幽界奇譚
古い人形が並ぶ子供部屋
某日、とある洋館の前にて――
「ふむ、これまた随分と古風な家だな」
ロインは、目の前にそびえ立つ古びた洋館を見上げ、静かに呟いた。依頼人からの話では、この館の子供部屋で不穏な現象が起こっているとのこと。一家は引っ越しを検討するほど困り果てており、藁にもすがる思いでロインに助けを求めてきたのだ。
「中々骨の折れる仕事になりそうだ」
ロインは薄く微笑み、館の扉を開けた。ギィと重い音を立てて扉が開くと、埃っぽい空気がロインの鼻をかすめる。薄暗い廊下を進み、二階の突き当りにある子供部屋の扉に手をかけた。その瞬間、ロインの背中に現れた薄紫色の紋様が、微かに脈動した。
「……やはり、強い幽世の力が宿っているな」
ロインは扉を開け、部屋の中へと足を踏み入れた。其処は、まるで時が止まったかの様な空間だった。古びた木馬、色褪せた絵本、そして何よりも目を引くのは、部屋の壁一面に並べられた無数の人形達だ。様々な種類の然しどれもが古く、何処k生気を失った様な人形達が、無言でロインを見つめている。
「これは……。」
ロインは部屋の中央に立ち、静かに周囲を見渡した。人形たちの瞳の奥に、強い未練と怨念が渦巻いているのが感じられる。この怨念が、子供部屋の異変の原因なのだろう。
ロインは懐から白い和紙を取り出し、そこに繊細な文字を書き込んだ。瞬時に呪符が光を放ち、部屋の空気が微かに浄化される。しかし、人形達の怨念は消える事はない。それどころか、ロインの行動に反応する様に、人形達の瞳が僅かに赤く光り始めた。
「ほう、随分と気の強い人形達だ。」
ロインが感心した様に呟くと、一体の日本人形が首をかしげた。其の動きは、まるで生きているかの様だ。軈て其の人形から発せられたか細い声が、ロインの耳に届く。
『……誰?』
ロインは人形に視線を向け、静かに自己紹介をした。
「私はロイン。君達の話を聞きに来た」
『……煩い、帰って。』
人形の声は、徐々に怒りを帯びていく。その声に呼応する様に、壁に並べられた全ての人形達の瞳が赤く輝き、部屋の温度が急激に下がった。
「そうか……ならば、力ずくででも話を聞かせてもらおうか。」
ロインは『精霊杖』を手に取り構えた。杖の先端に埋め込まれた『六角形』が淡く輝き、ロインの魔力を装填していく。
『……帰れ、帰れ、帰れ!』
人形達の声が重なり合い、不気味な合唱となってロインに襲いかかる。すると、一体のテディベアが宙に浮き上がり、ロイン目掛けて飛んできた。
「無粋な真似はよせ。」
ロインは杖を一振りし、テディベアを床に叩きつけた。然しテディベアは再び立ち上がり、ロインに襲いかかろうとする。ロインは溜息をつき、杖の先端を床に突き刺した。透明なドーム状の結界が、ロインを中心に展開される。テディベアは結界にぶつかり、弾き飛ばされた。
「さて、そろそろ本気を出してもらおうか。」
ロインがそう言うと、一体の古びた少女の人形が、部屋の中央へとゆっくりと歩み寄ってきた。その人形は、他の人形たちとは明らかに違う、強い霊的な力を宿している。
『……私は、ここでずっと待っていたの。ママとパパが、また私と遊んでくれる日を』
人形の声は、悲しみと孤独に満ちていた。ロインは人形の言葉に耳を傾け、その想いを理解しようとした。
「君は、この部屋の持ち主の子供が、置いていった人形か」
『……うん 。』
人形は小さく頷いた。子供は成長し、人形を必要としなくなった。然し人形は子供との思い出に囚われ、この部屋から離れる事が出来なかったのだ。
「その気持ちは、私にも分かる。」
ロインは静かに語り始めた。
「私も娘のサラに、自分の気持ちを上手く伝えられず、寂しい思いをさせてしまった事がある。君の気持ちも、子供を思う親の気持ちも、どちらも理解できる」
ロインの言葉は、人形の心の奥底に染み渡っていく。
『……じゃあ、どうしたらいいの?』
人形は涙を流し始めた。その涙は、光の粒となって消えていく。「君はもう、子供を待つ必要はない。君は、次の役目を果たさなければならない」
