ。君の手から生まれる宝石は、世界で一番美しいよ」

柔和で誠実な愛妻家であるグレイは、彼女が焼き上げたばかりのカヌレを嬉しそうに頬張り乍ら、顔を赤らめて微笑む。外見は二十代後半の麗しい青年だが、その身には万物を魅了する舞踊と言霊の神秘を宿している。

「有難う御座います、グレイ。君にそう褒められると、職人としての冥利に尽きます」

レイラが紅茶を差し出し、二人が穏やかな夫婦の時間を楽しんでいた、その時だった。二人の耳元で、其々の強大な力を制御する共生体・闇喰が、低く危険を告げるように脈動した。同時に、卓上に置かれた通信用結晶が、激しい明滅と共にセオンの声を響かせた。中央広場の外れにあるクラシカルなカフェバー『ドラコ・リバル』。そのオーナーであり、レイラの兄であるセオンからの、嘗てない程に緊迫した緊急連絡だった。

「レイとグレイ、至急ドラコ・リバルへ来てほしい。妙な、本当に妙な事件が起きたんだ」

朗らかな笑顔の裏に底知れぬ思考を隠すセオンが、これ程迄に動揺の混じった声を出す等、ただ事ではない。レイラとグレイは視線を交わし、すぐさま店を飛び出した。ドラコ・リバルの重厚な扉を開けると、店内はすでに異様な静寂と冷気に包まれていた。

其処には連絡を受けて一足先に到着していた、言の葉図書館の最高位司書カミラの姿もあった。ダウナーでマイペースな彼女が、今は真鍮製の万年筆を握り締め、鋭い眼光を中央の席に向けている。

「……来たわね。遅かったじゃない、二人とも」

ぶっきらぼうに、然し過保護な迄の妹への愛を瞳の奥に秘めてカミラが告げる。彼女の傍らには、セオンが顔を曇らせて佇んでいた。

「皆、すまない……見てくれ、此れなんだ。」

セオンが促した視線の先――普段なら上質な珈琲や洋酒を楽しむはずの特等席に、それは鎮座していた。ドラコ・リバルの店内に横たわっていたのは、完全に色彩と存在の定義を失い、透き通った硝子のような彫像と化した異邦人の遺体だった。

「これは……。」

レイラが息を呑む。多元世界の漂着者であり、システムから除外されがちな主観的な感情や思い出を、世界に繋ぎ止める役割を持つ異邦人。その肉体や魂からも、汎ゆる色が剥ぎ取られている。それは物理的な死を超えた、存在そのものの白紙化だった。

「カミラ、言の葉図書館の権能でも駄目なの?」

グレイが問いかけると、カミラは忌々しげに首を振った。

「私の千里眼も、この世界の過去から未来迄の全記録を網羅するはずの司書の幻想も、この男の頁に触れる事すらできない。最初から白紙……いえ、インク毎世界から文字が消し去られた様な感覚よ。イェカを呼んで、彼女の投影(ホログラム)で記憶を再生させようとしたけれど、結果は同じ。完璧に保持されているはずの過去のデータが、この男の周囲だけ完全に屈折して消失しているわ」

「僕の幻想でも、この無色化をリセットする事はできなかったんだ。」

セオンが悔しそうに拳を握る。曰く病や疲労、呪いの類なら原初まで引き戻せる筈なのに、そもそも引き戻すべき原初の形という情報其の物が、この遺体には存在しない。まるで、最初から世界に存在していなかったかの様に定義されている。不可解極まる完全犯罪。だが、事件の異常性はそれだけに留まらなかった。

レイラは自身の幻想でを行使すべく、精神を研ぎ澄ます。空中に漂う微細な魔力流を捉える為、全身の炭素ベースの有機物を、神代の神秘を宿す生きた霊結晶へと置換させていく。全身が文字通り目となり、全方位の魔力・熱・運動エネルギーの残滓を完璧に捉えた瞬間、レイラは美しくも冷徹な皇帝の貌へと変貌した。

