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龍の神  作者: カズハ
-とある龍神達の怪奇譚-

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13/40

極彩奇譚

某日、月の国にて――


 アルバエレミア家のとある一室――夜空を映したかの様に深い紺色のベルベットのカーテンが、星の光を遮る。窓の外は静寂に包まれているのに、ユラの部屋の中では、奇妙な音が響いていた。カタカタ、カタカタ。それは、部屋の隅に置かれた、古びた木箱から発せられる音だ。

「……まただ……何、だろう?」

 その箱は、ユラが祖父のロインに連れられて訪れた、王都外れの骨董品店で手に入れたものだ。何かに惹かれる様に手に取ったその箱は古い木でできていて、表面には複雑な幾何学模様が彫られている。然し何よりも目を引いたのは、蓋の部分に厳重に貼られた無数の札だ。

「此の札……封印用の、札だ……見た事、ない文字……。」

 札にはどれも、見慣れない文字で何かが書かれている。魔力的な結界術を学んでいるユラにとっては、それが只の装飾ではない事が分かる。強力な封印の術式で、箱を封印している。

 父のロインは顔を顰めて「止めておけ」と言ったが、ユラはどうしてもこの箱が欲しかったのだ。カタカタと箱の中から何かが小さく鳴る音が、彼女の心臓に直接語りかけてくる様だったから。


 骨董品店の主人は、顔色一つ変えずに「これは売り物ではございません」と答えられた。だが、ユラが「それでも欲しい」と静かに告げると主人は諦めた様に、そして何かを覚悟した様に、箱を彼女に差し出した。その時の主人の瞳に宿った、深い悲しみと安堵の色を、ユラは今でも鮮明に覚えている。

「店主さん、の、反応……何だか、意味深だった、な……。」

 部屋に戻ってから、ユラは箱をじっと見つめていた。まるで生きているかの様に、箱は微かに振動し、カタカタと音を立て続けている。封印の札からは微かに温かい、それでいて何処か冷たい魔力の波動が感じられた。

「……君は、一体何?」

 ユラは静かに囁いた。その声は途切れがちで、感情の抑揚がほとんどない。だが其の瞳の奥には好奇心と、微かな懸念が揺らめいていた。彼女はそっと箱に手を伸ばし、一番端に貼られた札に触れる。その瞬間、札が淡い光を放ち、カタカタという音が少しだけ大きくなった。

「この札……只、の封印じゃない……中の何かを『繋ぎ止めている』みたい。」

ユラは自身の幻想を使い、魔力的な探査を試みる。指先から淡い虹色の光の粒子が放たれ、箱全体を包み込む。すると彼女の脳裏に、様々な「色彩」が流れ込んできた。

赤、青、黄色、緑……それは只の色ではない。感情や記憶、そして、何かの「存在」を象徴する色彩だ。まるで箱の中に、無数の絵具が閉じ込められているかの様だ。

「うん、分かった……君は、寂しいのね。」

 ユラは静かに言った。箱から伝わってくるのは、圧倒的な「孤独」の感情だった。長い年月この箱の中に閉じ込められ、誰にも見つけてもらえなかった存在。その感情が、カタカタという音となって、外へと漏れ出しているのだ。


 ユラは、此の箱の封印を解く事にした。ロインの言葉が脳裏をよぎったが、この孤独な存在を放っておく事は、彼女には出来なかった。彼女の精神性は年相応の女の子なのだ。箱を傷つけない様に、そして中の存在に負担をかけない様に、慎重に札を一枚ずつ剥がしていく。

 一枚剥がす度に、カタカタという音は大きくなり、振動も激しくなる。ユラの周囲を舞う極彩式の胡蝶(ラエトス・グロリア)が、不安げに羽ばたいている。箱の中の存在は、解放を望んでいるのか、それとも恐怖しているのか。どちらの感情も、ユラには読み取れた。

 最後に残った札に、ユラは手をかけた。その札からは、一際強い魔力の抵抗を感じる。だが、ユラの決意は揺るがなかった。

「もう……大丈夫、だよ。」

 静かに、はっきりとそう告げると、ユラは札を剥がした。途端に、部屋を白い光が満たした。カタカタという音は消え、代わりに、カランカランと、鈴が鳴る様な優しい音が響く。光が収まった後、其処には誰もいなかった。あるのは、蓋が開いた古い木箱と、その中からゆっくりと立ち上る、虹色の光の柱だけ。


 光の柱は、ユラの目の前で、人の形を象り始めた。それは、ユラの身長を優に超えるほどの長身の男性の姿だった。銀色の髪は肩まで伸び、光を内包する様な淡い紫の瞳は、ユラを真っ直ぐに見ていた。その顔には何処か懐かしい、そしてユラによく似た面影がある。