ロインは杖を構え、六角形に魔力を集中させた。
「花の監獄」
ロインの周囲から、大量の桜の花弁が舞い上がり、美しいピンク色の嵐を形成する。花弁は刃物の様に鋭く、人形の周囲を高速で旋回し、最終的には花の檻の様な形状を形成して、人形を拘束した。
『……痛い、痛いよ。』
人形は悲鳴を上げるが、ロインは構わず術を続けた。これは攻撃ではなく、浄化の術だ。
「死垂れ桜」
桜の花弁の色が、深く禍々しい黒紫色へと変化する。花弁が人形に触れると、人形の身体が一時的に変色し、生気を吸い取られているかの様に見える。
『……止めて、お願い』
。人形の悲鳴は、軈てか細いものになっていく。ロインは人形から怨念を吸い取り、浄化していたのだ。
「……済まない、もう少しだけ、我慢してくれ。」
ロインは静かな声で人形に語りかけた。この術は、人形の生命力を吸い取る危険な術だが、怨念を浄化するにはこれしかなかった。
軈て人形の身体から、黒い靄が抜け出し空へと昇っていく。黒い靄は、ロインの背中に現れた薄紫色の紋様へと吸い込まれていく。紋様は一際輝きを増しロインの心に安堵を齎す。
「よし、これで終わりだ」
ロインが術を解くと、人形は元の姿に戻り静かに床へと倒れた。他の人形達も瞳の光を失い、元の古びた人形に戻っていた。
「……君は、もう自由だ。」
ロインは倒れた人形に語りかけ、静かに部屋を後にした。翌日、依頼人から感謝の連絡が届いた。子供部屋の異変はピタリと止み、子供達は再び安心して部屋で遊べるようになったという。ロインは依頼人からの謝礼を受け取り帰路につく。
夜も更けてきた頃、ロインは一人、書斎で仕事をしていた。その日の子供部屋の件について、詳細な報告書を作成していると、不意に、部屋の空気が冷たくなるのを感じた。
「……何の用だ?」
ロインが静かに問いかけると、書斎の窓がひとりでに開き、冷たい風が吹き込んできた。その風に乗って、先日の人形達の声が聞こえてくる。
『……貴方の力、見事だったわ。でも……私達はまだ、貴方を許したわけじゃない』
ロインはペンを置き、窓の外に視線を向けた。其処にいるのは、実体を持たない、人形たちの霊魂だった。彼らの瞳は、依然として赤く輝いている。
「君たちは、もう自由になったはずだ。何故、ここに?」
『……私達の怨念は、貴方の闇喰に喰われた。でも、私達の存在は、消えていない』
人形達の声が、書斎に響き渡る。ロインは立ち上がり、静かに『精霊杖』を構えた。
「ならば、もう一度、君達と話をする必要があるようだな。」
ロインがそう言うと、窓の外にいた霊魂達が、一斉に書斎の中へと入ってきた。彼らは人形の姿を取り戻し、ロインを取り囲む。
「……面白い、話を聞こう。」
ロインは杖を床に突き立て結界を張った。結界が展開されると、人形たちの動きが止まる。ロインは、その中の一体、少女の人形に歩み寄った。
「君達の本当の望みは、何だ?」
少女の人形は、ロインを見つめ、静かに語り始めた。
『……私達の望みは、ただ一つ。もう一度、家族と笑い合いたい』
それは純粋で、切ない願いだ。然し其れは最早叶わない願いだ。人形達は、既にこの世の者ではない。
「……それは、叶わない願いだ。」
ロインの言葉に、人形たちは再び怒りを見せる。
『……ならば貴方の家族を、私達のものにしてあげる』
そう言うと人形達の霊魂が、ロインの結界を破ろうと動き出した。ロインは杖に力を込め、『精霊杖』に宿る精霊に呼びかける。
「来い!白仙の精霊!」
ロインの呼びかけに応じ、全身が白く輝く、人型の精霊が現れた。彼らはロインの周囲を取り囲み、人形達の霊魂と対峙する。
『……これは、精霊?』
人形達の霊魂が、怯えながら後ずさりする。精霊は、彼らが持つ自然の力を操り、人形達の霊魂を威嚇した。
「君達には、私の家族に危害を加える事は許さない。それが、君達の願いであってもだ」
ロインの言葉は、強い決意に満ちていた。彼は、家族を守るためなら、どんな手段も厭わない。ロインは人形たちの霊魂に近づいていく。ロインは霊魂達の心の奥底に直接語りかけた。