「……これは、嘘でしょう?」

レイラの澄んだ声が、微かに震えた。

「レイ、どうしたの?」

カミラが寄り添う。

「現場の空間に、私の龍珠剣(ドラクルージュ)の固有魔力が残留しているわ……それも、剣自体の重さをゼロにし、光速に近い速度での振り抜きを可能にする、あの無色の宝石の質量消失の残滓よ。」

「何だって……!?」

グレイの瞳が驚愕に見開かれる。質量を消失させ、手応えすら闇に葬る無色の宝石の力。それは世界にただ一人、レイラ・フォルティア・アルバエレミアという元皇帝だけが行使できる絶対的な幻想の輝きだ。

硝子と化した異邦人の遺体、世界から消去された記録。そして、そこに残された身内の、それも当事者であるレイラ自身の能力の痕跡。それはまるで彼女を犯人だと指し示すかの様な、或いは彼女に対する挑戦状の様な、あまりにも不可解で不気味なメッセージだ。

「私を陥れる為の偽装か、或いは……どちらにせよ、我が家族の平穏と、此の世界が紡いできた記録を汚す者を、私は絶対に許さない……行きましょう、この無色の空白の裏にある、歪んだ因果を突き止める為に。」

レイラは胸中に浮かぶ漆黒の結晶立方体・宝石箱の怪物《モンストゥルム・ジェマルム》の気配を感じ乍ら、静かに決意に満ちた声を響かせた。

「……足跡を見つけたわ。通常の次元には存在しない、世界と世界の隙間――煉獄へ向けて歪に捻じれた魔力の道が伸びている」

生きた霊結晶へと置換されたレイラの瞳が、空間の綻びを正確に捉えていた。全身が全方位の魔力流を完璧に捉えるセンサーと化した彼女には、事件の夜に現場から逃走した犯人の歪な残滓が、はっきりと見えていた。

「私の固有魔力を偽造し、異邦人の存在の定義を奪った不届き者ね……面白いじゃない、世界のOSたる私たち龍神族に挑もうなんて。」

カミラが真鍮製の万年筆を指先で弄びながら、冷徹な制裁者の貌を覗かせる。

「行こう、レイ。君を陥れ、家族の平穏を脅かす毒を、このままにしておくわけにはいかない」

グレイが頼もしく微笑み、その喉元で言霊蟲(コトノキリコ)が虹色の粒子を微かに散らす。

「僕も行くよ。カフェの店内でこんな真似をされては、オーナーとしての面目丸潰れだからね」

セオンもまた、朗らかな笑顔の裏に底知れぬ闘志を秘めて続いた。

四人は世界の秩序を守る為、そして何より愛する家族の為に、多元世界の命運を懸けた大調査へと乗り出した。まず四人が向かったのは、白風の空中都市が光の橋で結ばれる天翔風域(てんしょうふういき)。

活気と多様性に満ちた空中市場を調査すると、白翼を駆る商人達の間で、最近奇妙な結晶が密売されているという情報を掴む。レイラがその結晶を押収し、解析を試みると――其れは只の宝石ではなかった。異邦人が死の間際に残す筈の証明不可能な思い出を、無理やり物質として固定し、エネルギーとして搾取した極悪な代物だった。

「主観的な感情や揺らぎを、只の燃料として消費している……?なんて悪趣味な真似を」

レイラは不快感に眉を潜め、全身の結晶の輝きを鋭く尖らせる。次に向かったのは、深い霧と古代知識研究の地下施設が広がる叡智暗嶺(えいちあんれい)。カミラと言の葉図書館の同僚であるヒルコやクィル達の協力を得て、秘密結社・黒夢の心臓の動向を探ると驚くべき事実が判明した。結社の中枢が追っていたのは、世界の負の側面や悪意が集積して生まれた混沌の具現――禁忌の魔性(サヴァト)。それも存在其の物を世界から消滅させる最高位の悪性情報が、何者かによって意図的に解放されたというのだ。

そして最後に訪れた、星の動きに合わせ神殿が配置された砂漠の地、星辰砂都(せいしんさと)。黄砂の教会の最奥に保管されていた筈の、世界の定義を書き換える原初の頁が、綺麗に切り取られて紛失していた。残されていたのは、言葉を聞いた者の精神を蝕む独自の悪性文字の羅列。

