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龍の神  作者: カズハ
-とある龍神達の怪奇譚-

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15/40

胡蝶奇譚

某日、月の国にて――


 薄い月光がアスファルトを淡く照らす、真夜中の路地裏。其処にロトスは立っていた。彼の目の前には、時代から取り残されたかのような、古びた古書店がある。看板には、何とも読めない古めかしい文字で『文鳥堂』と記されていた。

「此処かぁ……うぅ、緊張するなぁ。」

 ロトスは胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。彼の心臓は、いつもより少しだけ速く脈打っていた。婚約者のユラが、彼の引っ込み思案な性格を心配して、この古書店の謎を解き明かす事を勧めたのだ。

「ロトなら、きっとできるよ。新しい自分を、見つける為に、頑張って」

 そう言って微笑んだユラの顔を思い出し、彼は深呼吸する。店の扉は、まるで古城の入り口の様に重厚だ。軋んだ音を立てて扉を開けると、内部はノスタルジックな雰囲気に満ち溢れていた。

 仄かなランプの光が、埃を被った無数の古書を照らしている。空気は古紙と墨の匂い、そして微かな甘い香りが混ざり合い、彼の嗅覚を燻る。その甘い香りは、彼の背中にある菫色の蝶の紋様と共鳴している様だ。

「いらっしゃい。」

 低い、それでいて耳に心地よい声が響く。声の主は、店の奥に立つ青年だ。彼は無造作に積み上げられた本の山に囲まれ、何かを読んでいた。顔を上げると、その瞳は深く、夜空の色をしていた。

「あ、あの……僕は、ロトスです。このお店に、興味があって……」

 ロトスはどもり乍ら、辛うじて自己紹介を口にした。青年は静かに頷き、手招きする。

「どうぞ。好きなだけ見ていってくれ」

 ロトスは店の中へと足を踏み入れた。足元には、彼の幻想の使い魔である、純白で半透明な翅を持つ『白聖ノ蝶(ルクス・サンクタ)』が数匹、優雅に舞っている。彼が緊張すると、蝶達は彼の周りを飛び回り、心を落ち着かせてくれるのだ。

 棚には、この世の物とは思えない様な本が並んでいる。『幻獣生態図鑑』『魔法陣の解読法』『異世界料理大全』……。彼は一冊の本に目を留めた。それは表紙に無数の蝶が描かれた、美しい装丁の本だった。『胡蝶の夢路』。ロトスがその本に手を伸ばそうとすると、店の奥から青年が言った。

「その本は、只の物語ではない。夢と現実の境界を曖昧にする、特別な力を持つ本だ」

 ロトスは驚いて青年を振り返った。青年はロトスの幻想を知っているかの様だった。彼の心には好奇心と、微かな恐怖が入り混じる。

「どうして……その事を?」

 青年は微笑む。この店に集まる本は、持ち主の魂と深く結びついている。ロトスの魂は蝶を愛し、夢と現実を自在に行き来する事を望んでいる。ロトスに惹かれ、此の本が此処に集まったという。ロトスは戸惑った。自分の魂が、本によって見透かされている様な感覚に陥る。

「僕は、この店の謎を解き明かしたいんです。なぜ深夜にしか開かないのか、そして此の本達が何故こんなにも……」

 ロトスが語るのを、青年は静かに聞いていた。彼の瞳は、夜空の星の様にきらめいている。

「君がこの店の謎を解き明かせば、何かを得られるだろう……しかし、何かを失う事になるかもしれない。それでも、君は進むかい?」

 ユラの笑顔が、ロトスの脳裏に蘇る。新しい自分を見つける為に。其の言葉が、彼の背中を押す。

「はい、進みます。ユラさんを、僕の家族を守る為に、僕はもっと強くなりたいんです」

 ロトスの言葉に、青年は満足そうに頷いた。

「では、最初の謎だ。この店の何処かに、この店の本当の扉を開けるための鍵が隠されている。それは、持ち主が最も大切にしているものだ」

 ロトスは店内を見渡す。本、ランプ、古い家具……どれもがノスタルジックな雰囲気を醸し出す。然しどれもが、鍵には見えない。

「一番大切なもの……。」

 彼の脳裏にユラの笑顔、キラの無邪気な声、家族の温かい顔が浮かぶ。然し其れらは物理的なものではない。ロトスは目を閉じ、自身の幻想を発動させた。彼の周囲には、無数の白聖ノ蝶が舞い踊る。