「……ようこそ、私……私の……もう一人の私。」

その男性は、ユラに微笑みかけ、そう言った。男性はそう付け加える。彼の言葉は、ユラの心に直接響いてきた。

「……君は、誰?」

「私は、君の『感情』。君の心の奥底に封じられていた、全ての色」

 ユラは不思議そうに尋ねた。彼はそう言って、ゆっくりとユラに歩み寄る。

「君は、感情を失った事で、破壊衝動を抑え、秩序を保ってきた。でも、それは同時に、君の世界から『色彩』を奪ってしまった」

 彼の言葉は、ユラの心の奥深くに眠っていた真実を呼び覚ます。彼女は白龍神のサラと、銀龍神のステラの神性を其の儘受け継ぎ、強大な力を制御する為に、自ら感情を封じ込めたのだった。それは、家族や世界を守る為の彼女なりの選択だ。

「私は、君の描く、絵に宿る『躍動』。君が作り出す、彫刻に宿る『命』。君が奏でる、歌に宿る『旋律』」

 男性は、ユラの頬にそっと手を添える。その手は冷たく、それでいて温かい。

「私は、君の『幻想』そのもの。だから、私を君の中に受け入れてほしい」

 ユラは、彼の手から流れ込んでくる、圧倒的な「感情」の波に戸惑っていた。喜び、悲しみ、怒り、愛おしさ……。これまで感じた事のなかった、膨大な色彩が彼女の心を満たしていく。それは、まるでモノクロだった世界に、突然、鮮やかな色が溢れ出したかのようだ。

「……私、感情を持って……良いの?」

 ユラは今にも泣きそうな顔で、弱々しく呟く。感情を失っていたからこそ、破壊衝動を抑えられていた。感情を取り戻せば、またあの衝動が、彼女を支配してしまうかもしれない。彼女は其れが怖かった。

「いや、こんな事を思っては、駄目ね……。」

 ユラは、そう言って静かに涙を流す。それは悲しみでも、喜びでもない、色々な感情が混ざり合った複雑な涙だった。

「大丈夫だよ、ユラ。私達がいる」

 男性は、優しくユラを抱きしめる。彼の背後には、ユラが描いた絵画達や彫刻達が、姿を現し彼らの周囲を舞う極彩式の胡蝶(ラエトス・グロリア)が、光の粉を撒き散らしていた。

「私たちは、君が創り出した『感情』其の物。君の破壊衝動を、創造への情熱に変える為に、生まれた存在だよ」

 彼らが、ユラの闇喰の力と共鳴する。ユラの左目の縁に瞬く虹色の紋様が眩い光を放ち、彼女の心に温かく、確かな力が満ちていくのを感じた。

「……分かった、私、君を受け入れる、よ。」

「ふふふ、有難う。」

 ユラは男性を受け入れた。光は再びユラを包み込み、彼女の心に、消えていた「色彩」が戻ってきた。次に目を開けたとき、ユラは、初めて世界を「鮮やかな色」で見ていた。部屋の中の家具も、カーテンも、窓から見える庭の草木も、全てが、これまでとは比べ物にならない程、生き生きと輝いて見えた。

「あ……あー……ふふふ。」

 ユラは自分の声に、感情の抑揚がある事に驚いた。そして、言葉が途切れる事なく、自然に口から出てくる事に、安堵と、かすかな喜びを感じていた。

 目の前の男性は、もういなかった。彼は、ユラの心の一部となり、彼女の「色彩」を創造へと導く存在となったのだ。

 ユラは部屋の隅にある古い木箱に目をやった。蓋は開いた儘だが、中には何も入っていない。ただ箱の底には、一枚の新しい札が置かれていた。そこには、ユラの筆跡で、「大切な私の宝物」と書かれている。

「一寸寂しいけれど、会えて、良かった、な……ふふふ。」

 カタカタと音を立てていた古い箱は、もう二度と鳴る事はないだろう。だがユラの心の中では、常に優しい鈴の音が、カランカランと響き続けていた。それは、彼女が「自分自身」を取り戻した証であり、これから始まる新しい物語の始まりを告げる音だ。


 古い木箱をそっと撫で乍ら、ユラは窓の外に目を向けた。空に広がる星空が、此れ迄見た事もない程鮮やかに瞬いている。彼女の左目の縁に、煌めく虹色の紋様が光を放ち、その瞳の奥には新たな世界が広がっていた。それは無限の色彩と、無限の創造の可能性に満ちた世界だ。