「君達は、もう家族ではない……然し、私には家族がいる……君達の悲しみを、私は知っている。だからこそ君達の悲しみを、これ以上広める訳にはいかない」
ロインは霊魂達の精神に、直接干渉し幻覚を見せる。其れは彼らが、子供と幸せに過ごしていた頃の温かい記憶だ。
『……ああ、懐かしい。この温かさ……』
霊魂達は幻覚の中で涙を流し、徐々にその怨念を鎮めていった。ロインは彼らが、落ち着いたのを確認すると再び杖を構えた。
「幽界の王冠」
ロインの頭上に、繊細な花の冠が浮かび上がる。可憐ながらも神秘的な輝きを放つ其の王冠は、幽界其の物に干渉し支配する権能だ。
「君達の未練、君達の魂を、安らかな場所へと導こう。」
ロインはそう言うと、静かに歌い始めた。それは静かで深みのある、聴く者の心を落ち着かせ、安らぎを与える様な聖歌だ。彼の歌声は幽界の領域に力を宿し、人形達の霊的な感覚に作用する。
歌声が響き渡る中、人形たちの霊魂は、徐々に光の粒となって消えていった。其の光の粒は、ロインの背中の紋様へと吸い込まれていく。全ての霊魂が消え去った後、ロインは静かに窓を閉め、深々と息を吐いた。彼の心は何処か満たされていた。
「これで、本当に終わりだ。」
ロインはそう呟き、再び机に向かった。次の日、彼は家族と共に、近所の公園へと出かけた。ユラとキラが元気いっぱいに遊ぶ姿を、ロインは微笑みながら見つめる。その隣には、セツラとサラが寄り添っていた。
「父さん、本当に有難う。」
「あぁ……うん、此処は旨いな。」
サラがロインにそう言うと、ロインは静かに頷いた。ロインは、サラが作ってくれた、手作りのお菓子を一口食べ静かに呟いた。
(この幸せを、私は一生かけて守り抜こう)
ロインは心の中でそう誓い、家族の笑顔に包まれながら、穏やかな時間を過ごすのだった。
繰り返される悪夢
某日、月の国にて――
ロインは月の国を統治する王の一人として、日々多忙な生活を送っている。然し最近の彼は、酷い寝不足に悩まされていた。原因は、毎晩の様に繰り返し見る悪夢だ。
夜の帳が降り家族が皆静かに眠りについた後、ロインは自室で一人、静かに瞑想にふけっていた。悪夢を見る様になってから、彼は眠る事を恐れる様になっていた。然し此の儘では身体がもたない。意を決して彼はベッドに横になった。
深い闇の中、夢の世界へと落ちていく。ロインは自分が何処までも続く漆黒の森の中に立っている事に気づいた。木々は黒く歪み、不気味な形をして空へと伸びている。足元の地面は湿った土の匂いを放ち、空気は凍てつく様に冷たい。
「……また、此処か。」
彼は一人呟いた。この悪夢は、何時も此処から始まる。森の奥から、何かを呼びかける声が聞こえてくる。それは、彼の名を呼んでいる様でもあり、聞き慣れない別の言葉のようにも聞こえた。声のする方へと歩き出すと、森の景色は徐々に変化していった。
黒い木々は姿を消し、代わりに無数の黒紫色の花が咲き乱れる不気味な庭園が現れた。それは彼の幻想である「死垂れ桜」の花弁に似ていた。地面は黒く染まり、上空には不気味な月が浮かんでいる。庭園の中央には、黒いドレスを纏った一人の女性が立っていた。
彼女の顔はベールで覆われ、その素顔は分からない。彼女はロインに背を向け、何かを唱える様に静かに歌っていた。その歌声は、ロインの心臓を締め付けるような、悲しみと絶望に満ちた旋律だった。
「……止めろ。」
ロインは思わず、口に出したが声は届かない。女性は歌い続け彼女の周囲を、黒紫色の花弁が舞い始める。花弁は徐々に数を増やし、軈て嵐となってロインの周りを渦巻き始めた。花弁が彼の身体に触れるたび、力が吸い取られる様な感覚が全身を駆け巡る。苦痛に顔を歪め乍らの、ロインは必死に声を振り絞った。
「止めろ!お願いだ、止めてくれ!」
その言葉を最後に、ロインは激しい苦痛と共に目を覚ました。ベッドは汗でぐっしょり濡れ、息は荒く心臓は激しく鼓動していた。彼は身体を起こし深く息を吐いた。