 そして彼の能力の一つである『胡蝶蘭の燭台《ファラエノプシス・カンデラ》』を手に取った。胡蝶蘭の意匠の花弁から、キラキラと輝く鱗粉が舞い落ちる。

「この店は、僕の魂と共鳴している……」

 ロトスは胡蝶蘭の燭台《ファラエノプシス・カンデラ》から放たれる癒しの魔力を、店内に満ちた古紙と墨の匂いや甘い香りと融合させた。すると店内の本達が、まるで生きているかの様に、一斉に羽ばたき始めた。

 其の本達の中心に、一冊の本が静かに浮かび上がる。それは、彼の幻想『胡蝶之夢(パプリオ・ソムニウム)』を具現化したかの様な、夢幻の世界が描かれた美しい本だ。ロトスがその本に触れると、表紙に描かれた蝶が、現実の蝶の様に飛び立ち、彼の周りを舞い踊った。

 その蝶が店の奥に隠されていた、一枚の鏡へと吸い込まれていく。鏡はまるで水面の様に揺らめき、その奥から、新たな空間が現れた。それは、彼の固有結界『胡蝶庵《パプリオ・ヘルミタージュ》』だ。雅な日本家屋と、四季折々の花が咲き乱れる日本庭園。そして、無数の蝶が優雅に舞う、幻想的な空間だ。

「……此処が、僕の心の奥底にある場所。」

 ロトスは鏡の向こうに広がる、見慣れた景色に息を呑む。そして彼の背後から、青年が静かに歩み寄ってきた。

「君は自分の心の中に、この店の鍵を見つけた。君の心の中に、この『文鳥堂』は存在していたんだ」

 青年の言葉に、ロトスは驚きと戸惑いを隠せない。

「僕が……?」

青年は微笑み、鏡の向こうの『胡蝶庵』を指差す。『文鳥堂』は、ロトスの魂の根幹をなす、其の情報を記録した場所と繋がっている。

 此の場所は君の魂其の物で、彼の誠実さや引っ込み思案な性格、蝶を愛する心……それら全てが、この『文鳥堂』という形で、存在していた。

 ロトスは自分の心の奥底に、こんなにも美しい場所が隠されていた事に感動を覚えた。そして此の場所を、見つけ出す事ができたのは、ユラが与えてくれた勇気の御陰だと心から感謝した。

「有難う御座います……ユラさん」

 ロトスの言葉を聞いた青年は、満足そうに頷き、そして、彼の姿は淡い光となって消えていった。彼の周りを舞っていた白聖ノ蝶は、彼を祝福するかの様に彼の頬を優しく撫でる。彼は、この『文鳥堂』という心の古書店で、新しい自分を見つけた。


 そして其の日の朝、ロトスはユラに此の出来事を話した。

「ユラさん、僕、新しい自分を見つけたんです!」

 彼は自信に満ちた笑顔で、ユラに語りかけた。ユラは彼の成長に、目を細めて微笑んだ。

「ロト、本当に良かったね。私ね、ロトなら、きっとできるって信じてたんだから」

 ユラの言葉にロトスは顔を赤くし、思わず彼女を抱き締めた。

「有難う、ユラさん……君が僕の傍にいてくれるから、僕は強くなれるんだ」

 ユラも嬉しそうに抱き締め返した。彼の背後には、彼の幻想『胡蝶』の使い魔である瑠璃揚羽が、二人の幸せを祝福するかのように優雅に舞い、彼らの周りを彩っていた。こうして、ロトスは、深夜にだけ開いている古書店の謎を解き明かし、ユラへの愛を胸に、一歩前に踏み出したのだ。