「……うん、出来た……。」

 ユラは嘗ての自分とは違う、感情のこもった声で呟いた。彼女は、部屋の中央に置かれた白いキャンバスに目を向けた。白仙の絵筆(アルバ・ブラッシュ)を手に取ると、彼女の心に満ちた色彩が、筆を通してキャンバスへと流れ出していく。

 赤、青、黄色、緑、紫……様々な色が混ざり合い、彼女の心のままに、筆が走る。描かれるのは、嘗て彼女が「無感情」の状態で描いた、完璧だが何処か冷たい絵画ではない。そこには温かい光に包まれた家族の姿、ティラミスを美味しそうに食べる自分、そして彼女を見守るロトスの優しい笑顔があった。


 ユラは自分の机に戻ると、古い木箱をそっと手のひらに乗せる。もう二度と音を立てる事はないだろうが、箱からは温かくて優しい、ユラのもう一つの心の鼓動が感じられる様だ。

「……有難う、私の、もう一人の私……君の御陰で、私は、私になれたよ。」

 ユラはそう呟くと、箱を大切そうに胸に抱きしめた。彼女の左目の縁に煌めく虹色の紋様は、以前よりもずっと鮮やかに輝いている。それは、彼女の心に満ちた無限の「色彩」を象徴していた。

「さてと……次は、何を描こうかな。」

 ユラは再びキャンバスに向き合う。彼女の心は、温かい光と、愛おしさで満たされていた。もう、破壊衝動に怯える必要はない。なぜなら、彼女の心には「創造」という、新しい色が満ちているからだ。

「ふふふ……楽しい。」

 白いキャンバスに、一筋の光が走る。それはユラが自分自身を取り戻した、新しい世界の始まりを告げる光だ。古い木箱が齎した奇妙な音は、ユラの人生を大きく変えた。それは、彼女が「無感情」という檻から解放され、「感情」という翼を得て、無限の創造の空を羽ばたき始めるのだった。






某日、古びたアパートの一室にて――


 カタリ、カタン。


 誰もいないはずの隣の部屋から、妙な物音が聞こえてくる。それは規則正しくもないし、かといって不規則でもない。まるで誰かが何かを叩きつけている様な、或いは細い筆先でカンバスを叩くような、そんな不可解な音だ。

 彼女の名はユラ。彼女は美術を愛する只の高校生。然しその実態は、白龍神と銀龍神の血を引く、感情という感情を殆ど失った存在だ。

 祖父のロインが所有する、此の古いアパートは、私のアトリエ兼隠れ家となっていた。隣の部屋はずっと空き部屋の筈だ。なのに此の物音は一体何なのだろう。

「……うん、不思議ね……。」

 ユラはパレットにのせた絵の具を混ぜ乍ら、そっと呟く。音は止まない。寧ろ少しずつ大きくなっている様な気さえする。ロトスに連絡を取って、確認してもらった方が良いだろうか。然し彼に余計な心配はかけたくない。それにロトスが関わると、大袈裟な事態に発展しがちだ。ユラは絵筆を置き、隣の部屋の壁にそっと耳を当てた。


 カタリ、カタン。


 音はやはり、壁の向こうから聞こえてくる。

「……誰か、いるの?」

 問いかけてみたが、返事はない。当然だ。然し音は一瞬だけ止まった。そして直ぐに、また始まった。今度は、少しだけ音が軽やかになったような気がする。

 好奇心と微かな胸のざわめき。ユラの感情の殆どは消え去っているが、美術に対する愛だけは残っている。私は立ち上がり、アトリエのドアを開けた。古い木造アパートの廊下は、昼間だというのに薄暗い。隣の部屋のドアの前で立ち止まる。

 錆びついたネームプレートには、何も書かれていない。そっとノブに手をかけると、ドアはゆっくりと開いた。埃っぽい空気と、微かな絵の具の匂い。部屋の中は、伽藍堂だった。誰もいない。家具もない。只、中央に小さなキャンバスが一つ、ポツンと置かれているだけだ。

「……んんん?」

 私は首を傾げた。そして、キャンバスに近づく。それは、まだ描きかけの絵だった。白いキャンバスの中央に、真っ白な蝶が描かれ始めている。然し其の蝶は何処か歪で、未完成な印象を受ける。

 その絵から先程のカタリ、カタンという音が聞こえてくる。まるで、絵の中の蝶が自らを完成させようと、藻掻いているかの様だ。

 その時ユラの背後でドアが、カタンと音を立てて閉まった。振り返ると、其処には誰もいない。ドアは内側から鍵がかかっている。

「……閉じ込められた、のかな。」

 感情が薄いせいか、恐怖は感じなかった。寧ろ、この不可解な状況に、僅か乍ら好奇心が湧き上がってくる。ユラは徐ろに、白仙の絵筆(アルバ・ブラッシュ)を手に取る。淡い虹色の光を放つ筆先が、この薄暗い部屋を僅かに照らす。