「繋がったわね……。」

カミラが白仙寓意画(アルバ・タロット)の一枚を虚空に浮かせ、鋭く言い放つ。

「誰かが世界から消えゆく幻影の怨嗟を集め、異邦人の思い出を喰らい乍ら、この世界のルール其の物を書き換えようとしている」

その時、砂漠の夜空がどろりと黒く反転した。周囲の気温が急激に低下し空間の裂け目から、実体を持たない影や黒い靄のような姿をした存在が這い出てくる。周囲には、人間の脳が直接触れれば精神を崩壊させるほどの不快な特殊文字が浮かんでいた。魔性(サヴァト)の上級個体――いや、無数の悪意が融合し、明確な意思を持ったシステム崩壊の化身。

「■■■……■■……■■■……■■■■■」

魔性の発する言語が、精神を直接汚染する波動となって響き渡る。だが、レイラの周囲を舞う矢車菊(コーンフラワー)の蒼き聖なる光の粒子が、その負の瘴気を瞬時に無力化し、四人の清浄を保ち続けた。

「君が――あの異邦人を白紙化し、私の魔力を偽造した犯人ね?」

レイラは龍珠剣(ドラクルージュ)を引き抜き、冷徹な王者の威風で魔性を睨みつける。彼女の瞳に、冷徹極まる絶対の殺意が宿る。

「僕達の家族の絆を、二度と踏みにじらせはしない。」

セオンの纏う空気が一転、全てを無に還す破邪の要へと変貌する。

「グレイ、姉さん、兄さん……行きましょう。私の中に眠る怪物が、あの悪意を全て噛み砕けと叫んでいるわ」

レイラの背後に、一辺が30㎝ほどの漆黒の結晶立方体・宝石箱の怪物《モンストゥルム・ジェマルム》が静かに浮かび上がる。嘗ての悲劇を乗り越え、最愛の家族を守る為、レイラ達の胸中に、静かに苛烈な迄の神の怒りが灯った。

決戦の舞台は、多元世界の間に充填された高次元の特殊領域――煉獄。通常世界の住人からは決して視認する事のできない不可視の奈落で、世界のバグたる魔性(サヴァト)は軍勢を従えて四人を待ち受けていた。

「■■■■■■■■■■■――!」

煉獄の周波数を支配した魔性が、空間を歪ませるほどの精神汚染波を放つ。脳を直接侵食する悪性情報の濁流。然し、四人の歩みが止まる事はない。レイラとグレイの闇喰が深く共鳴する。襲い来る負の感情や精神的な瘴気を、二つの共生体が瞬時に貪り喰らい、純粋な魔力へと変換。危うい焦燥を弾き飛ばし、宿主の精神を絶対の冷静さへと導く。

「まずは盤面の整理からね。私の許可なく頁をめくる事は許さない」

カミラが水晶の魔導兵装、白仙寓意画(アルバ・タロット)を虚空に展開する。

「Ⅹ」のカードである運命の輪が輝き、魔性の因果歪曲による不意打ちを瞬時にキャンセルして別の結果へと書き換える。さらに「Ⅴ. 法王」を駆動させ、妹たちの術式の許認可権を握って魔術の行使を完璧にサポート。戦場に存在するあらゆる情報の流れを掌握し、最高位の司書として戦況を完全に支配した。

「妹の邪魔はさせない。全ての穢れよ、此処で霧散せよ!」

セオンが蓮の花弁の装飾が施された純白の長弓を構える。金色の弦から放たれた白銀の矢は、命中と同時に天災規模の浄化の光となって煉獄を照らし、押し寄せる幻影の軍勢を未練ごと優しく成仏させていく。