 ロトスはユラと共に、古書店『文鳥堂』のあった路地裏に再び足を踏み入れた。昼間のその場所は、只の古びたシャッターが下りた店にしか見えない。

「ロトスさん、本当にここが?」

 ユラが不思議そうに首を傾げる。ロトスはユラの手を、優しく握り微笑んだ。

「うん……僕の幻想が、この『文鳥堂』と繋がっていたんだ。僕がこの店の謎を解いたから、もうこの店は僕の心の場所として……僕の中に存在するんだ」

 ロトスはそう言うと、静かに目を閉じる。彼の背中にある菫色の蝶の紋様が淡く光り、彼の周囲に無数の蝶が舞い始めた。それは、彼の幻想の力だ。

「ユラさん、少しだけ目を閉じてくれる?」

 ユラはロトスの言葉に従い、そっと瞼を閉じる。ロトスは彼女を優しく抱きしめ、彼の幻想『胡蝶之夢』を発動させた。彼の幻想は、相手に夢を見せる能力。現実と虚構の区別がつかない程リアルな夢を、ユラに見せる為に。

「ロト?」

 ユラが目を開けると、そこは先程迄の路地裏ではなかった。満月が煌々と輝く夜空の下、雅な日本家屋と四季折々の花が咲き乱れる日本庭園が広がる。そして庭園には無数の蝶が優雅に舞い、幻想的な光を放っていた。

「此処……。」

「僕の固有結界、胡蝶庵だよ。」

 ロトスは、ユラの手を引いて庭園の中を歩き始めた。庭園の奥には、彼の魔力の源の一つである『胡蝶樹(パプリオ・アルボル)』が植えられている。

 枝いっぱいに小さな白い花を咲かせ、甘い香りを放つ美しい樹木だ。その周囲には、ロトスの使い魔である、氷の翅を持つ『凍て蝶(グラシアス)』と、炎の翅を持つ『紅き蝶(アルデンス)』が舞っていた。

「……綺麗……。」

 ユラは感動のあまり、声を上げる。彼女はロトスの成長と、彼の心の奥底にこんなにも美しい場所があった事に、胸がいっぱいになった。

「この場所は僕がユラさんと一緒にいる時、一番安らげる場所なんだ。」

 ロトスは照れ乍らも、ユラに告白する。ユラは其の言葉に、嬉しそうに微笑んだ。

「ロトスさん……有難う。私も、この場所が大好き」

 二人は、庭園の中にある縁側に腰を下ろし、静かに月を眺めた。無数の蝶が舞い踊る光景は、まるで夢のようだった。

「ロトスさん、あの古書店の謎を解いた時、何か特別なものを得たの?」

「うん。この胡蝶庵を、何時でも具現化出来る様になったよ」

 ユラが尋ねると、ロトスは微笑んで頷く。ロトスの心の中に、ずっとあった不安や迷いが、少しだけ消えた気がすると言う。其れはユラが彼に与えてくれた勇気と、彼自身が踏み出した一歩の御陰だった。

「でも、何かを失う事に、なるかもしれない……って、言われたでしょう?」

 ロトスは少しだけ寂しそうな顔をして、ユラを見つめる。あの古書店で出会った青年の姿は、もう見る事ができない。僕の心の奥底にあった不安の象徴だ。

 その不安が消えた事で、彼もまたロトスの中から消えてしまったのだ。然しロトスは、特に後悔していなかった。彼が失ったものは、彼自身の成長の証だったから。彼には、愛するユラがいる。