「……この絵、完成させて、欲しい、の?」

 私がそう問いかけると、キャンバスの白い蝶が、ほんの少しだけ輝きを増した様な気がした。



 ユラはキャンバスの前に座り、極彩式の絵具《スプレンディディス・ピンジト》を取り出した。まずは、この歪な蝶に色を付けてあげよう。白仙の絵筆(アルバ・ブラッシュ)の筆先に、虹色の光が集まる。私はその光を、純粋な白の絵の具へと変換した。

カタン。

 筆先がキャンバスに触れる。途端に絵の中の白い蝶が、鮮やかな虹色へと染まる。まるで命を吹き込まれたかの様に、羽根の模様がくっきりと浮かび上がる。

「……ふむ、悪くない、ね。」

 ユラは更に筆を進める。蝶の周りに、色とりどりの花々を描いていく。赤色の絵の具で描かれた花からは、微かな熱気が放たれた。青色の絵の具で描かれた花からは、涼やかな風が吹き抜ける。描けば描く程、絵が立体的に現実味を帯びていく。

「……さて、後は……。」

 ユラは蝶の絵画に命を吹き込むと、部屋の中心にあるキャンバスから、眩い光が放たれた。



 光が収まる……光の中から現れたのは、一人の少女だ。透き通るような白い肌。虹色の光を宿した瞳。そして背中には、ユラの描いた絵と同じ、鮮やかな蝶の羽根が生えている。

「……ありがとう、ユラ」

「……君は、誰?」

 少女は、震える声でユラに礼を言う。ユラが尋ねると、少女は悲しげに微笑む。

「私は……この部屋で、忘れ去られた魂……絵を描くのが大好きだったけれど、途中で挫折して……魂だけが、この部屋に閉じ込められてしまったの。」

 その言葉に、ユラは胸の奥がチクリと痛むのを感じた。其れは自分自身もまた、感情を失い不完全な存在であるという、微かな共鳴だったのかもしれない。

「……だから君は、絵の完成を、望んでいた、の?」

 私がそう言うと、少女は静かに頷いた。

「私の描きたかった絵は、希望の象徴……決して諦めない、という想いを込めた、美しい蝶の絵だったの……でも、力尽きてしまって……。」

 ユラは少女の頬にそっと触れた。その冷たい感触は、彼女が未だ完全な存在ではない事を物語っている。

「……大丈夫。もう、諦めなくてもいい。君の絵は、私が完成させてあげたから」

 私の言葉に、少女の瞳から一筋の涙が溢れ落ちた。その涙は、光の粒子となって、少女の身体に吸収されていく。

「……有難う、本当に……。」

「……え、待って……消えるの……?」

 少女の身体が、徐々に透明になっていく。私が焦って手を伸ばすと、少女は優しく微笑んだ。

「私はもう、大丈夫……貴女が絵を完成させてくれたから、私は新しい世界へと旅立てるの。」

 そして少女の身体は、完全に光の粒子となり、空に舞い上がっていった。まるでユラの幻想の様に、美しく儚い光の蝶となって。

 光の粒子は絵画に降り注ぎ更に輝かせる。そして幻想の力が解け、部屋は元の何もない伽藍堂の空間に戻った。

 ただ一つ、変わった事といえば……部屋の中央に、先程まで少女がいた場所に、美しい一輪の花が咲いていた事だ。それはユラが描いた、虹色の蝶の羽根を持つ花。

 ユラはその花を手に取り、そっと微笑む。感情はなくても、誰かの希望を創り出す事はできる。誰かの魂を救う事もできる。そして其の事はユラ自身の魂を、ほんの少しだけ温かくしてくれるのだ。ユラはアトリエに戻り、新しいキャンバスを広げた。今度は、どんな絵を描こうか。希望に満ちた、美しい絵を。