「さあ、舞台の幕を上げよう。レイ、君の背中は私が守る」

グレイが漆黒の刀剣を抜き放ち、情熱的な剣舞を踊り始める。天使の輪に似た舞踊の王冠が輝き、彼の喜びを爆発的な運動エネルギーへと変換。黒炎と赤雷を纏った一振りが、空間ごと魔性の触手を粉砕していく。同時に、其の1/fゆらぎを含む柔和な歌声が、祝福の聖歌(サンビカ・レイズ)として響き渡り、煉獄の冷気に晒された仲間達の心身に、母胎にいるかのような深い安らぎと超回復を齎せた。

「皆、有難う――此れで、全ての因果が固定されたわ。」

満を持して、レイラが前へ進み出る。彼女の手に握られたのは、紅きルビーの結晶を冠した可変式銃器・鳩の血色(ピジョンブラッド)。大型キャノン形態へと変形した銃身が、魔性が放つ剥き出しの殺意と邪念を逆探知し、自動的に照準をロックする。放たれた魔弾は、通常の再生能力を食い破るルビーの粉末を撒き散らし乍ら、魔性の核へと正確に突き刺さった。激昂する魔性を冷徹に見下ろし、レイラは全機能解放・限界突破形態――神造宝石(レイ・ジェムニ)へと至る。身体の大部分が七色に輝く生きた霊結晶へと置換され、周囲の空間を透過・屈折させる。脳組織は演算結晶化し、視覚は因果の流れ其の物を捉えていた。世界の法則を一時的に書き換える次元の戦闘空間・青玉の大地(サファイルス・テラ)が展開され、頭上には夜空を切り取った星降る翼が広がる。

「私達の――そして世界が紡いできた大切な記録を、只の塵に帰す事など許さない。」

麗しくも威厳に満ちた声が煉獄に響く。レイラが美しく、静かに指を鳴らした。――パキィン、と硬質な音が世界の隙間に轟く。究極の権能の源泉たる『ケテルの王冠』に幾重にも巻き付いていた白銀の鎖が、一条ずつ解放されていく。

それと同期する様に、全長2mを超える透明な金剛石製の三叉槍が、彼女の手の中に顕現し、レイラの魔力を無限に循環・増幅させ始めた。王冠の権能を全開放した、破壊の旋律。レイラの歌声が絶唱へと昇華する。

「■■■■■■■■■■■■■■!?」

魔性が絶叫をあげる。レイラの絶唱が響き渡った空間は、その振動波によって次々と精密な宝石へと結晶化していった。魔性が集めた悪性情報、歪んだ術式、原初の頁から掠め取った世界の改変プログラム――その全てが内側から物理的・概念的に結晶化され、身動きを完全に封じられる。

「■■■――■■■■■、■■■■■■――」

「これで終わりだよ、哀れな混沌の塊」

結晶化し、完全に停止した魔性の残滓へ、セオンの極限の浄化歌が重なる。パリン、と美しく砕け散った悪性情報は、セオンの完全回帰の光によって魂の澱みすら洗い流され、何一つ欠落のない、一切の穢れなき無垢なエネルギーへと還されていった。多元世界の崩壊の危機は、龍神の絆が放つ絶対的な輝きの前に完全に霧散した。


煉獄の闇が晴れ、静寂が戻る。ドラコ・リバルの店内に横たわっていた、硝子細工の様に透き通っていた異邦人の遺体。其処へ四人の龍神達の力が、優しく注ぎ込まれていく。

カミラの真鍮製の万年筆が虚空に文字を綴り、欠落していた人生の頁を物語の補完として上書きする。続けてセオンの放つ至高の癒やしが、対象の存在を一時的に、原初まで引き戻す完全回帰の波動となり魂の檻を解き放つ。

仕上げにレイラが指先を触れると、魔性によって結晶化され、ストックされていた主観的な思い出や感情の数々が、最も純粋な情報のカタチから一気に解放された。

「……う、あ……私は、一体……?」

無色だった身体に、じわりと温かな人間の肌の色が戻っていく。男は記憶を取り戻し、自身の名前を呟きながら奇跡的に息を吹き返した。同時に、現場に残されていた無色の宝石の魔素が、魔性の生み出した、精巧な偽造に過ぎなかった事も完全に証明された。