「ロト……。」

 ユラは、ロトスの手を握りしめ、彼の肩に頭を乗せる。

「きっと大丈夫。ロトが手に入れたものは、失ったものよりも、ずっと価値のあるものだよ」

 ユラの温かい言葉に、ロトスの心は温かくなった。彼は、ユラを抱きしめ、彼女の髪に顔をうずめる。

「ユラさん、本当に有難う。僕は、君に出会えて、本当に良かったよ」

 二人は幻想的な蝶の庭園の中で、幸せな時間を過ごした。ロトスの背中にある紋様が、二人の幸福を祝福するかの様に、より深く神秘的な菫色に変化している。

 こうしてロトスは、深夜にだけ開いている古書店『文鳥堂』での経験を通して、引っ込み思案だった自分を乗り越え、愛するユラと共に、新しい未来へと歩み始めたのだった。






某日、とある旅館にて――


 旅館の障子に射し込む柔らかな陽光が、ロトスの頬を撫でた。彼は目を覚まし、体を起こす。隣でまだ寝息を立てているユラの穏やかな寝顔を見て、ロトスはふっと笑みを溢した。

 今回、家族で来たこの温泉旅行は、ユラがロトスのために企画してくれたものだ。日頃の頑張りを労い、少しでも自信をつけてほしいという、ユラの温かい心遣いがロトスには嬉しかった。

 朝食まで時間がある。ロトスは寝乱れたユラに布団をかけ直し、そっと部屋を出た。朝の静かな旅館は、ロトスをどこか懐かしい気持ちにさせた。

 ふとロトスは風に乗って運ばれてくる、微かな甘い香りに気づく。それは、彼の幻想である胡蝶の精霊達が纏う、胡蝶蘭の香りによく似ていた。

「どうして、こんな香りが……?」

ロトスは香りにつられて歩き出す。香りは旅館の奥へ、奥へと続いていた。やがて、ロトスは一枚の古びた扉の前にたどり着いた。

扉には埃が積もり、鍵穴は錆びつき、まるで何十年も開けられていないかのようだった。しかし、甘い香りはこの扉の向こうから漂ってきている。

「開かずの間……かな?」

ロトスは扉に手を触れた。冷たく、硬い感触。その瞬間、ロトスの手のひらに、微かに光を放つ蝶の紋様が浮かび上がった。

紋様が輝きを増すと、鍵穴の錆がポロポロと崩れ落ち、錠がひとりでに外れた。

「えっ……」

驚くロトスの前で、扉は静かに、そしてゆっくりと開く。扉の向こうは、外見からは想像もつかない、幻想的な空間だ。そこは、月夜に照らされた美しい庭園だ。無数の胡蝶蘭が咲き乱れ、色とりどりの蝶たちが優雅に舞う。その中心には、大きな樹木が植えられていた。

「胡蝶樹……」

 ロトスは思わず呟いた。この樹は、彼の固有結界「胡蝶庵」の中にあるものと全く同じだった。ロトスは庭園の中へ足を踏み入れた。歩き出すと、彼の周りに純白の蝶が舞い始める。それは、ロトスの周りを常に飛び交う「白聖ノ蝶」たちだった。

「どうして、こんな場所に……」

ロトスは不思議に思いながら、胡蝶樹の根元に近づく。すると、根元に埋められている箱が、微かに光を放っているのに気づく。その匣から、ロトスの心に直接語りかける声が聞こえてきた。

『ようこそ、我が後継者よ……この旅館は、かつて私の領地であった場所。そして、この場所は、お前がいつか、大切なものを守るために、真の力を得るための試練の地となるだろう』

 声はとても温かかった。声の主は開かずの間の主だった。主はロトスが内気で、引っ込み思案な性格である事を心配していた。

『お前は、大切な者を守る力を持っている。しかし、その力を発揮するには、お前自身の心を解放せねばならない』

 主の声は、ロトスの心に響く。

「僕は……僕は、ユラさんを守りたい。その為なら、どんなことでも……!」

 ロトスの言葉に呼応するように、匣が眩い光を放ち始める。光の中から、一匹の瑠璃色の蝶が舞い上がった。

「瑠璃揚羽……」

 其れは、ロトスに仕える揚羽蝶の精霊、「瑠璃揚羽」だ。

『ロトス様、どうか私に力を貸してください……この場所に、私の魂の一部が封じられています。それは、嘗てこの地を襲った邪悪な存在を封じる達に、私が自ら封印したものです……然し其の封印が、今にも解けようとしています』