「……駄目だ。此の儘では、本当にどうにかなってしまう」
次の日の朝、ロインは何時もの様に食卓についた。しかし、食欲はなく、用意された食事には殆ど手をつけなかった。
「父さん、またお眠りになれなかったのですか?」
娘のサラが心配そうな顔で尋ねる。ロインは誤魔化す様に微笑んだ。
「大丈夫だ、サラ。少し考え事をしていただけだ」
「嘘ですわ……父さん、目の下に隈ができています。母さんも、とても心配しています。」
妻のセツラは、無言でロインの手にそっと触れた。その手から伝わる温かさに、ロインは胸が締め付けられる思いがした。
「……済まない、セツラ。」
「いいえ。君は、何かを抱え込んでいる。何故私に、話してはくれないのですか?」
ロインは言葉を詰まらせた。悪夢の内容を話しても、きっと家族を心配させるだけだ。彼は一人で解決しなければならない、そう思っていた。
然し此の儘ではいけない。愛する家族を心配させるだけでなく、この悪夢は彼の精神を蝕み始めていた。彼は決意を固めた。悪夢の中で、この原因を突き止める。そして此の悪夢を完全に断ち切る。
その夜、ロインは再び眠りについた。何時もと同じ漆黒の森、呼びかける声、そして黒紫色の花が咲き乱れる庭園だ。彼はもう、逃げなかった。
「……待て!」
ロインは庭園の中央に立つ女性に向かって叫んだ。女性は歌うのをやめ、ゆっくりと振り返った。ベールに覆われた彼女の顔からは、何も読み取れない。
「君は、一体誰だ?」
ロインは精霊杖を取り出し、杖の先端に埋め込まれた精霊六角に魔力を装填する。然し女性はただ静かに佇むだけで、何の反応も示さない。
「何故、私を苦しめる!?」
「……貴方を、愛していた」
ロインの問いかけに、女性は初めて口を開いた。その言葉は、悲しく、そして懐かしい響きを持っていた。ロインは耳を疑った。
「何を、言っている?」
「私は……貴方を、愛していた」
女性の声は次第に大きくなり、その感情は怒りへと変わっていく。
「それなのに、あなたは……私を捨てた」
「……捨てた?」
ロインには、全く身に覚えがなかった。彼はセツラ以外の女性を愛したことはない。では、この女性は一体……。
女性の周囲を舞っていた花弁が、突然、ロインに向かって襲いかかってきた。彼は精霊杖を構え、即座に「結界」を展開する。透明な六角形の結界が彼の周りを覆い、花弁の攻撃を防いだ。
「貴方は……私の知る者ではない!偽りの記憶で、私を惑わそうとしているのか!?」
「偽りではない……!貴方の中に、私は生きている……!」
女性の声は、彼の心に直接響いてきた。彼女の声を聞いていると、ロインの胸の奥から言いようのない後悔と罪悪感が込み上げてくる。
「……私は、貴方の一部」
そう言って、女性はベールを静かに外した。そこに現れたのは、ロイン自身と瓜二つの顔だ。しかし、その瞳は深く、悲しみに満ちていた。
「どういう、事だ……?」
ロインは動揺した。彼の中に、こんなにも悲しい感情が眠っていたのか?その時、彼の背中に柔らかな薄紫色の光を放つ紋様が脈動した。闇喰が、彼の心に生じた負の感情を吸収しようと働き始めたのだ。紋様は次第に薄緑色を帯びた輝きを放ち、微かな土の香りが夢の世界に漂い始めた。
「……ああ、オオクニヌシ……私の、闇を、食べてくれ……。」
ロインの口から、無意識の内にそんな言葉が漏れ出た。すると、彼の目の前に立つもう一人のロインは、悲しげに微笑んだ。
「そう……貴方は、私の存在を、認めてくれないのね」
「……認めるも何も、貴方は、誰なんだ?」
「私は……貴方の、もう一つの魂。貴方が、忘れてしまった……もう一人の、貴方」
ロインは衝撃を受けた。もう一人の、自分。女性の姿をしたもう一人のロインは、語り始めた。彼女は、ロインが自らの心に深く封じ込めた、過去の後悔や罪悪感の集合体だった。特に、妻セツラの失踪に対する後悔。娘サラへの不器用な愛情が上手く伝わらなかった事への罪悪感。それらの負の感情が、彼の心の中で形を成し、一つの人格として存在していたのだ。