レイラが自らの手を汚して異邦人を手にかけたという疑念は完全に晴れ、彼女の潔白と、元皇帝としての揺るぎない威厳は、誰の目にも明らかな形で守られたのだ。

戦いは終わり、舞台は再びドラコ・リバルへと戻る。カウンターの奥では、オーナーのセオンが手際よく最高級のカフェモカを淹れ、豊かな香りが店内に満ちていく。

キッチンからは、グレイが愛妻レイラのために心を込めて焼き上げた、甘く香ばしいカヌレの香りが漂っていた。カミラはいつものダウナーな様子に戻り、お気に入りの席で静かにレモンケーキを口に運んで満足そうに目を細めている。

「お父様!お母様!無事だったんだね!」

店の扉が勢いよく開くと、両親の帰還を心から心配していたリオンとエイラ、そしてアルトとリアラが次々と飛び込んできた。チェスの駒を片手にほっと胸を撫で下ろすリオンの横で、エイラがレイラに抱きつく。アルトはグレイの無事を確認して快活に笑い、リアラはそっと全員の体調を気遣う様に特製のハーブティーを並べ始めた。

「ほら、言ったでしょう?私の可愛い息子と娘が揃っているんだもの、なんとかなるわって!」

太陽の様な笑顔で店内に現れたのは、グレイの母であるクララだ。どんな絶望をも笑い飛ばす歩くパワースポットの様な彼女の登場に、静かだった店内は一気に爆発的な活気に包まれる。落ち着いた佇まいの義父マイトもまた、妻の賑やかさを温かく見守り乍ら、レイラ達へ静かに労いの視線を送った。

気がつけば、店番のコカゲやカンウ、トキネ達も加わり、アルバエレミア一族と其の仲間達が一堂に会する賑やかな祝宴が始まっていた。

「レイラ、本当に良かった。君が傷つく事なく、こうしてまた皆で笑い合えて」

焼き上がったカヌレをお皿に乗せて、グレイがレイラの隣に腰掛ける。照れ屋な彼は、家族の前で少しだけ頬を赤らめながらも、慈愛に満ちた瞳で妻を見つめていた。

「ええ、本当に……私一人の力では、この大切な日常を守る事はできませんでした。グレイ、君や皆がいてくれたからですよ」

レイラは賑やかに語らう温かな光景を、自身の澄んだ瞳に映す。彼女の全身の霊結晶には、此れ迄の46億年という果てしない旅路の記憶が刻まれている。そして今、この瞬間から新しく紡がれていく、何にも代えがたい幸福な未来の記憶が、純粋できらびやかな七色の輝きとなって、彼女の身体に優しく記録されていく。

「これからも、ずっと一緒よ。グレイ」

レイラは、差し出された最愛の夫の手をそっと握り返した。その指先から伝わる確かな体温を感じ乍ら、レイラは慈母の様な、そして一人の幸福な女性としての、何処までも穏やかな微笑みを浮かべるのだった。


あの無色の空白を齎した大事件から、数日が経った。多元世界の綻びは龍神会議の手によって完全に修復され、あの硝子化から救われた異邦人の男も、今では元いた世界へと無事に送り届けられた。事件の顛末は言の葉図書館の歴史の1ページとしてカミラの手で美しく校閲され、世界はまた、何事もなかったかの様に穏やかな因果の歯車を回している。

中央広場の外れに構えるジュエルショップ『ドラコ・ジェマ』の奥。レイラは、お気に入りのルーペを覗き込みながら、机の上に並んだ色とりどりの宝石達をピンセットで慎重に仕分けていた。

「白の結晶は不可視の盾のストックへ、水色の結晶は急激な冷却用に……それから、これは――」

彼女が指先でつまみ上げたのは、淡い桃色をした、飴玉のように滑らかな鉱石だ。レイラの幻想は、只の魔力だけでなく、その場に満ちた感情や音さえも純粋な情報のカタチとして結晶化させる事ができる。彼女が其の桃色の石を光に透かすと、数日前の賑やかな祝宴の喧騒、子供達の笑い声、そしてグレイがカヌレを焼く香ばしい匂いまでもが、優しい光の粒子となって脳裏に再生された。