瑠璃揚羽は、ロトスに頭を下げた。其の声、切実だった。

「分かった。僕が、君の力を取り戻してあげる」

 ロトスは決意を固め、静かに目を閉じた。彼が「胡蝶」の幻想を行使すると、彼の周囲に無数の色鮮やかな蝶が舞い始める。「胡蝶蘭の燭台」を手に取り、彼が聖歌を歌い始める。彼の歌声は空間を優雅に彩り、聴く者の心を癒し安らぎを与える。

 歌声は瑠璃揚羽の魂を癒し、封印の力を強化していく。然し封印された魔性も負けてはいない。庭園の空気が一変し、不気味な気配が漂い始める。黒い霧が立ち込め魔性が姿を現す。それは見る者の魂を凍らせるような、恐ろしい姿をしていた。

「負けない……!」

 ロトスは強く決意し、「絶唱」を歌い始める。彼の歌声は、ユラへの深い愛情と、彼女を守るという強い決意が込められていた。ロトスの歌声は、彼の闇喰の力と融合し、「胡蝶庵」の様な幻想的な蝶の庭園を瞬時に具現化する。

 庭園の中には、ロトスの龍神の姿が現れる。体長約90mの巨躯、純白を基調とした鱗、頭部には「胡蝶」の意匠が散りばめられた王冠を模した角が伸びている。

「僕が、皆を守るんだ!」

 ロトスの龍神の姿から無数の蝶が飛び出し、魔性を攻撃する。蝶達は、刃の様に邪悪な存在を切り刻み、幻惑で精神を操る。魔性はロトスの圧倒的な力に、徐々に追い詰められていく。そしてロトスが「瑠璃揚羽」を模した、瑠璃色の光を放つ蝶を放つと、魔性は消え去った。

 ロトスの勝利だ。魔性が消え去ると、庭園は元の静けさを取り戻す。瑠璃揚羽の魂は、ロトスが放った瑠璃色の蝶と融合し、完全な姿を取り戻す。

『有難う、ロトス様。貴方の御陰で、私は再び、この地を守る事ができます』

「どういたしまして。僕も、少しは自信がついたかな……」

 瑠璃揚羽は、感謝の言葉を述べると、ロトスは照れくさそうに笑う。その時――背後から突然、温かい腕がロトスを包み込んだ。

「ロト、凄い。」

 愛しいユラの声が、ロトスの耳元でいきなり囁かれる。ロトスは驚いて振り返った。ユラは心配そうな、然し優しい笑顔で、ロトスを見つめていた。ユラはロトスが部屋を出ていった後、すぐに起きて、彼の後を追ってきたのだ。

「ぼ、僕は……。」

 ロトスは、ユラに自分の姿を見られた声に、少し恥ずかしくなった。然しユラは、ロトスの頭を優しく撫でて言った。

「ロトは、何も恥ずかしがる事なんてないよ。」

 ユラの言葉に、ロトスの心は温かくなった。ユラの事になると、途端にデレデレし始める。腑抜けてしまうのは、彼にとって良くないと思うのだが……。

「有難う、ユラさん……。」

 ロトスは、ユラをそっと抱き締めた。ユラも、嬉しそうに抱き締め返した。ロトスはユラと二人で、この美しい庭園を歩き出した。ロトスはユラの温かい腕の中で、漸く息をつけた。この幻想的な庭園で、彼の心は何時も以上にユラに惹きつけられていく。