「私は、貴方に、愛されたかった……。でも、貴方は、私を心の奥底に閉じ込めて、見ようともしなかった」
彼女の瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。それは、黒紫色の光を放ち、地面に落ちると其の周りの花々をさらに禍々しくさせた。
「……私はそんなに、無愛想だったのか。」
ロインは胸が痛んだ。彼はセツラやサラを、心から愛している。然し不器用な性格から、その愛情を上手く表現できないでいた。その結果、家族を傷つけ、そして自らの心を深く傷つけていたのだ。
「……私は、お前を、閉じ込めていたのか」
ロインは精霊杖を静かに下ろした。そして、もう一人のロインに一歩近づいた。
「済まない、私は……自分の心を、ちゃんと見ていなかった。お前の悲しみに、気づいてやれなかった」
ロインの言葉を聞いて、もう一人のロインは驚いたように目を見開いた。彼女の表情は、怒りから徐々に悲しみへと変わっていった。
「……ごめんなさい、私は……貴方が、苦しむのを見て、嬉しかった……でも本当は、ただ貴方に、私を認めて欲しかっただけなの」
彼女の身体から、黒紫色の花弁が舞い散り消えていく。その姿は、次第に淡く半透明になっていった。
「もう……消えてしまうのか?」
「いいえ……私は、貴方の中に、ずっと、いる。只、もう貴方を苦しめる事は、ない」
ロインは悲しげに尋ねた。彼女の姿が完全に消え去る直前、ロインは彼女をそっと抱きしめた。
「有難う……そして、済まない。」
もう一人のロインは彼の腕の中で、穏やかな光となって消えていった。彼女が消えた後には、一輪の白く輝く百合の花が残されていた。それは、彼の「黒き呪い花」とは対照的な、清らかで美しい花だった。
「……これからは、お前と共に、生きていく。」
ロインは百合の花を手に取り、自分の胸にそっと当てた。すると、花は光となって彼の胸に吸い込まれていった。その瞬間、悪夢の景色は一変した。漆黒の森は眩い光に包まれ、軈て美しい庭園へと変わった。庭園には色とりどりの花々が咲き乱れ、上空には穏やかな太陽が輝いている。
「……此処が、私の心の中」
ロインは穏やかな気持ちでそう呟いた。彼の背中に輝く闇喰の紋様は、以前よりも強く温かい光を放っていた。それは、彼が自らの心の闇と向き合い、それを受け入れた事の証だ。翌朝、ロインは清々しい気分で目を覚ました。ベッドは濡れておらず、心臓の鼓動も穏やかだ。
「父さん、お早う御座います!」
「ロインさん、お早う御座います。」
食卓には、何時もの様にサラとセツラが待っていた。ロインは二人に、満面の笑みで答えた。
「お早う、二人とも」
「……父さん、とても良いお顔です。何か、良い事でもありましたか?」
ロインの顔には、もう隈はなかった。サラが不思議そうな顔で尋ねる。ロインは微笑んで言った。
「あぁ……夢の中で少し、自分の心と向き合って、仲直りをしてきたんだ。」
セツラはロインの言葉に、静かに微笑んだ。彼女は何も言わなくても、ロインが心の平穏を取り戻した事を感じ取っていた。
その日の昼食後、ロインはセツラに、とっておきの話を切り出した。
「セツラ……此れから二人で、近所にある評判のいいスイーツのお店に行かないか?」
ロインの誘いに、セツラは驚いた様な顔をした後、嬉しそうに頷いた。
「はい!喜んで!」
二人は仲良く手をつなぎ、街へと出かけて行った。そして其の様子を、物陰からこっそりと見守っていたサラは、嬉しそうに微笑んだ。
「……お父様、良かった。」
ロインは、もう悪夢を見る事はなくなった。毎晩、穏やかな眠りにつき、家族との温かい日々を過ごしている。しかし、彼は忘れていない。あの悪夢の中で出会った、もう一人の自分。彼女は、今も彼の心の中で、静かに、そして穏やかに、彼と共に生きている。
そしてロインはもう、自分の心を閉ざす事はなかった。家族への愛情を不器用乍らも、きちんと伝える努力をする様になった。その結果……彼の周りには、以前よりも沢山の笑顔が溢れる様になったのだった。