 次の日の朝、ユラはアパートの大家である、祖父のロインに話しかけた。隣の部屋について、気になる事があるからだ。

「あの、御祖父様……あのアパートの、隣の部屋、新しい住人が、入る予定は、ある?」

「いや、あの部屋はもうずっと空き部屋のはずだが……何故だ?」

ロインの声は、いつものように溺愛に満ちていた。

「少し、気になっただけ。もし新しい人が、入るなら……お菓子でも持って、ご挨拶、に、行こうかと思って……」

「そうか、お前は本当に優しい子だ……そうだ、ユラ、近い内お前の為に、美術館を丸ごと一つ建ててやろうと思うのだが……」

「……御祖父様、それは、やり過ぎ。」

 ロインの溺愛っぷりに、ユラは苦笑いするしかなかった。それから数日後。ユラがアトリエで絵を描いていると、また隣の部屋から物音が聞こえてきた。

 今度の音は、今までとは違った。微かに、音楽が聞こえてくる。それは、何処か懐かしい、優しい音色だ。ユラは絵筆を置き、隣の部屋のドアに手をかけた。すると、ドアはゆっくりと開き、中から優しい音楽が聞こえてきた。

 部屋の中には、一人の青年がいた。彼は、古い蓄音機の前で、静かに音楽を聴いている。彼は、ユラに気づくと優しく微笑んだ。

「こんにちは、君が此の部屋の隣に住んでいる人?」

 ユラは、彼の優しさに、微かに心が温まるのを感じた。

「はい……ユラ、です。」

「僕は、ロト。音楽家だ。よろしく、ユラ」

 ユラは、彼の名前に、胸がドキリと高鳴った。ロトスと似た名前。それは、偶然なのか、それとも……。

「あの、君は?」

 ロトは、ユラの問いに、静かに微笑んだ。

「僕は、この部屋で、ずっと音楽を奏でていたけど、誰も聴いてくれなくて、寂しくて……でも、君がこの部屋に来てくれたから、僕は……もう一度、音楽を奏でる事が出来たんだ。」

 ユラは彼の言葉に、胸が締め付けられる様な痛みを感じた。

「大丈夫……私が、君の音楽を、聴いてあげる。」

 ユラはロトの前に座り、彼の音楽を静かに聴いた。彼の音楽は、優しくて温かくて、そして何処か悲しい。ユラは、彼の音楽を聴き乍ら、涙を流した。それは感情のない筈の、ユラの久し振りの涙だった。ロトはユラの涙を見て、優しく微笑んだ。そして彼の身体は、光の粒子となって、空へと舞い上がっていった。


 翌日――ユラがアトリエのドアを開けると、隣の部屋から、優しい音楽が聞こえてきた。それはロトの音楽だった。然しロトの姿はなかった。ただ、部屋の中央に、美しいオルゴールが一つ、置かれていた。

 ユラは其のオルゴールを手に取り、そっと微笑む。それは、ロトが残してくれたのだ。それから数日後。ユラのアパートの隣の部屋に、新しい住人が引っ越してきた。それは、ロトスだ。ロトスは蝶の研究で、此のアパートを使わせてくれたと言う。

「ユラさん、お隣さんになりましたよ。」

 ロトスは、ユラに優しく微笑んだ。その言葉に、ユラの心は昨日よりも、もっと温かくなってた。

 隣の部屋にロトスが引っ越してきた翌日、ユラは朝からソワソワしていた。感情が薄い自分にとって、こんな風に心がざわめくのは珍しい事だ。彼は、ユラが初めて「感情」を取り戻した切っ掛けとなった人物であり、彼女の心をほんの少しずつ、溶かしてくれる存在だった。

「ロト、お隣さんになった……ふふふ。」

 彼の言葉が、ユラの耳の奥で何度も繰り返される。ユラは彼の為に、何か美味しいものを作ろうとキッチンに立つ。ティラミスがいいか。それとも、彼が好きなカフェラテに合うお菓子が良いか。あれこれ悩む時間は、とても楽しかった。

 結局、ユラは得意のティラミスと、淹れたてのカフェラテを用意し、トレイに乗せて隣の部屋へと向かう。ドアをノックすると、中から「はーい。」と彼の優しい声が聞こえてくる。ドアが開くと、彼は少し驚いた顔で私を見た。

「ユラさん?どうしたのですか、わざわざ……。」

「お隣さんへの、ご挨拶……です。」

 そう言って、私はトレイを差し出す。彼は嬉しそうに微笑み、私を部屋の中へと招き入れた。彼の部屋は、私の部屋とは対照的に、まだ段ボールが山積みにされていた。その中で、古い蓄音機とオルゴールが、何故か綺麗に片付けられているのが目に入る。

「そのオルゴール……もしかして」

 ユラは、ロトの魂が残していったオルゴールと同じものだと気づき、思わず声を漏らした。

「ああ、これ?父さんが持ってた古いオルゴールなんだ。音色がすごく綺麗でね。あ……この前、ユラさんが見つけてくれたのかな?なんだか懐かしい音がして……。」

 ロトスの言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。彼は、あの音楽家の魂と何らかの繋がりがあるのだろうか。そんな気がしてならかった。

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