「ユラさん、何故……。」

 ロトスは照れくさそうに顔を赤くし、ユラから少し距離を取ろうとする。然しユラはそれを許さず、逆に彼の頬に手を添え、優しく微笑みかけた。

「ロトが部屋を出ていった時、直ぐに分かった。だって、ロトの放つ魔力の香りが、何時もと違って、凄く不安そうで……」

 ユラの言葉に、ロトスは胸が締め付けられる様な気持ちになった。自分の些細な感情の変化迄、ユラは敏感に感じ取ってくれる。

「ごめんね、心配かけてしまって……。」

「いいの……只、私に何も話してくれなかった事が、ちょっと寂しいかな」

 ユラは冗談めかして言ったが、その瞳は真剣だ。ロトスは「ごめんなさい」と再度謝罪し、ユラの手に自分の手を重ねた。

「僕の力が、暴走しないか心配だったんだ……。」

 ロトスの言葉は、幼い頃からの深い悩みを物語っていた。彼は自身の強力な幻想を、常に制御しなければならない物だと考えていた。然しユラは力強く首を振る。

「ロトの力は、誰も傷つけない……だって、ロトは優しいから。」

「ユラさん……。」

「それに、ロトには私がついている……どんな力でも、二人で、乗り越えられるよ」

 その言葉は、ロトスの心に温かい光を灯す。彼はユラの支えがあるからこそ、自分の能力を肯定できるのだ。ロトスは、今迄にない程穏やかな気持ちで満たされる。庭園に咲く花々は、二人の足取りに合わせて優雅に揺れ、蝶たちが祝福するかの様に周囲を舞う。

「ロト、見て。」

 ユラが指差す先には、白く可憐な花を咲かせた胡蝶樹が、朝日に照らされ輝く。ロトスはその樹に手を触れ、ユラに微笑みかける。

「この樹はね、僕の魔力の源なんだ。」

 ロトスの言葉に、ユラは嬉しそうに頷く。彼らが再び手を繋ぎ、庭園の奥へと進むと、そこには小さな祠があった。祠の前には古びた石碑が建ち、そこには「アルバサンクト」と刻まれている。

「アルバサンクト……?これ、ロトの一族の名前だよね?」

「此処は、僕の一族が代々守ってきた場所って事?」

 ユラが不思議そうに問いかけると、ロトスは静かに首を傾げる。石碑に手を触れると、ロトスの掌に再び蝶の紋様が浮かび上がる。紋様が輝きを増すと、石碑に新たな文字が浮かび上がった。

『この地を護りし者。汝の魂と幻想は、永遠にこの地に安らぎを齎すであろう』

「僕の、先祖が此処に……。」

 ロトスは、その文字をじっと見つめる。彼は自分が、此の場所に来るべくして来たのだと、運命的な物を感じた。この旅館の「開かずの間」は、彼が自身の力を受け入れ、真の当主として歩み始める為の、聖なる試練の場所だったのだ。

「ユラさん、本当にありがとう」

「どういたしまして……でも、私は何も特別な事は、していない。只、君の傍にいただけ……。」

「それが、一番特別なんだ。」

 ロトスがふと感謝の言葉を口にすると、ユラは微笑み乍ら答えた。ユラの言葉にロトスは静かに頷く。彼の言葉に、ユラの顔が赤くなる。

「まだ、結納も済んでいないのに、何を言ってるの。」

 ユラは照れくさそうに笑い乍らも、彼の言葉を心から喜ぶ。二人の間には、温かい愛の香りが漂っていた。此の温泉旅行は、ロトスが自身の力を受け入れ、ユラとの絆をより一層深める、忘れられない思い出となった。ロトスはユラの手を、優しく握り微笑んだ。

「ユラさん、此れからもずっと、僕の傍にいてください」

「勿論、何処迄も、一緒。」

 ユラの言葉に、ロトスは安堵の息をつく。二人が見つめ合うと、庭園の胡蝶樹から、再び甘い香りが風に乗って運ばれてきた。其れは二人の愛を、何時迄も語り継いでいく様な温かい香りだった。

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