「ふふ、これは特等席の硝子ケースに飾っておきましょう。」

パチン、と心地よい音を立ててレイラが指を鳴らす。耳飾りの闇喰が、主の穏やかな精神状態を映す様に、ほんのりと温かな光を放った。その時、プライベートサロンの扉が静かに開いた。

「レイ、少し休憩にしないかい?淹れたての紅茶と、新しいお菓子の試作品を持ってきたんだ」

エプロン姿のグレイが、湯気の立つティーポットと、見た目にも美しい焼き菓子が乗ったトレイを手に、柔和な笑みを浮かべて入ってきた。彼の喉元では、主人の穏やかな言霊を栄養とする言霊蟲(コトノキリコ)が、心地よさそうに虹色の粒子をパタパタと散らしている。

「あら、嬉しいですね。グレイ、今日のお菓子は何でしょうか?」

「カミラのレモンケーキに対抗してね、レモンのコンフィをたっぷり使った特製のマドレーヌさ……あ、カミラには内緒だよ?私の聖域であるレシピを模倣するなんて、傲慢ねって、また万年筆の槍を向けられたら困るからね」

普段は頼もしい龍神の元皇帝でありながら、家族の話題になると少しシャイに首を竦める夫の姿が可笑しくて、レイラは声を立てて笑った。

「大丈夫ですよ、あの人はぶっきらぼうだけど、本当は君の作るお菓子が大好きですからね。それに、何かあっても私が君を守りますわ」

「はは、それは心強いな。……でも、夫としては、できれば私が君を守る側でありたいんだけどね」

グレイは少し照れくさそうに赤面しながらも、レイラの正面に座り、手際よく紅茶を注いだ。カップから立ち上るアールグレイの華やかな香りが、サロンの空気を満たしていく。そういえばと、グレイがマドレーヌを一つレイラのお皿に添えながら言った。

「さっきセオンの店に寄ったら、子供達が大騒ぎしていたよ。」

アルトが宮殿の隠し通路を新しく3つも見つけた!と言い、リオンとエイラを引っ張り回している。リアラは其れを呆れ乍ら見ていたけど、ハーブティーにうっかりリラックスの幻想を混ぜてしまったみたいで、店にいたコカゲがカウンターで完全に寝落ちしていた。

「まあ。相変わらず賑やかね」

「クララ母さんも若さって素晴らしいわね!って、アルトと一緒に隠し通路に潜り込もうとしてマイト父さんに止められていたよ。本当に、我が家は一日として退屈な日がないね」

グレイの楽しそうな語り口を聞きながら、レイラはマドレーヌを小さく口に運んだ。きめ細やかな生地から広がる爽やかな酸味と甘みが、戦いの名残のあった心身へと染み渡っていく。

「……ねえ、グレイ。」

レイラはカップを置き、七色の霊結晶の輝きを宿した瞳で、じっと夫を見つめた。

「レイ、どうしたんだい?私の顔に、何かついているかな」

「いいえ、只……私達が此れから紡ぐ未来も、きっと退屈しないわね、と思ったのよ。」

不意の言葉に、グレイは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。それから、彼の胸元の闇喰が歓喜の色を帯びて震える。グレイの顔は、此れ以上ない程愛おしそうな、そして少し赤面の混じった幸福な笑顔へと変わる。

「当たり前じゃないか。世界のどんな悪性情報だって、どんな理の書き換えだって、私達のこの退屈しない日常には敵わないさ」

「あら、言いますね。」

「ふふふ……約束するよ、レイ……君が記録したいと思う全ての未来に、私はずっと隣で踊り続けるよ。」

「ええ、期待していますわ。私の素晴らしい旦那様」

レイラはそっと手を伸ばし、グレイの大きな温かな手を握りしめた。サロンの窓の外からは、今日も変わらない龍神の国の賑やかな足音――風翔船が空を駆ける音、空中市場の呼び込みの声、そして遠くのカフェバーから響く家族達の笑い声が聞こえてくるのだった。

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